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友人達に対する葵の不審は、校門に着くに至っていよいよ動かしがたいものになった。
一人減り二人減り不自然に離脱していく中、遂に京一までもが去っていこうとしたのだ。
「ッと、いっけねぇ。忘れ物してきちまった」
「忘れ物って、何を?」
「何って……え、英語の教科書を」
「明日から修学旅行なのに」
「いッ、いやほら、勉学の秋って言うじゃねェか。
修学旅行の前だからって浮かれちゃいけねェというか」
「……」
葵は普段、決して京一を馬鹿にしている訳ではない。
しかし彼は勉強が大嫌いだということを知っており、
三年生になってから全てのテストで一教科以上は赤点を取り、補習を受けていることも知っている。
その彼が修学旅行の前日に勉強するなど、絶対にないとは言わないまでも
醍醐が小蒔に告白するくらいは可能性の低いことだった。
半分ほど瞼を伏せ、疑惑を浮かべる葵の顔は、滅多に見られない貴重なものだ。
そんな表情ですらも彼女には愁いを帯びた美しさがあったが、京一は白々しくあらぬ方を見渡した後、
うさんくさく後ずさりして、挙げ句勢い良く方向転換して走り出してしまった。
「と、とにかくそういうワケだからよ、先に行っててくれよ」
「あ、京一くん」
あっという間に見えなくなった京一に、龍麻は葵に気付かれないよう舌打ちする。
「……あいつら……」
事ここに至って、ようやく彼らの意図に気付いたのだ。
何のつもりかは知らないが、京一達は自分達を二人にする為に下手な芝居を打ったのだ。
自分達以外に誰もいなくなったことで葵も彼らの目的を知り、困ったように俯いている。
龍麻は既に、葵に対する自分の気持ちをはっきりさせている。
ただ、彼女の気持ちは解らない──なんとなく、本当になんとなく、
好意を持っていてくれるのではないかという気はする──あくまでもなんとなく。
だから、すぐに想いを告げようというつもりもないので、
彼らの配慮は今の龍麻にとってはありがた迷惑だった。
葵が細い眉を軽くひそめていることでその気持ちは更に強まり、
龍麻は自分がこの稚拙な計画の首謀者だと思われているのではないかという被害妄想で、
穴に入りたい気分になった。
そんな龍麻が叱られた子犬のような表情で葵を見ると、彼女は決然として言った。
「行きましょう、龍麻くん」
「え?」
「だって、ちょっと悔しいじゃない。だから、このまま引っかかったって思わせて」
「なるほど」
龍麻は頷いたものの、それは普段の葵の発想とは少し違うのではないか、という気もしていた。
ただし葵と二人で帰ることには賛成なので、その考えを口にしたりはしない。
何か彼らの思惑からはニ周くらいしてしまった気もするが、
とにかく龍麻は葵と肩を並べて歩き始めたのだった。
新宿の街を、二人は歩く。
新宿は世界でも屈指の大都市である東京の中枢に位置する街であり、
自然とは縁遠い場所であるが、吹く風は柔らかく肌を撫でるものから、
皮膚に突き刺さるようなものに変わる寸前で、彼らに季節を感じさせるものだった。
「京都はもう、紅葉が始まっているかしら」
「うーん……始まってると思うけど」
龍麻は花すら興味がないので、紅葉など考えたこともない。
ただ、葵をがっかりさせないようにと気を遣って答えたのだが、
彼女はその必要もないほど楽しそうだった。
「私ね、中学校の時も京都だったの。龍麻くんは?」
「俺も京都だったよ」
「そう……それじゃ、もしかしたら向こうですれ違っていたかもね」
「そうかもね」
答えながら、龍麻はそんなことは無いだろうと思っていた。
もし葵を一度でも見ていたなら、その印象は深く刻み込まれているはずだからだ。
彼女は中学生の時も、この髪型だったのだろうか──
中学の時は今よりもずっと髪が短かった龍麻は、ふとそんなことを考えていた。
それを訊ねる勇気は、まだない。
それともまだ、ではなくずっと、かもしれない。
自嘲めいた気持ちで脇に抱えた鞄を持ちなおし、
龍麻が葵の、背中を覆う髪をそっと見ると、急に彼女が足を止めた。
気づかれてしまったのか、と肝を冷やした龍麻だったが、そうではないらしかった。
葵の視線は前方に固定され、何かを見ているようだ。
龍麻もそれに倣って顔を前に向けると、二人の女性が手を繋いで歩いていた。
茶色い豊かな巻き毛と、そのずっと下にある濃い金色の髪。
一見異質な組み合わせの彼女達も、龍麻の知り合いだった。
「あら、高見沢さんとマリィだわ」
頷いた龍麻が手を振ると、気づいた二人も大きく手を振り返す。
「あ、緋勇く〜んッ」
「アオイオ姉チャンッ! それに、タツマオ兄チャンも」
二人は新宿にある桜ヶ丘中央病院の見習い看護婦である高見沢舞子と、
その病院に通う、今は美里家の養女となっているマリィ・クレアだった。
舞子とは春先に、マリィとはつい先日知り合っている。
龍麻の許に小走りでやってきた二人は、違う高さから同じ種類の笑顔を浮かべていた。
「こんにちは、マリィ。今から病院?」
「……ウン」
マリィの顔が曇ったのは、病院で注射をされるからだ。
以前いたローゼンクロイツ学院で投与されていた、
成長を抑制するという薬物の影響を和らげていくためにどうしても必要な処置だとかで、
週に二度は病院に行っているらしい。
彼女が注射をされなければならない原因を思うとかわいそうだ、
と同情を禁じえないながらも、注射を嫌がる彼女に少し微笑ましさをも感じる龍麻だった。
「でも、マリィちゃんは絶対泣かないもんね〜」
「ウン、マリィ、ガマンできるもの」
「そっか……えらいな、マリィは」
龍麻が頭を撫でると、マリィは嬉しそうに顔を綻(ばせた。
そばかすのある顔は子供から少女への変化を、ほんの兆しだけ覗かせている。
薬の影響が消えて大人になったら、きっと美人になる──
彼女を見ていると、龍麻はそんな親ばかのような心境になるのだった。
マリィに微笑んだ龍麻は、ふと疑問を抱き、それを口にした。
「でも、なんで高見沢さんが一緒なの」
「マリィをね、家まで迎えに来てくれるのよ」
答えてくれたのは葵だった。
すると舞子が、邪気のない、朗らかな笑みで応じる。
「看護学校の帰り道に寄ってるだけだも〜ん」
「でも、高見沢さんのおかげで本当に助かってるの」
幼い頃に両親に捨てられ、その後は親とは名ばかりのジルという男に引き取られて異国に
やって来たマリィは、学園から出されることもあまりなかったので、外の世界をほとんど知らない。
日本語もぎこちなく、身元を証明するものも未だないマリィが一人で出歩くのは大変なことであり、
舞子は謙遜したが、葵は彼女に感謝してもしきれないくらいだった。
穏やかに会話を交わす二人に、口を挟みこそしなかったものの龍麻は同じくらい穏やかに聞いている。
すると制服の裾が引っ張られた。
「ね、オ兄チャン、明日カラ旅行なんでしょ? いいな」
葵から聞いたのだろう、マリィが心底羨ましそうに見上げていた。
彼女の腕の中にいる黒猫は、退屈そうにあくびをしている。
マリィの考えが解るらしい──表情を見ていると、そうとしか思えないこの猫は、
どうも彼女に近づく人間を厳しくチェックしているらしかった。
その基準がどこにあるのかは良く判らないが、
京一と醍醐は一度毛を逆立てたこの猫に怒られたことがあるのを見ている。
龍麻はどうやら関門をくぐり抜けたらしいのだが、
それでもこの猫が低く喉を鳴らすとつい身構えてしまうのだった。
今はどうやら機嫌が悪いわけではなさそうで、安心した龍麻はマリィと目線を合わせる。
するとメフィストという名の黒猫は、彼女の腕から脱出し、頭の上へと乗った。
上から見下ろし、何かあればすぐにでも飛びかかろうという姿勢だ。
あまり彼の方は見ないようにして、龍麻はマリィに答えた。
「マリィもそのうち行けるよ」
「でも、マリィオ兄チャン達と行きたいの」
「旅行って……修学旅行〜?」
関心を示した舞子に応じる。
「うん、京都に」
「いいなァ〜、舞子も行きた〜い。ね、おみやげ買ってきてねェ〜」
「オミ……ヤゲ? What?」
まだなんとか日常会話がこなせる程度のマリィの日本語力では、知らない言葉のようだった。
確か習った覚えがある、と龍麻は記憶を急いで掘り起こす。
「あ……っと、souvenir……でいいのかな」
「Really? いいな、舞子オ姉チャン」
「もちろんマリィにも買ってくるよ」
「いいの? ……ありがとう、オ兄チャンッ!」
喜び、跳ねるマリィの頭の上で、メフィストが迷惑そうに目を細めている。
自然に笑いを誘われた龍麻と葵は、期せずして視線を交わし合った。
「マイコオ姉チャン、ソロソロ行かないと」
「あッ、うん。センセ〜に怒られちゃうね〜。行こ、マリィちゃん」
「Bye、オ兄チャンッ! オミヤゲ、忘れないでねッ」
何度も振り返りながら大きく手を振るマリィに、龍麻と葵もずっと応えていたが、
姿が見えなくなると再び歩き出した。
あまり早くラーメン屋に行ってしまうのも面白くない、
ということで意見が一致した二人は、もう少しだけ遠回りする。
新宿の駅前を歩いていると、葵が急に訊ねた。
「ね、龍麻くん。前の学校に……好きな人っていたの」
「え?」
龍麻がすぐに答えなかったのは、嫌がらせをした訳ではない。
雑踏が賑やかで完全には聞き取れなかったのもあるし、
あまりにも突然そんなことを聞かれたので、本当に彼女が言ったのかと疑いもする。
しかし何より、それが自分達にとって極めて重要な質問だと、
頭のどこかでブザーが鳴ったからだった。
「ご、ごめんなさい、なんでもないの、変なこと聞いちゃって」
半分ほど口を開いて、そこで止めた龍麻に、葵は慌てふためいている。
血色の良い頬は、暖かいとはいえ秋の陽射しの中でも赤らんで見えた。
「わ、私はただ、龍麻くんのこと、もう少し知りたくて」
自分でも何を言っているか解っていないのだろう、混乱しきっている彼女に、
龍麻は以前から聞いてみたいことがあったのを思い出した。
素早く乾いた唇を舐め、落ち着いて声を出す。
「それじゃさ、俺もひとつ聞いていいかな。それでおあいこ」
「え? ……ええ」
「夏にさ、買い物行った時があったよね。桜井さんの弟さんの誕生日プレゼント買いに」
「ええ」
「その時に、俺が美里さんに子供の頃何して遊んだの……って聞いたの、覚えてる?」
「……ええ」
葵の瞳に諒解の輝きが満ちたが、すぐにその彩(は別の色に変わる。
まだ時期尚早だったか、と焦る龍麻に、葵は恐ろしく真剣な表情で言った。
「笑わない?」
「うん」
何事が語られるのかと緊張し、顔の筋肉を強張らせる龍麻に、
葵は美しい淡紅色の唇から口早に答えを紡ぎ出す。
「……ぬいぐるみが、あるの。
小さい頃に買ってもらったぬいぐるみなんだけど、それを今も持ってて」
教えてくれるのだから大した秘密ではないのだろうと思っていた龍麻だったが、
これは正直なところ随分と拍子抜けしてしまうものだった。
秘密そのものよりも、それをさも重要なものであるとする女の子の心理が解らなくて、
龍麻はつい意地悪く訊ねてしまった。
「……もしかして、今でも抱いて寝たりしてる?」
葵の顔が一気に赤くなる。
それはきっと、京都の紅葉よりも美しい色に違いなかった。
「し、してないわ、してないわよそんなこと」
落ちついた物腰、というのも間違いなく彼女の魅力のひとつであったが、
こうして動揺を露にする彼女はたまらなく可愛らしかった。
「どうかな」
「もう」
葵は鞄で叩くまねをする。
それを軽くかわした龍麻は、軽やかになった心に任せて口を開いた。
「いないよ」
「え?」
「いなかったよ、好きな人は」
過去形で答え、龍麻は踊るように雑踏のなかを擦りぬけていく。
その後ろを追いかける葵の顔は相変わらず赤く、通行人の幾人かが振り向いたほどだったが、
葵の瞳には、ただ黒く、大きな背中だけが映っていた。
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