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十月も初旬を過ぎ、風に肌寒さを感じる朝。
龍麻は学校が無い日なのを良いことに、まだ布団との蜜月を楽しんでいた。
目を開けるのも面倒くさく、長身を丸めて布団をかき集める。
何物にも替えがたい幸福な時間は、しかし、突然終わりを告げた。
「まだ寝てたの? せっかく来てあげたんだから、いいかげん起きなさいよね」
威勢の良い声と共に、命にも等しい布団が剥ぎ取られる。
抗議する暇もなくカーテンが開けられ、明るさについていけないまぶたの裏に軽い痛みが走った。
一気に下がった体温に、くしゃみ寸前のあくびをした龍麻は、
たまらず最後の温もりを求めて布団に手を伸ばしたが、乾いた音と共に叩き落されてしまう。
「あああ……」
「そんな情けない声出さないでよ。こんな時間まで寝てて、その間に何か事件が起きたらどうする気よ」
「事件て……」
龍麻はなんでも二言目には事件と新聞に結びつける相手に何か言い返してやろうと思ったが、
まだほとんど眠っている為に口がうまく動かず、
それに言いあいになったら勝てるとは露ほども思っていないので、諦めて身体に鞭打つことにした。
「ふぁ……ぁ、おはよう、アン子」
「おはようじゃないわよ、全く……あたしが来なけりゃずっと寝てるつもりだったんでしょ」
「ん……今何時?」
「十一時ちょっと回ったところね」
自分で尋ねておいて、杏子の返事を半ば耳を素通りさせた龍麻は、
目をこすりながらもう片方の手を腹に当てるという器用な動きをした。
それらの動作を一通り終えると、おもむろに、
神のお告げを受けた預言者のようなおごそかな口調で告げる。
「お腹空いた」
「……起きたと思えばもうお腹空いたって……あなたね、あたしを何だと思ってるのよ」
「? なんだろう」
「……」
別の答えを期待していた杏子は、とぼけた答えをした男に向かって眼鏡のレンズ越しに目を細めた。
もし──もしもだ。
まだそんな気はミジンコほども無いが、
もし目の前の男と将来一緒に住むようになったら、毎日こんな風なのだろうか。
自分だってそれほど潔癖症ではないつもりなのに、このだらしなさときたら、
百年の恋も醒めるどころか殺意さえ抱きかねない。
「なっ、なんだよ、そんな怖い顔して」
でも。
あたしが面倒見なかったら、こんなヤツあっと言う間に餓死するに違いない。
そうなったらさすがに夢見が悪いし、新聞を作る時に助手だっていたほうがいい。
そう都合の良い方に考えて、かなり苦労したものの、気を取り直すことに成功した。
「……はぁ、もういいわ。お昼作ってあげるからちょっと待ってなさいよ」
「作ってくれんの?」
「作るったってやきそばよ、あんまり期待しないでよね。作ってる間に顔、洗ってきなさいよ」
指示を出した杏子はさっさと台所に立つ。
その後姿を、顔を洗うでもなく、まだ半分眠ったような眼で見ていた龍麻だったが、
ふとあることを思い出し、杏子に気づかれないよう鞄を手探りで引き寄せた。
数日前に友人に貰ったばかりの、デジタルカメラ。
くれると言うものを断るのも悪い気がして貰ったものの、
龍麻はさほど写真に興味がある訳でも無かった。
それでも、杏子が四六時中カメラを構えているのを間近で見て、
時には手伝うこともあったから使い方は心得ていたし、
そう言えば杏子の写真を撮ったことは無いことに気付くとたちまち好奇心が首をもたげ、
早速構えてシャッターを切ってみる。
何気ない後ろ姿だったが、ファインダー越しに覗くというのは中々に新鮮な感覚だった。
「はい、出来たわよ……って、なッ、何撮ってるのよ」
「アン子」
振り向いた杏子は、いつもは覗くはずのレンズに覗かれていて軽くのけぞってしまい、
落ち着き払って答える龍麻の目の前に音高く皿を置いた。
跳ねたキャベツがカメラに付きそうになって、龍麻は慌てて身体ごとかわす。
「あたしは撮る方だから撮らなくてもいいのよッ。大体どうしたのよ、そのカメラ」
「御門に貰った。新しいの買うからいらんって」
「どうせ貰うんならそんな安物じゃなくって一眼レフの高い奴にしなさいよ」
「無茶言うなよ……」
図々しいことを言う杏子にぼやきながらもカメラから指を離そうとはせず、
それどころか更に隙を見つけてシャッターを押す。
小さな電子音と共に切り取られる自分の日常に、杏子は珍しく焦りを見せた。
「だからあたしは撮らなくていいって」
「いいだろ。俺のはもう何枚も撮ってるんだから」
「う……わかったわよ。好きにすればいいでしょッ!」
「じゃ、脱いで……痛てててて」
「はぁ……付き合う前はもう少しまともな人だと思ってたのに、
これじゃ京一と変わらないじゃない」
杏子のつねり方は、もしつねり方検定というものがあったら間違いなく段位は固い、
恐ろしく洗練されたものだった。
全く力を込めていないくせに、悶絶する痛みが肉を襲い、
どこかの印籠のように揉め事を(一方的に)解決してしまう。
「わ、わかった、わかりました、すいません」
「わかればいいのよ、わかれば。 ……で? どんなポーズすればいいの?」
「……」
「ほら、早くしなさいよ、モデルを怒らせたらカメラマン失格よッ」
杏子に急かされて、龍麻はせっかくの昼飯を半分だけ、それも半ば飲み込むと慌ててカメラを構えた。
「じゃ、足組んで」
「意外と平凡なポーズから入るのね」
「最初はモデルの緊張をほぐすんだよ」
「ふーん……変なことに詳しいのね」
杏子はもう生活の一部になっているのか、とりあえずまぜっかえしつつも、
モデルと呼ばれて悪い気がするはずもないらしく、言われた通りにポーズを取った。
しばらくの間あたりさわりの無い写真を撮っていた龍麻だったが、
次第にラフに着ていてもはっきりとシャツを押し上げている胸の膨らみに関心が向き、
この距離ならいきなり被害を受ける事はないだろう、そう判断して再び提案してみる。
「……なぁ、ちょっとだけ胸、見せてみない?」
しかし、杏子は大きくため息を吐き出しただけで、神速の右手を伸ばそうともしなかった。
「どうしても、撮りたいわけ?」
「ま、まぁ出来れば」
「しょうがないわね。きれいに撮れなかったら何かおごってもらうわよッ」
展開の意外さに誰よりも龍麻が驚いていたが、ぼんやりしていて機嫌が変わったら
勿体無い、と慌てて雑誌のアイドルがとっていたポーズを思い出す。
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