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 二人はいつしか、言葉を交わさなくなっていた。
龍麻が黙っているのは、緊張しているからだ。
では自分が何も言わないのは何故なのだろうと、絵莉は自問する。
同じく緊張しているからだろうか。
それも確かにある。
しかし、今絵莉の唇を縫い合わせているのは、待ち合わせ場所に居た少女達の顔だった。
いつもなら歯牙にかけることもない、鼻で笑い飛ばせるような悪意。
たやすく抜いてしまえる棘が、何故か今日は矢尻となって心に刺さっていた。
龍麻は──龍麻もいつか、彼女達と同じように自分をわらい、捨てるのではないか。
そうなった時に悲しみに暮れるよりは、いっそ、今。
そんなことができるわけがない。
もう龍麻がいなければ、すぐにでも駄目になってしまうくらい彼に惹かれているのに、
彼を信じ切れない自分の愚かさ。
絵莉はもはや、自分で何を考えているのかも判らないくらいの混乱に陥ってしまっていた。
それでも、普段の絵莉なら、何時間か、
遅くても一日あればそんなネガティブな考えなど捨て去ってしまえたに違いない。
しかし今日は、世界の大部分が主の降誕を祝う前夜祭は、絵莉にとってあまりにも日が悪かった。
ひとつひとつなら無視してしまえる小さな悪意が、幾重にも積み重なって襲いかかる。
 更に今、その最後の一滴となるものが、静かに空から降りようとしていた。
「あ……」
 龍麻が呟き、立ち止まる。
夜空を見上げた彼に倣った絵莉が見たのは、急速に視界を染めていく白い落下物だった。
 折りから下界の騒がしさにうずうずしていた雪が、とうとう我慢できなくなったのだ。
最初の一片が地面に着くと、堰を切ったように降り始める。
東京のアキレス腱であり、何年かに一度は交通網がマヒして街を大混乱に陥れる厄介者も、
今日この日に降る分だけは歓迎されるのだ。
 恋人を化粧する白い粉にあちこちで歓喜の声があがり、
それは龍麻のところにも、そして絵莉のところにも平等に訪れる。
しかし絵莉には、彼らのところに届けられているものと、
自分の肌を冷やすものとが同じだとは、どうしても思えなかった。
 彼の掌で暖められていた心が、ほんの、小指の先よりも小さな雪片で冷やされて、
襟のところで息を潜めていたものが目覚める。
絵莉の世界は、再び単一色モノクロームに染まっていった。
「雪だ……急がないと」
 立ち止まり、空を見上げた龍麻が、微笑んで再び前を向いた。
しかしさっきは絵莉を救った声も、今度は届かない。
降る雪が、白い壁となって邪魔したかのようだった。
歩き出した龍麻の手が、自然と離れていく。
それを追いかける気力は、なかった。
「絵莉さん?」
 立ち止まった絵莉に気付かず二歩ほど歩いたところで、龍麻が振り返る。
彼の、薄い不安が浮かんでいた顔が、急に見えなくなった。
「ごめんなさい……私……」
 龍麻の前でみっともないところを見せてはいけない、
人前でいきなり泣き始める女になど、彼はきっと愛想を尽かす。
泣き止まなければと思っても、感情は奔流となって両目からあふれ出し、まるで抑えられない。
戻ってきた龍麻が肩に手を乗せたことで、それは最高潮に達し、絵莉は人目もはばからずに泣いた。
「絵莉さん」
 困り果てた龍麻の声。
彼に原因など何もないのに、心配させてしまっている自分が恨めしい。
しかし嗚咽は絵莉から声帯を完全に奪い、謝らせることさえ阻んだ。
 冷たい雪は途切れることなく落ちかかり、冷気が身体を、心を冷やす。
 更に流れ出る涙によって全ての温もりをも奪われ、
絵莉が絶望に泣いていると、不意に冷たさが途切れた。
感覚が失せていた髪に、強張っていた背中に、感じる力強さ。
スーツを汚してしまう──そんなことを考えながらも、絵莉は龍麻から離れられない。
「絵莉さん」
 なだめるような、龍麻の声。
せめて何か言わなければ、言って彼には何の罪もないことを伝えなければ。
涙は止まらず、喉もまだ言うことを聞いてくれなかったが、とにかく絵莉は鼻を啜り、顔を上げた。
「……」
 龍麻は今、何と言った?
おかしくなってしまっている聴覚のせいで、聞き逃してしまった言葉。
絵莉は喘ぎ、彼が何と言ったのか問おうとする。
滲んだ視界の向こうから龍麻の顔が近づいてきたのと、
問おうとしていた言葉が唇に触れたのはほとんど同時だった。
 触れた唇は火傷しそうなくらいに熱く、
口腔から滑りこんできた言葉は焦がれるほど愛おしく、
絵莉は両腕を龍麻の背に回し、いつまでもくちづけを交わす。
世界は既に、モノクロームではなくなっていた。

 クリスマスイブとはいえ、路上でキスをするのはやはり大胆な行為らしく、
ひやかしとやっかみの口笛、それと何故か拍手が起こる。
我に返った絵莉は、どうしようもない気恥ずかしさに襲われて、龍麻の胸に顔を埋めた。
しかし、もうこの場では何をしても注目を集めるだけで、新たな拍手が湧いてしまう。
ここでようやく龍麻も自分が何をしたのか気付いたのか、絵莉の手を取ると、大股でこの場を去った。
 龍麻の早足は、絵莉でさえもついていくのが辛いほど速い。
だから絵莉は、離れてしまわないよう、固く手を握った。
強い力で握り返す龍麻に、負けないくらい固く。

 涙で顔をくしゃくしゃにしてしまった絵莉に、龍麻はせっかく予約した店をあっさりと諦めていた。
絵莉は行くと言い張ったのだが、どのみち時間も過ぎちゃっていますから、
と言われると返す言葉がなく、結局二人はコンビニで弁当を買って絵莉の家で食べることにしたのだ。
 男の甲斐性を踏みにじってしまった気がして、絵莉は食後のコーヒーを出しながら謝る。
「さっきはごめんなさいね」
「いいんですよ、もう」
「でも、せっかく予約してくれたお店も駄目にしてしまって」
 礼を言ってカップを受け取った龍麻は、照れた笑みを浮かべた。
それは絵莉が見た中で、もっとも大人びた笑みだった。
「実は俺、テーブルマナーなんて何も知らなかったから、
ちょっと良かったって思ってるくらいなんです」
 気を遣っているのがありありとわかる龍麻に、絵莉はひっそりと笑っただけで答えなかった。
 龍麻の顔に不安が浮かぶ。
何か気まずくなるようなことを言ってしまったのだろうかと心配する彼に、
絵莉は堆積していた思いを告げていった。
それは吐き出してすっきりする類のものではないが、心配させた詫びに、
どうしても言わなければならないことだった。
 相槌すら挟まず、黙って聞いてくれた龍麻が、やにわに顔を上げる。
彼の眉には決意が、口許には覚悟がみなぎっていた。
「あの、俺……確かにまだ全然頼りないですけど、
そんな、絵莉さんを裏切ったりするようなことは絶対しません」
 青臭い台詞。
絵莉は以前にも別の男から似たような台詞を聞いたことがあったが、
その男は絵莉が自己研鑚のためにヨーロッパに行くと告げるとあっさり離れていった。
それ以前からその男との間には距離ができ始めていたから、別れ自体は予想できていた。
それでも絵莉がショックだったのは、言葉など結局偽りで、
どれほど人を動かす言葉でさえも、嘘として人は吐けるという現実を突きつけられたことだった。
読む人にどんな小さくても感動を与えられる文章を書きたいと志してジャーナリストの道を選んだ
絵莉にとって、それは認めてはならないことだったのだ。
 それで挫けてしまうほど子供ではなかったが、
その現実が嘘であると証明しようとするかのように絵莉は仕事に没頭した。
元から男性に頼らなければ生きていけない性格ではなかったし、
不規則かつ忙しい仕事は一人で生きる格好の言い訳になってくれた。
 しかし、絵莉は今、龍麻にすがりたいと思っていた。
本当に大切なのは、年齢などではない。
龍麻はまだ二十歳にもなっていないが、包容力は世のどんな男性にも優っている。
依存はしたくない──が、ほんのわずかでいいから安らぎを与えて欲しい。
そして、叶うことなら彼に安らぎを与えたい。
それは、決して過ぎた願いではないはずだった。
「ありがとう、嬉しいわ」
 その台詞を社交辞令ととったのか、龍麻はほんの少しだけ不満を浮かべて再度告げた。
「俺は本気です。……それとも、俺じゃ駄目ですか」
「そうじゃないの」
 駄目なはずがない。
それは絵莉の方こそが鏡に向かって何度も自問していたのだから。
ただ、それを言葉で説明するのは困難だ。
そう思った時、絵莉は自然に立ち上がっていた。
龍麻の許に歩みより、さっき彼がそうしてくれたように肩に手を乗せる。
「ベッドで待っていて。……シャワーを浴びてくるから」
 身体を強張らせ、振り向こうとする龍麻を制した。
「お願い」
 龍麻から返事はなく、頭が小さく動いただけだった。
 絵莉は彼を残し、バスルームへと向かった。



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