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わずかでもおかしな素振りを見せたらすぐに氣を乗せた拳を叩きこんでやるつもりだったが、
死蝋は大人しく研究室とやらへ案内した。
もちろん龍麻には研究室などどうでも良い事で、そこにいるはずの少女こそが重要なのだ。
「さあ、着いた。ここが僕の城さ。見たまえ」
部屋は、薄赤い照明だけしか灯りが無く、何があるのかすぐには判らなかった。
目を凝らした龍麻は、すぐに見なければ良かったと後悔した。
部屋の壁を埋め尽くす、幾つもの大小の試験管に入れられた物は、
先ほどの化物にも劣らない異形の物達だったのだ。
怒りや勇気などとは別次元のおぞましさが背筋を冷たい手で愛撫する。
「どうだい、素晴らしいだろ? この鼠は、水の中でもう五日も生き続けている。
こっちの二つ首がある犬は、別の犬の首を移植したんだ。
それぞれの脳が感覚を別に持っていながら、分泌器官や内臓を共有している。
ほら、こっちも見てごらんよ。この猿は一度死んでいるんだ。
それを、僕がある細胞を移植して生きかえらせた。何だと思う?
ククク……人の癌細胞さ」
悦に入った顔で語る死蝋の話も、龍麻は聞いていなかった。
こみ上げる嘔吐感を堪えるので必死だったのだ。
こんな奴に弱みを見せたくないという一念だけで耐え続けていたが、
死蝋の声はその努力を無に帰そうと鼓膜をなぶる。
「こいつらは現存するどの進化形態にも当てはまらない。
どの科学の力も為し得なかった領域に僕は入りこんでいるのさ。
ねぇ緋勇龍麻君。 この技術を人間に応用したらどうなると思う?
想像してごらん。水の中でも呼吸が出来る人間。二つの脳を持つ人間。
死は、もう恐れるに足りない。新たなる進化の可能性を人間は知る事になる。
素晴らしいと思わないかい?」
悔しいが返事をする余裕はなかった。
本心を言えば、一秒でも早くこの冒涜の窮(みの部屋から逃げ出したかった。
「いずれ君にも理解してもらえるさ。君自身の身をもってね」
すっかり気勢を削がれた龍麻と対照的に、
死蝋は自らの城と呼ぶこのいかがわしい空間から活力を得ているかのようだった。
瞳の狂った輝きは増し、口から泡を飛ばさんばかりに口舌を奮う。
「そう、君のおかげでようやく僕の研究も完成する。感謝してるよ……紗夜」
目の前の男は、今なんと言った?
己の耳を疑う龍麻の前に、一人の少女が現れた。
龍麻が探しているはずの少女。
死蝋に囚われているはずの少女。
しかし現れた少女はそのどちらでもなく、どちらでもあった。
「緋勇……さん……」
「比良坂さん……」
それを油断と言うのは、酷だったろう。
全く事情が呑みこめない龍麻は、ふらふらと紗夜に近寄る。
それに応えて半歩を踏み出した紗夜は信じ難いことに、死蝋をちらりと見たのだ。
立続けの衝撃に、隙が生まれる。
龍麻が気付いた時には、首筋に鋭い痛みが走っていた。
「少し眠ってもらうよ、緋勇龍麻君」
紗夜の髪の色を瞼に焼きつけ、龍麻は気を失った。
六時限目の授業が終わるとすぐに、京一と醍醐、それに小蒔は窓際の席に集まった。
ただしそこには葵を入れても四人しかいない。
葵の隣の席の、この時間なら寝ているか欠伸をしているかしている、
今や彼らにとって重要な友人は、先週からずっと休んでいるのだ。
「緋勇クン、今日も来なかったね……って凄いや、緋勇クン教科書ちゃんと持って帰ってるんだ」
空いている龍麻の席に腰を下ろした小蒔が、机の中を覗き込みながら言う。
「ええ……」
葵が答えたのは、小蒔の台詞の前半に対してだった。
教科書は持って帰るのが当たり前だと思っている葵は、
むしろ学校に置いていっている小蒔の方に驚いていたが、今はその話は重要ではなかった。
同じく教科書など持って帰ったことなど無い京一が、こちらもそれについては全く触れずに言った。
「家に電話してみたけどよ、誰も出なかったしな。
あいつが三日……土日入れたら五日も休むなんて珍しいよな。なぁ、醍醐」
「そうだな……何事も無ければいいが」
「何事も……って、まさかお前、凶津(が言ってた事気にしてんのか?」
凶津の名が出たことで、小蒔がわずかに身を硬くする。
無理もないことで、彼女は醍醐の旧友だった凶津と言う男の『力』によって全身を石にされ、
危うく死ぬところだったのだ。
結果的には助かったのだが、まだ記憶として語るには生々しすぎて、身体が反応してしまうのだった。
それを見た京一は、口に出しては何も言わず話を続けた。
「いくらなんでもそりゃねェだろ。鬼だ鬼道衆だ──って、時代錯誤も甚(だしいぜ。
今は世紀末、江戸時代じゃねェんだぜ」
「でも、ボク達みたいに『力』を持っている人がいるんだから、
凶津(のいうコトもウソとは決めつけられないよ」
小蒔の言葉に沈黙させられた京一は、面倒くさげに頭を掻いた。
「んじゃ、帰りに緋勇の家に寄ってみるか」
「そうだな」
「私も行くわ」
醍醐が頷き、当然のように葵も立ちあがる。
「ボクも。エヘヘッ、緋勇クン家(って初めて行くからちょっと楽しみ」
「バカ、遊びに行くんじゃねェんだぞ」
「わかってるよッ」
とは言っても京一も龍麻の休んだ理由を、せいぜいが盲腸程度にしか思っておらず、
小蒔に偉そうに注意しながら、頭の中では龍麻に姉妹がいるかどうか、などと考えていたのだった。
そんな京一達の気分に水を差したのは、彼らの担任だった。
校門のところで、向こうから歩いてくるマリアに小蒔が気付く。
「あ、マリアせんせー」
「皆、今帰り?」
「ウン、今から緋勇クンの家に行くんです」
「緋勇クンの家に?」
「せんせー……緋勇クンから何か聞いてないですか?」
「えぇ……私からもお願いするわ、緋勇クンの様子を見てきてちょうだい」
マリアの表情には驚くほど深刻な蔭りがあり、どこか軽い気分でいた京一達も思わず頷いてしまっていた。
それでも元来が陽性の気質で出来ている京一は、手にした木刀の包みで軽く肩を叩くと、
ここで悩んでも意味がないとばかりに明るい声を出した。
「まぁ、まずは行ってみようぜ」
しかし、何歩も歩かないうちに、再び向こうから近づいて来る人影があった。
明らかに自分達を目指して向かってくる人影に、一同は足を止める。
「……ん? 紗夜ちゃんじゃねェかッ。なんでこんなトコに?」
「あの……緋勇さんの事で」
「緋勇の?」
タイムリー、と言うには度が過ぎている紗夜の言葉に、一同は色めきたった。
その動揺が収まる前に、時間が無いといった感じで紗夜が早口で告げる。
「はい……お願いです、緋勇さんを──助けてください」
「──!?」
「場所は、品川区──」
「ちょっと待ってよ、比良坂サン、緋勇クンのこと何か知ってるの!?」
小蒔の問いに紗夜は答えず、折りたたまれた紙片を差し出した。
「詳しい場所はここに書いておきました。それじゃ」
「あ、ちょっと!」
呼びとめる間もなく、走り去ってしまった紗夜を、一同は怪訝な顔で見送るしかない。
「どういうこと……?」
「解らん……が、俺達を騙そうとしてる表情(じゃなかったな。とにかく行ってみよう」
あくまでも龍麻の家に行く、という選択肢もあったが、
龍麻を助けて、と言う紗夜の言葉が醍醐には引っかかったのだ。
何か事件に巻き込まれている──
それに紗夜がどう関わっているかは判らないが、行けばはっきりすることだ。
京一達は頷き、進路を新宿駅に向けて歩き出した。
話し声が遠くで聞こえる。
目を開けようとしても、奇妙に身体がだるく、瞼さえもが重かった。
その気だるさに負け、もう一度眠ろうとする龍麻の耳に、耳障りな声が響く。
「もしもし……あァ、どうも。いつも研究に協力してくれて感謝してますよ。
あれ(は、実にいい素材だ……ええ、心配しなくても、あなたの所に資料はお送りしますよ。
いえいえ、共に人類の未来を憂いている者同士、これからも協力していきましょう。
それではまた、学院長」
会話の中身はほとんど聞こえなかったものの、身体を包む倦怠感に抗い、目をこじ開ける。
ようやく半分ほど開いた視界は、薄赤色に染まっていた。
血を思わせる色が、記憶を甦らせる。
死蝋に何かを打たれ気を失ったことを思い出した龍麻は、
次いで、自分の身体が全く動かせないことを知った。
首さえも固定されているらしく、見渡すことは出来ない。
身体のあちこちに感じる金属の感触が、恐らく自分を縛りつけているのだろう。
それに注射されたものの影響か、ひどく思考がまとまらず、氣を練ることも出来なかった。
こうして状況を把握している間にも、眠気は絶え間なく襲ってくる。
しかし、再び眠ってしまったら取り返しがつかなくなると思い、
懸命に耐え続ける龍麻の、もやがかかったような視界に人影が映った。
人影、というよりも白い塊に近いそれは、龍麻をこうして拘束した死蝋のものだった。
「紗夜……どこへ行っていた?」
自分ではない誰かが呼んだ、紗夜と言う名が、精神(に染み入る。
助けなければならない女(。
護らなければならない女(。
その女(が、目の前にいる──
混濁した意識の中、彼女に近づこうとするが、いまいましい拘束具は、
二人の距離を縮めることは決してなかった。
ならばせめて、瞳を──眠りたいという欲求に抗い、
龍麻は屹(と眼を開き、紗夜がいるはずの前方を見据えた。
紗夜はいた。そして、死蝋も。
次いで龍麻が見たものは、信じられない光景だった。
「ちょっと外へ──あッ」
「お前は、僕のものだ。誰にも渡さない。
お前のこの髪も、この指も、この唇も──全て僕のものだ、紗夜」
背後から紗夜を抱きすくめた死蝋の手が彼女の身体に貼りつき、胸を、腹を、太腿をまさぐる。
更に信じられないのは、紗夜がそれを拒絶していないことだった。
死蝋の腕を掴んでいるものの、その動きを止めることはなく、
龍麻には親愛の情を示しているようにさえ見える。
そんな龍麻に見せつけるように、死蝋の手は彼女の素肌を犯していった。
心臓のある位置に添えられた手は、指先が醜く蠢いている。
始めは指先だけだった動きが、掌へと拡大し、捏ねる動きへと変わっていく。
そして彼女の身体の中心にあるもう片方の手はスカートの内側へと消え、
愛しあう男女のみにしか許されないことをしていた。
苛立ちを──怒りを覚えなければならないのに、頭が重く、何も考えられない。
それなのに、死蝋の声だけがろ過されたように頭の中へと響き渡った。
「人間は脆い。すぐに死んでしまう。でも全て悪いのは、脆弱な人間の身体さ。
強い魂を入れる強い『器』があれば、人間は今以上に強くなれる。
そうすれば愛する者を失う事もなく、死を恐れる事も無い」
死蝋の腕の動きが大きなものになり、その内側で紗夜の身体がくねる。
たまらず龍麻は声を上げようとしたが、喉は干あがり、
また喉を締め付ける拘束具のせいもあって、他人に聞こえる声を出すことは出来なかった。
「全くお前はいい素材を探してきてくれたよ。あの新宿の病院に張り込ませていた甲斐があった。
あそこは特殊な病院らしいからね。
……どうした、そんな顔をして。心配するな、研究は成功する」
耳元で囁く死蝋に、何事か耐えるように目を閉じていた紗夜は、
やがて意を決して束縛から逃れた。
乱れた服を直し、なお近寄ろうとする死蝋を制する。
「もう……もう止めて、こんな研究をするのは」
「ん……? どうした紗夜。愚かな人間達に復讐したいとは思わないのか?
僕達にこんな仕打ちをした奴らを見返したいとは思わないのか?
お前だって忘れたわけじゃないだろう。……お前は少し疲れているんだ」
紗夜の険しい表情に近づく事を諦めた死蝋は、気を取り直して白衣の襟を正した。
その拍子に、一番新しい実験素材がこちらを見ているのに気付く。
「どうやらお前の王子様も目覚めたらしい」
紗夜に拒絶された怒りを嘲けりに転化し、素材に近づく。
「おはよう、お目覚めかい? こんなに早く麻酔から目覚めるとは思っていなかったよ。
その身体は薬物に対する抵抗力も高いみたいだねぇ。
まぁ、いいさ。その拘束具はそう簡単には外せない。君の、その『力』を持ってしてもね」
瞳がまだ虚ろであることを確かめた死蝋は絶対の優位を確信し、
悪意に満ちた笑みを龍麻に向ける。
意識が朦朧としていてさえ浸透するその悪意を、龍麻はなす術なく聞くしかなかった。
「緋勇龍麻君、ひとつ教えてあげよう。紗夜はねぇ、僕の命令で君を観察してたのさ。
君の行動、性格、そしてその『力』──君が、僕の研究の素材として相応しいかどうか」
龍麻が死蝋の言葉を理解出来なかったのは、必ずしも薬物のせいだけではなかった。
紗夜と死蝋が協力する関係にあった──
初めて渋谷の交差点でぶつかってから彼女に抱いていた気持ちは、
全て彼女と死蝋が利用する為に抱かされたものだったのだ。
「おやおや、凛々しい顔が泣きそうになっているよ。余程ショックだったのかい?
信じられないなら、本人の口から聞いてみるといい。
紗夜、緋勇龍麻君に何か言ってあげたらどうだい?」
薬物で鈍らされている為に実際の龍麻の反応は微々たるものだったが、
死蝋は嬉しくてたまらないとばかりに喉の奥で笑った。
その傍らで、紗夜が泣きそうな顔をしている。
しかし、龍麻はもうその表情を信じることは出来なかった。
「緋勇さん……わたし……ごめん……なさ、い……」
「……」
濁りきった思考の沼は、彼女に対する気持ちさえも底深く呑みこんでしまっていた。
更にその上から裏切られたという泥が埋めたて、紗夜に関する全てがどうでも良くなる。
「緋勇さん……本当に……ごめんなさい……」
同じ言葉を繰り返す紗夜の目許に、光るものがある。
それは泥濘を貫き、底を照らす輝きであったかも知れないが、
龍麻は疲れて目を閉じていた為に、その輝きを目にする事はなかった。
「紗夜、何を謝ることがあるんだい? 彼の身体は人類の未来の為に役立つんだよ?
感謝こそされ、恨まれる覚えは無いというのに」
泣き止まない紗夜に苛立ち、死蝋の声が尖る。
「少しお喋りが過ぎたようだね。そろそろ始めようか。紗夜、手術台のスイッチを入れてくれ」
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