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「あら? 誰もいないの」
その声に、龍麻の心臓が勢い良く跳ねた。
思わず隠れようとした龍麻だったが、余計怪しまれるだけなので、意を決して正座する。
入ってきた葵は当然と言うべきか、部屋にいる龍麻の姿を見てそのまま固まってしまった。
「た、龍麻くん」
「や……やぁ」
「ど、どうして私達の部屋に」
葵は大きめのTシャツに黒いハーフパンツで、普段の彼女の服装とは全く異なった印象を与えた。
しかし服装をつぶさに観察するより前に、龍麻にはしなければならないことがある。
「え、えっと、桜井さんに遊びにおいでよって呼ばれてさ、
桜井さんは今、皆を呼びに行ってる。すぐ来ると思うんだけど」
「そ……そう」
龍麻が堂々としていることに安心したのか、葵は逡巡する表情を見せたものの、彼の前に座った。
葵はこの時既に、親友が昨日に引き続いて罠をしかけたことに気づいている。
いや、部屋で別の女生徒が待っていると言われて戻ってみればいたのは龍麻なのだから、
気づかないほうがどうかしている。
龍麻を追い出すか、あるいは自分が出て行くか、
選択肢はいくつか脳裏に浮かんだが、そのいずれもを葵は捨てた。
小蒔の仕掛けに乗ってやろうという気分も少しはあったし、
長躯を縮めて正座している龍麻を見て微笑ましさを覚えたのもあった。
更には、修学旅行という非日常が、普段と変わらないと自分では思っている葵の心を、
わずかながら浮き立たせていたのかもしれない。
とにかく今大事なのは、葵は龍麻の前に座り、龍麻がおそるおそる顔を上げた──という事実だった。
「……」
「……」
鹿威しでも鳴りそうな沈黙が流れる。
このままでは埒が開かない、でもいい話題が──必死に龍麻が思考を探っていると、
もしかしたら賽銭の御利益か、とっておきの話題が一つ、脳裏に燦然(と輝いた。
「お、お弁当ありがとう」
確かにそれは今この瞬間、最も適切な言葉の連なりだった。
少し顔を曇らせていた葵は、いかにも嬉しそうに、そして恥ずかしげに頷いた。
「ううん、いいの。……美味しかった?」
「あ、ああ、桜井さんと京一に半分くらい食べられちゃったけど」
あれはまさしく断腸の思いだった。
葵の手弁当はまさに絶品で、その一品一品に込められた想いを抜きにしてもとても美味だったのだ。
食べきってしまうのがもったいなく思えたが、そうしなければ小蒔と京一が虎視眈々と狙っていたので、
やむを得ず次善の策として米の一粒まで胃袋に収めたのだった。
「そう……良かった。お弁当作るの初めてだったから、上手く作れたか不安で」
恥ずかしそうに笑顔を浮かべる葵に、龍麻は拳を固める。
初めて──どんなことであれ、女性が男性の為に初めて何かをする、というのは格別だ。
ましてそれが想いを寄せている女性であり、その女性が料理を作ってくれたとあれば、
龍麻が舞いあがってしまうのも無理はなかった。
だが、そこで無駄に力んでしまったことが、思ってもいなかった台詞を龍麻に口走らせた。
「あの」
「は、はいっ」
「あの……春からいろんなことがあったけどさ」
いろんなこと、と言った中に、四月から今まで、夜を明かしても語りきれないほど多くのことがあった。
出会い、目醒め、闘い、護る。
その、普通の高校生とはかけ離れた日々の中で育まれた想いのひとつが、今、芽吹こうとしていた。
「俺、美里さんと……出会えて良かったって思ってる」
「……」
葵は呼吸を止めた。
伝わってくる彼の緊張は、わずかに身じろぎしただけでも粉々に砕けてしまいそうで、
そうなったら彼は、葵が望んでいる言葉を発してはくれなくなるだろうから。
「辛いこともあったけど、でも、美里さんがいるから頑張ろう、って思えたし、
いつも……闘ってこれたんだ。嘘じゃない、だから」
龍麻はこういう時の為の台詞を考えていなかった訳ではない。
むしろ、紙に書いたりこそしなかったものの、随分と真剣に考えていたといってよかった。
だが、世の大半の男と同じようにいざその時を迎えると、散々偉そうに選んでいた言葉の数々が、
どれも自分の気持ちを伝えるには不充分に思えてしまい、
結果支離滅裂なことしか言えなくなってしまっていた。
「だから、闘いは終わったけど、こ、これからも一緒に……良かったら……その、皆と一緒に……
たまには二人で……過ごせたらいいな、って……」
それは告白というには程遠く、
しかも言っている当人の口の中で半分以上はごにょごにょと消化されてしまったので、
理解するには相当の受信力を必要とする単語の羅列だった。
そして葵は、龍麻に関する限り、類い稀なる受信力の持ち主だった。
「……そうね」
「本当ッ!?」
それまでの頼りない声から一転、龍麻の声は裏返り、奇天烈な響きを帯びている。
その迫力に押されたのか、葵はどもりながらもはっきりと答えた。
「え……あ……その……ええ……そう……思ってる……わ……」
何秒かの間、龍麻の心臓は止まっていたか、少なくとも何拍かは飛ばしてしまっていたようだった。
呼吸が乱れ、息苦しいのを無視して葵を見つめる。
まともに受けたら燃やされてしまいそうなその視線を、
葵は俯いて避けていたが、ちらりとだけ顔を上げた。
「……」
その一瞬を見逃さず、龍麻の瞳が動く。
深く、吸いこまれそうな黒い、今はその中で焔が渦巻いている眸は、
葵に今飛びこんでしまっても良いと思わせるものだったが、
これまで彼女を優等生として支えてきた理性がこの時は邪魔をした。
「こ、小蒔達遅いわね」
その声に龍麻は残念がったようであり、安堵したようでもあった。
熱気が明らかに冷めていき、部屋に満ちていた異様な緊張が薄れていく。
勇気を出して手弁当を渡した礼がこれでは、という気もしないでもないが、
龍麻らしい、とも思う葵だった。
葵が色々な未整理の感情を、ぎこちない笑いに込めると、
龍麻もそれを十倍ほどぎこちなくした同じ表情で応える。
もう少し発展を、と思ったのは二人ともであるが、動いたのも二人同時だった。
「そ、そうだね、様子見に行こ……うわっ」
慣れない正座と極度の緊張が、龍麻の膝から下をそれはもうびりびりに痺れさせていた。
その痺れ具合ときたら、感覚を失っていることにも気づかないほどで、
立ちあがった瞬間にそれと知った龍麻だったが、時既に遅く、
膝を畳についた姿勢からそのまま前につんのめってしまった。
「きゃっ」
龍麻が手を伸ばしたのは、自分の身体を支える為に他ならない。
しかし運悪くと言うべきか、彼の前方には葵がいた。
大きくバランスを崩した龍麻をとっさに支えようとした葵は、
自分に向かって伸びてくる腕に小突かれる格好になり、もつれて倒されてしまう。
倒れるまでの一秒にも満たない間に、二人が何を考えたのかは永遠の謎だが、
最終的に二人は、龍麻が上になって寝ていた。
もしかしたら、見ようによっては、龍麻が葵を押し倒したように見えるかもしれない。
息のかかるほどの距離で思いがけずお互いを見た二人は、そのまま見つめ合った。
なんだこりゃ、どうすりゃいいんだ──
ごわごわになった足の痺れもどこへやら、龍麻の鼓動は第二楽章へ突入していた。
主題は情熱的に、そして力強く。
派手に鳴り響く心臓(に促され、
髪の毛一本分ほど龍麻が顔を下方に移動させると、葵は──
「こらひーちゃんッ! それはやりすぎッ!!」
第三楽章は一瞬の静、そして動へ。
襖を蹴倒すように入ってきた小蒔に、龍麻はあと数センチで達成された願望から光の速さで遠ざかった。
瞼を閉じかけていた葵も慌てて起き、胸元を意味もなく押さえる。
「さ、桜井さんッ、違う、これは全然違う」
龍麻は弁解に必死で、小蒔が異様な早さで現れたことに不審を抱く余裕さえなかった。
足の痺れも最高潮に達し、四つんばいの姿勢で弁解の歌を歌う。
この演奏会における指揮者である小蒔は、どう龍麻と葵に自分の思い通りの曲を演奏させるか
考えを巡らせたが、ここで彼女も予想していなかったアドリブが入った。
「居ますか?」
部屋の扉を叩く音は、ややゆっくり(で。
突然の場面の転換は、指揮者までもを狂想曲に巻きこむものだった。
「やばい、マリアせんせーだッ!」
「ど、どうしよう」
いくら葵が信任篤いクラス委員長といえども、
不純異性交友を見逃してくれるほどマリアは甘くない。
ましてや女子の部屋に龍麻がいる状態では、誰がどう見ても厳罰の対象でしかなかった。
そして部屋の中にいる人間は、皆同罪なのも自明だ。
ここは何としてもごまかし通さねばならなかった。
「とりあえずこれ被ってッ!!」
焦った小蒔は押し入れから手当たり次第に布団を取り出して部屋に撒き散らかす。
龍麻と、何故か隠れる必要のない葵までもが、急いで布団の海の中に身を沈めた。
暗く、狭い空間の中で、龍麻の心臓は破裂寸前の悲鳴をあげる。
肩が軽く触れている葵から、甘く清潔な香りが漂ってくる。
嗅いでしまうとまた危険な情動が目覚めてしまう香りを、龍麻は吸わないように努力せねばならなかった。
更に手の置き所にも困り、半ばやけになりながら彼女の身体の向こう側に置いた。
「……!!」
葵が身を強張らせるのが伝わってくる。
それも当然で、今や龍麻の身体は半分ほどが彼女と重なっていたのだ。
龍麻にしてみれば決して悪気はないのだが、出来る限り身を低くしなければならないので、
自然と密着度は上がる。
葵もここで暴れたら大変なことになると判っているからか、おとなしくしてくれていた。
息を止め、彼女の香りを嗅がないように、
そして身体の余計なところにも血が行かないようにしている龍麻は軽い酸欠状態に陥る。
すると何故か、いやに身体のあちこちに触れている葵の感触がくっきりと伝わってきて、
ますます龍麻を追いこむのだった。
思いがけず彼の胸板に押しつけられた葵は、あまりの急展開にすっかり動転していた。
何故こんなことになったのかと、彼女らしく順を追って原因を辿ってみる。
ノックが聞こえて、小蒔に怒られて、龍麻に押し倒されて、その前は……
そこまで思い出して、葵は心臓が大きく脈打つ音を聞いた。
龍麻に……龍麻に、告白されて……
そして記憶のフィルムは一気に今へと巻き戻る。
とっさに龍麻の身体との間に挟みこんでしまった手から、鼓動が伝わってくる。
大きく、早い鼓動は葵の心の外壁を激しく打ち鳴らし、今のこの状態が嫌ではないと主張してきた。
こんな場合だから、仕方ない──
龍麻の服を掴む手は、ごく弱く(で。
龍麻と葵が密着している間にも、小蒔は孤軍奮闘しなければならない。
布団をとにかく広げ、龍麻の長身がどうにか隠れたと確認して彼らの前に座ると、
実にきわどいタイミングでマリアが入ってきた。
「なんですか、この状態は」
「エヘヘ、布団敷こうとしたら全部落っこってきちゃって」
とても上手な言い訳とはいえなかったが、善良なマリアは教え子の言い分を信じたようだった。
「しょうがないわね。ところで美里サンは? ちょっと用があるのだけど」
名を呼ばれ、葵の身がすくむ。
密着している肌からそれが伝わってきて、龍麻の血流はいよいよ沸騰せんばかりだ。
「え? あ、葵ですか? さぁ……おみやげでも買いに行ってるんじゃ」
輪をかけて下手な言い訳にも、マリアは疑いの色をみせなかった。
これが女子の部屋、それもクラス委員長の部屋であることも助けになったかもしれない。
とにかくマリアは小さなため息をついただけで、その蒼氷色の瞳の輝きを強めはしなかった。
「そう……わかりました。それじゃ、美里サンに会ったらワタシの所に来るよう伝えておいて」
「はーい」
どうやらこの場はやり過ごせそうだと小蒔は胸を撫で下ろしかける。
「それから」
「は、はイッ」
そこに不意打ちをかけられ、小蒔はしゃっくりのような変な返事をしてしまった。
怪訝そうな顔をしたマリアだが、もうそれについて訊ねはしなかった。
「布団はきちんと敷きなおしなさい。いいですね」
マリアが去っていっても、部屋の中の気配はぴくりとも動かない。
そのままニ分ほどが過ぎて、ようやく小蒔が大きく息を吐き出した。
「ふう……危なかった」
なかなかのスリルを味わって、ぺたんと布団の海の上に座りこんだ小蒔は龍麻達を掘り出す。
布団を引っぺがした小蒔が見たものは、固く抱き合っている一組の男女だった。
電灯の光が当たり、もう無事なのは判っているだろうに微動だにしない。
いっそこのまま放っておいたらどうするのかな、と一瞬好奇心が鎌首をもたげたが、
そんなことをして二人にどこか遠くの世界に旅立たれてしまわれても困るのと、
自分が苦労しているのにいちゃついている二人に腹が立って、小蒔は殊更大げさに咳払いをした。
「……ひーちゃん。それに葵も」
苛立つほどゆっくりと目を開けた龍麻は、小蒔の視線に、寝た姿勢から一気に正座する。
葵もそれに倣い、三人ともが正座するという珍妙な光景が現出した。
「こっ、これはほら、動いたらまずいと思って」
「そ、そうよ、決してやましい気持ちじゃないの」
「二人とも」
「はい」
きれいに合唱する二人に、
小蒔は演奏会が波乱を含みながらも成功を収めたことを確信し、満面の笑みを湛えた。
多少のアドリブはこの際加点としてしまってもいいだろう。
そして指揮者兼プロデューサーでもある彼女は、収支計算も忘れてはいなかった。
演奏会自体は無償で計画したものであるが、収入があればそれに越したことはない。
「貸しとくからね。忘れないでよ」
二人合わせてラーメン何杯分になるか、計算せずにはいられない小蒔だった。
三十分ほどの間にあまりに多くのことを体験した龍麻は、
世界で最も幸福であり、そして最も気色悪い存在と化していた。
口許を出来の良くない餃子のような形にし、ほとんどスキップの状態で歩いている。
遂に大いなる一歩を踏み出した関係を思えば、
セッティングしてくれた小蒔にラーメンなど何杯奢っても構わないほどだった。
今にして思えば、雰囲気的にはキスまでしてしまっても良かったかもしれない。
告白すら満足に出来なかった癖にそんなことを考えながら、
宙を舞うようにして自分の部屋に戻った龍麻を待っていたのは、
部屋の前で正座させられている京一だった。
「何してんだ、お前」
「うッ……」
京一は声を詰まらせるだけで答えない。
龍麻の疑問に答えたのは、背後からいきなり話しかけてきたB組の担任、犬神壮人だった。
「京一(はな、女子風呂を覗いてたんだ」
姿が見えないと思ったら、そんなことをしていたのか。
実は姿が見えないのは自分の方だったということにも気づかず、龍麻は犬神に対して頷いた。
「俺が見つけたから未遂で済んだが、全く修学旅行まできて手を煩わせてくれる。
……ところでまさか、緋勇(は荷担していないだろうな」
「い、いえ、してません」
女子風呂覗きなどより遥かに彼の逆鱗に触れそうなことをしていた龍麻が、
短くそう答えると、犬神が視線の刃を滑らせる。
その鋭さに、やましいことを両腕に抱えている龍麻はたまらずたじろいでしまった。
犬神は獲物を見つけた獣のような眼光で龍麻を凝視したが、
これ以上の雑事を増やすつもりはないようだった。
「……ふん、まあいい。京一(は十二時まで正座だ。いいな」
「げッ、まだ二時間以上あるじゃねェか」
「何か言ったか」
「いッ、いえ、言ってませんです」
去っていく犬神に続いて、龍麻も部屋に入ろうとする。
するとこの場に取り残されることになる京一が、必死で友人を呼びとめた。
「あッ、おい、話し相手になってくれよ。待てッ、親友じゃねェのかッ!」
京一には悪いと思ったが、廊下で彼の話につき合うには気分が昂揚し過ぎていた。
悲愴な彼の声を背中に、部屋に入る。
最後は罵声のようだったが、扉を閉めるとそれも聞こえなくなった。
どこに行っているのか、醍醐もおらず、部屋には自分一人だった。
無言で布団を引っ張り出し、さっき小蒔がしたように適当に広げる。
辺りを見渡し、誰もいないことを確かめると、龍麻はおもむろに布団の海に飛び込んだ。
そのまま枕の一つを掴み、転げまわる。
毛玉と戯れる子猫と違い、それなりの身長とまずまずの筋肉、
そしてそれに伴なう体重を持つ龍麻がのた打ち回っても埃が舞うだけだったが、
爆発的な喜びを表現するにはそうするか、あるいは月に吼えるしかなかったから、
龍麻としてはこれでも無難なほうを選んだのであった。
外で不埒な行いに相応しい罰を受けている友人のことなど頭のどこにも置かず、
謎の舞踏は三十秒近くも続けられる。
それでも、それは決して長い時間ではなかったのだが、
時の密度というのは酷い偏り方をすることがあるということを、龍麻は程なく思い知らされた。
枕を放り投げ、力任せに下から拳で撃ちぬく。
ぐったりと拳にもたれかかる枕をもう一度放り投げようとした龍麻の目に、
部屋の入り口で呆然と立ち尽くす醍醐が逆さまに映った。
気の良い、そしておそらくこの夜もっとも罪のない好漢は、
明らかに表情の選択に困った様子で顎に手を当てていた。
「何を……しているんだ、緋勇」
「……」
無言でそそくさと立ちあがった龍麻は、布団をきれいに並べ始める。
醍醐は訳も判らず、布団が敷かれていくのを見ているしかないのであった。
翌日、龍麻と葵が顔を合わせたのは朝食の時間だった。
「おはよう、龍麻くん」
「おはよう、美里さん」
控えめな挨拶からも判るとおり、龍麻と葵に表だった変化が訪れた訳ではなかった。
ただ良く見れば、視線を交わす回数が増えている──
それも、一秒にも満たないものを、小鳥がくちばしを触れ合わせるようにせわしなく。
龍麻も葵もこの点に関しては暗黙のルールをわきまえ、
決して他の者に気取られないようにしていたので、小蒔以外に気づかれることはなかった。
そして、大きな変化は彼らよりも、彼ら以外の所に訪れていた。
「あ、ひーちゃん、あれ美味しそうだね」
「……すいません、それ二つください」
「葵、今度はあれ食べようよ」
「あの、これを二つお願いします」
小蒔の分まで交互に支払いをする龍麻と葵に、京一は目を丸くせずにはいられなかった。
「なんだどうしたお前ら。弱みでも握られたのか」
「い、いや、そういう訳じゃないけどよ」
あからさまに握られている、と態度で示す二人に、京一は醍醐の肩を叩く。
「お前……なんか知ってるか」
「いや、何も」
多分そんな返事だろうと思っていた京一は、醍醐が答え終える直前に当事者の一人に直接訊ねていた。
「教えろよ、小蒔。何があったんだよ、昨日」
「え? んーとね」
もちろん小蒔は昨夜のことを誰にも、たとえ京一や醍醐であっても話すつもりはない。
それは最低限の礼儀であり、そこまでヒドい人間ではないつもりだった。
ただ、これでしばらくは食べ物に困らないだろうな、と計算しているのも確かで、
現に龍麻と葵は慌てふためいて両腕を掴んできた。
「さッ、桜井さん、あれも美味しそうじゃないかな」
「ほ、本当だわ、ほら、行きましょう、小蒔」
こうして残り三日間食べ物に困らなくなった小蒔と、
予算を使い果たして東京に帰ってからしばらくの間激貧生活を強いられることになる龍麻、
家族と暮らしているのでそこまでではないもののやはり買い物を控えさせられることになる葵は、
今はまだそんなイヤな未来など知らず、それぞれの形で修学旅行を堪能するのだった。
「おい何だよ、俺にも教えやがれッ!」
ちなみに京一は二日目にも懲りずに風呂の覗きを試みて正座させられ、
三日目は舞妓にちょっかいを出して一騒ぎ起こし、
四日目は何故かまた新幹線に乗り遅れそうになるという体たらくの、
「おい京一、鞄を忘れているぞ……まったく」
醍醐は小蒔から小さな御守りを貰ったというささやかな逸話を挟んだ、
やはり一生の記念に残る旅行となったのだった。
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