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夜も7時を過ぎ、そろそろ飯でも食おうかと立ちあがる。
一人暮らしは良い意味でも、悪い意味でも時間に束縛されることがない。
夜雨が降って都会の喧噪さえ聞こえなくなる時などは寂しくなることもあるが、
龍麻は八ヶ月ほど前から思いがけず与えられた自由を満喫していた。
といっても生活費はそれほど潤沢にあるわけでなく、
自炊もしなければならないしその中でもより質素な、
たとえば海苔だけとか卵だけとかいった食事を取ることも多い。
しかし今日はまだ月も中程であり、残された資金を残された日で割って一日いくら使えるか、
度胸試しのような生活を強いられるほどでもなく、龍麻は外で食事を取ることにした。
金さえ持っていれば、幸い東京は外食に困るようなことは全くない。
今日は何を食べようか、歩きながらじっくり考えようと玄関に向かう。
靴を履いてまさにドアを開けようとしたところで、静かに目の前の、
築年数の割に古さを感じさせる扉が外側から音を立てた。
チャイムではなくノックだから、セールスや勧誘の可能性は低い。
となると知り合いだが、こんな時間から訪ねてくる友達など、京一か雨紋かアランか劉か壬生か村雨か……
心当たりが実はたくさんいることに気付いた龍麻は、頭を掻き回しつつノブに手をかける。
靴を脱ごうかとも思ったが、どうせコンビニにせよ一度は外に出るのだから、
と思いなおしてそのまま来客を出迎えた。
しかし、無造作に開けた扉の前に立っていたのは、その誰でもなかった。
「龍麻様」
「ふッ、芙蓉さん!? ……どうしてここが……いや、なんでここに……?」
龍麻のささやかな居城を訪れたのは、知り合いである御門晴明に仕える芙蓉という名の女性だった。
歳は龍麻たちと同級ということだが、実際のところ彼女には年齢など意味がない。
彼女は御門が使役している式神、つまり実体は一枚の紙札に過ぎないのだ。
龍麻は御門たちと初対面の時にこの事実を知らされているが、
こうして近くで見てもなお龍麻には彼女が人間でないなどと信じられない。
強いていうならば美しすぎる、まさしく人間離れした容姿であると思うくらいで、
龍麻は陰陽術というものの凄さに感嘆するほかないのだった。
「本日より、龍麻様のお傍にお仕えさせて頂きとうございます」
主に仕える存在である芙蓉は、まったく無表情のまま来訪の目的を告げた。
質問には答えず、いつもと同じ、低く抑えた声でとんでもないことを言う芙蓉に龍麻は言葉が続かない。
腹が減っていたのも忘れ、玄関で間抜けに口を開いて立ちつくすだけだった。
彼女はいつもの目のやり場に困る服ではなく、黒を基調としたスーツを着ていた。
切れ長の目と線の細い顎は純和風の顔立ちであったが、
結局美人は何を着ても似合う、というだけのことだった。
それに引き換えこの部屋の主と来たら一人暮らしなのを良い事に全裸一歩手前の服装で、
まさか部屋に女性が来るなどとこれっぽっちも考えていなかったために狼狽も甚だしかった。
天敵に見つかった草食動物の素早さでズボンを履いた龍麻は、
都合の悪い日本語はたちまち聞こえなくなるアランのような白々しさで
数秒前までパンツ一丁であった事実を抹殺して訊ねた。
「お仕え……って芙蓉さん、御門に仕えてるんじゃ……」
「晴明様にはお許しを頂いてあります」
必要最小限のことを、顔の筋肉ひと筋動かさずに言う芙蓉に、完全に気圧されている。
それは例えば京一などが見たら腹を抱えて笑わずにはいられないだろう醜態だったが、
そんなことを気にする余裕さえ今の龍麻にはなかった。
「そ、そう……それじゃ、とりあえず中に入ってよ」
「お邪魔いたします」
軽く頭を下げて部屋に上がりこんだ芙蓉は、完全に周りの風景から浮いていた。
それはほとんど無きに等しい調度品など単なるデッサンに落としめてしまい、
部屋の主でさえもかろうじて絵の具を塗って貰えるほどのものだった。
部屋の中央まで進んだやり手のキャリアウーマンは、
まだまるで使い物にならない新入社員に向き直る。
その眼光は決して険しいものではないのだが、龍麻の背筋は我知らず伸びていた。
「時に龍麻様、お食事の方は」
「え? あ、まだ……だけど」
まさに今その為に外出しようと思っていた龍麻は、にわかに空腹を思い出す。
しかしそれを訴えるのも恥ずかしい気がして、腹を押さえるのは寸前で踏みとどまった。
「そうですか……それでは、わたくしがお作り致します」
相変わらず抑揚の無い声で芙蓉は言い、滅多に使われることのない台所へと向かう。
狭い空間でのすれ違いさまの表情がわずかに微笑んだように思え、
龍麻はミスをしたものの努力だけは褒めてもらった新入社員のような顔で上司の後姿を見ていた。
とてもあの乏しい食材から生み出されたとは思えないほど、食事は美味しかった。
食器さえ貧弱でなければそれなりの金を取っても良いくらいだ。
小さなちゃぶ台に所狭しと並べられた数々の料理を、
初めは遠慮がちに食べていた龍麻も、その味に自然と箸が加速する。
しかし、いくら料理が美味しくても、その深い夜の色をした瞳を片時も逸らさずに向けられていては、
あまりがつがつとかき込む訳にもいかなかった。
「お味は……いかがでしょうか?」
「う、うん、美味しいよ。すごく」
「それは……ようございました」
なんとなく行儀を試されているような気がして、
味も途中からはなんだか判らなくなってしまったが、なんとか出されたもの全てを胃の中に収める。
良質の食事で腹を一杯に満たし、普段ならここで腹をさすって寝転がりでもするところも、
芙蓉の前ではとても出来なかった。
「お下げしてもよろしゅうございますか」
「あ……うん。ごちそうさまでした」
最後にしたのはいつだったか、などと思い出しつつ手を合わせる。
礼儀正しく頭を下げた芙蓉は手際良く食器を片付ける為に立ちあがった。
散々に食べておいて何もしないと言うのは落ちつかないが、狭い台所に二人並ぶのも難しい。
かと言ってテレビなど点けるのももっと気が引ける。
新聞でもあればそれを読む事も出来ただろうが、生憎そんなものは取っていない。
何もしていないように見えて、その実身体の内側では目まぐるしい速度で思考を連ね、
最終的にはやっぱり何もしていない龍麻が唯一していたことは、
食器を洗っている芙蓉の後姿を見ることだった。
突然押しかけてきた──と言えば他人から羨まれそうではある──彼女は、
こんな時でさえ闘っている時のような緊張感を放ち、ミリ単位の歪みさえ無く真っ直ぐに立っている。
その収まりの良い構図は実に絵になっていて、それは彼女が部屋に溶け込んだ、
と言うよりも部屋の方が彼女に嬉々として従ったかに見えた。
このまま彼女が毎日こうしてくれたらいいかも知れない。
部屋だけでなく、龍麻自身も彼女に感化されはじめていることに、本人は気付いていなかった。
「お茶はいかが致しますか」
「あ……ください」
あっと言う間に後片付けを終えた芙蓉が振り向く。
物音を全く立てずに振り向いたので、龍麻はじっと彼女を見つめていた視線を逸らす暇もなく、
真っ向から見つめ合うこととなってしまった。
もはや敬語なのかなんなのかも判らず、頷いてお茶を頼む。
頼んでからお茶の葉などという代物が家にあっただろうか、
と訝る龍麻だったが、芙蓉は何時の間に見つけたのか、以前に雛乃から貰った茶を淹れて運んできた。
出されたお茶を一口すすり、その間に何から話したものか考える。
「……えっとさ」
「はい」
「……あのさ」
「はい」
「……それでさ」
「はい」
何度言いなおしてもその都度芙蓉は律儀に、しかもはいとだけ答える。
もともと何かあてがあって口を開いた訳では無かったから、
すぐに龍麻の語彙の倉庫は仕事を放棄してしまった。
おまけに言いなおす度に茶を呑んだ為に、もう湯のみの中は空になってしまっている。
いよいよ切羽詰った龍麻は、湯のみを大事に両手で置いて芙蓉の顔を伺った。
おしろいを塗りたくったように真っ白な、しかし正真証明の素肌には、
まさしく彼女の名に相応しい、芙蓉の花の色の如き唇が彩りを添えている。
そして形良く尖った鼻や、理知的な輝きを放つ菫色の瞳は龍麻を落ちつかなくさせるに充分で、
御門に何度聞いても、顔の造作が完璧過ぎることを除けば
彼女が人間でないとはどうしても信じられなかった。
その芙蓉は今、龍麻の視線を受けてわずかにうつむいている。
良く見れば頬には朱が差しているようで、不思議は不思議なのだが、
それよりも美しさに惹かれてしまってどうしようもなかった。
ちゃぶ台の端を見つめていた芙蓉が、ふと顔を上げる。
注視してしまっていたことに気付いた龍麻は、自らを戒める為に咳払いをした。
軽くしたはずのそれはいやに大きな音を立て、この部屋に初めて上がりこんだ女性が細い眉を寄せる。
「龍麻様……ご迷惑でしたでしょうか」
「いや、そうじゃない、そんなことはないんだけど……その、あんまり急な話だからびっくりしてるんだ」
「そうですか」
そう答えたきり芙蓉は口をつぐむ。
龍麻は芙蓉の言葉を聞くと、なにやらそれが至極当然で、
間違っているのは常に自分の方だという気分にさせられるのだった。
「……それってさ、やっぱり御門の命令なの?」
聞いてから、間抜けなことを聞いたものだと後悔した。
彼女が御門の意志に拠らず行動することなどあり得ないからだ。
「はい……いえ」
しかし、彼女の口から紡ぎ出された返事は、これまでに聞いたことの無い種類のものだった。
龍麻は驚きを顔に出さないよう注意しながら芙蓉の意を窺う。
これもまた初めてのことだが、芙蓉の顔には迷いの色が浮かんでいた。
女性にそんな顔をされてどうしたら良いか解らない龍麻は、ズボンの膝のところをやたらに掴む。
そこにやおら芙蓉が立ちあがったので、
反射的に自分も立ちあがろうとしてしたたかに膝をちゃぶ台にぶつけた。
「……!!」
悶絶する龍麻に構わずちゃぶ台の横に再び正座した芙蓉は、畳に手をつき、深々と頭を垂れる。
そしてその姿勢のまま顔を上げ、ずきずき痛む膝を必死にやせがまんする龍麻に言った。
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