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 頼みの死人達を殲滅せんめつされた死蝋は、為す術なくうろたえているようだった。
「うぅ……」
「事情は良く解らんが、こいつが緋勇をさらった犯人か」
「みてぇだな。緋勇を攫うなんざ大したヤツだ──が、その報いは受けてもらわねぇとな」
 しかし、京一が一歩踏み出すと、その圧力に耐えかねたように一目散に逃げ出した。
その優男な外見からは想像もつかないほどの瞬発力で、奥の部屋へ入って行く。
「逃げるなこの野郎ッ!」
「待て京一、今はこっちの方が先だ」
「そうだ、紗夜ちゃんは──」
 部屋の中央に紗夜はいた。
手伝おうとする葵に耳を貸さず、緩慢な動きで拘束具を外している。
京一達が集まってきても、一切の反応を示さない。
今の彼女にあるのは、ただ龍麻をたすけるという一心だけだった。
 もどかしい時間が過ぎ、ようやく最後の足枷が外れる。
五日ぶりに自由を取り戻した龍麻が最初にしたのは、紗夜を抱きかかえることだった。
「ありがとう、比良坂さん」
「良かった……緋勇さん……」
 顔の半面を赤に染めた紗夜の、残る半面は蒼白に彩られている。
龍麻を束縛から解き放つことで、紗夜は自分の命を繋ぎ止める力までつかってしまったようだった。
龍麻が抱き上げると、唇がひきつりながら動く。
それが笑みを表していると気付いたのは、龍麻だけだった。
 腕の中の紗夜は、死に瀕している。
感情はその事実を懸命に拒んでいたが、五感の全てが彼女がもう助からないと告げていた。
絶望に押し潰されそうな心に、一筋の光明が射す。
普通の高校生には治せない傷も、彼女なら。
「美里さん頼むよ、比良坂さんを治してあげてくれ」
 長い前髪を恐怖から生じた汗によって額に貼りつかせて、龍麻は頼んだ。
その恐慌寸前の声と表情に気圧けおされ、葵は心を集中させる。
彼女に対する好悪がどれほどあったとしても、人が目の前で死ぬのは嫌だったし、
こんな、弱さを剥き出しにした龍麻に頼まれて断れるはずもなかった。
 意識を集中し、癒しの『力』を彼女に与える。
しかし、紗夜の身体に吸いこまれた氣は、何の癒しの力も彼女に与えなかった。
「どうして……」
 自分の精神状態が乱れを生み出したのかと、葵は再び手をかざすが、
龍麻や仲間を癒した『力』は、どういう訳か紗夜には全く効果が無かった。
首を振る葵に、龍麻の心を一度は去った絶望が侵食する。
しかし、身を挺して自分を救ってくれた紗夜を、このまま死なせる訳にはいかなかった。
「病院に行こう。今なら、まだ間に合う」
「わたしは……もう……」
「喋らないで」
 抱き上げようとする龍麻を制する紗夜の腕の力強さは、消え行く炎の最後の輝きだった。
「お願い、緋勇さん。聞いて欲しいの」
 唇から血を滴らせながら言う彼女を、誰が止めることが出来たろうか。
彼女の華奢な身体が重くなっていく恐怖に耐えながら、龍麻は再びひざまずいた。
「わたしと兄は、十二年前……父の仕事の関係で、家族と一緒にインドに向かっていました。
でも途中……その飛行機が墜落して……わたしと兄は無事でした。
墜落する時、父と母が……身を呈して護ってくれたんです。
二人きりになってしまったわたし達は、別々の親戚に預けられました。
でも、親戚達は冷たく、生活は悲惨なものでした。
だから……兄が高校を卒業するのと同時に、わたし達は家を出ました。
そして二人で暮らし始めたんです」
 触れるほど近くに顔を近づけ、一言一句も聞き逃すまいと耳をそばだてる龍麻に、紗夜が微笑む。
微笑みと共に押し出された呼気には、血の匂いが混じっていた。
「緋勇さん……人は、何の為に生きているんでしょう。
わたし、ずっと考えていたんです。あの事故の時から、ずっと。
でも、緋勇さんに会ってわかったんです。護る事の大切さを。
わたし……緋勇さんに出会えて良かった」
 龍麻の手に、何かが触れる。
すぐには解らなかったそれは、紗夜の手だった。
デートした時の記憶とは程遠い、冷たい手。
何かをしようと力無くさ迷う手の意図に気付いた龍麻は、しっかりと指を絡めてやった。
安心したように頷いた紗夜の、生気が失われつつある瞳に、躍るような輝きが宿る。
「そうだ……今度、また……デートしてくれませんか」
「ああ……いいよ、今度は俺の好きな場所ところに比良坂さんを連れてってあげる」
「えへへ……楽しみ……です……」
 微笑んだ紗夜の顔から、急に生色が失われる。
それが自分自身のことであるかのように、龍麻の顔からも血の気は失われていた。
「何だか……眠くなってきちゃった……それに……少し、寒く……」
「比良坂さんッ!」
「緋勇さんの腕の中……あったかい……です……
わたし……もっと早く……緋勇さんに……出会えて……いた……ら……」
 氣が、消えた。
あまりにあっけなくうしなわれた生命いのちに、哀しみすら湧き起こらなかった。
涙は流れることを拒否し、ただ体温のみがどこまでも下がっていく。
龍麻が氣など使えなかったら、
あるいはここまで絶望的な現実を突きつけられることは無かったかも知れない。
しかし、全ての生命あるものが必ず有する氣は、
それが失われた時、生命持たぬものへと変じたことを意味する。
こうなってしまったら、もはやいかなる手段を持ってしても治すことなど不可能だった。
「比良坂さん、比良坂さんッ」
 それでも龍麻は紗夜の名を呼び続けた。
そうすれば、彼女が再び目を開けると信じて。

 五分ほども紗夜の名を呼びつづけた龍麻の声が、小さくなっていく。
受け入れなければならない現実を示すように、絡めていた指先が零れ落ちた。
手の重さをそのまま伝える音は、後ろで黙然とたたずむ葵達の耳にも聞こえてきた。
「緋勇くん……」
 名を呼んでも、龍麻は紗夜が道連れにしたかのように微動だにしない。
龍麻がこのまま消えてしまうように思えて、葵は手を伸ばす。
しかし、目に見えないほど小さく震えている肩に触れることは、どうしても出来なかった。
 京一達もそれぞれの表情で、早過ぎる旅立ちを迎えた紗夜をいたむ。
彼女と龍麻、それにさっきまでいた白衣の男との関係は解らなかったが、
まだ自分達と同じ歳頃の彼女が死んで良い理由などあるはずがなかった。
「ちッ、役に立たねぇ奴らだぜ。せっかくいろいろ手を貸してやったってのによ」
 その、決して穢されてはならない時間を、ありえざる声が冒涜した。
「誰だッ!」
 京一の振り向いた先に、それまで部屋にいなかった人物がいた。
赤色の忍者装束に身を包み、般若の面を被っていて、殺気を隠そうともしていない。
そしてその脇には、無造作に襟を掴まれている、いつのまにか姿を消していた死蝋の姿があった。
その四肢に力はなく、嫌な予感を感じた一行は、放り出された死蝋が微動だにしないことから、
予感が間違っていないことを知らされた。
「鬼道五人衆がひとり──我が名は炎角」
「うわ、火が──」
 小蒔が指差した通り、名乗った男の背後で、赤い炎が揺らめいている。
錯覚でない事は、焦げ臭い匂いによってすぐに解った。
たちまち勢いを増していく炎は、地下室全体を包み始める。
男は京一達が身構えても全く動じる様子もなく、得心したように頷いた。
「風角が言っていた小僧ってのはお前達か。くくく、面白え、こいつもえにしって奴か」
 般若の面の下で笑った炎角の声に、嘲りが混じる。
「いいか小僧共。この東京まちは、もうすぐ俺達の手に落ちる。
そうなりゃ、ここは阿鼻叫喚の地獄と化すだろうよ」
「なんだと……?」
「今日の縁がまことなら、また相まみえる事もあるだろうよ。
それまで、せいぜい長生きするんだな」
「逃げる気かよ」
 京一はあと一歩で飛びかかれると言う間合いまで詰めていたが、
炎角は嘲笑を残して姿を消してしまった。
「待ちやがれ──うッ!」
「よせ京一、今はそれどころじゃない。逃げるぞ!」
「畜生──そうだ、緋勇は」
 龍麻は相変わらず紗夜の傍らに膝をついていた。
今の新たな敵とのやり取りも全く耳に入っていない様子で、
火の手がすぐそばまで近づいても逃げようともしない。
「緋勇ッ!」
 舌打ちした京一は、脱出路を目で追いながら醍醐に指示を下した。
「ちッ……醍醐、担げるか」
「ああ、前を頼む、京一」
「よっしゃッ」
 今や地下室全体を覆うほどになっている火勢から、京一達は急いで脱出した。
 京一達が地下から出た直後、小さな爆発音がして、階段から炎が噴き上がる。
誰も近づく事の出来なくなった地下室で旅立った紗夜の魂を、一同は粛然と見送っていた。
「あの男……鬼道衆と言っていたな。凶津の言っていたことは本当だったのか」
「あぁ……これも、鬼道衆やつらが仕組んだんだろうよ」
「うむ……あの二人は多分利用されただけだろうな」
 座らされてもじっと紗夜のいた辺りを見つめているだけの龍麻に痛ましい視線を向け、
京一と醍醐は会話を交わす。
確かになった敵の存在は、同時に彼らが平穏な生活には戻れないことを意味していた。
それを怖れる訳ではないが、倒さなければならないもの、護らなければならないものについて、
二人は思いを馳せずにはいられなかった。
 地下の炎はいよいよ勢いを増し、そろそろ地上にもその舌を伸ばし始めている。
通報も入っているはずで、ひとまずここからは逃げ出したいところだったが、
龍麻は相変わらず呆けたように座っているだけだった。
醍醐が再び担いででも連れ出すか思案に暮れていると、にわかに龍麻が立ちあがる。
「比良坂……さん……」
 しかしその足取りに力感はなく、酩酊しているかのようなふらついたものだった。
その頼りなさに、彼の友人達は危惧を覚えずにいられない。
「おい……緋勇」
「……大丈夫だ。明日は……学校に行くよ。心配かけて済まなかった」
 答えはしたものの、龍麻はこちらを振り向こうともせずに歩き去って行く。
しかし、その背中に声をかけることなど、誰にも出来なかった。

 耳障りなドアノブの音で、龍麻は自分が家に着いたのを知った。
どうやって帰って来たのかなど覚えていない。
思い出そうとも思わない。
ただ身体が動くままに靴を脱ぎ、部屋に上がると、暗いままの部屋、暗いままのベッドに倒れこんだ。
全身に染み渡っている疲労が誘う眠りの国への旅立ちを、龍麻は懸命に拒む。
屈してしまったら最後、彼女のいない明日を迎えなければならなかったから。
闇を照らす灯となるはずの栗色の輝きは、わずか数時間前にはあれほど輝いていたのに、
今はもう儚いゆらめきでしかない。
輝きを消すまいとこみ上げるものを抑制しようと握り締めた掌に、彼女の温もりが甦る。
しかしそれもわずかな間のことで、その温もりもすぐに、
まるで最初から何もなかったかのように冷えてしまった。
彼女の香りも、彼女の声も。
すがりつこうとするいずれもが、泡沫のように消えてしまう。
 比良坂紗夜は、もういない。
五感の全てからその事実を告げられた龍麻は、持ち主の意思に従わない感覚達を見捨て、
ひとり突っ伏した。
 完全に気配の消えた部屋の中に、やがて、静かな嗚咽が満ちる。
それは、決して贈られることのなくなった、恋唄だった。



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