<<話選択へ
<<恋 唄 2へ 恋 唄 4へ>>
翌日、授業が終わるとすぐに龍麻は鞄を掴んで教室を飛び出した。
京一や小蒔が何か言ったような気がするが、耳には入ってこない。
ただ一刻も早く、彼女の許に行く事だけに集中していた。
約束をした訳ではないし、昨日は唐突に別れられてしまっている。
それでも、龍麻には彼女がいるという確信があった。
自惚れ、と言われればむきになって否定したに違いないが、
必ず紗夜は昨日と同じ、校門の前で待っていてくれるはずだった。
ほとんど全力疾走に近い速さで、校門に辿り着く。
心臓をなだめ、額に浮かぶ汗を拭った龍麻は、そこにいるはずの彼女に向かって一歩を踏み出した。
紗夜はいなかった。
当たり前の事実に、足元が震える。
何故いない、と理不尽な叫びを発してしまいそうなほど、
龍麻は目の前の現実を受け入れることが出来なかった。
校門でひとりうろたえる龍麻の所に、見覚えのない子供が近づいてくる。
「ねぇ、にいちゃん緋勇龍麻?」
「そうだけど」
元々龍麻は誰に対しても不必要に乱暴な口は聞かない。
しかしこの時は紗夜がいないという自分勝手なショックから未だ立ち直っておらず、
不機嫌を剥き出しにして子供に答えた。
子供はそんな龍麻に何の関心も払わず、ただぶっきらぼうに腕を突き出す。
「はいこれ。渡したよ」
「お、おい」
手紙を押しつけてさっさと走っていってしまった子供を見送った龍麻は、
手がひとりでに手紙を開けているのに気付いた。
丁寧に施された封が、何故か気味の悪さを感じずにはいられない手紙で、
その印象は文面を見ても全く変わらないばかりか、更に増す。
一読しただけで不快感を抱かずにはいられない、瘴気に満ちた手紙だった。
言葉のほとんどが新聞や雑誌などの切り抜きで構成(され、
時に反転され、時に読めないほど小さな文字がいくつも並べられた文章は、
どれほどの悪意が込められているのか見当もつかない。
更にその内容までもが、ガラスを釘で引っ掻いたような、蟻走感をそそるものだった。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
君が転校してきてからの噂、聞いています。渋谷の街の鴉、高い鉄骨の上での闘いは、
さぞかし大変だったことと思います。
そして桜ヶ丘病院に、君の同級生の女の子が入院した時には、僕も心が痛みました。
非力な人の力では、どうする事の出来ない事件でも、君は立ち向かっていきましたね。
僕は、君の『力』を羨ましく思います。是非、一度直接会って話をしたいです。
でも多分、君は僕の申し出を断るでしょう。だから、ある人にも協力してもらいました。
その人は、君も良く知っている人です。彼女は今、僕の手の中にあります。
君は、その人の為に僕と会わなければなりません。
その人を護る為に。場所は別紙の地図を見てください。
今は使われていない古い建物です。
必ず一人で来てください。誰かに話しても駄目です。
君には選択の余地はありません。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
吐き気に耐えながら手紙を読み終えた龍麻は、まず大きく深呼吸をしなければならなかった。
新鮮な空気の助けを借りて心をなんとか落ちつけた所で、文面の意味を考える。
無視する訳にはいかなかった。
敵かどうかはまだ判らないが、こんな手紙をしたためる人物と友達になれるとも思えず、
会いたいなどとはこれっぽっちも思わない。
しかし、相手は自分達をずっと観察していて『力』のことを知っており、
しかも誰か自分の知り合いがこの件に関わっていて、既に相手に囚われているようなのだ。
彼女、という三人称を見た時、龍麻の脳裏を不吉な影がよぎる。
もしや囚われているのは、紗夜ではないのか。
行かなければならない。
そして何があっても、彼女を助けなければならない。
龍麻は手紙を握り締め、走り出した。
昨日と同じ品川駅で降りる。
しかし龍麻の内心に渦巻くものは昨日とは全く異なっていた。
焦り、そして怒り。
師から幾度もたしなめられ、抑えるように言われていた陰の感情に、龍麻は身を委ねていた。
通行人が次々と避けるのにも気付かず、地図に記されている廃屋へと向かう。
三十分近く歩いて辿り着いた建物の前には、さきほどと同じ手紙が用意されていた。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
この建物の右に五メートル歩いた所に、錆びた鉄のドアがあります。
そのドアを開け、そこから入ってください。
中に入ったら、中から鍵を掛けてください。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
中から鍵を掛けろ──これほど人を馬鹿にした罠の存在もそうはなかったが、龍麻は指示に従った。
この相手が誰で、どんな罠が用意されていたとしても、必ず報いをくれてやると決めていたからだ。
鍵を掛けた龍麻は、ノブの横に新たな手紙が貼られているのに気付いた。
その中身は相変わらず不快感を炙(りたてるものだった。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
ここまで来た、君の正義感、勇気に僕は敬意を表します。素晴らしいです。
君は、そうやって、今まで君の友達と一緒に困難を克服し、切り抜けてきましたよね。
しかし、それは、あくまで人の助けを借りて馴れ合いの中で過ごしてきたにすぎません。
人は、常に孤独です。そして、人は、常にひとりでは、無力な存在なのです。
君が、果たして、君個人という存在のみでその存在理由を証明できうるのか。
僕は、それを見てみたいのです。
君の『力』を、僕に見せてください。
君のその見せ掛けの勇気を見せてください。
では、健闘を祈っています──
君の友、Dr.ファウストより」
もう文章をまともに読もうともせず、一通り目を走らせただけで龍麻は手紙を破り捨てた。
身体を駆け巡る氣は既に迸(るほどで、放たれるのを待つばかりになっていた。
その氣に呼応するように、奥の扉が開く。
苛立つほどゆっくりと軋(んだ扉の向こうから現れた物を見た龍麻は、
怒気を一瞬忘れてしまっていた。
それほどに異形の物だった。
土気色の肌に、くぼんだ瞳。鼻の肉はこそげ落ち、
頬の肉もところどころ骨まで剥き出しになるほど失われていた。
人ではあるが、明らかに生者ではないそれは、よろよろと龍麻に近づいてくる。
生きている死者(──そう呼ぶしかない、想像を絶する化物だった。
緩慢な動作で掴みかかってきた化物に向かって、龍麻は氣の塊を放つ。
よけようともせずにまともに氣を受けた化物は、小気味の良い位派手に吹っ飛んでいった。
壁に激突し、なおこちらに向かおうとしているが、激突したショックで腕がもげたらしく、
バランスを欠いて立ちあがれない。
化物は見た目のグロテスクさ程には強くはないようだったが、それを補うように二体目の化物が現れた。
いくら弱いと言っても、腐臭漂う皮膚に直接触れるのは絶対に避けたいところであったから、
少し離れた所から氣を撃ち込む。
直接体内に浸透させるのに較べて、威力は格段に落ちてしまうが、
それでもさほど苦労せずに倒す事が出来た。
今度は頭が取れてしまった化物は、自分の脳が無くなってしまったことも知らず、
駄々をこねるように手足を動かしている。
その時既に、龍麻は現れた三体目の化物と対峙していた。
全部で五体現れた生ける死体も、今は全て本当の死体に戻っている。
龍麻も息一つ切らさず、と言うわけにはいかず、
しばらく壁にもたれて体力の回復を待たねばならなかった。
なるべく化物の方は見ないようにして心肺機能を全開にしていると、白々しい拍手の音が響いた。
「お見事──」
新たな敵の登場に、龍麻は身を起こす。
膨れ上がっていた陰氣もほぼ使いきり、冷静さを取り戻していたので、
いきなり殴りかかるようなことはせずに、相手の正体を見極めようと言う判断が出来た。
「やァ、はじめまして。僕の手紙を読んでくれてありがとう。お気に召してくれたかい」
現れたのは、白衣を着た男だった。
歳は自分よりも上であることは間違いないというだけで、今一つ判然としない。
顔立ちも整ってはいるが、どこかそれだけでない印象を与えるのは、
色褪せた唇のせいか、それとも輝きに乏しい瞳のせいだろうか。
どうにも陰気な印象しか受け取る事の出来ない目の前の男を、
どうしても好きになれそうにはなかった。
もちろんそれ以前に、今の化物と同じ扉から出てきたこの男が味方であるはずがなく、
あんな手紙を気に入ったか、等と聞かれて一層腹を立てた龍麻は睨みつけるだけで返事をしなかった。
「ククク……失礼したね、緋勇龍麻君」
歯の奥を擦り合わせるような発音は、聞くだけで不快感をそそられるもので、
相当の努力を払って辛抱しなければならなかった。
それでもフルネームで呼ばれると自分の名を穢されたような気がして、
それだけでも止めさせようかと口を開きかける。
すると男はそれを制するように両手を上げ、話し始めた。
「いや失敬、手荒な真似をして悪かった。
でもどうしても君の『力』を、この目で見てみたくてね。
さっき君が闘った生物も、僕の研究の一環でね。
病院から手に入れた死体にちょっと手を加えたものなんだ。
僕は死人(と呼んでいるがね、
遺伝子工学と西インドに伝わる秘法の賜(さ。
……君は、ブゥードゥーという言葉を知っているかい?」
無言を保つ龍麻に、男は講義口調を作って説明を始める。
別にそんな言葉など知りたくもなかったが、氣を練りあげるには今しばらくの時間が必要だった。
「ブゥードゥーと言うのはね、西インド諸島のハイチ島の黒人達に信仰されている宗教の名でね。
ロアと呼ばれる精霊を信仰し、
オウンガンと呼ばれる祭司やノボと呼ばれる魔術師達は様々な魔術を使うと言われている。
霊を呼び出す、空を飛びまわる、そして──死者を甦らせる。
ゾンビっていうのは元々ブゥードゥーの魔術によって死者の国から呼び戻された者の事さ」
滔々(と話し続けた男は、うんざりした表情をしている龍麻に気付くと、
大げさに手を打ち鳴らした。
「ああそういえば、挨拶がまだだったね。僕の名は死蝋( 影司(。
品川にある高校の教師をしている。君の活躍を知り、そして君の助けを──
君の『力』を必要としている者さ。よろしく」
よろしく、などと言われて頷ける訳もない。
例え目の前に金塊を積まれたとしても、金輪際関わりたくない人間というのはいるもので、
目の前の死蝋と名乗る男はまさしくその類だった。
「そんな顔をするなよ。僕と君は仲間なんだからさ」
龍麻は静かに息を吐いたが、もちろんこれは同意したのではない。
「僕はね、君に協力したいと思っているんだよ。君の持つ超人的な『力』を、
もっと有効かつ合理的に使っていく方法を考えてあげようと思っているんだ。
ほら、君はまだ高校生だろ? 受験や将来の事が忙しくて、そんな事考えてる暇も無いだろ?
だから、僕の頭脳と人脈を活用して、君の未来(の手助けをしてあげようと思っているのさ。
どうだい、いい話だろ?」
もはや龍麻の関心は、いつこの男の話を遮り、紗夜を助け出すか、という事にしかなかった。
氣は既に練りあがり、いつでもこの男を打ち倒せる。
だが彼女の無事を確かめるまでは、うかつに動けなかった。
それにしても、こちらの態度を全く意に介さず、
しかも押しつけがましい話を続けられ、そろそろ忍耐も限界に近づいていた。
「人は何処から来て何処へ行くのか、君は考えた事があるかい?
もしかしたら僕達は、もっと別の進化の道を歩む事が出来たんじゃないか、そう考えた事はないかい?」
君が協力してくれれば、僕はその謎を解き明かすことが出来る。
君のその──強靭な肉体と揺るぎ無い精神力、そして超人的な『力』があれば、
そうすれば、人は、超人──いや、魔人とも言うべき存在に進化出来るのさ。
解るかい? 緋勇龍麻君。その力があれば、犯罪や戦争をなくす事が出来る。
君達が苦労して護っているこの東京も、もうこれ以上、君達が傷つく事もなくなる。
どうだい? 僕と手を組まないか? そして人類の新たな未来を築こうじゃないか」
狂信の度合いを増した男に、これまでだと感じた龍麻は閉じていた口を開いた。
「お前に協力する気なんて無いし、人類の進化なんてもんにも興味が無い。
それよりさっさと比良坂さんを解放しろ。そうしないと、お前から未来を奪ってやるぞ」
低く、鋭い声で言った龍麻に、死蝋は初めて失望したような表情をした。
本気で自分が自発的に協力すると思っていたようで、龍麻は呆れざるをえない。
「無理するなよ。君達だけでこの東京が護れるとでも思っているのかい?
自分の力だけで他の人間まで護れると思っているのは君の自己満足(だよ。
その君の自己満足の為に、君の仲間が命を落とす事だってありうる。
そうなったとして、君はその罪を購(う事が出来るのかい?」
「うるせえよ、いいから比良坂さんの所へ案内しろ。
別にこっちはお前をぶん殴ってから自分で探したっていいんだぜ」
これ以上、踏んづけてしまったガムのようにまとわりつく死蝋の話し方に付き合っていては、
歩く事さえままならなくなるし、何よりへばりついたガムは気持ち悪くてたまらない。
強い口調で言った龍麻は、それがただの恫喝ではないと示す為に、拳を力強く握り締めた。
その態度に死蝋は更に失望を強めたようだったが、知ったことではなかった。
「いいだろう……地下に僕の研究室があって、紗夜はそこにいる。
ついでだから、僕の研究を見ていくといい。
そうすれば、そんな甘い事は言っていられなくなる」
ようやく説得を諦めたのか、死蝋は前に立って歩き始める。
龍麻がもう少し冷静であったなら、
死蝋が紗夜を呼び捨てにしたことについて、その意味を考えることが出来たかもしれない。
しかし怒りの陰氣に支配されている今の龍麻は、ただ変質者の分際で紗夜の名を軽々しく呼ぶな、
としか考えられなかった。
<<話選択へ
<<恋 唄 2へ 恋 唄 4へ>>