<<話選択へ
<<恋 唄 1へ 恋 唄 3へ>>


 いつも誰かと帰っているのが、久々に一人だったからか、
あるいは職員室での出来事がまだ尾を引いているのか、
どこかで心が普段通りではなかったのかもしれない。
わずかな期待がなかったと言ったら、嘘になるだろう。
だから、その期待が最も望む形で叶えられた時、龍麻は文字通り我を忘れて舞い上がってしまった。
「あ……」
 龍麻に気付いた少女が、駆け寄ってくる。
今この瞬間から、龍麻の時は彼女一人に捧げられることとなった。
「比良坂……さん」
 声が震えるのを、抑えることが出来ない。
欲望すれすれの情動が身体を駆け巡る。
それはついさっきマリアに抱いたものとは比較にならないほど強烈なものだった。
「こんにちは。ごめんなさい、突然来てしまって」
「いや、それはいいんだけど……どうして」
 それでも、龍麻は喜びを露にするのは避けた。
そうしてしまったら、何を言い出すか自分でも見当がつかなかったからだ。
「この間のお礼が、どうしても言いたくて。本当にありがとうございました」
「この間……ああ、いいんだって、そんなの」
 紗夜が言っているのは、一ヶ月ほど前に、不良達に絡まれている彼女を龍麻が助けた時のことだった。
あの時は邪手イビルハンドの『力』を持つ凶津煉児まがつれんじに小蒔が石にされ、
彼女を救うのに必死で、紗夜のことなど忘れてしまっていたのだ。
だから龍麻は格好つけでは無く本心から言ったのだが、言い終えた直後に後悔していた。
彼女ともっと一緒にいたい。
彼女ともっと話していたい。
膨れ上がる想いは身体から飛び出しそうになっているというのに、
その機会を自ら摘むようなことを言ってしまったのだ。
自分の馬鹿さに頭を掻きむしりたい衝動を、龍麻は必死で抑えねばならなかった。
 しかし、紗夜はそんな龍麻を救う。
薄赤に染めた頬と、決意に溢れた瞳で。
「実は……今日はお願いがあるんです」
「お願い?」
「はい。……あの、……あの、わたしとデートしてくれませんか?」
「デー……ト?」
 こうも面と向かってデートを申し込まれたのは初めての龍麻は、
どう返事をして良いか言葉に詰まってしまった。
しかしすぐに、過ちを二度続ける訳にはいかない、という思いで、必死に口を動かす。
「いいよ、俺なんかで良ければ喜んで」
「嬉しい……夢みたいです」
 紗夜は両手で口許を押さえ、喜びと照れとを同時に表した。
小さな白い指と、それが覆う唇に、龍麻は心奪われる。
先ほどマリアに対して抱いた感情の残滓が、形を変えて龍麻を衝き動かしていた。
「それじゃ、あの、わたし、行きたい所があるんです」
 紗夜は手を握り、引っ張るように歩き出す。
握ってきた手の柔らかさに、龍麻は思わず叫んでしまうところだった。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもないんだ。行こう」
 外れてしまわないように、繋いだ手をしっかりと握り締める。
紗夜はわずかに目を見開いただけで、負けないくらい強く握り返してきた。
言葉よりも意思を伝える方法があることに気付いた龍麻は、
無言のまま、二人だけの路を歩きだした。

 紗夜が龍麻を連れていったのは、しながわ水族館だった。
平日の四時過ぎとあって、訪れている客も少なく、
ほとんど貸し切りのような状態の館内を、二人は肩を寄せ合って歩く。
館内の冷たい空気を言い訳にして身体を密着させ、暗い照明を理由にして手を離さなかった。
 紗夜は何度か来たことがあるのか、水槽の前でひとつひとつ立ち止まり、龍麻に解説する。
解説といっても、好き、嫌いのレベルだったが、デートなのだから、もちろんそれで充分だった。
「わぁ、可愛い。おいで、こっちにおいで」
 水槽に顔を近づけ、寄ってくる魚を手招きする紗夜を見ていると、
魚など食べる以外に興味がない龍麻も、その間抜けなつらが何やら可愛く見えてしまう。
しかし高校生の男子としては、魚相手に愛想のある表情など出来るはずもなく、
しかつめらしい顔をするしかない。
ガラスに映ったそんな龍麻の顔を見て、紗夜が驚いたように振り向いた。
「あの……ごめんなさい、ひとりではしゃいじゃって」
「え? あ、違うよ、これは別につまんないからじゃないんだ」
 慌てた龍麻は笑顔を作る。
そして、それだけでは説得力に欠けると感じ、握った手に力を込めた。
「あ……」
 伝わる体温の熱さに、紗夜は俯き、固まってしまう。
龍麻も動く訳にいかず、二人は水槽の前で不器用に立ち尽くす。
ガラスの向こうでは、紗夜の頭ほどもある巨大な魚がやる気のない神父の趣でぷかぷかと泳いでいた。
 二人は、時の番人に十回ほども砂時計をひっくり返させるほどの間、この上なく幸福な時間を過ごした。
魚でさえも既に愛想を尽かし、水槽のこちら側にも向こう側にも龍麻と紗夜を邪魔するものはいない。
特に言葉を交わしたり、見つめあったりした訳ではなかったが、
時折握りなおす手がお互いの気持ちを何よりも伝えていた。
 それでも三十分ほども同じ場所にいるとさすがに足も疲れ、
ほぼ同じくして顔を見合わせた二人は、小さく笑う。
お互いに譲り合った後、口を開いたのは紗夜の方だった。
「あの……そろそろ出ましょうか」
 自分の言いたい事を言ってくれた紗夜に龍麻は黙って頷き、デートの舞台を隣の公園へと移した。
 空は薄いオレンジに変わりかけているものの、まだ日没までに時間は大分あった。
紗夜はその大人しい外見からは想像もつかないほどはしゃいでいて、
子供のようにあちらこちらへと龍麻を振りまわす。
「緋勇さん、見てッ。魚が。……あ、でも、魚なら水族館で見ましたよね、えへへ」
 笑う紗夜を見ていると、自然に龍麻の顔にも笑みが浮かぶ。
やはり暗い所で見るより、明るい所で見る方が彼女は断然可愛い。
しかし、手を繋ぎ、身体を寄せ合うのは水族館の中でこそ出来たことで、どちらも選びがたいものだった。
どちらが良かったかを考えている龍麻の前で、紗夜の髪が踊る。
夕陽を浴びて黄金色に輝く髪を見て、やはり外の方が良い、
としょうもない疑問に答えを出した龍麻だった。
「気持ちいい……」
 そよ風に髪を撫でさせて、紗夜が呟く。
その姿が、何故か風にかき消されてしまったような気がして、
龍麻は思わず彼女に詰め寄っていた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……なんでもない」
 己の錯覚に罵声を浴びせつつ、龍麻は紗夜と肩を並べた。
ちらりと横顔を盗み見ると、紗夜の視線は遥か遠くに据えられていた。
物憂げに細められた目は、一体何を見ているのだろうか。
同じ物を見ようとしても、龍麻の瞳が捉えたのはビルばかりだった。
彼女と想いを共有する事を諦めた龍麻は、
透き通るような瞳を凝視することでせめてもの代わりにしようとした。
紗夜は龍麻がじっと見ている事に気付いていないか、あるいは気付いていないふりをしていたが、
やがて、半ば独り言のような静かな声で龍麻に訊ねた。
「緋勇さん、ひとつ聞いていいですか。緋勇さんは、奇跡……って、信じますか?」
 幸いなことに、これまでの人生でそんなことを考える必要のなかった龍麻は、
とっさに返事が出来なかった。
 声を詰まらせる龍麻に、紗夜は寂しく笑う。
それは本当の哀しみを知る者だけが為し得る笑みで、圧倒された龍麻は立ちすくむのが精一杯だった。
「わたしは、奇跡なんて……無いと、思います。
だって奇跡があるなら、大切な人を失うことなんてないじゃないですか」
 突き放した断定に、やはり龍麻は答えられない。
彼女の過去に何か関係があるのは明らかであり、まだそこまで踏み込んで聞くのはためらわれた。
気の利いた台詞のひとつも思い浮かべられない自分の不甲斐なさを嘆く龍麻を慰めるように、
紗夜は話題を変える。
「緋勇さん、わたしね、夢があるんです」
「夢……? どんな?」
「わたしの夢は……笑わないでくださいね、看護婦さんになることなんです。……おかしいですか?」
「そんなことないよ。比良坂さんなら立派な看護婦になれると思う」
 まだ将来のことなどろくに考えた事もない龍麻は、素直に感動していた。
それに、居るだけで心が温かくなる彼女なら、きっと患者の治りも早くなるに違いない。
一緒の時を過ごして数時間ほどしか経っていないのに、半ば本気で龍麻はそう思っていた。
「緋勇さん……ありがとう」
 頬をほんの少しだけ赤らめて、紗夜はまっすぐ龍麻を見つめる。
拭いえない愁いを帯びた表情は、たまらなく愛おしいものだった。
紗夜の瞳もそれを望んでいるように見え、
龍麻は緊張で凝り固まってしまっている腕をぎこちなく伸ばした。
束の間、受け入れる表情を浮かべた紗夜は、しかし、何故か龍麻から身を離した。
 落胆する龍麻に、紗夜の心を痛みが走る。
しかし、彼の身体の温かさを知ってしまったら、
より大きな痛みにさいなまれると解っていたから、
辛くとも心の温かさだけで満足しなければならないのだ。
拒絶されたと思ったのだろう、所在無げに引っ込もうとする龍麻の手を握る。
そこまでが、罪深き自分に許されたことだった。
「わたし、小さい頃に飛行機事故で両親を亡くしてるんです」
 何故急にこんな話をする気になったのか、自分でも解らない。
彼の同情を惹こうとしているだけなのかも知れない。
それだけでも自分は赦されない、と紗夜は思ったが、
真剣な眼差しで耳を傾けてくれる龍麻を見ると、話を止めることは出来なかった。
「たくさんの人がその事故で死にました。
わたしは……父と母に護られて、ほとんど怪我もなかったそうです。
でも、父と母は──だからかも知れません。看護婦さんに憧れるのは。
看護婦さんになって苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。
──ごめんなさい、こんな話して。でも、緋勇さんには聞いて欲しかったんです。
だって……だって、わたし……いえ、なんでも……ないです」
 この時、何故龍麻は拒まれても無理やりに彼女を抱きしめてやらなかったのか、
後日悔やみきれない悔恨に身を切り裂くことになる。
しかしこの時は、繊細な結晶で出来たような紗夜の身体に触れる事は、
とてつもない禁忌なのではないか、という念に囚われ、指一つ動かす事が出来なかったのだ。
それでも、紗夜が小さく微笑んだ時は、今からでもそうすべきではないのか、との思いがよぎる。
けれど、時間を支配する神は残酷にもその機会を与えてくれなかった。
「今日は付き合ってくれてありがとうございました。もう……帰ります」
 手を離した紗夜は、掌に残る龍麻の温もりが消える前に小走りに駆けだした。
後ろで龍麻があっけに取られているのが伝わってきたが、立ち止まらなかった。
龍麻が追いかけて来られない距離まで走ってから、ようやく歩き出す。
掌は、もう冷たかった。



<<話選択へ
<<恋 唄 1へ 恋 唄 3へ>>