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 目を開けた龍麻に、光はなかった。
驚き、まだ麗司の精神世界に閉じ込められたままなのかと恐怖したが、
すぐに、単に外が夜で、部屋に明かりもなかったことを思い出した。
あまり感覚のない手を動かし、頬を軽く叩いてみる。
皮膚は確かに痛みを感じたが、それだけでは信じられず、よろめく足を踏みしめて立ちあがった。
頼りなく宙をさまよわせていた手が、ひんやりとした感触を得る。
それは、夢の世界にはなかった物──コンクリートだった。
「うーん……あれ? ボク……」
「痛ぇッ! 手前ェ小蒔、何しやがんだッ!」
「知らないよ、何にも見えないんだもん。緋勇クンは? 醍醐クンはいる?」
「俺なら大丈夫だ、桜井」
「俺も起きてるよ、桜井さん」
「良かった……ね、ボクたち戻って……きたんだよね?」
 龍麻がそれに答える前に、扉が音を立てた。
わずかな明るさが室内に入り込んできて、龍麻達を誘う。
まず自分が様子を見ようと外に出た龍麻を待っていたのは、この扉に鍵をかけた人物だった。
「藤咲……さん」
 どういう心境の変化か、あるいはもう決着はついたと思ったのかもしれない。
龍麻達を解放した亜里沙は無言だったが、犬の鳴き声を聞くと身を翻した。
「エル……よしよし。ありがとう……いい子だよ、エル」
 亜里沙が撫でているのは、子供くらいもありそうな大型のボクサー犬だった。
亜里沙にやたらと撫でられていても微動だにしないのは、訓練が行き届いているからだろう。
自分を見ても吠えることもなかったので、龍麻は、命の恩人である彼の頭を軽く撫でた。
「あんた……犬は好きなの?」
「飼ったことはないけど」
 まだ彼女にどう接して良いかわからず、短く答える。
気にした風もなく小さく頷いた亜里沙は、龍麻に続いて出てきた京一達を見て立ちあがった。
「あぁ……シャバの空気は美味ぇなぁ」
 京一が大きくのびをすると、龍麻もそれにならった。
気がつけば皆同じ動作をしており、それに気付いてお互いに笑う。
ひとしきり笑った後、あることに気付いた龍麻は油断無く辺りを見渡し、京一に尋ねた。
「嵯峨野は……?」
「向こうに倒れてるぜ。……けどよ」
 京一はそこで言葉を切ったが、亜里沙が正確にあとを引き取った。
「大丈夫。死んではいないわ」
「そうか……良かった」
 もちろん、龍麻は麗司を殺すつもりでここに来た訳ではないから、
彼がもう二度と葵をつけ狙うことはしないと約束してくれれば、それで良いのだ。
しかし、亜里沙の言葉には続きがあった。
「……でも、もう意識は戻らないかもしれない」
「──!!」
「麗司の心は、夢の世界に閉じこもってしまったから……
現実から、いじめられる毎日から逃げて、自分だけの楽園くにに行ってしまったのよ。
……あの子と、あたしの弟と同じように」
 自分達の作り出した現実に、一同は言葉を失う。
確かに自分達のせいではないのかもしれないが、そう割り切れるほど強くはない。
予想もしていなかった結末に、それを受け入れることを拒むように龍麻は口を開いた。
「弟さんって……」
「死んだよ。……このビルの屋上から飛び降りて……ね」
 亜里沙の声は麗司の王国のように乾いていて、一切の感情が無かった。
それは、膨大な感情がかえって抑えつけているのだと、理由もなく龍麻は確信出来た。
 それを裏付けるように、亜里沙は、麗司を思わせるような、ぽつぽつとした話し方で喋り始める。
「学校でのいじめが原因だった。メモ書きみたいな遺書には、
『生きていくのに疲れました。お姉ちゃんごめんなさい』──って、ただそれだけが書いてあった。
その後あたしは弟をいじめた奴らを探し出して、ひとりずつ半殺しにしてやった。
けど、あの子の受けた心の痛みはそんなもんじゃないッ。
十歳そこらの子供に、生より死を選ばせるくらいだからね。
だから、だからあたしは──」
「嵯峨野に言ったのか」
「そうよ。どんな手を使ってもいい。やられたことは、倍以上にして返してやれっ、てね」
「……」
 外見も性格も正反対に見えた二人を結びつけていたのは、想像も出来ない重い理由だったのだ。
いじめ、などというものにこれまで全く縁の無かった龍麻は、
死を選ぶほどの苦しみ、というものが容易には想像できず、黙って唇を噛み締めるしか出来ない。
それを否定と受け取ったのか、亜里沙は急激に感情を奔騰させて叫んだ。
「だってそうだろッ! 自分を殺すくらいの勇気と強さちからがあるなら、
それをやった奴に向けてやればいい。そうだろッ!!」
 怒りを叩きつけて息を切らす亜里沙に、醍醐が静かに口を開いた。
諭すような口調ではなく、自分の考えをそのまま語るような、ごつごつとした話し方だったので、
亜里沙も反発するタイミングを失って聞き入る。
「俺は──いじめられた事もいじめた事も無い。だから、こんな事を言う資格は無いのかも知れない。
だが──ひとつだけ言えるのは、自分を殺す事に力の強さは関係無いって事だ。
お前も嵯峨野も、強さってもんを誤解してる。
本当の強さは……自分の心に負けない勇気なんじゃないのか?
自分の心に負けて、何で他人に勝つ事が出来るんだ?
『力』は……そんなためにあるんじゃない。嵯峨野は──自分の心に負けてしまったんだ」
 正論ではあるが、心を挫き、自分一人の世界に閉じこもってしまった嵯峨野に対して、
あまりに酷な言葉だった。
亜里沙は屹と醍醐を睨み付けるが、その眼光に力はない。
 気まずい空気を救ったのは、これまで一言も発しなかった舞子だった。
「あぁ、そうか〜ッ。あなたの後ろにいたのって、弟さんだったのねッ」
「え……?」
「ずっと、あなたのこと心配してたよォ」
「なッ、何言ってんだッ!! 適当な事言ってんじゃないよッ!!」
 亜里沙は醍醐に反駁することが出来なかった分までこの間延びした喋り方の少女にぶつけるが、
舞子の視線は肩の上から動かなかった。
「あ……もう行くって。緋勇くんたちにありがとうって言ってるわ。
それから、あなたには──ごめんね、って。もう、僕のために苦しまないで、って」
「ふざけるなッ! 弟を──あたしを踏みにじる奴は、許さないよッ!」
 亜里沙の瞳には、龍麻達と戦った時にさえなかった剣呑な光があった。
まさに掴みかからんとしたその時、舞子が口を開く。
「あなたは、可哀想な人……自分を傷つけることでしか、人を愛することが出来ない。
だから、教えてあげる。わたしの『力』で──誰にも等しく愛が降り注いでいることを」
 舞子の身体は、雲一つ無い空のような、澄んだ水色の輪郭に縁取られていた。
明滅を繰り返しながら次第に強まるその光は、とても優しい色をしていた。
「お姉ちゃん」
 舞子の口調が変わっていた。
それは、単に声色を変えたというだけではない、声そのものが他人のものに変じていた。
少し弱々しい、まだ小さな子供と思われる声に、亜里沙の動きが止まる。
「……弘司?」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「どうして……弘司、本当にあんたなの?」
 亜里沙の声は震えていた。
あの日、弟の時計が止まってしまった日から脳裏に焼き付いて離れない、弟の声。
記憶のそれと寸分違わない声は、懐かしく、そして哀しかった。
「うん。このお姉ちゃんに手伝ってもらって、少しだけ身体を借りてるんだ。
ね、お姉ちゃん、仕返しなんてもういいから、僕の分まで──幸せになって」
 目を閉じている舞子の口から紡ぎ出される声は、少しおとなしめながらも、芯を感じさせるものだった。
こんな声の持ち主が自殺を選ぶほどに追い詰められたとは、どのような酷い仕打ちを受けたのだろうか。
会ったことの無い少年の為に、龍麻は小さく冥福を祈り、目を擦った。
手の甲を伝う熱い液体は、誰にも見られることはなかった。
「弘司ッ! ごめん……ごめんね。あたし……」
「じゃあね、お姉ちゃん。もう、行かないと」
「待って、お願い、まだ、話したいことが──」
「バイバイ」
 舞子の身体にすがりつく亜里沙だったが、弟はそっけなく別れを告げ、行ってしまった。
しかし、最後に言った別れの言葉は、本当に、本当に微かながら──笑っていた。
「弘司……ありがとう。それから……バイバイ」
 ようやくそれだけを呟いた亜里沙はその場に崩れ落ち、顔を伏せる。
やがて、静かな嗚咽が声もなく見入っていた龍麻達に聞こえてきた。
 弟を悼む亜里沙に、もう危険はない、と判断した龍麻は、そっとこの場から立ち去ることにした。
龍麻の視線を受けて頷いた醍醐が、意識を自ら殺してしまった哀れな少年の身体を背負う。
いずれ正式な病院に入院するとしても、ひとまずはたか子の病院で診せよう、というのだった。
極力足音を立てないように廃屋を後にした龍麻は、最後にもう一度だけ振りかえると、
廃屋に向かって小さく手を合わせた。
それに応えるように淡い光が瞬き、夜空に上がっていった。
それが錯覚なのかどうかは、どちらでも良いことだった。



「なんだかさ、大変な一日だったね」
 大変、どころではないように龍麻は思うのだが、
小蒔がそう言うと、これで片付いてしまった、という気にもさせられるのだった。
頷く龍麻に、腕を頭の後ろで組んだ小蒔は、ぽつりと呟く。
「結局、誰が悪いのか良くわからなくなっちゃった」
「……そうだな。いろんな小さな事が積み重なって、
気付かないうちに取り返しのつかないことになってしまう。
なぁ緋勇、お前にもそんな経験があるんじゃないのか」
「……かもな」
 醍醐に答えるべきかどうか迷った龍麻が選んだのは、あいまいな表現だった。
醍醐も詳しく訊ねるつもりはないらしく、龍麻の方は向かず、前を見たままで独白気味に語った。
「あぁ……だが、もう済んでしまったことなら、あまり気にするな。
過去に囚われて未来まえに進めなくならないように。お互いに……な」
 そこで醍醐は口を閉ざし、龍麻も小蒔も何も言わなかったために、小さな沈黙が流れた。
それを嫌ったのは、つまらなそうに会話を聞いていた京一だった。
「ッたく醍醐、そのデカい図体でウジウジしてても暑苦しいだけだってんだよ」
「なんだと?」
「ヘッ、幽霊公園出たら途端に元気になりやがって」
 あからさまに挑発する京一に一旦は眉をしかめた醍醐は、
珍しく気の利いた台詞を思いついたらしく、口元を歪めて返した。
「ふん、お前はこれから元気を無くす場所に戻るんだからな、
今のうちに減らず口でも叩いておくんだな」
「んだとてめェ、誰がいつ元気を」
 どこまで本気か判らない舌戦を止めるかどうか悩む龍麻の耳に、遠くからの女性の声が聞こえてきた。
「待って──!」
「あれ? あれって」
 街灯に照らし出される姿は、ついさっきまで敵として戦っていた亜里沙のものだった。
全力で走ってきたらしく、龍麻達のところまでやって来た後も、
しばらくは息を整えるのがやっとのようだ。
「良かった、追いついて」
 もう敵意は感じられないが、罠にかけられたこともあり、龍麻達の態度は硬い。
しかし、亜里沙はそれを意に介した風も無く髪をかきあげた。
「あんたたち……麗司を、どうする気なの?」
 少しためらった末に、龍麻が答える。
「俺達に出来ることは無いけど……今日のところは美里さんを診てもらっている病院に連れていって、
それから……ご両親に連絡しようと思う」
「そう……それはあたしがするわ。せめて、そのくらいは……」
「そうしてもらえると、助かる」
 気の乗らない役目を亜里沙が引き受けてくれたことに、龍麻は素直に感謝した。
頭を下げる龍麻に、何事か考えるそぶりを見せた亜里沙は、ややうつむきかげんで口を開く。
「ねぇ……あたしもさ、あの……あんたたちの仲間に入れてくれない?」
「はぁ?」
「別に変な意味じゃないよッ。ただ……麗司のことで連絡も取らなきゃいけないし、ねッ、いいでしょ?」
 あまりの事の成り行きに、一同は顔を見合わせるしか出来ない。
最も敵対心が強かったであろう小蒔でさえもが、
目と口で三つの丸を作って龍麻と亜里沙を交互に見比べるだけだった。
龍麻も似たような状態だったが、京一に肘で小突かれて我に返る。
「おい、どうすんだよ緋勇」
 確かに亜里沙は麗司と組んで、他の連中はともかく、葵を危機に陥れた。
しかし今回の事件の主犯である麗司は龍麻達の手の届かない世界に旅立ち、
亜里沙ももう理由無く人を傷つけはしないだろう。
それに、泣き腫らしたままの目を見てしまっては、無下にあしらうことは出来なかった。
「ま、まぁ……いいんじゃないかな」
「本当ッ!?」
 少しきつめの顔立ちを──恐らく、後天的な影響と、意識的にそうしているのだろう──、
不安げなものにしていた亜里沙は、龍麻が出した結論を聞いた途端、
それをどしゃ降りの後の快晴のように一変させて、腕を両腕で組み、嬉しそうにしがみついた。
先ほどの京一と同じく、腕に触れる豊かな胸に、龍麻の鼻の下が自動で伸びる。
「ね、緋勇くん、あたしたちって案外似合ってない?」
「ちょ、ちょっと」
 強烈な女性の香り──龍麻にはまだきつ過ぎるくらいの香りが顔の周りを漂い、
もてる割には純情な少年は頭がくらくらしてしまった。
「はぁ、なんか俺、どっと疲れが出たわ……」
「ははは、まぁいいじゃないか。これも緋勇の人徳ってやつだろう」
「人徳ぅ? 俺は単なるスケコマシにしか見えないけどな」
「本当だよね。見てよあの鼻の下、京一より伸びてるよ。もう放っといて行こうッ」
 押されっぱなしの龍麻に呆れた三人は、友人を見捨てて帰途に就くことにした。
その歩幅は早く、あっという間に龍麻は置いていかれる。
「お、おい、なんだよ急に、置いてくなよ。
それじゃ藤咲さん、俺達病院に戻らないといけないから」
「あら、もう行っちゃうの? ……じゃあね、緋勇君」
 肌をすりよせる亜里沙を振り払うようにして、龍麻は仲間達の許へ戻っていった。
大きく手を振って龍麻を見送った亜里沙は、その背中が完全に見えなくなってから、踵を返す。
街灯に半分だけ照らされた顔には、妖艶、としか形容出来ない笑みが浮かんでいた。
「強いし逞しいし、あたし……本気になりそう」

 病院の前に戻ってきた龍麻達を、待っている人物が二人いた。
自分達を待っている、と龍麻が判ったのは、その人影がこちらを見て歩いてきたからだ。
「葵ッ!」
 自分よりも先にその正体に気付いた小蒔が駆け出す。
他の仲間よりも数歩先に葵と再会を果たした小蒔の声は、
その飛ぶような足取りと対照的に詰まっていた。
「なおったんだ……良かった」
「心配かけてごめんね、小蒔」
 微笑む葵の顔は、まだ血色が良くなかったが、忌まわしい悪夢からは完全に醒めたようだった。
あれほど心配していた龍麻も、いざ本人を目の前にすると言葉が出てこず、
一歩引いて控えめに無事を喜ぶのがせいぜいだった。
自身の喜びが一段落した後で龍麻の態度に気付いた小蒔が、
意味ありげな笑みを浮かべて親友の耳に口を寄せた。
「緋勇クンにも良くお礼言っといた方がいいよ。
なにせ葵のコト学校から病院ここまで抱きかかえて運んでくれたんだからねッ」
「! そうなの?」
「うん。もう必死でさ、京一が代わってやろうかって言っても断って」
「そ、そう……」
「なんかお姫様と騎士みたいで、結構似合ってたよ」
「もう、小蒔ったら」
 顔を赤らめた葵は、それでも龍麻の前に立つと、丁寧に頭を下げる。
「緋勇くん」
「何?」
「あの……今日は本当にありがとう」
 決してその言葉を聞くために骨を折った訳ではない。
しかし、葵の口から発せられた礼の言葉は、龍麻の疲労を癒し、報いるに充分なものだった。
柄にもなく手に汗をかいて、龍麻は返事を選ぶ。
皆の注目が集まる中、龍麻が言ったのは、なんとも京一達を失望させる台詞だった。
「いや、いいんだ……美里さんこそ、怪我とか無い?」
「ええ、大丈夫。……うふふ、私ね、眠っているとき、緋勇くんや他のみんなに会ったような気がしたわ」
「そ、そうなんだ。でも、良かった」
 なんともぎこちないやり取りを行う二人を──ぎこちないのは主に男の方だったが──
辛抱強く、その実さりげなく観察していた杏子が、ここらが潮時だろうと判断して龍麻の袖を掴んだ。
「さ、感動のご対面も済んだところで、どんな事件だったのか詳しく聞かせてもらいましょうか」
「おぅ、それならアン子、そこのラーメン屋でするのなんかどうだよ」
「あら、いい考えね」
「あ、それじゃボクも行く! 緋勇クンの奢りだもんね」
 両腕を京一と杏子に、それぞれがっしりと掴まれて龍麻は連行されていく。
あわ良くば葵を送って行こうと考えていた龍麻の目論見は、
自分自身の不甲斐なさによって水泡と帰したのだった。



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