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 ある日、龍麻に呼び出された絵莉は、彼が珍しく一人でいることに疑問を抱く暇もなく、
思いつめた眼光で今付き合っている相手はいるのか、
いなければ自分と付き合って欲しい──そう一気にまくしたてられた時、
どんな古狸や女インタビュアーと言えば身体で情報を得るという、
唾棄すべき価値観に凝り固まった男に対しても抱くことのなかった感情に囚われてしまっていた。
「え、あの、ちょっと待って。……もう一回言ってくれる?」
 動揺、そして混乱。
あげく、情報ネタに関してなら数歩先の針の落ちた音でさえ拾えるであろう聴力は異常をきたし、
取材対象の答えの、その更に一歩先のコメントを引き出さねばならない言語力も故障してしまった絵莉は、
そう言うのがやっとだった。
「俺、本気です。絵莉さんのこと……好きです」
 飾り気も駆け引きもない言葉。
それだけに龍麻の想いが凝縮された言葉に、絵莉は頷く以外にできなかった。
龍麻は自分の想いが届いたと知ると、爆発的に顔を赤らめ、脱兎の如く去っていった。
 後に残された絵莉は、まばたきを二回してからの記憶がない。
気がつけば家に戻っており、その日の予定は全てキャンセルしたのは後日、
その埋め合わせに奔走したから覚えている。
ご丁寧にコーヒーまで淹れたところで、急に絵莉は我に返り、
龍麻に何を言われたかを思い出したのだった。
 にわかによりどころを失ってしまった思考は、いくつものことを同時に、そしてバラバラに考える。
彼が冗談か、あるいは戯れで言ったのではないというのは最初に判っていた。
他人の表情をうかがい、目を読んで真意を計る職業の絵莉から見て、
告白した時の龍麻の瞳は恐ろしいほどの強さがあった。
あれで騙していたとしたら、龍麻は超がつく一流の詐欺師になれるに違いない。
でも、どうして──
絵莉の思考はそこで止まる。
 絵莉は自分の容姿に全く自信がないというわけではない。
服装はいつ誰に会っても良いよう意識しているし、スタイルだって気を使っている。
しかし彼の周りにいる女性達は自分よりもずっと可愛かったし、
何よりも年齢的に自分と彼は釣り合わない。
だから彼は、自分と付き合うはずがないのだ──
何度考えを重ねても、最後にはそこに辿り着いてしまう。
 口をつけないままのコーヒーがすっかり冷めてしまっても、
絵莉はついに明確な答えを得ることはできなかった。
 次に龍麻に会ったのは、それから一週間後のことだった。
今度は普段通り仲間達と一緒の彼は、絵莉に対しても特に変わった素振りは見せない。
あまりにもそれが徹底していたために、絵莉があれは夢だったのではないかと疑念を抱くほどだった。
夢ではないと証明されたのは、その日の夜電話がかかってきてからだ。
昼間とはまるで違う早口で、昼間は済みません、あいつら、
特に京一が勘が鋭いから気付かれないように、と、しきりに謝る彼の声を電話口で聞きながら、
絵莉はようやく、自分達はいわゆる恋人同士という関係になったのだと自覚した。
自覚はしたけれど、それが確乎かっこたるものになるには、更に一週間を必要とした。
龍麻と二人だけで会って、まだ心のどこかで疑っている自分がいたことに初めて気付いたのだ。
 肩を並べて街を歩き、食事をする。
たったそれだけの他愛ないことが、とても新鮮な喜びをもたらしてくれた。
彼の話を聞き、相槌を打つことがただ楽しかった。
龍麻とのデートは仕事に邁進まいしんしていた絵莉にとって、
久しく忘れていたものを思い出させ、すり減った神経を癒してくれる大切な時間となるのに、
時間はかからなかった。
 それからも、彼との付き合いは遅々たるものだった。
絵莉もフリーのルポライターとして地歩を固めつつある時期で、
休日らしい休日がない状態だったし、龍麻は龍麻で常軌を逸した闘いに身を投じていたから、
デートと呼べるようなもの自体が数える程度しかないというのもあったが、
あれほど直情的に告白してきた龍麻が、
いざ付き合ってみると今時はとっくに絶滅したと思われていた純情な少年であり、
その奥手ぶりは自分でも奥手だと思っている絵莉よりも数段上と思われるものだったのだ。
 そんな龍麻を、絵莉は嫌いになったりはもちろんしない。
肩透かしを食った気分はわずかながらあるものの、彼の初々しい反応は見ていて飽きなかったし、
そんな彼をからかってみるのは小悪魔めいた気分を味わえて楽しかった。
しかし楽しい時間が増えれば増えるほど、絵莉の裡には同時に不安が育まれていった。
 彼との、八年という時間差。
それは絶対的な差であり、きっと龍麻が考えている以上に大きなものだ。
今は彼は意識していないようだが、意識したらどうするか。
いつか、否応無しに訪れるその時、彼は自分の許を去らないでいてくれるだろうか。
どうせ悲劇を迎えるのなら、これ以上本気になる前に──
そう思いもする絵莉だったが、もう時遅いことも解っていた。
龍麻と円満に別れ、元の情報提供者兼頼れる年長者という役割に戻るには、
深入りしすぎていたのだ。
彼と会うごとに想いは募り、彼の声を聞くだけで胸が高鳴る。
自分がそんな、少女のような心を持っていたなどとは露知らなかった絵莉だが、
それを自嘲することもできないほど、龍麻に惹かれていた。
 自分の想いに気付いてから、絵莉は臆病になった。
癖を直し、些細な挙動にも気を遣い、彼を失望させないように振る舞う。
そんなことは龍麻も望んでいないと判っていても、そうせざるを得なかった。
自分が彼の周りにいる女性達に対して覆しようのない不利を抱えていることを絵莉は知っており、
それを少しでも補わなければならなかったのだ。
しかし気をつければつけるほど、龍麻との会話の端々に、年齢を意識させられてしまう自分がいる。
絵莉は職業柄女子高生にインタビューなどで接する機会も多いから、
精神的には若く、感性も鈍ってはいないと思っていた。
だがやはり八年という差は、容易な努力で埋められるものではなかったのだ。
 絵莉はそれを、始まったばかりのクリスマスイブの夜に思い知らされる。
いかにも歩きにくそうな厚底のブーツに、絵莉にはもうとても履けない短いスカートを履いた、
龍麻に声をかけていた少女の一人が、絵莉を見て何かを言ったのだ。
何を言ったのかは聞こえないが、彼女達の目を見た時に脳裏をよぎった侮辱の言葉であることは、
彼女達の表情からも明らかだった。
 顔が青ざめる。
自分では見ることのできない自分の顔色を、絵莉ははっきりと見ていた。
世界が単一色に変わる。
閉ざされていく感覚は視覚に留まらず、賑やかな街の音が聞こえなくなっていく。
その中には、龍麻も含まれていた。
「絵莉さん?」
 だが龍麻の声、声変わりはとうの昔に終わっているにも関わらず、
どこかに少年の趣を残した、生命力にあふれた声は、すんでのところで絵莉を救った。
「あ、ええ、ごめんなさい、遅くなってしまって」
「言ったでしょう、何時間でも待ってますって」
 くらい心を振り払い、絵莉が繕った笑顔を浮かべると、
龍麻は本当に気にしていないというように笑った。
少しぎこちなく見えるのは、きっと寒さのせいだろう。
寒い中小一時間も待たせてしまったことを改めて詫びると、
龍麻は少し緊張した面持ちで隣に並んだ。
「行きましょう、絵莉さん」
 白い息を吐き出し、いつになく積極的に手を繋ぎ、どこかに向けて歩き出す。
彼の手の温かさに安らぎを感じながらも、絵莉の心中はそれだけでは済まない。
いつかこの温もりが、遠ざかってしまうのか。
彼を失望させる日が、遠からず訪れるのではないか。
龍麻が強く手を握ってくるほど、その考えから逃れられなくなる絵莉だった。

 絵莉は特に、出会ってからの予定は決めていなかった。
クリスマスイブだからといってはしゃぐ年齢でもない。
食事をして、話をして──その後もし龍麻が求めてきたら、
それはそれで構わないが、多分龍麻はそうしないだろうという予感が絵莉にはあった。
いや、会うまではそう思っていたのだが、彼の服装と態度を見ていると、
もしかしたら予感が外れるかもしれない、という気もし始めていた。
服装にせよ、髪型にせよ、これだけ準備を整えているのだ。
加えて龍麻は思春期──というより、さかり・・・のつく年頃なのだし、
普段どれほどおとなしくても、この、
憑かれているような雰囲気漂う街にあてられてはどうなるかわからない。
絵莉はちらりと視線を龍麻に向けたが、普段と随分様子が違う横顔を見ただけでは、
彼の内心まで見透かすことはできなかった。
 視線に気付いた龍麻が振り向く。
重なった視線に、絵莉は何かを言わなければならず、少し迷った末にもっとも無難なことを訊ねた。
「どこか行くあてがあるの?」
「え、ええ……フランス料理の店を予約してあるんですけど」
「あら、素敵じゃない」
 絵莉の驚きは、まるきり演技というわけではなかった。
別に高級な料理など絵莉は欲していないが、一介の高校生にとって決して安くないであろう食事は、
そのまま彼の覚悟を表していると言って良いだろう。
金を愛情に換算することなどできはしない。
しかし女は、男が幾ら自分に金を費やしてくれるかを、確かに尺の一つとして使うことがあるのだ。
以前に龍麻以外の男から、そういった思惑が透けて見える贈り物を何度か受け取ったことがある絵莉は、
そういった考えを嫌っていたが、龍麻の覚悟は受け入れなければならない。
 硬い笑いを浮かべる龍麻に、絵莉も同種の笑みで応える。
それは絵莉がもっとも嫌いな、取り繕うための笑顔だった。



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