<<話選択へ
魔獣行 ─前編─ 2へ>>
路地裏に荒い息遣いが二つ、走る。
小さく、早いものと、それよりは大きく、ゆっくりとしたもの。
二つには隠しきれない緊張が共通しており、それらは時折向きを変えながら走り続けていた。
「クソッ、見失ったか!?」
「やべェな……新宿なんかで見失ったら終わりだぜ」
「まだそう遠くへは行ってねぇはずだ。この辺りの地理に詳しくねぇのはあいつらも同じだからな」
「二手に分かれるか」
「あいつらを逃がしたら、俺達があの人に殺されちまう」
口々に話すのは、数人の男。
声で為人まで判るはずもないが、男達のそれには野卑な性格が滲み出ている。
そして彼らに共通するのもまた、緊張だった。
最後の男が言ったあの人、という言葉に薄ら寒そうに首をすくめた男達は、
先の二人のものとは別種の緊張を漲らせて散っていった。
それから数分が過ぎた頃、建物の影から一人の男が顔を出す。
まだ少年、と言うべきであろう幼い顔立ちは、だが紛れもなく男のものだった。
護るべきものを見出し、使命感にあふれる男の顔。
優しげな瞳に備わる強い意思が浮かぶ眉からなる顔立ちは、
鎧を纏(い、剣を持てば姫に忠誠を誓う騎士さながらだった。
その後ろには、少女がいる。
透明感のある顔立ちに柔らかなウェーブのかかった髪は、
誰に聞いても美少女だと答えが返ってくるものであるが、今、
その顔は恐怖と緊張に歪んでしまっていた。
少年の腕を握る細い指先は、目に見えないほど小刻みに震えている。
「行ったみたいだよ……今のうちに、ここを離れよう」
少年はそれに気付くことなく、油断なく辺りを見渡していたが、
返事のない少女に、彼女の方を向いた。
「どうしたの?」
「……ごめんなさい、私がわがまま言ったから」
「……え?」
少女の声に雨の気配を感じ取り、少年は戸惑う。
急いで傘を取り出そうとするが、それよりも先に雨粒が音を立てて少年の頬に弾けた。
「みんなに内緒で二人で遊びに行こうなんて言ったから、
霧島くんをこんなことに巻きこんでしまって」
「謝ることなんてない、さやかちゃんのせいじゃないよ」
霧島と呼ばれた少年は、強い調子で否定した。
驚いてしまったさやかと呼んだ少女に、自分の感情をもてあますように唇を噛み、言葉を選ぶ。
「仕事や、知らない誰かのために自分を犠牲になんてしちゃダメだ」
目を瞠(る少女に、少年は口調を和らげ、彼にとって何よりも大切な誓いを口にした。
「それに、あの時約束したろ? この先どんなことがあろうと……君は僕が護るって。
だから、諦めちゃダメだ」
少年の言葉は傘ではなく、太陽そのものとなって少女を照らし出した。
胸の裡から感じる暖かさに、雨雲を吹き払われた少女は、目許を小さく拭って笑いかける。
「……うん、ありがとう」
「よしッ、もう少し走れるかい?」
頷いた少女に微笑んだ少年は、少女の手を取って走り出した。
それは、決して離してはいけない絆だった。
龍麻が顔を上げると、もう六時限目は終わっていた。
愕然としてノートを見ると、書かれていなければならないはずの紙面は白いままだ。
誰の仕業だ、と辺りを見回したが、
腕の中で大事に抱えこまれていたノートに誰も細工など出来る訳がなく、
龍麻は大きなため息と共に現実を受け入れるしかなかった。
これではまた葵にノートを借りる羽目になる。
それは彼女と会話をする小さな契機(になるのだから歓迎するべきなのだが、
最近の龍麻はあまり格好悪いところを見られたくない、という思いから、
彼女にそれを頼むことに少し抵抗を覚えていた。
とは言ってもほぼ一時間まるまる抜け落ちた授業の内容を教科書を読むだけで取り戻せるほど
賢くはなく、近いうちに恥を忍んで頭を下げなければならないようだった。
もう一度ため息をついた龍麻のところに、京一がやって来る。
京一は龍麻と同じく六時限目を──正確には龍麻よりも早く、五時限目から──寝ていたが、
それを恥じることもなく堂々としたものだ。
ある意味で羨ましい、とあまり健全でない感想を抱いた龍麻は、
友人がそんなことを考えているとは露にも思っていないだろう京一が
手に持ったものを机に広げるのを寝ぼけ眼で見ていた。
「なぁなぁ龍麻、ちょっとコレ見ろよ」
そう言って京一が差し出したのは、一冊の雑誌だった。
既にページは開かれており、そこにはさまざまな服を着た少女の写真が何枚も写っている。
それは、龍麻も知っている少女だった。
「今をときめく現役女子高生アイドル、舞園さやかちゃんッ!
平成の歌姫と名高い実力派にして超美少女ッ! 可愛いよなァ……まだ高一なんだってよ」
京一の声を素通りさせながら、龍麻は自分に向けて微笑んでいるアイドルを見やる。
名と声を知ってはいても、顔を見たのは初めてだ。
最近、街を歩いていると良く彼女の歌が聞こえてきて、
だから名前と声は知っていたが、顔を見たことはなかったのだ。
確かに歌声は綺麗だから、顔も綺麗なのだろう──漠然とそんな風に考えていた龍麻も、
想像以上の可愛さについ雑誌を凝視してしまっていた。
朗らかな、魅力に溢れた彼女の笑顔を見ていると、確かに頬が知らず緩んでしまう。
間抜けな顔をクラスメートに晒す危険に気付いた龍麻はやや意識的に雑誌から顔を離したが、
京一は構わず浮かれたままだった。
「な、いいだろッ。さやかちゃんに較べたらウチのクラスの女なんて月とスッポン──いや、
提灯に釣り鐘、いやいや、盆と正月──」
「それはどっちもメデタイものだろッ、このバカッ!!」
もんどりうって倒れた京一に、クラス中から喝采が送られる。
龍麻は少し前から京一の後ろで小蒔が身構えているのを知っていたが、
己の身の危険を考えて何も言わなかったのだ。
それにしても不意を衝いたとは言え、顎にクリーンヒットさせて吹っ飛ばすのだから、
小蒔の実力も大したものだ。
口は災いの元、という諺(を身をもって見せてくれた京一に、
余計な同調をしなくて良かったと龍麻は身が引き締まる思いだった。
「てめェ……何しやがんだ小蒔ッ!!」
「ごッめ〜ん、だって京一があんまりバカだからさ、ガマンできなくて」
明らかに小馬鹿にした様子で言った小蒔は、今は龍麻の机の上にある雑誌を見やる。
「舞園さやか、ね……確かにカワイイけどさ」
同性であるからか、特にさやかに興味がないらしく、
興奮している京一を冷ややかに見ていた彼女は、おもむろにからかいがいのある友人に訊ねた。
「もしかしてひーちゃんもこういう子が好みなの?」
「好みっていうかなんていうか……」
惨劇を見たばかりだから、龍麻の答えが鈍くなるのは仕方のないことだった。
それが京一には我慢ならないらしく、嘆かわしげに首を振る。
「なんだよ、はっきりしねェ奴だな。んじゃ今度CD貸してやるよ。
それ聴きゃお前もさやかちゃんのトリコになんのは間違いねェからよ」
「訊くのもバカらしいんだけどさ、京一はドコがそんなに好きなの?」
熱弁をふるう京一に、小蒔がうんざりしたように訊いてみると、
返ってきたのはやはりうんざりするような答えだった。
「そりゃお前、まずあの声! カワイくてよ、なんつーか、俺が護ってやるッ!!
って気にさせられんだよ」
恥ずかしげもなく身をくねらせる京一に、小蒔は肩をすくめる。
そこに、醍醐と葵もやってきた。
話を聞いているであろう──何しろ京一の声はデカいので──二人に小蒔が同意を求めると、
予想もしていなかった返事が葵の口から発せられた。
「さやかちゃんの歌は私も好きよ。聞いていると心が安らぐ感じがして」
「だろッ! やっぱワカる奴にはワカるんだよ。あァ、さやかちゃん……」
「まったくコイツは……でも葵が好きだなんてちょっと意外だったな」
親友とは言っても音楽の好みまで知っている訳ではない小蒔は、
葵のことだからクラシックしか聞かないのではないか、と思っていたのだ。
一方強力な味方を得た京一は、ここぞとばかりにさやかの美点を並べ立てた。
「なんかよ、テレビでさやかちゃんの歌を聞いた子供の熱が下がったとか、
歩けない病気だった女の子が歩けるようになったとかよ」
「そりゃ……たまたまじゃないのか」
さすがに素直には頷けず、龍麻は控えめに否定する。
しかし京一は愛する歌姫の奇跡をすっかり信じてしまっているようだった。
「いやそれがよ、何件もらしいんだよ」
「でもなぁ」
「いいからCD聞いてみろって。そうすりゃお前も解るからよ」
幸いなことに病気も怪我もしていない龍麻が聞いても何が変わるとも思えない。
それに変わるならまず京一(の頭の方が先じゃないのか。
ちょっと口にするには憚(られることを龍麻が思っていると、
小蒔が疲れたように言った。
「京一がさやかちゃんのコト好きなのは解ったからさ、
そろそろ帰らない? ボクお腹空いちゃったよ」
「よし、んじゃ帰ろうぜ」
確かにアイドルも重要だが、空腹という現実も大事だ。
それぞれの家に帰る前に、第二の故郷とも言えるラーメン屋に帰る為に京一が言うと、
葵が小さく手を挙げた。
「あ、私」
「どしたの?」
「犬神先生にレポートを出しに行かないといけないの」
頷いた小蒔は鞄を持ちなおして二人を促した。
「んじゃボク達先に行ってるからさ、ひーちゃんと後から来てよ」
龍麻は照れ隠しに頭を掻きながらも、小蒔の好意をありがたく受けることにした。
気を利かせてくれた小蒔には申し訳ないが、せっかく二人きりになれた時間を、
龍麻はしょうもないことで消費してしまった。
「さっきの授業のノート……今度見せて欲しいんだけど」
「また寝たの?」
葵の声に咎める調子はないが、それがかえってもう怒るのも諦めたのではないかと思わせ、
龍麻は申し訳なさそうに首をすくめるしかない。
それをじっと見ていた葵は、やがて根負けしたように笑い出した。
「いいわ、でも明日も授業があるから、その後でいい?」
「もちろん。恩に着るよ」
「本当?」
疑わしい口調の葵に、龍麻は頬が熱くなるのを感じながら弁明するしかない。
「本当だって、感謝してもしきれないくらいだよ」
「その割には毎回同じことを言われてるのだけど」
「……」
やけに手厳しい葵に、龍麻は沈黙するしかない。
すると葵は更に意外なことを言い出した。
「そろそろ形に見える形でお礼が欲しいな」
「形に……見える?」
こんなあからさまに礼を要求されたことなど初めてで、
龍麻の戸惑いはいよいよ深いものとなり、途方に暮れたように葵を見た。
きらめく瞳で視線を受けとめた葵は、さりげなく告げる。
「新しいケーキ屋さんが出来てね、一度行ってみたいと思っていたの」
龍麻の、まばたきをしない目が一層見開かれた。
幸いに彼女の言っていることが理解できないほど馬鹿ではなく、
同時に自分から言い出せなかった恥ずかしさにつむじ(が沸騰する。
答えを求めるように小首を傾げる葵に、答える口はろれつがまったく回らなかった。
「そ、それじゃ……今度の日曜日、どう?」
「いいわ。楽しみにしてるわね」
軽やかに髪を揺らした葵と、事の成り行きに呆然とするしかない龍麻を、
射しこむ陽光は対照的に照らしだしていた。
二人が職員室に入ると、犬神は生物教師らしく白衣を着たまま、
淹れたコーヒーを持って自分の机に戻るところだった。
近づいてくる二人の生徒に気付いても、彼は特に態度を変えることはなかったが、
葵の後ろにいる龍麻の顔を見てわずかながら奇異な表情を見せた。
ただそれも一瞬のことで、すぐに彼のトレードマークともいえるぶっきらぼうな顔になる。
「犬神先生、レポートを持ってきました」
「あァ、確かに受け取った」
無関心とも見える態度で──教師だから当然ともいえるのだが──
レポートを受け取った犬神は、二人をじろりと見た。
その眼光には驚くほど強い力があり、
京一などと違ってこの生物教師にさほどの苦手意識のない龍麻も、内心でたじろいでしまった。
「しかしお前が遅れるとは珍しい事もあったもんだな。何か悩みごとでもあるのか」
「え?」
レポートの提出が遅れたのは単純に気に入らない点があっただけだ。
なのに変な勘ぐりをされて、葵はとっさには答えられなかった。
すると犬神はおもしろくもなさそうに龍麻一人に視線を移し、おもしろくもなさそうに訊ねる。
「原因はお前か、緋勇」
「……」
この、あまり会話を交わしたこともない教師の真意が解らず、龍麻は戸惑うしかなかった。
隣では葵が同じように戸惑っている。
犬神の顔には冗談の一片も浮かんでおらず、本気だとしたら失礼な話だった。
だがどうやら犬神は本気のようで、二人を等分に見て続ける。
「お前が色恋に溺れようが俺の知った事じゃないが、人の心は移ろい易い。
愛などというものが永遠に不変だなどとは考えるなよ」
「……」
それは高校生の、ともすれば行き過ぎになりがちな恋愛事情を諌(めるにしても、
少し手厳し過ぎるように龍麻には思えた。
ましてや自分は、デートの約束を取りつけるのさえノートを借りるという野暮ったい
遠回りをしないと出来ないくらいなのだ。
彼の心配は、まさに杞憂と言って良かった。
だからと言って反論するのも変な話であり、もともと葵についてきただけの龍麻は沈黙を保つしかない。
何も言わない龍麻を不機嫌そうに見やった犬神は、
しかしその話題を自分から打ち切り、全く別の話題に触れた。
「まァいい。そういえば裏密がお前らのことを心配していたぞ。
なんでも、お前らの背後に、八つ首の大蛇が視(えるそうだ」
「八つ首の……大蛇ですか?」
不躾(なことを言った犬神への軽い怒りはあったものの、
彼の口にした異様な言葉への不審と好奇心を隠しきれず、龍麻は問う。
だいたいにしてミサの言うことをそのまま伝える教師というのもどうかと思うのだが、
犬神はなぜか彼女の伝言を馬鹿にはしていないようで、助言までしてくれた。
「あァ。それ以上は俺も聞かなかったが、蛇は猫と並んで霊力の強い動物だからな。
精々(憑かれないように気をつけるんだな」
今度は冗談である、といわんばかりに薄く笑った犬神に、
二人はにこりとも応じずに一礼をして彼の許を辞去した。
職員室から出た二人は、同じ表情をたゆたわせたまま校門へと歩く。
薄暗い廊下では話す気になれなかったのか、葵が口を開いたのは、下駄箱まで来てからだった。
「八つ首の……大蛇って、知ってる?」
「ヤマタノオロチ……かな」
「やっぱり……龍麻くんもそう思うのね」
八俣大蛇(。
昔話が好きな子供なら一度くらいは聞いたことのある、日本神話に登場する人を食らう八本首の大蛇。
スサノオノミコトに退治され、彼は八俣大蛇に食べられてしまう予定だった櫛名田姫(を妻に迎え、
また、ヤマタノオロチの死体から天叢雲剣(を手に入れた、
というのが大まかなあらすじだ。
しかしそれが自分達とどう結びつくのか。
二人は考えてはみたが、答えなど解るはずもなく、
そうしているうちに京一達の待っている校門へと着いてしまった。
軽く手を挙げて二人を出迎えた京一が、怪訝(そうに訊ねる。
「どうした美里、浮かない顔して。犬神に説教でも食らったのかよ」
「京一じゃあるまいし、そんなことあるワケないだろッ」
「んじゃ龍麻に泣かされたとか」
「うーん……それならあるかも知れないけど……って、ひーちゃんもちょっと顔色悪くない?」
目ざとく見つけた小蒔が龍麻の顔を覗きこむ。
龍麻は何でもない、と首を振ったが、京一や醍醐までもが心配そうにこちらを見て、
思わぬ大事(になってしまった。
「なんだ、ケンカしたのかお前ら」
「そんなんじゃねぇよ」
犬神の話を皆にも聞かせようか、と考えた龍麻は、結局止めた。
自分自身でも信じてはいないことを告げても、納得させられるとも思えなかったし、
聞いて楽しい話ではないのだから、わざわざ言うことでもないと思ったのだ。
「別になんでもないからよ、さっさとラーメン食いに行こうぜ」
まだ訝(る小蒔と醍醐の肩を押し、
龍麻はすっかり通い慣れた道を友人達と歩き始めた。
<<話選択へ
魔獣行 ─前編─ 2へ>>