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「龍麻様」
「はいッ」
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「ふつつか……って……ッ!!」
龍麻はその言葉の正確な意味を知らなかったが、
芙蓉の態度、表情、その他全てが彼女が何を言っているのか物語っていた。
再び額が床に着くほど低頭し、そのまま微動だにしない芙蓉に絶句するのが精一杯だ。
あぐらを掻いている龍麻と、彼の前で三つ指をついている芙蓉は見ようによっては
芝居の一場面に見えないこともなかった。
しかし女優は充分に風格があるものの、俳優の方がどうにも駆けだしの劇団員にしか見えないため、
やはり高校の演劇部がせいぜいと言ったところだろうか。
そして、他に男性部員がいないために仕方なく主役の座を下ろされずに済んでいる俳優は、
芝居全体でも重要な位置を占める場面に差しかかるとたちまちプレッシャーに押し潰されてしまった。
心臓が口から飛びだしそうなほどの勢いで活動し、過剰な血液の循環は逆に身体機能を阻害する。
「お、俺ッ、シャワー浴びてくるよ!」
真っ赤な血が頭に上って思考が真っ白になった龍麻は、ほとんど逃げこむようにして浴室に飛びこんだ。
目一杯シャワーをひねり、全身に湯をうたせながら考える。
痛いくらいの水滴が頭皮を叩いたが、気持ちは全く落ちつかない。
この、初めて直面した事態はとても一人で対処出来るものではなく、
誰か──京一でも小蒔でも、この際醍醐でも構わない──に相談しなければ、
答えを導き出すことなど出来そうもなかった。
京一などに相談すると何を言われるか解ったものではないが、それでもしないよりはましだ。
明日朝一番で彼らのうちの誰かに電話をして話を聞いてもらうことにして、
今日のところはなんとかごまかして寝よう。
ほんの一歩──それが前進なのか横移動かはまだ解らない──足を踏み出し、
少しだけ気分が平静になった龍麻だったが、彼に安息の日は与えられなかった。
「お背中をお流しいたします」
「うッ、うわぁッッ!!」
シャワーを止め、背中の中心が凝るような、妙な緊張をしながら外に出ようとする。
まさにそのタイミングで扉が向こうから開いたのだ。
文字通り飛びあがった龍麻は、もう少しで自分の家で滑って転ぶところだった。
踵に全体重を支えさせて、掴む所も無い浴室の壁に必死に手を押し付けて堪える。
もちろん全く油断していた為に、タオルなど無く全身を曝け出している。
急いで両手で股間を隠した龍麻は、
そんなことには一向に構わず入って来ようとする芙蓉を必死で押し留めた。
「い、いやッ、ここ狭いからさ、お背中はちょっと無理だと思うんだ」
「そうですか……それでは、またのちほど」
扉を閉めた後も心臓の鼓動はひどく暴れ回っている。
断じて見るつもりはなかった、と誰に向かってか力説する龍麻だったが、
ちらりと見えた芙蓉は申し訳程度に手拭いで前を隠していただけで、
その豊満な胸も、人が決して踏み入れることの無い地に降り積もる雪のような肌も
一瞬で網膜に焼き付いてしまっていた。
再びシャワーを、今度は水を目一杯出し、頭をとことんまで冷やす。
もう秋も相当に深まっている季節ですぐに鳥肌が立ったが、お構いなしに水を浴び続けた。
少しでも動作を止めるとたちまち浮かんでしまう芙蓉の裸体を必死に脳裏から追い出す為に
濡れねずみになった頭を掻き回し、顔をやたらにこすり、
最近習った英語の文章を暗誦することでようやく煩悩を鎮めることが出来た。
口を開き、大きく呼吸をしながら龍麻はふと思う。
御門にもこんなことをしてきたのだろうか。
だとしたら、なんという奴だ。
理不尽な、そして全く的外れな怒りを抱きつつ、龍麻は浴室から出た。
自分の家なのに、泥棒のように辺りを窺いながら。
裸の男のいる浴室に裸で入ってくるという大胆極まりない行動をした芙蓉は、
まるでそれが龍麻一人の見た夢とでも言うように平然と部屋の真ん中に正座していた。
龍麻はなるべく芙蓉の方をみないようにして部屋の隅っこに座る。
「芙蓉さんはお風呂……って着替えがない……か」
自分でも何を言っているのかさっぱり判らず、ただ口の動くに任せている。
それでも、そもそも式神なのだからお湯はまずいのではないか、などと聞かなかったのは上出来だった。
「ご心配には至りませぬ。手拭いだけを貸して頂ければ」
「あ……それじゃ、手拭いはそこだから」
「それでは、失礼致します」
浴室に消えた芙蓉をじっと見送っていた龍麻は、慌てて目を逸らす。
いくら先ほど向こうの方から入ってきたと言っても、覗こうとかそういう発想は龍麻には無かった。
しかし、薄い壁の向こう側から聞こえてくる水音は嫌でも健康な肉体に宿る妄想を掻き立ててくる。
それに負けない為には、目を閉じ耳を塞ぎ、更に浴室の正反対の壁を向かねばならなかった。
先ほどは英文の暗誦だったが今度は古文を諳(んじながら、芙蓉が出てくるのを待つ。
と言っても普段の行いがこんな時だけ都合良く己を救う事は無く、全く思い浮かばない古文に、
龍麻はこの時ほど真面目に勉強しておけば良かったと悔やんだことは無かったのだった。
長いのか短いのかさっぱり判らない時間が過ぎ、龍麻は背後に気配を感じた。
まず耳を塞いでいた手を、次に目を開け、恐る恐る口を開く。
「……そっち、向いてもいいかな」
「どうぞ」
芙蓉がそう答えても、振り向くまでになお数秒をかけた龍麻が、
風呂から上がった彼女がどんな格好なのかと考えてしまったのは、決して邪な気持ちからではなかった。
その証拠に、来た時と同じ、黒のスーツを着て出てきた芙蓉を見た時、
大きく安堵の息を吐き出したのだから。
それにしても、肌が全く上気していないのは当然と言えば当然なのだが、
白い肌に髪だけがわずかに濡れた輝きを放っている芙蓉は危険なまでに妖艶な美しさだった。
「明日……御門のところに行って話を聞くとして、今日はもう寝ようか」
「ご随意のままに」
寝る、と言ってしまってから龍麻は自分の言葉の意味に気付いて慌てる。
彼女の方にその意志があるのがはっきりと解っていても、そういうことをするつもりは無かった。
彼女が人間で無いから、と言う発想からでは無い。
単に、いきなり押しかけてこられてさあどうぞという、
いわゆる据え膳を食べられる性格で無いだけのことだった。
現につもりは無いと言っても、それを支える理性の糸は一秒ごとに細くなっている。
今はまだ切れる心配は無いが、起きていればいるだけ危険に近づいていくのだから、
自分と彼女を守る為にもさっさと寝るのが一番良い選択のはずだった。
龍麻の言葉を理解したのか否か、芙蓉は至極あっさりと頷いただけだった。
「それでは……申し訳ありませぬが、しばし、向こうをむいて頂けませぬか」
龍麻に否やは無く、後ろを向き、更に目を覆う。
「お待たせ致しました」
芙蓉はそう言ったものの、実際には一秒も経っていなかった。
何事が起こったのか恐る恐る振り向くと、
そこにはそれまでとは全く異なる視覚効果をもたらす芙蓉が立っていた。
黒いスーツから一変して、白無垢の寝間着に身を包んでいる。
場所が場所なら幽霊に見えてしまうかもしれない、
などと不謹慎なことを考えた龍麻は首を思いきり振って自分を叱った。
「いかが致しましたか」
「な、なんでもない。それよか、そんな服持ってきてたんだ」
「はい」
彼女は手ぶらで来ていたし、持ってきているはずがないのは明らかだったが、
こうもはっきり頷かれてはそれ以上訊きようも無い。
言葉を失った龍麻は、逃げるように布団を敷いた。
もちろん自分以外の誰かが寝ることなど考えてもいなかった部屋は、
一人分の布団さえ敷くのがやっとなほど雑然としていて、
そもそもこの家には布団が一組しか無い事にようやく気付く。
「え……っと、んじゃ芙蓉さん布団使ってよ。俺は台所で寝るから」
板張りの台所はさぞや背中に悪いだろうが、龍麻にも男のプライドと言う物があった。
枕だけはなんとかしようとその辺にあった雑誌を数冊掴み、隙間風吹きすさぶ戦場へと旅立つ。
格好をつけた背中に、女の声が降りかかってきた。
「わたくしのことはお気になさらないでください」
「あ……」
芙蓉は式神だから、その気になれば眠る場所など必要無いだろうし、
そもそも寝る必要さえ無いのかもしれない。
自分のうかつさに赤面した龍麻は、なかなか芙蓉の方を振り向けなかった。
「それじゃ……俺が布団使っちゃうよ」
「はい」
申し訳無く思ったものの、彼女が、
どういう気紛れにせよ主と呼ぶ自分を差し置いて布団で寝るとは思えない。
見られている前で寝るのは恥ずかしくてたまらなかったが、
彼女はじっと見つめたまま動こうとしない為に龍麻は仕方なく布団に潜りこんだ。
すると。
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