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魔獣行 ─後編─ 2へ>>
夜も更け、人通りも少なくなった池袋の裏路地に、奇妙な声が響いていた。
獣と人間との間のような、うなり声。
一人だけではない、男女入り混じった咆哮は、無秩序に東京の闇を侵食しつつ、
だが少しずつ方向を狭めていた。
「ううううう……」
「お前も……我らの仲間に……」
両腕をだらりと垂らし、眼だけを獣欲にぎらつかせて、複数の男女はゆらりと歩く。
通りの両側から歩いてくる男達。
彼らが目指しているのは、一人の学生の許だった。
くたびれたスーツに疲労を乗せている会社員も、
派手な服にきらびやかな化粧を施した女も、等しく眼光を学生に向け、
彼に向かって一直線に歩いている。
学生はどんな理由があってこの、正気を失った者達に狙われているのか。
学生は十人ほども集まってきている会社員達にも臆する様子もなく、
落ちついて彼らを見渡すと腕組みをして頷いた。
「ほんま、見事なまでに憑かれとんなァ」
学生の発したのは関西弁であったが、生粋のそれとはどこか少し異なっていた。
イントネーションこそ合っているものの、発音がややぎこちなく、
日本人が聞いたら違和感をおぼえるかも知れないものだったのだ。
着ているものは羽織っただけとはいえ日本の学生のものだが、その下には真っ赤なシャツが覗いている。
日本人のセンスから言うとそれは一昔以上前の流行──流行といっても、ごく一部だ──で、
現代日本の、それも文化の中心である東京でこんな格好をしていたら、
後ろ指をさされるくらいは覚悟しなければならないものだった。
だが彼を取り囲む男女達はファッションには関心がないようで、
自分達のスーツが乱れるのも構わずにもう数メートルのところまで近寄ってきていた。
「仲間……さも……なくば、死……しィイいィぃいいッッッ!!」
女性の一人が唸ると、唱和するように他の人間も吼える。
人間(の発するものから、一秒ごとに遠ざかっていくその声に、学生は大げさに首を振った。
「こらあかんわ。けど、憑かれやすい人間にはそれなりに要因があることやし、
ええ機会や、ちょいとわいが活入れたるわ」
「肉ゥゥ……血の滴る肉ぅぅ……」
学生の言うことなど全く耳に入っていない会社員の一人が、新たな同胞を得んと腕を伸ばす。
それを軽やかな動きで躱(した学生は、眼前に指を立て、不思議な韻律を持った言葉を発し始めた。
「我求助(、九天応元雷声普化天尊(、
百邪斬断(、万精駆滅(、雷威震動便驚人(──!!」
一音節ごとに、男の身体が青白い輝きに彩られていく。
普通の人間ではあり得ないその奇妙な現象も、
だが正気を失った者どもは全く警戒することなく近づいてくる。
緩慢に歩んでいた彼らも、遂に手を伸ばせば獲物に触れるというところまで来ていた。
年齢も性別も異なる数人の男女が、全く同じ動きで腕を振りかぶる様は、
いびつなミュージカルを思わせる光景かもしれなかった。
高々と上げられた腕が、一斉に振り下ろされようとした瞬間、彼らの中心にいた学生が大声で叫んだ。
「活勁(──!」
発声と共に、男の身体が一際強く輝く。
彼のみならず、周りに群がる正気を失った者達を、
辺りが昼間になったかというほどの光が眩く包みこんだ。
「うッ……」
「きゃあぁッ……」
光そのものを忌避するように口々に悲鳴を上げ、会社員達は倒れていく。
その光景はやはり、出来の良くない芝居のようだった。
全員が気を失ったのを確かめると、学生服の男はひとつ息を吐いて腕を下ろした。
「ま、こんなもんやな。目が醒めた時には全て忘れてるやろ」
細い目を一層細めた男は、独り言にしては大きな声で呟く。
それに答える者はなく、さっきまで異様なものであっても喧騒に満ちていた場所は、
嘘のような静けさに取って代わられていた。
自分を襲った男女が誰も起き上がらないのを確かめた男は、
表通りではなく、裏道に向かってのんびりと歩き出す。
「それにしても人を獣に変えようたァ、悪趣味なやっちゃな。
──これも、奴の差し金なんか」
苦々しく呟いた男は、空を見上げた。
落ちてきそうなほど巨大な月は、彼の故郷から見るものとは異なり、汚れた空気に霞んでいた。
龍麻が教室に入ると、まだ級友は数人しかいなかった。
これは珍しく龍麻がこの季節、優しく引き留める布団と一度で別れることが出来たからであるが、
そのご利益は早速現れていたようだった。
まだ五人はいない級友の中には、目下のところ龍麻が大きな関心を寄せる女性がいたのだ。
途端に勢い良く跳ねだした心臓をなだめ、龍麻は自分の席に向かう。
席に座るまでに彼女になんといって話しかけようか、
半分寝ている頭を叩き起こし、フル回転させて作戦を立てていたのだが、その必要はなかった。
向こうから挨拶してくれたのだ。
「おはよう、龍麻くん」
「おはよう、美里さん」
葵はこんな時間だというのに既にノートを広げ、何事か勉強している様子だ。
邪魔しては良くない、と思いつつも、せっかくの好機を逃すのももったいない話で、
龍麻は鞄から教科書を取り出しもせずに彼女の前に座った。
あまり好奇心を表に出さないようにしながら、さりげなくノートを覗きこむ。
見慣れた丁寧な文字は、英語のノートだった。
そこの訳は……と小賢しげに龍麻が考えようとすると、葵は顔を上げて言った。
「どうしたの? また借りたいの?」
「違うよ」
心外だ、と両手を挙げて拗ねてみせる。
その仕種が気に入ったのか、葵は口許に手を当てて声を出さずに小さく笑った。
「うふふ、ごめんなさい」
そんな風に笑われたら、本気で怒っていたとしても許さざるを得ないだろう。
顔をしかめていた龍麻も彼女と共にしばらく笑っていたが、
やがて笑いを収めた葵が自分のノートの一行を指差して訊ねた。
「ね、ここ、解る?」
葵が解らないところなど、自分に解るかどうか──ひやりとした龍麻だったが、
どうやら彼女は訳そのものではなく、作品の解釈に疑問があるようだった。
「彼はどうして好きな女性(を置いて旅立ったのかしら」
葵が訳しているのは、有名な小説のある一節だった。
幸運なことに、その小説の日本語訳を一度読んだことがある龍麻は、
咳払いをして、自分の思うところを披露した。
「彼は──怖かったんだと思う。護るべきものを背負ってしまうのが」
「そんな……それじゃ、彼は逃げたってこと?」
「多分。でも、俺はなんとなく判る気がするんだ。
彼にとって彼女は、あまりに大き過ぎたんだと思う。
そして、背負った彼女をほんの少しでも失ってしまうことが、彼には耐えられなかったんだ」
龍麻の解釈を葵は小首を傾げて聞き入っていたが、
それについては肯定も否定もせず、やがて随分と思慮深げに訊ねた。
「龍麻くんがもしこの男(の立場だったら……やっぱり逃げる?」
それは龍麻も日本語訳を読んだ時に考えたことだった。
その時はどちらかと言うと葵と同じ、つまり男の行動に疑問を抱いていたのだが、
今──その時とはやや立場が異なっている状況から改めて考えてみると、
男がそうした理由が前よりは理解出来るような気がした。
「俺は……逃げたくないな」
ただ、それでも龍麻はこう答えた。
はっきりと理由を説明出来る訳ではなく、訊かれたらしどろもどろになってしまうところだったが、
葵は小さく、そして嬉しそうに頷いた。
「ね、今度はここなんだけど」
新たな場所を指し示す葵の声は弾んでおり、
龍麻も、彼女と心を通わせられたことを嬉しく思うのだった。
だが、葵と勉強兼雑談を続けようとする龍麻の、幸福な時間は長くは続かなかった。
再び龍麻が彼女のノートに目を落とそうとすると、
すっかり聞き慣れた声が廊下の向こうから聞こえてきたのだ。
こっちに来ないでくれ──ささやかな幸せを邪魔されたくなくて、龍麻は願う。
しかし声は指向性を持ったかのように一直線に自分達の許にやって来て、
次いでその持ち主が姿を見せたのだった。
「大変よ大変よッ」
時代劇の始まりのように騒がしく飛びこんできたのは、隣のクラスの遠野杏子だった。
鋭い知性を感じさせる細めの目も、吊りあがっていることの方が多い眉も言葉通り緊迫しているのだが、
何しろ彼女は二言目には大変、と言い出すので、
もっともその言葉を浴びることの多い龍麻達はもうそれだけでは驚かなくなってしまっている。
龍麻は特に今は、葵との数少ない二人きりの機会を邪魔されたとあって、
酷薄なほどの眼差しで彼女を見た。
二人に等分に視線をやった葵は、落ちついた声を出す。
彼女は内心を気取らせないという点で、龍麻と杏子の両名を遥かに上回る技能を持っていた。
「どうしたのアン子ちゃん、朝からそんなに慌てて」
「慌てずにはいられないわよ、ついに掴んだのよッ!」
要領を得ない杏子の説明に、龍麻と葵は顔を見合わせ、今度は龍麻が訊ねる。
「掴んだって……何を?」
「ひどいわね緋勇君、頼んでおいてもう忘れたの? まだ一週間しか経っていないのに」
一週間前……小出しに出てくるヒントに、龍麻は記憶を辿る。
途中、葵とデートをした日を挟んでいたために脱線しかけたが、
どうにか彼女が言っている、こちらから頼んだことというのを思い出すことが出来た。
「頼んだって……あれのこと?」
「なんだ、忘れてなかったのね、良かった」
大げさに胸を撫で下ろしてみせた杏子は、胸から手帳を取り出す。
生徒手帳とはまた異なる、彼女が調べた情報(がぎっしりと詰まった手帳だ。
およそうら若き乙女が持つものとはかけ離れている、
渋い黒革の表紙は使いこまれてボロボロになっている。
「ちょっと待ってよね、えッと」
杏子がこれまた古く、そして行儀も良くない、
指を舐めて紙をめくるという仕種でまとめた情報を探していると、
思いきり辟易した京一の声が教室の入り口から聞こえてきた。
「ッたく、どうしてお前はそう朝っぱらからうるせェんだよ」
眠たげな顔をした京一は、龍麻には今更挨拶などしなかったが、葵には軽く手を挙げると、
不服そうに沈黙している杏子に続きを促した。
「ほれ、いつまでも騒いでねェでさっさと話せよ」
「……なんかムカつくわね、その言い方。どうか教えてくださいませ杏子様、
くらい言ってもばちは当たらないと思うけど」
やられっぱなしでは終わらない杏子が早速やり返す。
また話が逸れる気配を察知して、龍麻は内心で嘆いた。
どの道葵と二人きりの時間はもう期待出来ないのだが、京一と杏子が舌戦を始めると長く、
しかも勝敗はわかっており、結末の決まった寸劇(を見せられても嬉しくないのだ。
「それは無理だよ、アン子。京一がそんな言葉遣いしたら絶対舌噛むって」
しかし杏子に言い返したのは京一ではなく、いつの間にか来ていた小蒔だった。
「ヘッ、アン子にンなこと言ったら舌噛む前に口が曲がっちまうぜ」
「なんですってェ!?」
もう後戻りも出来ないくらい収拾がつかなくなる。
葵との一時を返してくれ、とまだ根に持っている龍麻は、無言のまま、
姦(しく喋っている三人をじっとりとした視線で眺めていた。
すると教室の入り口に、大柄な男が入ってくるのが見える。
「どうしてお前らは朝からそんなに元気なんだ」
眠たげな京一よりも更に疲れた顔をして現れたのは、彼らの中で一番の苦労性と言える醍醐だった。
ポジション的には葵も苦労しているはずなのだが、彼女は見極めが上手いのか、
京一と小蒔に不必要に構ったりしない。
その見切りようは時として龍麻をもあぜんとさせるほどで、
その辺りが器用ではない醍醐がいらない心配をことごとく抱えこむ、という構図だった。
その醍醐は今、心配こそしていないものの、
幼稚園児の引率に疲れきった保育士のような面持ちで京一を見ている。
だが眉間にしわが寄っている大男の顔にも、京一はどこ吹く風だ。
「なんだお前、低血圧なのかよ」
「そうじゃないが……お前も朝からこのノリじゃ大変だろう」
直接言っても効果がほとんどないのを熟知している醍醐は、
この春から現れた強力な友軍に援護を求めた。
人の忠告など滅多に聞かない京一も、彼の言うことなら何故か良く聞く。
醍醐自身も信頼を寄せている同級生の男は、期待通りに笑って肩をすくめた。
「だろうな。俺も毎朝毎朝こうだと、たまに頭痛がな」
わざとらしい龍麻の所作に、醍醐もオーバーアクションで額に手を当ててみせる。
するとまた杏子が、さも心外だと言うように腰に手をあて、殊更大声で反論してきた。
「ひっどォ〜い! あたしは憂鬱(な朝の雰囲気を和らげてあげようと思って
元気に振る舞ってあげてんのに。ねぇ桜井ちゃん」
「お前らはそれが地だろうが」
京一がすかさず毒づくが、既にボケとツッコミ以上のものではない。
それは本人達も判っているようで、小難しげに腕を組んだ小蒔は、
いかにももっともらしく頷いたものだった。
「ま、否定はしないけどね」
「あ、裏切り者!」
ようやくコントも一段落したところで、改めて小蒔は相方に訊ねた。
「それで……アン子、何しにC組(に来てるの?」
「あッ……と、そうだったわね。この前頼まれた、中野、文京、豊島辺りの事件の話なんだけど」
どうやら本格的に何をしに来たのか忘れていたらしく、
杏子は少し慌てたように自分がコントをしにきた訳ではない、と説明し始めた。
「これが久しぶりの超猟奇的事件なのよ!」
超猟奇的、と言った時の杏子の顔ときたら、目は爛々と輝かせ、小鼻は大きく膨らませて、
とてもお見合い写真には使えそうにないものだった。
他人の不幸を思いきり喜んで(いる杏子に、さすがに小蒔が呆れてたしなめる。
「あんまり喜んで言うことじゃないよ、それ」
「いっけない……それもそうね。まぁいいわ、とにかく聞いて」
どう見ても彼女が反省したようには見えなかったが、ここで混ぜっ返すとまた話が進まなくなるので、
一同は黙って彼女の情報を聞くことにした。
「事件は皆の読み通り、豊島区を中心に中野、文京で頻発しているわ」
「どんな事件?」
「そうね……ひとつは池袋界隈を中心に広がる突発性の精神障害。
そしてもうひとつは、あの霧島君って子と同じ、まるで大型獣に襲われたかのような猟奇殺人。
でもこっちの方は最近じゃめっきり数が減ったみたい。
色々裏を取ってみると、被害者のほとんどが男性、しかも揃って舞園さやかの大ファンだっていうから、
これは皆が倒したっていう帯脇って奴の仕業でしょうね」
アイドルである舞園さやかと、彼女の級友である霧島諸羽とひょんなことから知り合った龍麻達は、
彼女をつけ狙っている帯脇斬己(の話を聞き、杏子に調査を依頼していたのだ。
その後帯脇が予想を超える早さで諸羽を襲い、
さやかを歪んだ想念から自分のものにしようと動いたために、
その調査はあまり意味がなくなってしまったのだが、
彼女の口ぶりからすると事件は完全に解決したわけではないようだった。
「ふむ……帯脇のことと、その池袋で起きているという事件は何か関係があるのか?」
「もちろんよッ!」
醍醐の問いに、良くぞ聞いてくれた、とばかりに杏子は顔を輝かせた。
結局彼女にかかれば超猟奇的事件だろうが東京を恐怖に陥れる事件だろうが、
記事(にさえなるのならなんでも良いということらしく、
もう龍麻達もいちいちたしなめたりしなかった。
とにかく、彼女の情報収集能力は卓越しているのだから。
「こっちの方は最近ニュースで取り上げられたりもしたから皆も聞いたことはあるでしょ?」
「そういえばテレビでやってたね。事件はほとんどが池袋の東口方面で起きてて、
道を歩いてる人が突然奇声を上げたり、暴れ出したり──手当たり次第に他人を襲ったりするんだって」
小蒔が言うと、皆頷く。
龍麻は一人暮しであってもあまりテレビを見ないのだが、
それでもこの事件についてはニュースでやっていたのを知っていた。
傷害事件にはなっているものの、加害者側の人間が揃ってその間の記憶を失っているといい、
また加害者の特徴も性別、年齢、職業、いずれも全く共通点がなく、
捜査も難航していると報じられていた。
太い腕を組んだ醍醐が、小さく頭を振る。
「突発的な発狂……というわけか。これも誰かの仕業なのか?」
「多分──少なくともあたしたちはそう見るべきだと思うわよ。
実際警察や医学の見地からでも原因はまだ解明されてないし、
それに今あたしが一番興味あるのは発狂状態に陥った人達の証言なのよ」
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