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 バスローブを纏った絵莉が寝室に入ると、
ベッドに腰かけ、石像と化していた龍麻が、弾かれたように顔を上げた。
絵莉は期待と、それに勝る緊張で揺れる龍麻の隣に座る。
座るまでずっと追いかけてきた視線は、至近に白いバスローブを捉えたかと思うと、
困ったように引き返し、持ち主の膝へと落ちた。
全く知らないわけでもないだろうに、とあまりに純朴な少年に、
こみ上げそうになる笑みを抑え、絵莉は彼の手にそっと自分の手を重ねる。
「脱いでいても良かったのに」
 案の定、拳が凝集する。
拳の表面を促すように、その実それ以上の意味を込めて撫でると、
龍麻は喉から絞り出したようなしゃがれた声を出した。
「あ、あの、それは……でも……」
 たぶん今事態は、彼の想像を超えた方向に進んでいるのだろう。
それが絵莉には判ったが、だからといって絵莉に余裕があるわけでもなかった。
特にこうして年少者があまりに緊張している場合、年上がリードしてやらなければならない。
絵莉にとってもそれは初めての経験で、龍麻の手を撫でる掌は自然と汗ばんでいた。
大きな音を立てて、龍麻が唾を呑みこむのを聞いた絵莉は、肩をそっと触れさせる。
「お、俺もシャワーを」
 逃げるように立ち上がりかけた龍麻の袖を掴む。
中腰の龍麻の顔には、狼狽がはっきりと浮かんでいた。
「待って。……そのままでいいわ」
「でも」
 何を言い出すのだろう、と視線で問うている龍麻に、絵莉は視線で答える。
やがて強張った腕から力が抜け、龍麻は元いた場所に座った。
 どうしてかは自分でもわからないが、絵莉は急に、どうしても彼の匂いをベッドに残したくなったのだ。
まだ体臭も少なく、煙草やオーデコロンの匂いも染み付かせていない龍麻は、
きっと彼が去ってしまったら匂いなどいくらも残らないだろう。
それでも、絵莉は彼の香りを欲しいと思った。
 行動を遮られてしまった龍麻は、混乱しきっているのだろう、俯いたまま何も言わない。
絵莉が意を決してスーツのボタンに手を忍ばせると、龍麻はまた逃げるように立ち上がった。
「じ、自分で脱ぎますから」
 そう言って脱ぎ始めた龍麻は、上着の次はベルト、
その次はネクタイと、順番も脱ぎ方もでたらめだった。
見ないようにしながら見ている絵莉の前で、だいぶ遠回りをして服を脱ぎ終えた龍麻は、
下着姿で絵莉の隣に腰を下ろす。
もちろん龍麻は脱いだ服を気にする余裕などなく、脱ぎ散らかされた衣服は、
これからしばらく現実から遠ざかる行為をしようとする絵莉にひどく現実的な考えをさせた。
「駄目よ、スーツはきちんと掛けておかないとすぐしわができちゃうのよ」
 立ち上がり、スーツをハンガーに掛けてやった絵莉は、龍麻をたしなめておいてすぐに苦笑する。
「いやね、やっぱり……歳なのかしらね」
 もう、それを冗談として使えるくらいに絵莉は立ち直っていた。
 彼との差は縮まらない。
けれど彼は、それでいいと言ってくれる。
ならば絵莉に、迷う理由はなかった。
 考えこむ表情になったのは龍麻の方で、絵莉は束の間、
冗談と受けとって貰えなかったのだろうか、と不安になる。
すると龍麻は、苦笑いして秘密を告げた。
「俺、絵莉さんの隣にいるとどうしても子供っぽく見えちゃうから、無理してあれ買ったんですよ」
「そうだったの?」
「ええ。結果は散々でしたけど」
 龍麻が言う結果とは何か、絵莉は考える。
幸いなことに、龍麻が怪訝そうな顔をする前に答えは解った。
 待ち合わせ場所にいた、数人の女性。
きっと龍麻は、絵莉が着く前に、彼女達以外にも幾人かに声をかけられていて、
それを断るのに多大な労力を払わなければならなかったのだ。
そして、龍麻はそれを散々だった、と言う。
 情動に満たされ、絵莉は龍麻の頭を優しく抱き寄せた。
龍麻はしばしためらった後、頭を擦りつけてくる。
控えめに回された腕に、絵莉は逆らわなかった。

 龍麻が身じろぎする。
腹で、女にとって一番大切な場所でそれを感じ取った絵莉は、ゆっくりと身体を落とした。
床に膝立ちになり、ベッドに座る龍麻よりも下から見上げる。
映るのは、過度の緊張に満たされた黒い瞳。
乱れた髪を整えてやると、絵莉は目を閉じた。
龍麻がしやすいように、と思ってそうしたのだが、
そこから唇に彼を感じるまでは、思いの外長い時間があった。
待つことには慣れていても、こういう時に待つのは初めての経験で、
絵莉は思わず一度目を開けてしまおうかと思ったほどだった。
それでも、長い──実際には十秒ほどだった──辛抱はやがて報われ、硬い唇が押し当てられる。
二度目のキスは、最初よりもぎこちなかった。
歯が当たるくらいの勢いがあった路上でのキスを反省したのだろうか、
絵莉の意識には幸福感の他に、もどかしさが浮かぶ。
しかし龍麻は、それきり何もしてこない。
キスに酔いしれながら、大人の狡猾さで彼に不満をも抱いた絵莉は、そっと口を開け、彼の唇を舐めた。
「……!!」
 龍麻は驚き、目を見開く。
あまりに初々しい反応に、絵莉はすがりついた。
彼らしくない、整髪料の感触がする髪を抱き寄せ、舌で唇をなぞりあげて伝える。
いくら龍麻が純朴だといっても、こうしたやり方を知らないはずはなかったが、
彼が絵莉の期待に応えてくれるまでには、また何秒かを要さなければならなかった。
恐る恐るというのがはっきりと判る遅さで、舌が出てくる。
自分がこんな初々しかったのはいつの頃だったろうか、と思いつつ、
絵莉は舌先を驚かせないよう触れさせた。
急速に快感が広がっていく。
どんな舌触りの良い食物よりも、甘美な感触。
龍麻もそれは同じ、いや、初めての分快感はより強いだろう。
それを裏付けるように、肩に乗せられた掌に力が篭る。
掴む、というよりも握るに近いくらいの強さは、若干の痛みを伴ったが、
絵莉はそのままにさせておいた。
 探るように求める舌が、口の中に入ってくる。
それに応え、龍麻をより深くへと導きながら、絵莉は開けた唇を強く押し当てた。
「……っ」
 唾液の絡む音がこもり、卑猥な音色となって口内に響く。
舌先から少しずつ溶かされていくような心地良さは、これまでに感じたことのないものだった。
粘りを増していく唾液を龍麻と捏ねていると、身体が火照っていくのを感じる。
乱れたくなる、という想いに、絵莉は初めて囚われていた。
龍麻の、逞しい身体に掌を滑らせ、その肌触りを愉しむ。
所々に隆起がある筋肉質の、男の肉体。
肩から背中へ愛撫を落とし、これから組み敷かれることになる肉体の感触を隅々まで確かめ、
絵莉は一度唇を離した。
龍麻の顔を見たくなったのだ。
 わずかに顔を、額まで紅潮させている龍麻は、
大人の、というより淫靡なくちづけに驚いたように目を寄せ、しきりにまばたきをしている。
大人と子供を同居させた表情を、絵莉がうっとりと眺めていると、龍麻が口早に訊いてきた。
「あ、あの……もう一回、したら駄目ですか」
 あまりにも愚直な龍麻に、絵莉は軽く吹き出さずにはいられなかった。
龍麻の瞳を覗き上げ、人差し指で額を小突く。
「そういうことはね、訊く物じゃないのよ」
 たしなめられ、顔を真っ赤にして俯く龍麻の顎に指を添える。
それでも直視できないらしい龍麻に、絵莉は自分から目を閉じた。
今度はさっきよりも早く、唇が触れる。
拙速に口をこじ開けようとする舌に、少しだけ抗ってみせると、
龍麻は体重を乗せ、覚えたての快楽を強引に貪ろうとする。
口唇を龍麻に委ね、絵莉は彼の重みを受けとめるべく四肢の力を抜いた。
 おずおずと伸びた手が、乳房を掴む。
彼の愛撫は東京を護っている拳とは思えないほどぎこちなく、
それは正しく十八歳の手つきであり、絵莉は嬉しくなった。
表情に出したりはしないが、心持ち身を寄せ、彼に触れて欲しいのだと伝える。
龍麻はそれに応え、少しずつ動きを大胆にしてきた。
 まだ力の加減を覚えていない手は、時に快感よりも苦痛を絵莉の胸に走らせる。
だが、絵莉が微かに拒絶の気配を示すと、龍麻はすぐに改めてくれ、
次第に穏やかな波のような快感が続くようになった。
 一部が硬くなり始めたことに気付いたのだろう、指の動きが慎重になる。
「ん……ッ」
 思わず身震いしてしまう気持ち良さが、じわりと胸の頂から下りてきた。
龍麻は新たな興味を見つけた子供のように、同じ場所を何度も擦ってくる。
快感は乳房だけではすぐに受け止めきれなくなり、手足の先へと伝わっていった。
しがみつく力さえ失くしてしまい、絵莉は床に座る。
 温かな快感が満ちていく。
頭の先まで包みこんでくれるその温かさに浸かる寸前、龍麻の瞳が絵莉を照らした。
眩い輝きが、闇を消失させていく。
しかし、意識していなかった闇は、光に照らされることで存在を露にしてしまった。
「本当に……私でいいの?」
 意味がないと解っていても、訊いてしまう。
言葉は、どんな真実も創り出せるから。
どんな虚構も創り出せるから無駄なのだともう知っているのに、絵莉は訊かずにいられなかった。
 さっき龍麻に問われた時、絵莉は答えなかった。
言葉の無意味さと無力さを知っていたから。
でも龍麻は、まだそれを知らない少年はこの問いになんと答えるだろうか。
訊いてしまったことを恥じながらも、絵莉は彼の答えに興味を抱いていた。
「俺の愛してるのは……絵莉さんだけですよ」
 陳腐な台詞。
龍麻の返答は、死語と言っても良いくらい歯の浮くようなもので、まさに虚構の塊と言えるものだった。
それなのに。
それなのに龍麻の声は、心のどこよりも深くに染みこみ、溶けていった。
「龍麻……君……」
 頬を紅潮させながらも、目は決して照れていない。
一途に絵莉を、絵莉だけを見つめている黒い輝き。
それこそが求めていたものだと気付いた絵莉は、その輝きを手繰り寄せた。
「私もよ。私もあなたのこと……愛しているわ、あなただけを」



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