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降りる駅名を告げるアナウンスが聞こえる。
ひどく間延びしているそれは、絵莉を苛立たせた。
それでなくても車内は満員で、しかも乗客の八割がカップルときている。
絵莉もその一組に入るために今電車に乗っているのだが、
満員なのを良いことにそこかしこで抱擁している彼らに、
昔はもっと慎みというものがあった、と憤り、
それがまた年齢という、どうしようもないものを思い出させ、
扉の隅に押しつけられながら、絵莉はやるせない気持ちになっていた。
永遠に埋めることのできない、八年という時間差。
それでも彼と出会えたことが、奇跡なのかもしれない。
だが絵莉は、どうせ奇跡を与えてくれるならば、彼と同じ歳、
せめて三年以内の差に留めて生を与えてくれなかったのかと造物主に愚痴を言いたかった。
そうであったなら──そうであったなら、自分と彼は出会わず、
もし出会ったとしても二人を繋ぐ接点はまるでなく、出会っただけで終わるだろう。
宿命や運命などという言葉に頼らずとも、
絵莉はこの世界というものが砂の一粒に至るまでの偶然に積み上げられて構築された結果なのだと
知っていたが、それでも、彼との出会いは叶うなら、より望む形であって欲しかった。
彼と出会ってから、もう幾度考えたか知れないことを、
すし詰めの電車であちこちを押されながら絵莉は考える。
篭る熱気は増していくばかりであり、普段から電車の中など決して心地良いものではなかったが、
今日は特に異常なほどの熱に包まれていた。
膨張する空気の息苦しさに、いっそ駅に到着するまでの数十秒間呼吸を止めようかと考えた絵莉は、
深く息を吸いこんだ後それを実行に移した。
手で口を塞いだりはせず、ただ息を止めただけだから、臭いや息苦しさはいくらか緩和されただけだ。
それでも、与えられた状況に逆らっているという事実は絵莉を満足させた。
やがて、耐えるというほどの時間もなく扉が開き、数多の人の波と共に外に押し出される。
そのまま半自動的に改札口まで流されてしまい、
わずかな停滞も許さぬほどの勢いで背を押す人の波に、絵莉はあたふたと切符を取り出した。
彼が待っている場所へ向かうための券だというのに、
それはくしゃくしゃになってしまっていた。
電車の中で押されただけにしてはひどく折れている切符が、
機械に受けつけてもらえるかどうか、ふと不安になる。
そこで拒まれるということは、何か、もっと大きな意味が含まれているのではないか。
そう大げさに考えた絵莉だったが、切符は何事もなく吸いこまれ、後には何も残らなかった。
この東京(で生きていれば、数限りなく繰り返されるであろう行為。
そんなものに意味などあるはずがないと、解っていたことを再確認した絵莉は、
新宿駅の構内と街路との境界線で一瞬立ち止まり、
自分が歩くべき方向を見据えると早足で歩き出した。
待ち合わせの時間からは、既に三十分以上遅れていた。
絵莉の仕事を知っている彼は、笑って何時間でも待っていますよ、と言ってのけたが、
折りからの、雪でも降りそうな寒さではそれも怪しい。
もちろん、彼が悪いのではない。
遅れる自分が悪いのだと解ってはいても、彼が待ち合わせ場所に選んだ、
この季節だけに設置されるクリスマスツリーに近づくにつれて、絵莉の足取りは重くなっていった。
広場の周りは、電車の中と同じ位の熱気に満たされていた。
いや、屋外で同じ位だと感じるのだから、実際はもっと多いに違いない。
普段は急ぎ足で行き交う人々ばかりの街路は、すっかり滞っている。
騒がしいくせに、のんびりとした空気。
あまり視線を動かさないようにして歩いていた絵莉は、
吹いてきた少し強い風にコートの襟を立てた。
もう随分くたびれたコートは、買った時はもちろん気に入って買ったものだけれど、
こうして街全体が着飾っている日にはいかにもみすぼらしく見えた。
時間があったなら、無理にコートだけでも買っていたかもしれないが、
もう半時間も相手を待たせている状況ではそれどころではなかった。
八歳も離れているのに、こんなみすぼらしい格好の女を、彼はどう思うだろうか。
彼が服装を褒めてくれたことはない。
まだ高校生での彼に女性のあしらい方など期待する方が無理だとは解っているし、
そんなところに絵莉は惹かれたのではない。
だから彼は、こんな格好でも気にしないのではないか。
それは確信に近かったが、だからと言ってそれに甘んじて良い訳ではないだろう。
やはり、今からでも服を──
そんなことを考えながら、絵莉は薄暗い、といっても人の顔が見えるくらいには明るい街路から、
より明るいところへと足を踏み入れている。
ツリーの灯りが届く範囲まで、いつのまにか来てしまっていたのだ。
コートを買えなくなってしまったことを嘆きつつ、絵莉はツリーの真下に入る前に立ち止まった。
ここを待ち合わせ場所に選ぶカップルは多いのだろう、
絵莉が近づく間にも何組かの恋人達が去っていき、
それとほぼ同じ数の男女がツリーの下にやってくる。
共通しているのは、幸せそうな顔。
今自分も、彼らと同じような顔をしているのだろうか、と片隅で思いつつ、
絵莉はもう長い間待ってくれているであろう相手を探した。
彼の性格からいって、目立つ正面で待つことはしないだろう。
といって真裏で待つほどひねくれてもいないはずだ。
そう考えた絵莉は、ツリーの横から人影を探し始めた。
彼は長身だから、探すのはそれほど難しくない。
そう目論んだ絵莉だったが、先に選んだツリーの片側には、それらしき男はいなかった。
ならばもう片方に、と少しだけ早くなり始めた鼓動と、それにつられる足を御して反対側に回る。
しかし、こちら側にも彼はいなかった。
やはり、遅刻したので愛想を尽かして帰ってしまったのだろうか。
心が冷えるのを感じた絵莉は、すぐに、彼がこれまで重ねた何回かのデートで、
同じような状況で待ってくれていたことを思い出した。
というより絵莉が待ち合わせ時間より早く行けたことなどなく、
デートは常に絵莉が遅れてやって来るところからスタートしていたのだ。
だから今日に限って帰るはずがない。
けれど、今日は特別冷えるし、周りのカップルを見たら嫌気がさしてしまうかもしれない。
明滅する装飾のライトが照らし出す横顔のように、めまぐるしく入れ替わる考えを、
絵莉は断ち切るように頭を振った。
もう一度向こうを見て、それからにしよう。
結論を出すのは。
少しずつ早くなっていく動悸を、浅く息を吸って整え、最初に見た方へと向かった。
身体が覚えている、彼の頭の位置に目線を合わせ、水平に移動させる。
視線上に幾つか頭は重なるが、見慣れた頭髪はやはり見えない。
深い落胆、自分でも思っていなかったほどの落胆が、
立てたコートの襟の隙間から入ってきた。
首筋を冷たい手で撫でたそれは、そこが気に入ったのか、滞留の兆しを見せる。
幸いにして仕事は溜まっており、今日どころか年内一杯退屈せずに済みそうだ。
首筋にまとわりついたものを、振り落とさないよう俯いた絵莉は、
華やかな喧騒に背を向け、再び厭な熱気の篭る電車に乗るべく歩き出そうとした。
しかし、踏み出した一歩目が地面に着く寸前、絵莉はふと何かを感じた。
短い逡巡の末、進みかけた足を戻して視線を横向ける。
そこには彼とは似ても似つかない、少し下品とも思えるくらい髪をオールバックにした男が、
幾人かの女性に囲まれていた。
気のせいかと思ったが、目を凝らして男の顔を見る。
龍麻だった。
眉目は間違いない。
だが、男のいでたちはどうしても彼とは思えなくて、双子の兄弟か、
あるいは瓜二つの別人ではないかと絵莉は一層凝視した。
やはり男は龍麻だった。
いつのまに調達したのだろう、あずき色のシャツに黒いスーツ、その上から革のコートなど着て、
ぱっと見は別人のよう──というより別人だ。
絵莉がホストかと思ってしまったくらいだから、
年に一度のイベントに乗り遅れてしまった女子高生らしき集団には貴重な掘り出し物に見えて
当然だろう、彼の周りには三人の、やたらと派手な色の髪の、
丈が短いスカートを履いた女が群がり、なにかと声をかけていた。
彼女達の声は大きかったが周りの喧騒がそれ以上に大きく、
あるいは喧騒が大きいから彼女達の声も大きくなっているのかもしれないが、
とにかく絵莉の立っている位置からは何を言っているのかは聞こえない。
何を──聞き耳を立てる必要などない、こんな時に出てくる言葉など決まっている。
顔を歪めた絵莉は、臆面もなくそんな言葉を吐ける彼女達に嫉妬した。
さっさと断ればいいのに──明らかに迷惑そうな顔をしている龍麻に安堵しながら、
包囲網を突破するまでには至らない彼に歯がゆさをも覚える。
と言って自分から彼女達を押しのけて彼を助けに行く気にもなれず、
絵莉は少し離れた場所でいかにも中途半端に立っているしかなかった。
このまま帰ってしまおうかと、見つけた時の昂揚も霧消してしまい、つま先を半歩出す。
するとその動作で気付いたのか、龍麻が輪を強引に押し破って出てきた。
「絵莉さん!」
周囲の幾人かが振り向くほどの声で、大きく手を振って。
しかし絵莉は、ほっとしたように笑顔を浮かべる彼よりも、
彼の後ろからこちらを睨む複数の視線の方が気になっていた。
何よ、あんな年増よりあたし達の方がずっとイイじゃない──
見る目ないのね、がっかりしちゃった──
こんな距離では見えるはずのない彼女達の瞳が、そう語っているように絵莉には聞こえる。
実際、絵莉が他者の目で自分達を見たら、珍奇な組合せにそう思わずにはいられないだろう。
龍麻はひいき目ではなく格好良い。
顔立ちも整ってはいるが、それよりも内側から発散されている、
生命力のようなものが眩しいくらいに他人を惹きつけるのだ。
龍麻はどこにいても、誰といたとしてもそこで太陽となり、周りを暖かく照らし出すに違いない。
それは彼と会うごとに増えている、性別も性格もばらばらの彼の仲間達を見れば明らかだった。
彼らは皆、絵莉と龍麻とを結びつけることともなった特殊な『力』を持ってはいるが、
それだけで龍麻が身を投じている危険な闘いを共にするはずがない。
龍麻自身が持っている、ある種の才能──カリスマ性とでも言ったら良いのか、
彼と共に居たいという気にさせる魅力に、彼らは集っているのだ。
そしてそれは、絵莉も例外ではない。
渋谷の街で静かに、疫病のように広がっていた悪意について調べていた絵莉と、
それを解決すべく渋谷に来た龍麻達との接点は、初めこそ小さかったが、
幾度か出会いを重ねるうちにすぐに大きくなり、
それが彼個人への興味に移るまでもさほど時間はかからなかった。
もっともそれは、あくまでも彼の『力』と、類稀な求心力を持つ彼への興味であって、
男性として意識したことはないはずだった──彼に告白されるまでは。
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