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「……っ……!」
 それまで舐められていたところよりも、ほんの少し内側を舐められただけで、
アン子は叫びたいほどの衝撃を受けていた。
温かくて柔らかな、それも自分の思い通りにはまったくならない塊が、口の中に入ってくる。
その感覚にどうしたらよいかわからなくなり、とっさに何かを掴もうとした。
けれども両手は先に葵に掴まれていて動かせない。
そうしている間も葵の舌は口腔を侵食してきた。
探るように、しかし下品ではない動きで口を割って入ってくる葵の身体の一部。
自己分析でも他人の三割増しくらい、客観的には三倍程度良く喋るアン子でさえ、
あまり意識したことのない部位は、表現しがたい動きで口腔を舐めまわしてくる。
ぬらぬらと、が一番近い状態かもしれない、顔を離して観察したいとさえ思ってしまう粘塊は、
意図してか否か、ときおり舌先に触れてきた。
そのたびに喉の奥から変な声が出そうになる。
息苦しさもそろそろ危険な領域に入ってきたアン子は、思いきって葵の舌に自分から舌を触れさせた。
「――!」
 一瞬、葵の動きが止まる。
アン子も舌同士が触れあった感触に呼吸が止まるほどだったが、
主導権をずっと握っている葵を驚かせたのは、アン子にとって大いなる衝撃だった。
いったい葵は今どんな顔をしているのか。
初めてキスをしたときからの疑問が浮かんできて、アン子は片目を開けようとする。
 その途端に、舌が深く入りこんできた。
「んんッ、んん――!」
 べったりと舌を舐められて首筋が粟立つ。
顔を離そうにも葵の手はいつのまにか後頭部を抑えていて逃れられなかった。
「ひゃう、あう……!」
 口の中を大きな動きで舐めまわす葵の舌に、変な声が出てしまう。
実際には、葵が蛇のような舌を持ってでもいない限り、そんな奥の方にまで入れられるはずがないのに、
それに気づく余裕もないほどアン子は混乱していた。
「は、ふ、あ、はぁ」
 好き勝手に這いまわる舌を追いだそうと、アン子も舌で応戦する。
それが無謀な行為であるのはすぐにわかった。
反撃を受けた葵は、すかさず狙いを舌に定めて攻撃してくる。
舌同士がべったりと貼りつくような応酬は、アン子のまぶたの裏に火花めいたものを瞬かせた。
「う、ん……」
 渦を描くような舌の動きに、やや防戦ぎみになる。
くぐもった吐息が口を通して直接聞こえてアン子はうろたえるが、
葵はそれさえ許さずに一秒でも長く舌を絡めようとしてきた。
「んっ……ん……」
 今の鼻息は、どちらが漏らしたものだろう?
それもわからないくらい、顔の下半分が溶けたようになっている。
もしも自分のだったら恥ずかしい。
鼻息を止めるためにキスを止めるか、諦めてキスを続けるか。
そんな選択肢は、けれども不思議と思い浮かびさえしなかった。

 葵が離れたとたん、アン子は膝の力が抜けてしまった。
倒れそうになったところを葵が支えてくれる。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
 微笑む葵がずいぶんと近いことに気づき、アン子はやや強引に身体を離した。
葵が怒るかと思ったが、気にした風もない。
それどころか今しがたの記憶がよみがえってアン子はまともに目も合わせられないというのに、
葵は平然と直視している。
もしかしたら目の前にいる女は人間以外の存在ではないかと、
唇に残る甘い感覚を拭うのも忘れ、アン子は呆然と眺めた。
 葵の唇にも、たぶんアン子が感じているのと同じ甘さがうっすらと光っていたが、
葵はそれにじかに触れると、縁なき衆生はもちろん、縁のある者まで惑わせてしまうような微笑を浮かべた。
「うふふ、アン子ちゃんとキス……しちゃったわ」
「前にもしたでしょッ」
 うっとりと唇を撫でる葵に、妖婦めいたものを感じてアン子は声を荒げる。
いやらしい、と淫靡、の間には、はっきり説明はできないが明確な線があり、
人を踏み台にして勝手にその領域に入られるのは困るのだ。
 しかし、葵はいくらか目尻を下げただけで慌てたようすもなく、
やんわりとアン子の舌鋒をいなした。
「あれは挨拶みたいなものだもの」
「挨拶ってね、あたしはアレが初めてだったのよッ!」
「ええ、私もよ」
「あの時は違うって言ったじゃない」
「うふふ、好きな子とするのは初めて、とは言ったわよ」
 この女には言葉でなければ勝てない。
そう直感するアン子はとにかく言い争いだけは負けないように本気になっているのだが、
葵には常に半歩先を行かれてしまう。
たとえば今でも、揚げ足を取り返されただけでなく、好きだのキスだの連呼されて、
精神は結構なダメージを受けている。
こんなにメンタルが弱かったなんて、と反省するも、滑らかな声域でそういった言葉を言われると、
何か心臓がぐさりぐさりと音を立ててしまうのだ。
この状況は打破せねばならない――それも早急に。
「ちょっと訊いておきたいんだけど」
「何?」
「美里ちゃん、あたしの身体が目当てなの?」
 焦燥がミスをもたらしたのか、アン子の口は、およそ本人の思っていたのとは程遠いことを、
誰が聞いても動揺していると判る、酔っぱらいがマイクを持ったときのような怪しい速度で言った。
葵は小憎らしいまでに女の子らしく目蓋をぱちぱちとさせ、さらには小さく笑いだしてしまった。
「うふふ、ごめんなさい、ドラマみたいな言葉だったものだから」
「……悪かったわね」
 確かに低俗なドラマのような台詞だったとアン子はややふてくされる。
「両方」
「え?」
「アン子ちゃんの心も体も両方、私の好きにできたらいいなって思っているわ」
 アン子は思わず葵から身体を離し、身を守るように両腕を抱いた。
ほんとうに短い間ではあったが、葵の言葉に偽りがなく、それに対して怯える自分を見たのだ。
彼女はそうなったとき、ためらいなくそうするだろう。
これまで男も含めて誰かに依存するという事態を考えたことなどなかったアン子は、
葵の発言に愛だの恋だのいうものの本質を垣間見たような気がしたのだ。
「……あ、あたしは誰の物にもなったりしないわよッ!」
「ごめんなさい、言葉のあやだわ。アン子ちゃんが独りでするときに、
私のことを想ってしてくれるようになって欲しいの」
「そっちの方が嫌なんだけど」
 冗談に紛らわせつつも本心を語る葵と、彼女の、
許容できる品のなさの下限を越えている物言いに、アン子は本気で顔をしかめる。
それに対して葵は反省する素振りも見せなかったが、不意に真面目な顔をした。
「でも、私を好きになって欲しい、というのは本当よ」
「……」
 仕掛けられていた罠に、アン子はぐっと喉を詰まらせる。
もしかしたら美里葵という女は、自分に貼りついた真面目な優等生というイメージを最大限活用して、
人を籠絡する術に長けた、天性のたらし・・・ではないのか。
時に感心させ、時に怒らせ、他者の感情を操りながら変幻自在の攻撃をしかける。
インタヴュアーも目指しているアン子は、本心からの言葉を引き出すためにそういった技術が
必要であると理解しているが、気質が搦め手を拒むのか、まだ相手の感情を操るといったようなことはできない。
なのに葵ときたら、息遣いに至るまで完璧に制御しているかのように心の隙を突くのが上手く、
ついうっかり彼女の思惑に乗ってしまいそうになって、アン子はすんでのところで身を引いたのだった。
「ねえ、美里ちゃん」
「何?」
「正直に答えて。……あたしで何人目?」
「どういうこと?」
 アン子の声に鋭さ、というよりも棘が装填される。
「だから、そうやって誘惑して……美里ちゃんの思い通りにできたのは、今まで何人いたの?」
「居ないわ、そんな」
「どうしても言いたくないっての? そりゃ、言いにくいことだとは思うけど」
「本当よ、アン子ちゃん。何を誤解しているのか知らないけれど、
私は……アン子ちゃん以外とこんな風にしたことなんてないわ」
 自分は何を聞こうと、そしてどんな返事を求めているのか、アン子にもわからなくなっていた。
ただ舌が求めるままに、脳を経ずに言葉だけが勝手に紡がれていく。
だがそこに含まれている毒は、紛れもなくアン子の内から生じたものだ。
「どうかしら、初めてにしては随分手慣れているようだけど。
でもあたしは、今までの子みたいにホイホイ引っかかったりはしないわよ」
「……どうすれば……信じてくれるの?」
「別に、信じるも信じないもないでしょ?
あたしが信じなくたって、美里ちゃんは上手くやれるんだから。他の子を探せばいいじゃない」
「……嫌よ」
 葵は慄えていた。
声も、身体も、そして心も。
それを感じとるくらいにはアン子の理性は回復していた。
だが、感情の方は未だ冷却がなされず、もともとそれほど優しくはない目つきを険しくしたまま葵を睨んでいる。
「私はアン子ちゃんが好き。だから誤解されて嫌われるなんて我慢できない。
アン子ちゃんに信じてもらえるなら、なんでもするわ」
 葵が真剣であるのは、一目瞭然だった。
整った眉目を滑稽なほど歪めた今にも泣きだしそうな顔は、
どんな頼み事でも聞いてやらねばなるまい、と思わせてしまうほど心情に訴えかけてきた。
 すでにアン子は自分が言いすぎたことを承知しているが、だからといって引きさがるわけにもいかない。
なんでもする、という葵の言を最大限利用しようという、アン子の心の中にあるもっとも厭らしい部分が蠢いた。
「美里ちゃん、あたしにさせたことがあったわよね。あれ、今度は美里ちゃんがしてよ」
「……わかったわ」
 葵は何を命じられても従うつもりだったとばかりに即答した。
そして実際にためらうことなくパンストを脱ぎ、ショーツを下ろし、かつてアン子がそうしたように机の上に座ると、
立ったままのアン子を伏し目がちに見やり、足を開いていく。
生徒会長が発するいかがわしい商売女のような色気が、狭い新聞部室に充満していった。
「……」
 成り行きとはいえ予想外の展開に、アン子は戸惑っていた。
いっそ怒って引っぱたいてくれた方が良かったのに。
身勝手な期待は露と消え、口の中に広がる泥の味をした後悔が、心にまで染みていく。
 葵は嘘を言っていない。
突っかかったのは自分で、必要のない辱めをさせようとしているのも自分。
謝ればいい、頭を下げられないのなら、「言いすぎた」とさえ言えば、過ちを重ねるのだけは阻止できる。
たったそれだけでいいのに、普段思った以上のことを滑らかに紡ぎだしてくれる口は、
接着剤でも塗られたかのように開かなかった。
 葵の右手がスカートの内側に潜る。
数日前の自分と同じ姿。
見せたくもなかった、こんなものを見たがる人間の気が知れないと軽蔑した光景から、アン子は目が離せなかった。
手首から先が見えない右手は、どんな動きをしているのか。
自分と同じか、それとも違うのか。
彼女はどんなふうにするのか、禁断の知識を得る、二度とはない機会。
広く開かれた両足は美里葵とは思えないほどだらしなく、
柔らかな内腿は薄いオレンジに彩られてその滑らかさを際だたせている。
パンストを脱いだ葵は当然足先まで素足であり、それもまた奇妙な生々しさに一花添えていた。
「ん……っ……」
 葵は早くも色めかした声を漏らす。
あまりに早い快楽に、葵が演技しているのではないかとアン子は疑った。
けれどもすぐに違うと気づく。
彼女は本気で自慰をしている。
だから感じているのだ。
 わずか数十センチの目の前で行われる淫らな戯れに、アン子は息を呑んだ。
今、葵はどんな顔をしているのだろうか。
知りたいという遠野杏子を構成する主要な成分に逆らって、アン子は顔を上げなかった。
「あぁ……あ……っ……」
 そんなアン子を悩ましい声が誘惑する。
こんなときの声だというのに葵のそれは美しく、魅了する響きを帯びていた。
それが発せられる唇は、たった今までキスしていた唇なのだ。
そう考えると、アン子の下腹は熱を帯びていった。
眼前でスカートが、同じ動きを誘う催眠術のように揺れる。
無意識に、半ばは意識的に右手を腿に滑らせ、スカートの裾をつまむ。
そのまま腿を伝い、葵が掻くような動きをしている場所に触れようとした。
「ん、ふっ……!」
 そのとき、やや音階を狂わせた声が葵から放たれ、アン子は目を覚ました。
弾かれたように手を引っこめ、身体を起こす。
「も、もういいわよ、わかったから止めていいわよ」
 手を止めた葵の、睫毛が小さく震える。
身体を起こした拍子に彼女の顔を見たアン子は、ごく短い時間ではあったけれど見惚れていた。
自分でも信じられなかったが、確かに心が彼女のことだけで占められた、そんな瞬間があったのだ。
「悪かったわよ。美里ちゃんの本気はわかったから」
 アン子はまだ開かれたままの足から目を逸らして謝った。
「うふふ、良かった」
 あんな恥ずかしいことを強いられたのに、葵は怒るでもない。
ほっとすると同時に呆れもするアン子だった。
「ねえ、アン子ちゃん」
「何よ」
「私は、アン子ちゃんが好き――初めてよ、人を好きになったのは」
「……」
 葵がこの期に及んで嘘を言うとも思えず、かといって改まって告白されてもどう返事して良いかわからず、
アン子は小さく頷いただけだった。
「そろそろ帰りましょう」
「ええ……アン子ちゃん、少し向こうを向いていてくれる?」
 言うとおりにしたアン子の背後で、衣擦れの音が聞こえる。
なぜ今更恥ずかしがるのか、と疑問を抱きつつも、聞くことはできないアン子だった。

 校門を出るまで、二人は一言も交わさなかった。
アン子は大変に気まずかったし、アン子にとって幸いなことに葵も饒舌に語りかけてはこなかった。
けれども、二人の帰る方向が別になる交差点に来てしまうと、そのまま黙って別れるわけにもいかない。
それにアン子は、宿題を持ち越すのが嫌いだった。
意を決して立ち止まると、思いきりよく振りむいた。
葵は勢いに驚いているのか、目を白黒させている。
今のうちに、とアン子はさらに勢いよく頭を下げた。
「あのッ、さっきはごめんッ。あれはやり過ぎだったわ、反省してる」
「いいの、気にしないで」
「……本当?」
「ええ」
 街路灯の下で、葵は微笑を浮かべた。
「それじゃまた明日、学校でね、アン子ちゃん」
 葵の後ろ姿が見えなくなるまでアン子は自失していたが、
不意に踵を返すと、顔を下に向け、半ば駆けるように歩きだした。
 今の笑顔は、ただ謝っただけではない。
わからないけれどもっと、何重かに重なった意味がある。
わかっているのは葵が、意図してあの笑顔を見せたのだということ。
そしてアン子は、それに魅入られてしまったのだということ。
「そんなわけないんだから、絶対に」
 歩調は次第に早くなり、止まらない。
独り言にしては大きな声でつぶやきながら、アン子は晩秋の夕暮れを貫くように駆けていった。



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