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生白い身体が、薄闇に舞う。
生命の躍動に溢れるその動きは、一瞬たりとも滞ることがない。
身体が持つ柔らかな曲線が、動きによって極限までくねり、しなる。
焔のようにゆらめいていた肢体は、かすかな嗚咽と共にやがて力を失い、静かに伏せた。
「ん……」
自然と重なる唇を、龍麻は万感の思いで受けとめていた。
散らばった髪を梳いてやりながら、彼女の温もりを感じ取る。
柔らかな太腿、呼吸に合わせてゆるやかに触れる腹、そして確かな重みを感じさせる乳房。
情交の余韻が色濃く残る肌は、血の通う存在で無ければ持ち得ないものだった。
一度閉じた目を、龍麻は薄く開く。
漂う体香は汗の臭いが混じった、少し鼻にかかる匂いだ。
しかし、龍麻はそれを、鼻腔深くに刻みつけた。
それは、生命の匂いであったから。
「龍麻様」
名は、吐息にまぶされる。
囁きよりももっと儚い、積もることの無い雪のような淡い声。
耳朶に残るその雪片を、龍麻は崩してしまわないようそっと答えた。
「なに?」
「いえ……なんでもございません」
それも、往古むかしの彼女ならば絶対に言わない台詞だった。
言いさして止めるのではない、最初から言うつもりのない戯れ。
わずかな沈黙でそれに答えた龍麻は、背中の中心に指を触れさせた。
肌を覆う、今は無粋な黒い海をかきわけ、縦に走る隆起に沿って、ゆっくりと上に進ませる。
首の付け根にある、彼女が好きな場所を幾度か撫でてやると、
身体から力が抜け、彼女の重みが増した。
もちろんそれは、龍麻にとって支えがいのある重みだった。
もう片方の手、彼女にあやされていた手も、背中に回し、環の中に閉じこめる。
それを望んでいたかのように頬を寄せる彼女に、愛おしさが抑えきれない。
「芙蓉」
「はい」
呼びかけに応える声は、聞いているだけで酔いそうなほどに心地良いものだった。
事実、聞いただけで満足してしまった龍麻は、語を継ぐことはせず、
ただ、意識を芙蓉に向ける。
名を呼ばれた芙蓉は、それきり何も言わない龍麻に機嫌を損ねるでもなく、
有限となった刻の中で、無限に感じられる瞬間に身を横たえていた。
龍麻の呼吸と、鼓動。
そして、己の呼吸と、鼓動。
時に重なり、時に別れる音は、まどろみという、
これまで彼女が知ることの無かった心地を教えてくれた。
五感を持った日のことを、芙蓉は覚えていない。
それを告げた時の、龍麻の呆然とした顔は良く覚えているのだが、
それよりも前にあるはずの、自分が式神で無くなった瞬間がいつなのかは判らなかった。
きっと初めて龍麻に抱かれた日なのだろう、とは思う。
想いを受け入れてくれた新たな主の声、笑顔、匂い……
それらの記憶は、ほとんどがその日を境に宿されているものだから。
まどろみながら龍麻と過ごした日々を辿るのは、幸せなことだった。
しかしこの姿勢では龍麻の負担になると思い、芙蓉は彼の横に居場所を移そうとする。
すると腰に、いつのまにか龍麻の手が置かれていた。
剥がすべきか迷った芙蓉は、小さな葛藤の末、誘惑に負け、もう一度まどろみに落ちることにした。

温もりを子守唄にし、半ば眠りに落ちていた龍麻が目覚めたのは、小さな空気の動きによってだった。
芙蓉の重みも眠気の彼方に消え、そのまま寝ようとしていた龍麻の耳に、彼女の呼吸が流れこんでくる。
恐らく彼女自身も意識してはいない、力の抜けた呼気。
自分達以外に誰もいなくなった世界で、その音色だけがはっきりと響き渡った。
音色を聞いた途端、力を失っていたものが再び立ちあがる。
どうにも抑えの効かない自身に、龍麻は自分が悪いんじゃない、
男の生理機能が悪いのだ、と心の中で弁解した。
しかし押し寄せる波に逆らうつもりも無く、
やはり目を閉じていた芙蓉の腰から臀部へ、機嫌を覗うように掌をなぞらせた。
長い睫毛が動き、そ知らぬ顔をしようとした龍麻をじっと見据える。
すみれ色──と、語彙が貧困な龍麻はそう言うしかない彼女の瞳の色は、
その奥に別世界を有しているかのような深い煌きを放っていた。
彼女は人に変じ、情を交わしてからも主従のように接し、折り目のついた態度を崩すことは無い。
にも関わらず龍麻は、実は自分の方が彼女に従っているのではないか、
と思わされることがある瞳だった。
その瞳は今、何かを訴えかけるように潤んでいたが、不意に視線が外れる。
「龍麻様の、ご随意に」
小さく微笑んでそう答えた芙蓉の顔は、艶やかに染まっていた。
軽く唇を合わせた龍麻は、彼女を下に組み敷き、もう一度唇を重ねる。
べにによらずとも紅い、血の通った唇。
龍麻が目を閉じ、柔らかな感触を味わうことに集中していると、後頭部に手が添えられた。
万事に異を唱えず、楚々として付き従う彼女が見せる、意思。
無論否やのあるはずが無い龍麻は、より強く唇を押しつけて彼女に応えた。
迎え入れる舌先よりも速く、口内へ舌を潜りこませる。
漏れる苦しげな呻きが、蹂躙を加速させた。
「うっ……ぅ……んっ」
息を継ぐ間さえ与えず、ざらざらとした舌の表面を撫でる。
唾液がまとわりつく軟質の肉を龍麻が弄んでいると、
一時はされるままだった芙蓉の舌が、性急さをたしなめるように蠢き始めた。
時に蛇のように、時に濡れた和紙のように。
その物腰からは想像もつかないほど淫らに蠢く彼女の舌はたちまちに龍麻から力を奪っていく。
勢いを削がれた龍麻は、一度顔を放し、軽く呼吸を整えてから改めてキスを始めた。
「ん……ん……」
巻きついた舌をきつく絡め、痺れるほど吸い上げる。
もどかしげに求めあう舌は、口の中で溶け合うかというほどとろけ、ぬめる。
相手を欲する気持ちは、どちらがより勝っていただろうか。
お互いの身体に貼り付かせた手はしっとりと汗をかき、身体全体も熱を帯びる。
身体はほとんど動かさず、ただ顔だけをせわしなく動かす二人の姿は、
この上なく猥雑な美しさに満ちていた。
「は……ぁ……」
名残惜しげに唇を離し、もう一度だけ軽いキスを放ってから顔を離した龍麻は、
芙蓉の額にかかる前髪を、そっと梳いてやる。
そうされている間もじっとこちらを見ている芙蓉に、不意に愛しさがこみ上げた。
「いかがされました」
「綺麗だよ、芙蓉」
「……お戯れを」
芙蓉は睫毛を伏せ、わずかに顔を傾けた。
一緒に暮らし始めてから幾度も言ったこの言葉に彼女が反応を見せるようになったのは、
それほど昔のことではない。
普段は冗談にもほとんど笑わず、そもそも感情を表に出さない彼女が、
初めて恥ずかしさを露にした時、龍麻はかつてない胸の高鳴りをおぼえたものだった。
しかもそれ以後も、彼女は何度同じ台詞を繰り返してもその度に同じ反応を繰り返し、
当然龍麻も同じ高鳴りをおぼえ続けるのだった。
今も、恥ずかしがる彼女を見られるのは自分一人の特権とばかりにじっと見る。
すると彼女はいよいよ顔を赤らめ、龍麻の悪趣味を助長してしまうのだった。
「芙蓉」
散々に悪趣味を堪能した龍麻は、詫びるように顔を近づける。
しかし彼女の望んでいたことはせず、黒髪の中へと埋めた。
甘い芳香が満ちる海の中をかき分け、目指す場所へと辿りつく。
「愛してる」
彼女以外の誰にも聞こえないよう、直接注いだ言霊は、
目を閉じ、恥ずかしさに耐えながらではあったが、気持ちに偽りは無かった。
あるはずが無かった。
何故なら、彼女と暮らし始めて二年余、龍麻はこのたった五文字の言葉を初めて口にしたからだ。
言おうと思ったことは数知れず、口を開くところまでいったのも片手の指では足りない。
何故今日に限って言えたのか、自分でも良くわからないが、
その理由について考えるより、彼女の反応を知る方が先だった。
息を殺して待っていると、初めて聞く響きを帯びた声が漂ってくる。
「わたくしは……幸せにございます。貴方と言う主を得、勿体無き御言葉まで頂戴いたしまして」
「勿体無くは無いさ。芙蓉が……俺のことを愛してくれるなら」
身体を起こした龍麻は芙蓉をまっすぐに見つめる。
芙蓉は今度は目を逸らさず、その瞳に龍麻をはっきりと映した。
「わたくしは、愛とはどのようなものか、未だわかりませぬ。
ですが、貴方を慕い、こうして腕の中にいることに……無上の安らぎと心地良さを感じております」
まだ感情というものを覚えて日が浅い芙蓉は、
龍麻などよりもよほど真剣に自分の心の機微について思考を巡らせているようだった。
戸惑いながらも理解しようとしている彼女を、龍麻は手助けしてやる。
それは、自分の心に向き合うことでもあった。
「俺だって、はっきり愛とはこうだって解ってる訳じゃないよ。
でも、同じ……こうして一緒にいることが、凄く幸せだと感じてる」
「では、わたくしも……愛している……と申し上げてよろしいのですか」
龍麻は頷き、耳をすませて彼女の口から永く記憶に刻まれるべき言葉が発せられるのを待った。
彼女の唇が、わずかに震える。



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