<<話選択へ
<<恋 唄 4へ 恋 唄 6へ>>


 紗夜が地下室に戻ってからほぼ三十分が過ぎた頃、
メモに従って品川までやって来た京一達は廃屋を見つけ出していた。
「メモの住所はこの辺りだな」
「ねぇ……罠じゃないかな?」
 疑わしげに小蒔が言う。
この所妙にあちこちの廃屋へと行かされ、
しかもそのどれもでろくでもない目に合っているので、どうしてもそう考えがちになってしまうのだ。
「おいおい、紗夜ちゃんが俺達を罠にかけるってのか?」
「でも……」
「なんだよ美里まで。んなワケねぇだろ?」
「しかし……案内されたのがこんな廃屋ではな。用心はしておくに越した事は無いだろう」
「ッたく醍醐おまえまでかよ、疑り深い奴らだぜ」
 京一は仲間の心配を笑い飛ばすように、大胆に廃屋内へと入って行く。
顔を見合わせた小蒔達だったが、ここまで来たら龍麻がいないかどうか確認しない訳にもいかず、
ぶつぶつ言いながらも後をついていった。
「誰もいねぇな。醍醐、本当に地図はここで合ってんだろうな」
「うむ……しかし、他にそれっぽい建物は無かったな」
 廃屋の中に入っても、人の気配は全く感じられず、当然龍麻も見当たらない。
気の短い京一などは早くも退屈そうにあくびをして、小蒔に睨まれていた。
 二人のやや後ろを歩いていた葵が、にわかに立ち止まる。
「ねぇ、何か聞こえないかしら」
「ん? ……聞こえねぇな、空耳じゃねぇか?」
「静かにしろ、京一ッ! 美里の言う通りだ、下の方から何か……低い振動音が聞こえる」
 醍醐に言われ、京一は地面に耳をつける。
確かに、低いうなり声のような振動が、微かだが聞こえてきた。
「こりゃ……機械の音だな。ってことは人がいる……?」
「行ってみましょう」
 打ち捨てられた廃屋の地下で何をやっているかは知らないが、まともなことでないのは間違いない。
勢い良く立ちあがった京一は、手分けして地下への階段を探すことにした。

「ん……?」
 医療用のメスや手術器具を並べていた死蝋は、
階上から足音のようなものが聞こえた気がして顔を上げた。
耳をすませてみても、それきり音は聞こえて来ない。
「何か音が聞こえたような気がしたが……
まぁ、侵入者だとしても捕まえて実験材料にするだけの事だ。
紗夜、死人達の部屋の扉を開けてくれ」
 それよりも今は、人類の大いなる進化に向けてのいしずえとなる偉大な実験を
行うことの方が重要だった。
この神聖な時間を妨げるのは、何人なんぴとたりとも許されることではなかった。
死蝋は鈍色にびいろの不気味な輝きを放つメスを手に取り、
うっとりと眺めていたが、指示に従おうとしない紗夜に気付き、不審げに眉をひそめた。
「どうした、紗夜」
「もう……止めて」
「何を言い出すのかと思えば、またそんな事か」
 辟易して首を振った死蝋は、自ら死人達を解き放とうと奥の部屋に向かう。
 死蝋が充分に離れたのを見計らって、紗夜は龍麻の許へと走り寄った。
「緋勇さん、今、拘束具を外します」
「紗夜……何でそんな事をするんだい? 僕には、お前の行動が理解できないよ」
 離反とも言える紗夜の行動を、死蝋は呆然と見つめていた。
そんな死蝋になど関心を払わず、紗夜は龍麻を縛りつけている鉄の拘束具をひとつずつ外していく。
「緋勇さん……わたし、いつもあなたを見ていました。
あなたの笑顔──
あなたの強さ──
あなたの優しさ──
初めは確かにあなたに近づく為だけでした。
でも……でも、いつからか、そんなあなたに魅かれていったんです。
人は、復讐の心だけじゃ生きられない。人は、一生をその為だけに捧げる事は出来ない。
そう思い始めたんです。
わたし……間違っているでしょうか?」
 龍麻は答えなかった。
死蝋に注射された薬の影響で、未だ己を取り戻していなかったのだ。
腕の拘束具が外され、だらりと腕が垂れ下がる。
自分の四肢でさえも、重りにしか感じられなかった。
そんな龍麻の瞳に、突然何かが光を与える。
沈みこんでいた泥濘から魂を引き上げる、この世のあらゆる光よりも美しい輝き。
龍麻は紗夜の頬を伝うその輝きを、指で拭った。
「緋勇さん……」
「比良坂さん」
 声は頼りなかったが、自分の身体に力がみなぎっていくのを龍麻は感じていた。
ゆっくりと、しかし着実に氣が巡り始め、それは彼女の瞳を見ることで更に加速した。
唯一自由になる右手を紗夜の頬に添え、その温もりを受け取る。
「比良坂さん……ありがとう」
「緋勇さん……わたし……わたし、緋勇さんの事……」
 龍麻の掌に抑えられていた感情を解き放たれ、紗夜は幾筋もの涙をこぼして声を詰まらせた。
目を擦り、もう一度想いを告げようとした時、鞭で打ったような鋭い声がそれを遮る。
「そうか……そういう事か。道理で最近様子がおかしいと思っていたんだ。
許さないぞ……紗夜。お前は僕のものだ──」
「止めて……もう止めてッ、にいさんッ!! わたしは兄さんのもの・・じゃないわッ。
わたしは生きている。わたしは考えられる。兄さんが作った怪物達と一緒にしないでッ」
 死蝋と、紗夜が兄妹──その驚きは、雷のように龍麻の胸を撃った。
「もう、こんな事は終わりにしましょう。
病院から死体を盗んだり、人をさらったり──こんな事をして、何になるっていうの?
兄さんはあいつら・・・・に騙されているのよッ。
利用されているだけなのよッ」
「紗夜……お前も僕を裏切るのか? 薄汚い奴らと同じように。
強欲で身勝手な人間達と同じように」
 妹が初めて見せる激昂に、兄は大きくよろめいていた。
両親を喪ってからこれまで、あらゆる愛情を注いできた妹に刃向かわれ、
死蝋は恐慌寸前の自失に陥っていた。
壁にもたれた拍子に試験管のひとつが割れ、
中にいた小動物が初めての自由に戸惑い、哀れな鳴き声を上げる。
それを無慈悲に踏み潰した死蝋は、凄まじい表情で龍麻を睨みつけた。
「緋勇龍麻……お前さえいなければ、紗夜は僕のものだった。お前さえ……!!」
 もはやこの素材が非常に貴重であり、
研究資金を提供してくれる人物から生かしたまま引き渡すよう求められている事も忘れ、
己と紗夜の愛を邪魔する目の前の男を排除することしか死蝋の頭にはなかった。
「そうだ、簡単な事じゃないか。緋勇龍麻──お前が死ねばいいんだ。
お前が死ねば紗夜は僕の元へ帰ってくる。腐童ふどう──」
 呼び声に応え、奥の部屋から現れたのは、部屋の天井に届かんばかりの巨人だった。
この男が人間でないことは、その緑色の肌と瞳のない目を見れば一目瞭然だった。
全身に走る醜い縫合の跡が、この男がどのように生み出されたのか暗示している。
腐童と呼ばれた化物は、一歩毎に床を響かせながら龍麻の所へと近づいてきた。
紗夜は慌てて残りの拘束具を解き始めたが、まだようやく両腕が解けたばかりで、
龍麻を自由にするにはもう少し時間が必要だった。
その背後から、腐童が歩み寄る。
「腐童……こいつを殺せ。この男を──僕から紗夜を奪ったこの男を──ッ」
「止めて、兄さん……きゃあッ!」
 龍麻の眼前で、鈍い音と共に鮮血が飛び散る。
ひどくゆっくりと宙を舞った赤い液体は、
所有者の意思を体現したかのように龍麻の頬についた。
「比良坂さんッ!」
「緋勇さん……今、拘束具それを外しますね」
 顔の半分を赤く染めながら、なお紗夜は拘束具を外し続ける。
自分の命令で、この世でただ一人愛する妹に怪我を負わせてしまった死蝋は、
目が眩むような衝撃に襲われていた。
「そ……そんな……なんでだ、紗夜……なんでそんな奴を庇うんだ……
そいつが死ねば、僕達兄妹を邪魔する奴はいなくなるのに」
 自業自得ということを認められない意識が、凄まじいまでの憎悪となって龍麻に責任を転化する。
「紗夜……お前は騙されているんだ。
今その呪縛を解いてあげる。そうしたら、また兄妹で暮らせるよ」
 再び腐童に、今度こそ間違いなく龍麻を狙うよう命令を下そうとする死蝋の前に、
新たな人影が複数現れた。
紗夜の悲鳴を聞きつけた京一達が、ついに部屋を探し出したのだ。
「声がしたのはこの部屋だな」
「お、おい、なんだこりゃ」
「緋勇くん!」
 壁中に並べられた異形の生物、中央にいる緑色の肌をした巨人、
そしてそこにいる身動きを封じられた龍麻。
異常な状況にとっさには判断がつかず、その場に固まってしまう京一達に向かって、
弱々しいながらも鋭い声が飛んだ。
「早く緋勇さんを連れて逃げてください。早……く……」
「紗夜ちゃんッ!」
 京一達の位置からでは巨人の影に隠れて見えなかった紗夜が、力を振り絞って叫んだのだ。
声で初めて紗夜がそこにいる事を知った京一は、血に染まっている顔を見て驚く。
「紗夜ちゃん、ひでェケガしてんじゃねェかッ! 美里、治してやってくれッ!」
「え……ええ、でも」
 紗夜との間には巨人がいて、容易には近づけそうになかった。
威嚇するようにうなり声を上げる腐童に、ちん入者に同じく呆然としていた死蝋が我に返る。
「お前達……何故ここに……紗夜、まさか」
 悪鬼の形相で紗夜を、次いで京一達を睨みつけた死蝋は、死人達の部屋に続く扉を開けた。
「紗夜を、お前達の好きにはさせない──僕の『力』を見るがいい、
行け、死人達ッ! こいつらを殺せッ!」
 龍麻が闘ったのと同じ、人の死体を利用して偽りの生命を吹き込まれた死人が、
京一達に襲いかかる。
「醍醐と小蒔は雑魚を頼む。デカいのは俺に任せとけッ。緋勇……少しだけ待ってろ」
 素早い動きで左右に散った醍醐と小蒔を、京一は全く見ていない。
彼らが雑魚を片付けてくれることは、既に京一にとって既定の出来事だった。
醍醐よりも上背がある化物にも臆することなく木刀を構える背中に、温かい氣が流れ込んでくる。
背骨の下端から真っ直ぐ上に昇ってくるそれは、自分の氣とひとつになり、より大きな氣となった。
「ヘヘッ、助かるぜ、美里」
 礼を言う時も、もちろん片時も化物から目は逸らせない。
龍麻が動けず、紗夜も怪我をしている状況では、一刻も早く敵を倒す必要があった。
それでも決して焦って攻撃を仕掛けはせず、半足分ずつ間合いを縮める。
 それに対して無造作に近づいてきた腐童は、そのリーチを生かし、
京一の間合いの外から殴りかかってきた。
つむじ風を巻き起こすほどの豪腕も、氣によって全身を活性化させ、
極限まで集中している京一の眼には止まって見える。
易々と丸太のような腕をかわした京一は、
そのまま懐に飛びこむと、氣を注ぎ込んだ木刀を一気に斬り下ろした。
刀身全体に氣のコーティングを施された木刀は、飴のように腕を斬り落とす。
振り下ろした京一はそこで動作を止めず、更に真横に木刀を振るった。
一瞬の停滞も無く、流れる水の如く木刀を振るった京一は、
確かな手応えを感じつつ、もう一度構え直す。
「う……ぉ……ぅ……」
 痛みを感じることの無い腐童は、京一の攻撃に顔色ひとつ変えず、
なお命令に忠実に拳を振るおうとした。
しかし、残った左腕から、先ほどとさほど変わらぬ疾さで繰り出された拳のエネルギーを、
真っ二つにされた胴体は受け止めることが出来なかった。
京一が軽くバックステップして躱すと、半円を描いた腕の軌道はそのまま止まることなく一周する。
上半身と下半身が別々の方向を向いた所で腰を蹴り飛ばすと、
下半身が倒れ、だるま落としのように上半身が落ちた。
呆れたことに、それでも腐童は殴りかかろうとしてきたので、京一はもう一度木刀を振るった。
今度は身体を縦に割られ、ようやく腐童はその活動を永遠に停止した。
「ッたく、余計な手間かけさせんなよ」
 吐き捨てた京一の傍らを、葵が走りぬける。
彼女の周りに危険が存在しない事を確かめた京一は、小蒔の援護に回った。
間違って女に生まれてきてしまったとはいえ、その実体は男である小蒔を助ける必要はない──
そう思わないでもない京一だったが、事実小蒔は助けなど必要としていないようだった。
 明らかに人とは異なる化物にも怯むことなく、素早く矢をつがえて放つ。
見事に身体の中央に刺さったやじりの部分から炎がくすぶり始めた。
たちまち大火となり、化物を焼き尽くす業火となる。
「お、おい、なんだそりゃ」
 思わず訊ねる京一に、結局寄せつけることさえなく二体の化物を倒した小蒔は事もなげに答えた。
「ん? 何が?」
「何がって、その炎だよ」
「ああ、これ? みんなと同じ、『力』だよ」
「『力』って……お前今まで使ったことなかったじゃねぇか」
「だって、これ使うと矢が使い物にならなくなっちゃうんだもん。矢だって高いんだよ」
「……」
 論点のずれた答えに、京一は何も言わずに頭を振った。
 京一が頭を振り終えた頃、醍醐も死人を片付け終えている。
最後の一体を力任せに蹴り飛ばし、壁に叩きつける。
膂力りょりょくに氣を上乗せした力は、衝突した拍子に死人の脆い首を吹き飛ばした。
壁にもたれるように崩れ落ち、そのまま動かなくなった死人の周りにいる、
既に倒された三体の死人が新たに増えた仲間を歓迎したことで、激しい、
しかし一滴の血も流れない戦闘は終わったのだった。



<<話選択へ
<<恋 唄 4へ 恋 唄 6へ>>