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すこぶる食欲を刺激された龍麻は、ご飯がよそわれた茶碗を受け取り、早速夕食を採ろうとする。
すると突然、芙蓉が立ちあがった。
どうしたの、と声をかける間もなく洗面所へと駆けこんだ彼女に、慌てて龍麻も立ちあがる。
迷った末にひとまず洗面所の外から芙蓉に呼びかけた龍麻の耳に聞こえてきたのは、嘔吐の音だった。
一緒に暮らし始めてから初めて見る彼女の変調に、龍麻はせり上がってくる不安を抑えることが出来ない。
「大丈夫?」
辛そうな音が止んだ後も、しばらく返事は無い。
扉を開きたい欲求に耐えて待っていると、静かに芙蓉が現れた。
自分以上の動揺を露にしている芙蓉を見た龍麻は、
何の前触れも無く彼女の嘔吐が何を意味しているのか悟った。
それは極めて重大な意味を持ち、そして……
「申し訳ございませぬ」
安心させるように、無理に笑顔を作る芙蓉に対して、龍麻の顔は思いの外真剣だった。
その表情は、恐怖となって芙蓉に伝播する。
瑣末なこととは言え、調子を崩してしまった自分は棄てられるのではないか。
どれほどの奇蹟があって魂を持つことが出来ても、やはり人間にはなりきれなかったのではないか。
それは陰陽の秘術によってかりそめの命を与えられてからこれまで、
知ることの無かったものを彼女に与えていた。
口の中に残る吐瀉物の苦味に、心まで冒されてしまったかのようだった。
「急に調子悪くなったの?」
質問に答えることは、自分を追い詰めることであり、
芙蓉は初めて嘘を吐こうかと思ったほどであった。
しかし、例えこれから将来(嘘を吐くことがあったとしても、龍麻にだけは吐きたくない。
その想いが、彼女に覚悟を決めさせた。
「……はい」
「あの……最近……生理が遅れたりしてた?」
「少しですが」
ますます深刻な表情をする龍麻に、芙蓉は淡々と答える。
一度覚悟を決めてしまえば、驚くほど落ちつくことが出来た。
龍麻に棄てられてしまった後、どうしたら良いかは解らない。
御門を、かつての主を頼るしかないかもしれない、とまで考えたのが彼女の弱気を示していた。
そんな彼女に向かって、龍麻の声が刺さる。
「あ、あの、今までずるずる来ちゃったけどさ、あの……俺と、けっ、結婚……してくれないかな」
「結婚……ですか」
富士山を休むことなく走って登った直後のように息を切らせている龍麻に、芙蓉の表情は動かなかった。
結婚、という意味が解らなかったのだ。
もちろん語彙として知ってはいるけれども、
これまで千年の長きに渡ってそんなものと縁の無かった彼女は、
何故龍麻が急にそんなことを言い出したのか理解出来なかったのだ。
眉をひそめ、表情を険しくする芙蓉に、いよいよ龍麻はしどろもどろになる。
「う、うん、今まで言わなくてこんなことになってから急に言うのもずるいと思うのは当然だけど、
その、俺にも心の準備というか将来のこととかいろいろ考えないといけないことがあってさ、
それで……その……」
「龍麻様」
「はいッ」
芙蓉は穏やかに呼びかけたつもりであったが、彼女の主は弾かれたように背筋を伸ばした。
これほどまでに緊張する龍麻を見たことが無い芙蓉は、素直に疑問を口にする。
「こんなこと……と仰るのは、一体」
「……え?」
「何かが龍麻様の御身に生じたのでしょうか」
「……」
芙蓉は決して冗談を言わない。
それはもう散々に知っているはずだったのに、あまりに思いつめた表情の彼女を見ていると、
周到に計算された喜劇なのではないか、と疑ってしまう龍麻だった。
それはそれで是非観てみたい、とも思うが、
今はそれどころではないことを思いだし、表情を引き締める。
「芙蓉の調子が悪いのって……悪阻(だと思うんだけど」
「悪阻、ですか」
これもまた、彼女に縁の無い言葉だった。
困惑する彼女に、龍麻もまた困惑して説明する。
一世一代の勇気を振り絞ったのだが、どうやら全く伝わっていないことにようやく気付いたのだ。
「悪阻ってさ、要するに……妊娠したってこと」
「……」
「妊娠したってさ、要するに……子供が出来た、って……」
頭の悪い解説を繰り返す龍麻が口を閉ざしたのは、
自分の言っていることの無意味さに気付いたからではない。
やや呆然と話を聞いているようだった芙蓉の瞳に、光るものを見たからだった。
「芙蓉……」
涙が頬を半ばほど伝ってから、ようやく芙蓉は自分が泣いていることを知った。
生まれて初めて流す涙は、これまで溜めていた分を全て出し尽くしてしまうかのようにとめどなく溢れだす。
手の甲で拭った水滴は、不思議なほど熱かった。
昂ぶる情は涙だけでは収まらず、芙蓉は鼻を啜り上げる。
これもまた、初めて経験することだった。
「わたくしが……龍麻様の、御子を……」
「俺の、じゃない。俺と芙蓉の、子だよ」
「は、い……」
そう答えるのがやっとで、後はただ、ひたすらに泣き続ける。
彼女を不器用になだめる龍麻は、ひとまず安心しながらも、もう一度、
今日以上の緊張を味あわなければならないことを思い気が重くなるのだった。
次の日曜日、龍麻と芙蓉は懐かしい場所を訪れていた。
かつて彼女が暮らし、現在も彼女の主がいる時空の狭間。
その彼女の主に会うために、二人はここまでやって来たのだった。
二人を出迎えた彼女の主、御門晴明は、
ぎこちない動きでこちらにやって来る友人を無関心を装って出迎えた。
その方が、人物を鑑定する時間が与えられるからだ。
しかし、龍麻は既に自分の挙動ですらおぼつかなかったのだから、
御門のこの態度は完全に空振りと言って良かった。
「随分と久しぶりですね」
「そうだな……二年ぶりか」
一八歳が二十歳になったところで、見た目はそれほど変化がある訳ではない。
しかし、御門は二年前に共に闘った仲間の顔に、責任感によって生じた彫りを見出していた。
それはいささかの興味を御門に抱かせることは出来たものの、
実のところ、この感情をあまり表に出すことを好まない陰陽師の注目は、
かつて彼が使役していた式神にそのほとんどが向けられていた。
数奇な縁(によって今は定命の者となった彼女は、その全身から芳しいほどの美を放つようになっていた。
元々、人の求める理想の姿を呪術に託したのが彼女であれば、
その物腰が完全な優美さを有しているのも当然と言えたが、今目の前に立つ芙蓉は、
肉を持ち、魂(を宿すことで幽玄的な美しさをも身に纏うことが叶ったのだ。
その美しさに素直に感嘆すると共に、それを引き出せなかった己の未熟と、
更に未熟と信じて疑わない男への嫉妬めいた情が御門の裡を駆け巡る。
すると、その、どこが良いのか本気で芙蓉に尋ねてみたい男が、
小生意気にも随分と棘のある口調で話しかけてきた。
「お前、あん時もう知ってただろ。芙蓉が人間になってたって」
あの時、と言うのは、龍麻が最後にここを訪れた二年前の日のことだ。
突然家におしかけて来た芙蓉とその日に関係を持ってしまった龍麻は、
翌日、その時はまだ彼女の主だった御門の所に真意を確かめに来たのだ。
もちろん直情径行の龍麻が御門に話術で勝てるはずもなく、
あっと言う間に言いくるめられて退散させられたのだが、
その時に御門は、芙蓉が彼の手を離れたことは告げたものの、
彼女が龍氣によって人に変じたことまでは教えなかったのだ。
「大変だったんだぞ、本当に」
毛筋ほども表情を動かさない御門に、そうすることが苦労を伝える唯一の方法である、
とばかりに龍麻は声を張り上げる。
幾百年の刻を過ごしたと言っても、芙蓉の知識は主を補佐する為のものが大半を占めており、
かろうじて料理はそこに含まれていても、後は赤子同然だったのだ。
特に龍麻が深刻に、そして緊急に困ったのは……服だった。
これまで彼女は便宜上通っていた皇神学院高校の制服以外は
自らの一部として衣を意のままに実体化出来ていたのが、
下着も上着もひっくるめて一切合財が何も無い状態になってしまったのだ。
当然それらを買うのは龍麻の役目であり、
東京を穢そうとする悪にも臆することの無かった自分が、
女性の下着売り場で一時間ほどもうろうろした挙句警備員に事情を聞かれたという逸話は、
決して知られてはならない秘密として記憶の奥深くに封じ込められているのだった。
「それで、今日は泣き言を言う為にわざわざ出向いたのですか」
相変わらず扇で顔の下半分を隠し、皮肉な物言いも衰えるどころか切れ味が増してさえいる御門に、
激発しそうになった龍麻はすんでのところでそれを堪えた。
今日は自分達にとってこの上ない吉日なのだ。
怒ったりするのは極力控えねばならなかった。
「ああ。実は……芙蓉と……芙蓉と正式に結婚しようと思ってさ。それを言いに来たんだ」
それは御門の予想の範囲内に収まる報告であり、むしろ遅いと言ってやりたいくらいであった。
しかし、彼はともかく、隣で幸せそうに微笑んでいる芙蓉を傷つけたくはない御門であったし、
本人は気付いていないようだが、緊張のあまりひきつっている龍麻の頬を見れば、
むしろ失笑を堪えねばならないのだった。
「そうですか。それで、日取りは決まったのですか」
「いや、それが……」
ここで龍麻は妙に歯切れが悪くなる。
何を今更、と御門が目で促すと、更に緊張の度合いを強めた龍麻は、
一度目は声が掠れ、二度目は舌を噛み、芙蓉に手を握ってもらうことで三度言い直してようやく告げた。
「妊娠……しててさ。お腹が目立たないうちにしようと思うんだ」
「ほう、それは。……まずは芙蓉に目出度いと言っておきましょう」
驚いてみせたものの、これも予想していたことだった。
何しろ二年前に、御門と彼の友人である村雨は、彼らの子供について賭けをしていたほどなのだ。
ようやくその答えが得られた御門は、おもむろに携帯電話を取り出した。
重要な話の途中にどこへ電話をするのかと、龍麻はあっけに取られて見守る。
しかし、どうやら電話はもうどこかに繋がっていたらしく、いきなり会話が始まった。
「だ、そうですよ村雨。今日はあの日から二年と一日目。
数時間ほど過ぎていますから、賭けは私の勝ちですね」
電話の相手が村雨であったことにも龍麻は驚いたが、聞き過ごせなかったのは賭けという単語だった。
「お前ら……何賭けてやがったんだ!」
怒りに肩を震わせる龍麻に、御門は答えず、黙って電話を差し出した。
掴むや否や、でかい声がスピーカーを震わせる。
「何言ってやがる。こっちはまだ日付が変わってねぇんだよ」
「村雨……」
電話を壊れそうなほど握りしめ、低い声でうなる龍麻に、
話し相手が変わったことに気付いた村雨が更に声を張り上げた。
「その声は……緋勇か。へッ、久しぶりじゃねぇか」
「久しぶり、じゃねぇ! お前ら、俺をだしにどんな賭けをしたのか言ってみやがれ」
「あぁ? なんだ、御門から聞いてねぇのか。なに、芙蓉がいつ孕むかってよ」
下品に過ぎる答えに唖然とした龍麻は電話機を取り落としそうになってしまった。
遠くから村雨の声が続く。
「二年以内に孕んだら俺の勝ち、それ以後だったら御門(の勝ち。イイ線だったろ?」
耳に当てずともはっきり聞こえる村雨の声に、龍麻の後ろで芙蓉が顔を赤らめる。
彼女を和んだ目で見る御門を睨みつけた龍麻は、もはや怒る気力も失せ、
ついどうでも良い事を尋ねてしまった。
「そういや時差って」
「おう、今ベガスなんだよ。ここと日本じゃ時差が十七時間あるからよ、
まだ二年経ってねぇって御門に言っとけ」
「自分で言え、そんなもん」
「式には出てやるからよ、じゃあな」
人の話など聞かず、村雨は一方的に電話を切ってしまった。
しばらく声の聞こえてきた部分を睨みつけていた龍麻は、諸々の感情を全て乗せて電話を返す。
そんなものは毛ほども感じずに受け取った電話を懐にしまった御門は、
同じ所から扇子を取り出し、開いて口元に押し当てた。
「ま、そういう訳ですから、式の手配は任せていただきましょうか」
「式……ったって、俺まだ学生だからそんな金無いぞ」
「心配には及びませんよ。費用は全て私と村雨で持ちます」
「そりゃいくらなんでも悪いだろ」
「貴方が罪悪感を感じる必要はありませんよ。
私達が出すのは、貴方ではなく、芙蓉の結婚式の費用です」
憮然とする龍麻だったが、二人の好意が判らないほど鈍感でもなく、
結局ありがたく提案に甘えることにした。
打ち合わせのために後日再びここに来ることを約束して、帰ることにする。
御門に背を向けて歩き始めた時、龍麻の胃が痛くなくなったのは確かだった。
結婚の報告はともかく、あまり計画性もなく芙蓉を妊娠させてしまったことで、
御門に怒られるかもしれない、と気が気でなかったのだ。
まさかそれを賭けの対象にしているとは思わなかったが。
足取りも軽く歩く龍麻の半歩後ろに従っていた芙蓉が、ふと足を止める。
「御門様」
「なんです、芙蓉」
「──ありがとうございました」
わずかに目を細めただけで無表情を保つかつての主に、
眦(を下げた芙蓉は、もう一度深く礼をし、龍麻について去っていった。
彼女がいなくなった後も、御門はしばらく物思いに耽(っていたが、
扇子を閉じ、膝をひとつ叩くと携帯電話を取り出し、早速式場の手配を始めた。
彼は既にいくつかの事業を営む身であり、この後も分刻み、
とまではいかないものの夜まで予定が詰まっている。
にも関わらず御門は、突発的に増えたこの作業を、実に喜ばしいものに感じていた。
否、喜ばしくない訳がない。
彼にとって芙蓉は半ばは娘であり、娘の幸福を喜ばない親などいないからだ。
龍麻に相談もせずに日取りを決め、式場を抑えた御門は口元をわずかに緩ませ、
芙蓉のウエディングドレス姿はさぞ見ごたえがあるだろうと夢想したのだった。
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