<<話選択へ
次のページへ>>

(1/4ページ)

 角を曲がったところで、龍麻は立ち止まった。
目立たない、けれど完全に隠れてはしまわない、ほどよく灯りのあたらない場所を探す。
季節はようやく厳しい暑さから過ごしやすい涼しさにバトンを渡そうとする頃だったが、
この日は少し季節の妖精が気まぐれを起こしたようで、立っていても汗がにじむ。
つい今しがたまで人ごみの中にいたのだから暑さを感じるのは当然といえたが、
龍麻が今火照りを感じているのは、そのせいではなかった。
 目の前を何人かの人々が、遠くに聞こえる祭囃子に吸い寄せられるように歩いていく。
彼らの向かう先、自分がさっきまでいた方向を眺めた龍麻は、
ここに立っていた理由がやってくるのを見つけると、軽く手をあげた。
 気づいた相手は幾分足を早めて近づいてくる。
いつもの黒髪はまとめ、白い制服は同じ色の浴衣を着て現れたのは、龍麻の同級生である美里葵だった。
二人はやはり同級生である蓬莱寺京一、醍醐雄矢、桜井小蒔らと一緒に、
地元の花園神社で催された縁日に出かけていたのだ。
屋台を一通り見て回り、ヒーローショーまで観た五人はそこで解散したのだが、
龍麻と葵は示し合わせてもう一度合流したのだった。
「うまくいった?」
「ええ」
 葵の笑顔には、罪悪感と、それに勝る二人だけの秘密を共有できた喜びが浮かんでいた。
当然のように二人で帰ろうとする小蒔から、葵は嘘をついて別れてきたのだ。
親友に対して嘘を初めてつくことは、悪意がないとはいえ、葵をかなり悩ませた。
正直に話したとしても、小蒔は快諾したかもしれない。
なにしろ春、龍麻が真神學園に転校してきたその日から小蒔は葵と龍麻の双方を焚きつけ、
どうにかくっつけようとしていて、進展の遅さを嘆くくらいなのだから。
祭りのあとに二人で逢うと言えば、少し意地の悪い笑みに、
加えてもしかしたらいくらかの口止め料を要求したとしても邪魔まではしなかっただろう。
 しかし二人には、小蒔に話せない理由があった。
それは、龍麻と葵はすでに小蒔や他の友人達が想像もつかないほど関係を深めており、
小蒔が邪推をした場合に、かわしきれない可能性があったのだ。
葵はそうしたはぐらかしに慣れていないし、龍麻も、基本的にはお人よしなので嘘が上手くない。
だったら最初から嘘をついてしまえと、良心が咎めるのを承知で二人は作戦を立てたのだった。
 合流した二人は、神社へと向かう人の流れにさからって歩く。
祭りに行くにも帰るにも半端な時間であり、流れというほどの流れはなかったが、
はぐれてはいけないという大義名分で龍麻は葵の手を握り、葵も寄り添って歩いた。
龍麻の家までの帰路は、とても短かった。
 部屋に入っても二人はしばらく無言だった。
友人達に隠れて逢瀬を遂げるという興奮が、まだ胸郭にゆらめいていたというのもあるし、
つい数十分前までさんざん話したのだから、今すぐには言葉は必要ないという理由もあった。
 カーテンを閉め、座った龍麻はテレビをつけようとしてやめた。
二人とも黙っているのにテレビをつけるのもおかしな話だし、
座った拍子に視界の端に映った葵の姿が、二人以外の全てが邪魔であると思わせたのだ。
「楽しかったな、祭り」
「ええ、本当に」
 いまさらこんなぎこちない会話から始めなければならないほど、二人の関係は疎遠ではない。
なのに龍麻がこんな切り出しかたをするはめになったのは、蛍光灯の下で改めて見る葵が、
頭の中から一切合財の言葉を奪ってしまったからだった。
 普段と異なる髪形と、普段と異なる服は、葵の女性らしさを際立たせている。
そして正座ではなく足を崩して座っていて、浴衣にはその方が似合っていた。
縁日ではいかにも場に合った姿格好だと思っていたが、そうではなく、
葵こそが雰囲気を作り出す中心なのだ、と気づいた龍麻は、感嘆の吐息を漏らさずにいられなかった。
「どうしたの?」
「いや……来年はいっぱい祭り行きたいなって」
 空っぽになった心では、素直な気持ちを告げるしかなかった。
鼻を掻きながら龍麻が言うと、葵は二度ほど目をしばたたかせた後、静かに身体を寄り添わせてきた。
「ええ……そうね。行きましょう、たくさん」
 未来への約束を胸に強く刻みつけ、龍麻は、預けてきた身体の重みをしっかりと抱きよせた。
葵は抗わなかった──ただ、龍麻が唇を触れさせようとした寸前、葵のほうから顔を寄せた以外は。
今日最初のキスは、二人とも少し笑いながらだった。
 離れた葵の目が、ゆっくりと開いていく。
潤んだ瞳を直視する気恥ずかしさに耐えかねた龍麻は、小さく笑って言った。
「少しりんごの味がする」
「もう」
 りんごと同じ色をした頬に触れると、葵は機嫌を直したようで、手を重ねてくる。
小首をかしげた姿はひどく絵画めいていて、龍麻は自分の手が自分のものでなくなってしまったような感覚に陥った。
むろんそれは錯覚で、掌に感じる温かさはまぎれもなくもっとも大切な他人のものだ。
快い錯覚に龍麻が酔っていると、葵が半ば目を閉じて語りかけてきた。
「私ね、誰かにおごってもらったのってはじめてなの」
「そうなのか?」
「ええ……あんまり、良くないことだって躾けられて」
 葵の親の躾はまったく正しい──が、今時それを律儀に守ってきた葵にも龍麻は感心してしまう。
「でも、今日はじめて龍麻におごってもらって、とても嬉しかった」
「そりゃ……よかった」
 たかだか数百円の、それも奢るというよりはもっと親しい気持ちで買ったものだから、
そこまで感激されると面映い龍麻だった。
「それにね、りんごあめも食べたの初めてで」
「ああ、そう言ってたな。実は俺も食べたことはない……」
 途中で語を切った龍麻に、葵が不思議そうな表情をする。
先に一人で笑ってから、龍麻は続きを言った。
「今、ちょっとだけ味わったかな」
「もう」
 葵がこつんと頭を乗せてくる。
今日は、おそらく一生忘れることのない記憶となるだろう──
りんご飴のようにコーティングを施された、甘い想いとなって。
指を絡めてくる葵の、ますます紅みをました頬を眺めながら、龍麻はそう確信していた。
 りんどうの柄の浴衣は、葵の体温をそのまま伝えてくるかのように薄かった。
気温は快適の上限をわずかに超え、不快に感じる──なのに、それよりもずっと温かな葵の温度は快いのはなぜなのか。
ある意味で哲学的な、その実単純な命題を龍麻がしかめ面をして考え込んでいると、
葵が左胸に頭を乗せ、詩うように言った。
「そういえば、小蒔も醍醐くんに奢ってあげてたわね」
「ああ、醍醐のやつ相当長い間食べなかったな」
 大男が小さな紅玉を手にしてうろたえているさまを思いだして龍麻が笑うと、葵も同調して小さく笑った。
二人の歯がゆさ、あるいは微笑ましさはいつもこうして話題になる。
今日のエピソードもいかにも彼ららしく、純情未満の二人を、龍麻と葵は半ば保護者の心情で見守っていた。
「よっぽど嬉しかったんでしょうね」
「それにしたって……あれじゃいつまで経っても告白できないだろ」
「あの二人だったら、小蒔の方からするんじゃない?」
 葵の声が弾んでいる。
こういう話になると興味が出てくるあたり、
葵もやっぱり女の子なのだと再確認できて龍麻は嬉しくなったが、
それを指摘するとたぶん機嫌を悪くするので態度には一切出さずに応じた。
「どうなのかな、聞いたことある?」
「醍醐くんのことどう思ってるかって? 小蒔が私のこと訊いた時に訊き返してみたことはあるけど、
上手くはぐらかされちゃったわ。嫌いなわけはないと思うのだけど」
「そりゃそうだろうけど……もう卒業まであんまり時間もないのにさ、どうする気なんだろう」
 余裕のなせる業か、龍麻はそこそこ本気で恋愛未満の関係をもう半年も続けている友人達を心配してやる。
すると葵が、いかにも可笑しそうに喉の奥で笑った。
「龍麻はその点早かったわよね」
「そりゃ、ライバル多そうだったし、やっぱりなぁ」
「やっぱり、何?」
 前髪をいじる細い指に、安らぎめいた心地よさを抱きつつ、龍麻は答えた。
「なんとなく……そんな気がしたんだよな。『俺たぶん葵のことどんどん好きになるんだな』って。
だったらさっさと言っちゃった方がいいかなって」
「随分思いきりが良かったのね。……だめだったら、とかは考えなかったの?」
「考えたに決まってるだろ。振られたら気まずいよなぁ、鬼道衆と戦うのに影響あるよなぁ、って」



<<話選択へ
次のページへ>>