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時計を見上げ、マリアは何度目かの吐息をついた。
時間は彼が帰ってきているはずの時間をすでに過ぎている。
『刻』が至るまで、彼には行動の自由を与えているし、
彼は逃げないという確信をマリアはすでにしていたから、どこかで泊まってきたとしても騒ぐことではない。
にもかかわらず、自分が苛立っていると気づいたマリアは、慣れというものは怖ろしいと苦笑した。
それにしても、連絡がないというのは、何かあったのだろうか。
彼の身を案じる立場であるマリアは、すぐにその可能性を否定した。
龍麻は人間ならばおよそ対抗できないほどの『力』を有しており、
銃でも使われない限り、何人束になっても彼には勝てないだろう。
そしてマリア以外に彼の秘密を知る存在は、人ならざるものを含めてもほとんどいないはずで、
突発的なトラブルに遭ったとしても、問題なく対処できるはずだ。
では何が――となると、マリアの思考はそこで止まってしまう。
彼の交友関係はこの半年間から見て極めて狭く、皆無といってよいくらいだ。
誰かと遊んで時間を忘れた、というなら可愛いものだが、学校で見る限り、
龍麻は同級生との会話すら避けているようで、それもまずなかった。
交通事故やその他の事故ならば可能性はあるが、
いずれにしてもマリアには待つしかなく、数百年復讐の刻を待ち続けた女吸血鬼は、
たかだか数時間が我慢できないとばかりにため息を積み重ねた。
ため息に形があったなら、そろそろテーブルも一杯になろうかという頃。
何の音もない、東京の中心部とは思えないほど静かな空間に、滑稽なほどけたたましい音が響き渡った。
優雅に、しかし素早く立ちあがったマリアは、
人間の生みだした人工の音などに驚かされなどしない、
とばかりに罪のない電話機を睨みつけてから受話器を掴んだ。
この電話番号を知っている者はごく少なく、このタイミングでかけてくる可能性が高いのは当然一人だ。
マリアの予想は的中し、受話器から話しかけてきたのは聞き覚えのある声だった。
「マリア先生ですか? 龍麻です」
「どうしたの? 電話なんて珍しいわね」
努めて明るい声で、冗談まで口にしたのは、龍麻の一声にただならぬものを感じたからだ。
器械越しの声を聞くのは初めてだったが、名乗らなければ龍麻かどうか判ったかどうか
怪しいくらいに彼の声は疲れていた。
「すみません、今日は泊まっていきます」
「構わないけれど……今どこにいるのかしら?」
「俺の家です」
「そう……わかったわ。明日は帰ってくるのね?」
「はい、午前中には戻ります」
受話器を置くまで何があったのか問いたい衝動を抑えるのに、マリアは満月の夜ほどの自制を強いられた。
話せる事情ならば龍麻は帰ってくるだろう。
話せない、あるいはしばらく時間が必要だからだと判断したからこそ、
龍麻はこれまで掃除以外では戻ったことのない自分の家に戻り、泊まると電話してきたのだ。
生殺与奪の権利を有しているとはいっても、踏みこんではならない領域はある。
マリアはそれをわきまえているつもりだった。
教師として生活を始めた四月以前、マリアに朝早く起きるという習慣はなかった。
人間社会に潜むことを余儀なくされてからでも働く必要はなかったからで、
夜の眷属であるマリアにとって、太陽など忌々しいだけの物体でしかない。
浴びると灰になってしまうなどという人間たちの迷信は虚構であるとはいえ、
太陽の光は快いものではなく、数年前に初めて東京の夏を体験したマリアは、
本気で復讐をやめて故郷に帰ろうかと考えたくらいだ。
それほど不快な暑さをもたらす東京という地に住み着いて三年。
『黄龍の器』を探すために人間社会に溶けこんできたマリアの、考えは変わっていない。
下品で傲慢で怠惰な、滅ぼされて然るべき存在。
この生物が存在しなければ、どれほど地球は豊かな星であったことか。
彼らに滅ぼされた生命の数を思えば、憎しみが失せる道理などない。
人類がこの地球を支配して数千年、そろそろ交代の刻のはずだ。
陽に傾きすぎた天秤を、闇の方に戻す。
もう少し、あと数十日でその望みが叶うのだ。
そのためになら心地よい闇の愛撫を振り払い、苛烈な陽の下に出るなど、どれほどの問題でもなかった。
払暁から朝へと移ろう、闇に住まう者としてはもっとも名残惜しい時間に、マリアは目を覚ます。
それは普段、日本に来てからの起床時間と同じであり、故郷に居た頃とは正反対、
つまり眠りに就く時間だった。
陽光の射さない部屋で半身を起こしたマリアは、剥きだしの背中に寒さを覚えるでもなく、
小さく欠伸をする。
それから傍らの時計に目をやり、紛うことなき朝であることを確認すると、今度は小さくため息をついた。
今日は学校が休みの日であり、こんな時間に起きる必要はない。
にもかかわらず律儀に目を覚ましてしまったのは、人間の習性に知らず馴染みつつあるのかと自嘲したのだ。
ため息を収めたマリアは、顔を左に向ける。
そこに残っているべき気配は、どこにもなかった。
半年ほど前に加わったもっとも新しい習慣は、いつのまにか馴染んでいたのか、
それが破られたことに対して軽い苛立ちを覚える。
夫婦でさえ時に片方が外泊することはあるはずで、その都度こんな苛立ちを覚えたりはしないはずだが、
初めて龍麻の居ない朝を迎えたマリアは、もう少しで舌打ちしてしまうところだった。
感情に起伏が生じたせいで、眠気もどこかへ去ってしまう。
龍麻は午前中に戻ると言ったが、こんな早い時間に戻ってくるはずはなく、
といってすっかり冴えた頭でもう一度ベッドに潜りこむ気にはならなかった。
仕方なくベッドから下り、居間に移動する。
寝室のドアを開けて一歩踏みこんだところでマリアははたと立ち止まった。
出勤までの時間、何をしていただろうと思い悩んでしまったのだ。
台所に龍麻が立っていて、その横を通って顔を洗いに行く。
洗面所から戻ってくる頃には朝食の用意ができていて、紅茶を啜りながら新聞に目を通すのだ。
たったそれだけのことを思いだすのに、ずいぶんと時間を必要とした。
それほど龍麻に依存しているという自覚は、マリアにはない。
彼はこの半年間だけ共に生活している、それも逃げださないようにという監視の意味合いが強い相手だ。
数百年独りで生きてきたマリアにとって必要なパートナーではなく、
朝食にしたところで吸血鬼には無用の物で、龍麻が二人分作っているだけのことだ。
あまりに無駄に思え、止めるよう進言してみたこともあるが、
一人分も二人分も手間は変わらないと言われれば、
ほとんど住んでいない彼の住居を擬装のためにそのまま借りさせているマリアにそれ以上強く言うことはできなかった。
記憶力の低下が始まったのか、と埒もないことを考えた無限に等しい寿命を持つ闇の住人は、
もしかしたら低調なのは彼の血を吸っていないからなのかもしれない、とさらに埒もないことを考えた。
龍麻の――『黄龍の器』の血は、確かに吸血鬼にとって最高の栄養だった。
重要なのは龍脈からほとばしる氣をその身に受けとめられる能力であって、
食料として彼を欲したのではない。
だが、一口啜った途端にその考えが間違っていたことを、
エクスタシーにも似た恍惚を感じつつマリアは思い知ったのだ。
もしも、仲間がもっといた頃に『黄龍の器』の存在が知れ渡っていたら、
彼を求めて吸血鬼は相争い、滅亡していたかもしれない。
この世に一人しか存在しない禁断の果実。
そしてそれを食することができるのも、現在ではマリア・アルカードただ一人。
それが幸であるか不幸であるかは、論ずるに値しないことだとしても。
居間に一歩入ったところで立ちつくしている、それも生まれたままの姿で、
という点は気にもかけず、そこまで思いだしたマリアは、紅茶を淹れようと決めた。
彼の作る朝食は多彩ではあったが、マリアに摂取の必要がないので半ば儀礼的に食べていたにすぎず、
作る気にもなれない。
それでも紅茶は、あの琥珀色をした液体だけは人間とは異なる味覚を持つマリアにも、
不思議と好みにあった。
顔を洗い、湯を沸かしてその間に服装を整える。
紅茶を淹れてテーブルに置き、自分も座ってから新聞が置かれていないことに気づき、
それもまたいつのまにか龍麻が行っていた習慣であったと痛感しつつ立ちあがって玄関へと向かった。
居間に戻り、新聞を広げはしても、ほとんど中身は目に入らない。
意識がどうしても龍麻の方へと向いてしまい、集中することなど無理だった。
諦めて新聞を畳み、自分で淹れた紅茶を啜ってみる。
もともと紅茶に対しては味覚が発達しているわけではないというのに、
今朝の紅茶は眉をしかめたくなるほどまずく、一口でカップを置いてしまった。
深い失調感を抱いたマリアはもはや何もする気も起こらず、ぼんやりと時計を見る。
いつもなら朝食が終わるかどうかという時間であり、龍麻が戻ってくるにはまだずいぶんあるだろう。
かといって掃除や洗濯をする気になどなれず、机に頬杖をつき、今後について思いを馳せた。
龍脈の活動が最大化するのが年が明けてすぐ。
その時マリアは龍麻を伴って上野にある寛永寺に赴く。
そこには龍穴と呼ばれる大地のエネルギーが噴出する場所があり、
施されている封印を解くことで、黄龍と呼ばれるほどのエネルギーが地中から迸るだろう。
その力を制御できるのは『黄龍の器』という能力を持つ者だけであり、
一時代に一人のみ顕現するというその人物は、現在は緋勇龍麻という名の高校生である。
マリアは彼を用いて龍脈を支配し、彼女たち闇の眷属を虐げてきた人間に復讐を果たすのだ。
その後の展望は、まだ抱いていない。
龍脈の力を解放した時、どのような規模で破壊が起こるか見当もつかず、
もしかしたらマリアをも巻きこんでしまうかもしれないのだ。
マリア自身はそれでも構わないと思っている。
望みは全世界規模での破壊であるが、世界に冠たる都市である東京を壊滅させれば人類社会が、
少なくとも長期に渡って混乱するのは確実であるし、
全世界の地下を走る龍脈は、一箇所が解き放たれれば連鎖的に反応するとも書物にはあった。
そうなった場合、破壊は未曾有のものとなり、
地球の支配者となるを欲しているわけではないマリアの望みは十二分に達せられることとなるのだ。
ただし、マリアには龍麻と交わした約束がある。
それは彼を虜囚としたときに頼まれたもので、『黄龍の器』たる役目を果たした後、
生命を確実に断って欲しいという意外なものだった。
必要なのは『器』であって龍麻ではないが、唯一彼から提案された、それも実行は容易な頼みだ。
可能な限り叶えてやりたいとマリアは考えていて、それには少なくとも破壊の直後は生きている必要があった。
さらに龍麻という個体に、マリアは思いを馳せる。
逃亡を阻止するために彼と同居しておよそ半年、彼に対する憎しみはほとんど芽生えなかった。
龍麻は口が達者な方ではなく、会話が弾むわけではなかったが、
強い諦念を感じさせはしても人格に破綻するところはなく、好悪で分ければ間違いなく好に属する人間だ。
――人間も、個々に相対してみれば、おそらく憎しみを抱くケースはまれなのだろう。
眷属を滅ぼされて数百年、人間社会に紛れて生きてきたマリアはそう思う。
だが、彼らは群体となったとき、地球上に彼らに対抗しうる生物などいないというのに、
個々の弱さが過剰に反応するのか、自分たち以外の存在を許容しない。
狩りたて、殺し、滅ぼす寸前になって悔悟の念を形だけ見せはしても、
結局また他の生物を同様に狩りたて、何ら学ぼうとはしないのだ。
だから、マリアは人間に裁きを与える。
龍麻に対しての好意があったとしても、人間に対する憎悪はそれを上回った。
加えて彼は定命の存在であり、永遠に等しい寿命を持つマリアと共に生き続けることはできない。
彼を吸血鬼化すれば不死化はできても、それは下僕に他ならず、それでは意味がなかった。
意味――意味とは何だろう?
マリアは考え、苦笑した。
思わず冷えきった紅茶を啜ってしまったほどで、他愛のない想像に水面が波を立てる。
彼を可愛いと思うのは、捕らえた鼠に猫が抱く心境と変わりない。
壊しても構わない玩具を弄ぶとき、そこにあるのは愛情のはずだ――どれほど残酷であっても。
龍麻は被虐的な要素など持ちあわせていないが、性的な要素に関しては頑なにマリアを拒み、
捧げる相手が居ないのにもかかわらず純潔を貫こうとしている。
それが一時的に新鮮で、面白いだけなのだ。
ただ、彼の血液は極上の美味であり、彼を失えば味わえなくなる。
それは確かに残念で、痛恨ですらあった。
そのために彼を生きるよう説得しても良いかもしれない、と考え、
いかにもあさましい考えだと打ち消したところで、玄関の開く音がした。
思いがけず早い龍麻の帰宅を、出迎えるためにマリアは反射的に立ちあがった。
今までそんな行動をとったことはなく、不自然かとも思ったが、昨夜の電話の様子からして、
同居している以上これくらいの心配は当然であると考えなおして玄関へと向かう。
だが、居間と廊下を隔てる扉を開けたところで、何万もの命を奪おうと企む、
怖れを知らぬ吸血鬼は立ちすくんでしまった。
龍麻はひどい格好だった。
昨夜は雨だったが、風呂どころか眠ってもいないのか、生乾きの制服に
水分を嫌というほど含んでいる頭髪は、ひどく重たげに顔のほとんど半分を覆っている。
普段の、無愛想ながらも女性の注目を集めそうな面影は微塵もなく、
どれほど鈍感な者が見ても一目で判るくらい、龍麻は暗く、そして重く沈んでいた。
マリアが命を奪う、と告げたときですら、こんな哀しみに囚われた顔はしていない。
生きてきた歳月に応じた言葉を持っているマリアだったが、
多くの果実が実っているはずの果樹園に、喜びを与える黄金の林檎はどこにも見あたらなかった。
かける言葉を失っているマリアに、龍麻は気づいてすらいなかったようだった。
自分がどこにいるかさえ無関心であるかのように、生気の抜け落ちた肉体をただそこに置いていた。
やがてそれだけが動いた眼球は、謝る言葉を探している子供のように忙しく動き回ったが、
マリアを素通りし、また元の場所に落ちつく。
自分のつま先を、なぜそこにあるのか疎むように眺め、発せられた龍麻の声は、
目的地であるはずの、わずか一メートル先に立つマリアの処までも届かず、垂直に落ちていった。
「昨日はすみませんでした」
それだけを発し、龍麻は靴を脱ぎはじめる。
ひどく緩慢な、体か心か、あるいは双方が機能を停止しかけているかのような動作だった。
溜まった水が立てる濁音が、ひどく不快に響き渡る。
一晩の間に何が彼をここまで打ちのめしたのか、マリアには想像もつかなかった。
ただ、まるで生ける死者のごとく廊下に上がった龍麻に対しては、ほとんど命令口調で口走っていた。
「話は後で聞くわ……まず、シャワーを浴びてきなさい」
労を惜しむように最小限の頷きを返し、龍麻は言われたとおりに浴室へと入っていく。
彼が浴室で倒れてしまわないか、出てくるまでマリアは不安でたまらなかった。
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