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幾度目かの小康状態が訪れ、やや離れた間合いで二人は睨み合う。
刻は日付が変わろうかという頃だったが、
月という観客のおかげでお互いの顔ははっきりと見る事が出来た。
荒い呼吸をもはや鎮める余裕も無く、龍麻は再び口の端を歪める。
それが意図的に行われていると判っていても、むしろそれだからこそ、
壬生は全身に虫唾が走るのを抑えることが出来ない。
「まだよ、とっておきがあるんじゃねぇか」
「──流石だね」
渋々答えた壬生の言葉には、賞賛だけでなく、警戒も多分に含まれていた。
当たり前だ。
来ると判っていれば、少なくとも何らかの対応は取れる。
下手をすれば、技の隙を突かれてそのまま一気に勝負がついてしまうかも知れないのだ。
そして龍麻が取った、極端に右足を引いた構えは、
彼にも「とっておき」があることを如実に語っていた。
どうするか──珍しく迷いを見せる壬生に、龍麻の挑発が飛ぶ。
「出せよ。今のうちに出しとかねぇと、後悔するぜ」
「──あァ、そうさせて貰うよ」
それでも、壬生は誘いに乗った。
己の体が、限界を超えることを信じて──
一度だけ、小さくその場でステップを踏んだ壬生の身体が、突然龍麻の目の前から消えた。
月灯が不意に暗くなる。
理解するより先に頭を庇うと、意外なほど優しい感触が腕から脳に伝わった。
蹴るのでは無く、押す──龍麻が抱いた認識は間違いでは無かった。
頭を護る為に振り上げた腕は、壬生の支点として活用されてしまったのだ。
体重の無い者のような動きで滞空時間を作り出した壬生は、
獲物を狙う猛禽のように両足を続けざまに蹴りこんだ。
つま先が確かな肉の感触を捉えた瞬間更に体重を乗せ、龍麻を斃さんと撃ち抜く。
一段目で崩し、二段目で穿(ち、三段目で屠る──
人を超えた身体能力と、それを遥かに超える努力のみが可能にする、華麗な殺人技。
実戦で初めて用いた奥義がかくも鮮やかに決まったことで、射精にも近い快感が壬生の背筋を疾った。
そして、その忘我の祝福が脳髄へと届く寸前──
身体の反対側からやって来た何かに、全てがかき消された。
時間にして二秒、壬生の体は宙に浮いていた。
いや、そう見えただけで、良く見れば龍麻の腕が、
まるでペアを支えるフィギュアスケートの選手のように壬生の胸に押し当てられている。
その腕が普段よりも一回りほど大きく見えたのは、膨大な龍氣が迸(っているからに相違無かった。
防御を捨て、片手では無く、両手を大きな螺旋とし、渾身の力で撃ちこむ。
躱されれば無論、当たったとしてももう動くことすら叶わなくなる、捨て身の絶招。
二人が放った渾身の技は、いささかも威力を損なうことなくお互いの身体に伝わっていた。
支えていた龍麻の手から壬生が滑り落ちる。
否、支えていたのではない、龍麻の方が支えられていたのだ。
その証拠に、壬生の身体が離れた直後、龍麻の肉体は急に一メートル程も低くなっていた。
たたらを踏みながらもなお両の足で地面を掴む壬生に、
もう指先さえも動かせない龍麻は膝を付き、両眼だけを鋭く睨ませる。
壬生は高みからその視線を受けていたが、三呼吸を数えた所で、
自分が嫌いな龍麻の笑い方を真似てみせた。
「君の勝ちだ、龍麻」
「どうしてよ」
「……僕はもう、立てないからね」
呟くと同時に膝をつき、そのまま手までついてしまう。
それを見届けた龍麻は、残っている全身の力を唇に集めて同じ笑みを作った。
「けッ、お前の勝ちだ、壬生。……俺はもう、起きあがれねぇからな」
言葉の最後は、地面に近しい場所から聞こえてきた。
本当に最後まで、力の一滴まで使い果たした二人は、
吹きすさぶ風が急速に体温を冷ましていくのを、他人事のように受け入れていた。
ようやくいくらかの体力を回復した龍麻は、しかし起き上がろうとはせず、
面倒くさげにごろりと寝返り、大の字になって星空を見上げる。
壬生は寝転がりはしなかったが、後ろ手をついて、龍麻と同じく視線を宙に移した。
都会の空はもはや星々の輝きを二人に与えることは無かったが、
それでもなお二人は虚空に存する己が宿星を見続けていた。
身じろぎもせずに快い疲労に浸かっていた壬生を、龍麻の声が呼び戻す。
「比良坂がよ、お前と付き合いたいってよ」
「……それと、今回のこととどう関係が?」
「関係なんか──ねぇよ。……そうだな、あまり弱っちぃ奴には任せられねぇ、ってことにしとくか」
憑き物が落ちたようにぼんやりとつぶやく龍麻に、壬生はしばらく返事をしない。
あまりに唐突な龍麻の台詞に、壬生が最初に抱いたのは怒りだった。
自分がそうであるように、龍麻も一日千秋の思いでこの日を待っているに違いないと思っていたのが、
彼にとっては単なる口実に過ぎなかったことに、反射的に怒りを覚えたのだ。
しかし、それも風に散る花のように消え、代わりに、
雪解けの中から力強く芽を出す雪割一華を思い起こさせる少女の顔が脳裏で像を結ぶ。
この顛末を話し、闘ったが故に断られた、と知ったら──比良坂は龍麻にどんな顔をするのだろうか。
壬生はその空想に一人笑った。
それは、もう答えが決まっているからこそ出来る空想だった。
軽くなった己の心に驚きながらも、それが溜まっていたものを吐き出したからだ、
ということに気付かないほど壬生は愚かではない。
だが、もし龍麻がそこまで計算していたのなら、大した策士だった。
「龍麻──」
「なんだよ」
「……いや、なんでもない」
尋ねようとして、結局壬生は止めた。
まともな答えが返ってくるはずもなかったし、どうでも良いことであるのに気付いたからだ。
夜空へと羽ばたかせていた視線を地上に戻し、龍麻の方を向く。
「返事は、どうすればいい?」
「へッ、俺はそこまで親切じゃねぇよ。自分でなんとかしな」
「──そうだね。それじゃ、今度の土曜日、駅で待っているよう伝えてくれないか?」
「だから俺は──判ったよ。伝えといてやるよ。……もう行くぜ。明日は学校だしよ」
流れかけた暖かな空気を拒むように立ちあがった龍麻は一度、わずかによろめいたが、
矜持にかけて踏ん張り、壬生も見なかったことにした。
「あァ、それじゃ。──龍麻」
「何だよ」
「ありがとう」
それを聞いた龍麻は、意味もなく土を蹴った。
ポケットに手を突っ込んだままのその仕草が、何故か壬生の口元を綻ばせる。
「──ありがとう、なんて正面切って言われると」
「言われると?」
「意地でも叩きのめしたくなっちまうな」
壬生の方を向いた龍麻は本気で無い事を示すように、いつもの人好きのする笑みを浮かべた。
それを見た壬生は気付かざるを得ない。
たった今消したばかりの欲望が、実は消えてなどおらず、くすぶっているだけだと言う事に。
「……いいよ。今度の土曜日の後だったら、いつでも闘ろう」
「冗談だよ。本気にすンな──」
つい漏らした本心が、比良坂の一途な想いを壊してしまいかねないことに気付いた
龍麻は慌てて首を振り、死闘の場を立ち去った。
壬生も同じく帰路に就くことにしたが、最後に小さくため息をつく。
そのため息が誰に向けて──この場に居る者か、居た者か、それとも居ない者か──
は自分でも解らなかった。
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