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京洛奇譚 2へ>>


 白い輝きが波打つ黒髪を風に軽くなびかせて、美里葵は学校への道を歩いていた。
朝の光が結晶のように優美な肢体を飾り立て、制服の色にも劣らない白い肌を輝かせている。
その姿はまさしく聖女マドンナと呼ぶにふさわしく、清らかなものだった。
 今でこそ引退したものの、自身が通う真神学園の生徒会長を務めていた彼女は、
その美貌もあって学内で知らぬ者はなく、
歩いている間にも彼女と朝出会えた光栄を担った生徒達に次々と挨拶されている。
そのひとつひとつに丁寧に応じていた葵は、
やがて少し前をのんびりと歩いている一人の男子生徒を見つけ、小走りで近寄った。
 その生徒は左脇に鞄を抱え、その手をポケットに入れながら、
他の生徒の半分ほどの速さで足を動かしている。
確かめてはいないが、それが自分を待っているためなのだからだと葵は知っている。
何故なら、葵は彼に会うために毎日同じ時間に家を出ているからだ。
 肩に気配を感じた彼が振り向く。
ポケットから手を出し、鞄を持ちかえる彼に、自然な笑いを誘われながら葵は挨拶した。
「おはよう、龍麻くん」
「おはよう」
 返事をする緋勇龍麻は、まだ完全に照れを拭い去れていない。
葵が「龍麻くん」と呼んでくれるようになってから、何日も経っていないからだ。
友人達はこのささやかな、しかし当人にとっては極めて重大な変化に気付いていない──
あるいは、気付いていないふりをしてくれている。
おそらく一度でもそのことについて何か言われたら、
葵はすぐにそう呼ぶのを止めてしまうだろうから、
もし彼らが配慮してくれているのなら龍麻は心から彼らに感謝するのだった。
ただしそういうことには非常に敏感な京一と小蒔が揃って無反応だから、
龍麻としては単に気づいていないだけだと思うことにしていた。
 少し歩くペースを上げ、葵と並んで歩く。
彼女に会うためにこの時間にこの辺りを歩くのは一週間のうち四日ほどで、
更に一緒に歩けるのはその半分ほどの確率だった。
前者は仕方ない──ひとり暮しの龍麻は目覚まし時計に頼らねば起きられず、
寝過ごす、まではいかないものの慌てて家を出る日をどうしてもなくせないからだ。
後者は──運良く起きて学校に向かえたとしても、
どういう訳か彼女と出会えない時があるのは、龍麻の方こそ誰かに聞いてみたかった。
 だが今日はとにかく上手く彼女に見つけてもらえたので、
教室に入る前に出会えた幸運を噛み締めながら、龍麻は葵に話しかけようとする。
しかし、幸運を管理する守護天使は、どうやらそこまで甘くはないようだった。
「あの」
「美里先輩、おはようございますッ」
「えっと」
「葵、おはよう」
 控えめに口を開くたび、どこからか彼女に挨拶する声が割って入り、ささやかな望みを阻む。
龍麻は彼女に向けて声を出すだけで多大な勇気を消費してしまうので、その都度一からやり直しになり、
結局意味のない言葉を五つほど並べた所で学校に着いてしまった。
少し長めの髪を掻き回し、失意を靴箱の中に押しこめる。
すると葵が怪訝そうな顔をして訊ねてきた。
「どうしたの?」
「あ……いや、今日は数学があるから」
 口からでまかせを──まるきりそうだと言うわけでもないが──言うと、葵は小さく笑う。
その笑顔を見られたことで、今朝の収支はややプラスだったと納得した龍麻だった。

 教室に入ってしまうと、龍麻が葵と話す機会はほとんどなくなる。
気恥ずかしいというのもあるし、葵はもちろんのこと、龍麻もこれで男女問わず中々人気があるので
休み時間になっても大抵誰かに呼ばれ、捕まってしまうというのもその理由のひとつだ。
だから龍麻は放課後が待ち遠しかった──明日から特別な四日間が始まる今日などは特に。
 いつもは大抵寝ている午後の授業も集中して受けていた龍麻は、
HRホームルームに担任が最終確認をするのを黙って聞いていた。
「それでは、今日はこれで終わります。まさかとは思いますが、明日は特に遅刻しないように」
 龍麻のクラスの担任であるマリア・アルカードが特に念を押しているのは、
明日から三年生は修学旅行であり、遅刻すると旅行に参加出来なくなってしまうからだ。
しかし彼女の、生徒達を案じての台詞も届いているかは怪しい。
級友達と宿泊し、二十四時間行動を共にするというイベントが、
一種異様な興奮に彼らを頭のてっぺんまで漬けこんでいたのだ。
 もう一度注意を喚起しようとしたマリアは、それが無駄であることに気付き、
小さく首を振って教室から出ていった。
何にせよ、彼らはもう十八歳であるのだし、最低限の常識はわきまえているはずだ──
そう期待するしかなかった。
「おーおー、皆浮かれてんな。京都なんて中学の時にも行ったろうによ」
 マリアが出ていって興奮ボルテージも高まる一方の教室を横切り、蓬莱寺京一が呟く。
どんな教室、どんな集団にもこの手の斜に構える人間が一人はいるもので、
真神学園三年C組ではこの男がその役割を担当しているようだった。
 教室を見まわし、軽く肩をすくめた京一は一人の級友の席の前に立つ。
彼は珍しく寝ておらず、楽しそうに修学旅行のしおりをめくっていた。
「なんだ、もしかしてお前も楽しみなクチかよ、龍麻」
 京一が訊ねると、龍麻は無言で顔を上げる。
骨太と繊細のちょうど中間に位置する骨格に乗る眉目はまず整っていると言ってよい。
事実女子生徒から良く話しかけられ、交際を申し込まれたりもしているようで、
京一も一緒に帰っている途中、何度かそういう場面に出くわしている。
彼がこの春に転校してきた頃は、ナンパに付き合ったりもしてくれたのだから、
女性に興味がないという訳でもなさそうなのに、何に義理立てしているのか、
彼が首を縦に振ったのを見たことはない。
──いや、京一は理由を知っている。
龍麻は、彼が転校してきた時隣に座っていた女性に義理立て、
はっきり言ってしまえば惚れているのだった。
真神学園を代表する美女であり、テストでは常に上位五位から落ちたことはない、
才色兼備という言葉の生きた見本。
申しこまれた交際の数は両手では足りず、ラブレターは両足でも追いつかない、
美里葵という名の女生徒に、
京一が今や醍醐に次ぐ信頼と醍醐に勝る友情を抱いている男は恐れ多くも恋心を抱いているのだった。
もっとも、龍麻の転校当初は玉砕を期待して二人の仲をけしかけようとした京一も、
なんと堅牢鉄壁と思われたその聖女マドンナがまんざらでもないらしいと気付いてからは
余計なことはせず傍観している。
するとまた二人が亀もあくびをするようなまだるっこしさでしか近寄ろうとせず、
微笑ましさを感じながらも苛立ってしまうのだった。
 とにかく、今その、世の中の三割くらいの女性には格好良いと言ってもらえそうな好男子の顔には、
子供か、あるいは子犬のような、呆れるほどの喜色が浮かんでいた。
「いいねェ、キミは楽しそうで」
 皮肉をたっぷり乗せて言っても、龍麻はそれも届かないほど浮かれていた。
処置無し、と京一が肩をすくめると、やはり龍麻の所にやって来た醍醐雄矢が真顔で言った。
「なんだ、お前は行きたくないのか」
「そうじゃねェけどよ」
 からかっただけだ──と説明するのも面倒くさく、京一は言葉を濁す。
今年の春に転校してきた龍麻と異なり、
一年生の時から友人であるこの男は妙に冗談が通じないところがあり、
時折京一を辟易させることがあるのだ。
おまけに龍麻に肩入れすること、もしかしたら自分以上であるかもしれない。
もう少し龍麻をからかって遊ぼうとした京一だったが不利を感じ、
肌身離さず持っている木刀の切っ先を揺らして話題を変えた。
「そういやよ、班分けってどうなってんだよ」
「お前は何にも聞いてないのか……俺とお前、それに緋勇、桜井、美里だ」
「なんだ、それじゃいつもと同じじゃねェか」
 いつもと同じ──その言葉には、意味以上の重みがあった。
春に龍麻が転校してきて以来、数多くの事件を解決する為に東京中を駆け回った彼ら五人は、
いつしか普通の友人、あるいは親友という絆以上のものをお互いに感じていたのだ。
だから京一は決して本気で言った訳ではなく、どんなに美味いラーメンでも、
毎日三食食べ続けては飽きもする、といった程度のものだ。
 しかし、三食どころかおやつもラーメンでも構わない人間がここにいた。
「文句あるってワケ? ねぇ、ひーちゃん」
 挑戦的な、しかしそれ以上に生気にあふれた声でそう言ったのは、桜井小蒔だ。
その隣には葵もおり、「いつもの五人」が揃う。
 笑って頷いた龍麻に、小さく鼻を鳴らした京一がそっぽを向くと、小蒔は腕を組んでしみじみと呟いた。
「でも葵も大変だよね、こんな時まで班長だなんて」
「別に、いつもと同じだと思えばどうってこともないわ」
 葵はあまりに穏やかに言ってのけたので、誰も皮肉を言われていると気づかなかった。
龍麻だけがわずかに目を動かして彼女を見たが、もちろん彼女の機嫌を損ねそうなことは言わない。
知らないことは幸福というべきか、
小蒔はすっきりとした線を有する、どちらかといえば男子よりも後輩の女子に人気がある顔立ちを、
思いきり緩めて友人達に提案した。
「ところでさ、食欲の秋ってコトで、ラーメン食べに行かない?」
「お前は年中食欲の季節じゃねェか」
 早速混ぜっ返す京一に、小蒔の頬はりすのように膨らむ。
きっと食事時にはたくさんの食べ物を貯め込むことが出来るのだろう、と龍麻は内心で思った。
「うるさいな、そんなコト言って京一も行くんだろッ?」
「俺が行かなきゃ始まらねェだろうが」
「どうだか。──で、皆も行くんだよね」
 小蒔が腰に両手を当てて見渡すと、結局反対する者は誰もおらず、
それどころか、どこからともなく賛成する者が一人やって来た。
「それじゃ、行きましょうか」
「ア、アン子……」
「で、どこ行くの?」
 当然のように輪の中に入り、龍麻達をきょろきょろと見渡すのは、
真神学園新聞部部長、遠野杏子、通称アン子だった。
部、と言っても部員は彼女一人であるが、彼女の書く記事は学園内の出来事に留まらず、
その新聞の質は極めて高い。
ただし記者という性癖・・の為せる業か、とにかくめったやたらに首を突っ込み、
当事者を引っかき回すところがあるので、いつも必ずしも歓迎されるというわけでもなかった。
 今もそうで、京一と小蒔は露骨に迷惑そうな顔をしている。
ただ、その迷惑ぶりは、龍麻には少し大げさ過ぎるようにも思えるのだった。
「なんでC組ここに来んだよ。お前はB組となりだろ」
「うるさいわね、何処にいようとあたしの勝手でしょ」
 京一は嫌味を言ったが、
こんな程度では取材で培われた彼女の図太さには傷一つつけることは出来ない。
すると居場所を確保する彼女に押しやられた小蒔が代わって言った。
「でもアン子、今日は修学旅行の撮影班の準備で早く帰るって」
「ああ、それ? 昨日のうちに終わらせておいたから」
 流石に敏腕をもって鳴る新聞部部長と言うべきか、杏子は京一とは随分人種が違うようであった。
ちなみにこの時点で京一は、まだ鞄すら用意していない。
泊まりといっても男の服などたかが知れているから、
多分寝る間際に適当に詰め込んで終わりにするのだろう。
 二人の攻撃を軽く撃退した杏子は、いよいよ根を張り、
この輪の中心人物に対して眼鏡を光らせた。
「で、どこ行くの……って言っても、どうせラーメン屋でしょ。
久しぶりに話も聞きたいからあたしも連れてってよ」
「別にいいよ」
 決してないがしろにしていた訳ではないにせよ、
確かにここのところ彼女から情報だけを受け取って、
こちらからは彼女の飯の種になるようなことは話していなかったから、龍麻は鷹揚に頷いた。
 しおりをしまい、四日ほど行けなくなるラーメン屋にしばしの別れを告げに立ちあがる。
馴染みのラーメン屋がいくら良心的な価格であり、毎日通っても飽きない味といっても、
高校生の財力では一週間に一度、多くても月に五度が限界であり、
四日程度では実はそれほど影響がない。
 だから龍麻がしばらく行けなくて寂しいと思ったのはむしろ気分によるものだったが、
今日は大盛りで行こう、などと考えていた彼の耳に、いきなり大声が轟いた。
「アッ!!」
「な、何よ急に大声出して」
 驚いて大声を出した、というより大声を出す為に驚いたような小蒔の声は、
龍麻のみならず、彼女の隣にいた杏子をも思わずたじろがせた。
小蒔はそんな彼女の腕を取り、強引に引っ張っていく。
「ボク、すっごく大事な用を思い出しちゃった。アン子お願い、ちょっとだけ付き合って」
「な、何よ、ちょっと、解ったから引っ張んないでってば」
「ゴメン皆、先に行ってて」
 騒がしく二人が消えると、辺りは急に静かになった。
狐につままれたような表情で、葵が呟く。
「小蒔ったら……どうしたのかしら」
「アイツのこった、どうせ大した用事じゃねェだろ。それより腹減った、さっさと行こうぜ」
 京一の態度はいつもと同じに見えて、どこかかしている節があった。
それを感じ取ったのは龍麻だが、自分で言う通り腹が減っているのだろう、
と深く考えることはなかった。
明日のこととラーメンのこと、それに葵に何と話しかけて会話の糸口を掴むかで頭が一杯だったのだ。
 四人になった一行は教室を出る。
先頭にいた京一が階段へと続く廊下を曲がると、いきなり目の前に小柄な女生徒が立っていた。
「ど〜こ〜い〜く〜の〜?」
「う、うわぁッ、出やがったッ!!」
 仰け反ってバランスを崩し、龍麻に支えられる京一に、女生徒は口許をにたりと笑う形に変形させる。
こちら側から全く目が覗えない不思議な眼鏡をかけている少女は、裏密ミサと言った。
龍麻の隣のクラス、つまり杏子と同じB組の生徒で、
オカルト研究会という妖しげな同好会の部長を務めている。
しかし彼女の知識は単なる趣味の域を越え、
特に占いは的中率が高いとのことで部室にはひっきりなしに女生徒が訪れるという。
龍麻達も幾度か彼女の力に助けられ、信頼は篤い。
ただし見てくれにはほとんど構わない──どういう原理によるものか、
こちらからは全く彼女の目が見えない眼鏡を普段はかけているのがその一例だ──
のと、オカルトという彼女の趣味それ自体によって、京一と醍醐には煙たがられている。
「どうしたの裏密さん、こんなところで」
 偶然、というより彼女が自分達を待っていたように思えて、龍麻はそう訊ねた。
「うふふふふ〜、神聖なる形成界イェツィラーの彼方より〜、緋勇く〜んを救うために〜」
「救う……って、裏密さん、それどういうこと」
「うふふふふ〜、我が鏡占いカトプトロマンシーに、見抜けぬものはない〜」
 また何か危険が迫っているのだろうか。
ミサの占いの力を決して軽視してはいない葵は、不安を眉によぎらせて龍麻を見た。
 なにしろつい先日まで、
龍麻や自分はおよそ普通の高校生では体験しえない危険な闘いに身を投じていたのだ。
その脅威は去ったといえども、記憶はまだ鮮明に残っている。
葵の心配も当然といえた。
 葵の眼差しを受けた龍麻も心当たりがある訳ではなく、詳しく訊こうとミサを見る。
しかしその前に、珍しく醍醐が反応した。
「う……裏密。お、お前に、うら……占って欲しいことが、あるん、だ……が……」
 声は明らかに震えており、ろれつも回っていない。
何より言っていることが全くピント外れであり、龍麻は額に深いしわを刻んで友人を見た。
しかし醍醐は露骨に目を逸らし、龍麻の疑惑に答えようとはしない。
「醍醐……お前ってヤツは」
 するといたく感動した様子で、京一が言った。
醍醐は体躯にふさわしい力強い眉に哀愁を漂わせて答える。
「何も言ってくれるな、京一」
 意外過ぎる依頼を受けたミサは龍麻と醍醐を等分に見比べた後、
京一に言わせると邪悪としか形容の出来ない笑みを湛えた。
「醍醐くんが〜? ……それはそれで、面白そうね〜。それじゃあ〜、霊研に行きましょうか〜」
「お……おう」
「じゃあな、醍醐。俺はてめェという友がいたことを忘れねェぜ」
 大げさに手を振る京一に、醍醐の背中は無言だった。
 本人達は満足しているようであったが、
三文芝居にしか見えない寸劇を見せられた観客はたまらず役者に訊ねた。
「ねぇ京一くん、やっぱり変よ。一体どうしたの」
「べッ、別になんでもねェよ、きっと。それよか早く行こうぜ」
 明らかにおかしい友人達の態度に、葵は何か知っていないかと龍麻を見る。
実際に何も知らない龍麻は、共犯者と思われてはたまらないと首と両手を忙しく振るしかなかった。



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