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 マリアにとってこれまでの人生で最も長く感じられる十五分が過ぎたころ、龍麻は戻ってきた。
服装は清潔になっても、シャワーを浴びてきたというのに顔色の悪さは改善されていない。
先に眠らせた方がよいかもしれないとマリアは考えたが、龍麻がテーブルについたので、
紅茶を淹れ、彼の正面に座った。
「……」
 龍麻はカップには手を触れようともせず、話を始めようともしない。
急かす愚劣さを知っているマリアは、彼が口を開くまで辛抱強く待った。
 紅茶の湯気が薄れた頃、ようやく龍麻の口が動いた。
龍麻は記憶と声帯を直結させたかのように、一切の感情を込めず、
自分が見聞きしたことを淡々と口にした。
マリアは相づちすら挟む必要を感じず、伏したまま語り続ける龍麻の話を聞いた。
「……」
 佐久間と葵の関係、そしてそれに関わった龍麻との確執。
担任としてクラスを受け持ってはいても、人間の精神面になど関わるつもりのないマリアは、
佐久間猪三という問題児を放置していた。
不良などと粋がってはいても人外の存在であるマリアに敵うはずはなく、いざとなればどうとでもなる。
転校初日に龍麻に干渉したと報告は受けていたが、龍麻も放っておいて構わないと言ったので、
それ以上関わる必要を認めなかったのだ。
よほど目に余りさえしなければ、学外で喧嘩をしようと、その結果停学になろうとマリアの知ったことではない。
まともな教師なら勤務評定を気にするところでも、マリアの目的はあくまでも緋勇龍麻の確保であり、
それが成されたとあれば出勤しなくても構わないほどだった。
他の誰にも計画を感づかせないために日常は持続することにしたが、
それがこんな形で裏目に出るとは予想外だった。
 このところ佐久間が欠席を続けていた理由を初めて知ったマリアだが、
龍麻が語らなかったことについて怒る気にはなれない。
彼もまた同級生に無関心といっても、美里葵がレイプされそうになった、などと
軽々しく他者に語るような下劣な人間ではないと知っていたからだ。
 話は続き、昨日の出来事に移る。
佐久間が化け物に変貌し、葵をレイプしている場面に遭遇したと語るところで、
龍麻の声はほとんど聞き取れないくらいに小さくなった。
マリアも女性としての立場から佐久間を嫌悪し、彼の行為について憤りを覚えずにはいられなかったが、
同時に、看過できない部分もあった。
化け物となった佐久間についてである。
醜い怪物と自分たちを同列に扱うのは不本意であるが、人間ではないという意味では同じと言わざるをえない。
 彼がマリアや犬神と同じ、闇の眷属であった可能性は低い。
種族は違っても闇に生きる存在はお互いをある程度感知できる。
百メートル離れていても、というわけにはいかず、せいぜい数メートル、それも人の多いところでは無理で、
マリアも人狼という貴種には真神に赴任して遭遇するまで気づかなかったのだ。
とはいえ、教室程度の空間なら充分に感知でき、
マリアの知る限り佐久間を含めて生徒に闇に住まう者は居なかった。
だとすれば、佐久間は後天的に化け物になったということになる。
そういったケースをマリアは直接知っているわけではないが、
『黄龍の器』について調べているときに、似た現象について書かれていた書物を読んだことがあった。
氣には陰と陽があり、どちらが過剰になっても不足してもいけない。
バランスを欠けば体調不良や情緒不安定になり、さらには肉体や精神の破壊を招き、
怪物になってしまうとそこには書かれていた。
無論、陰陽のバランスが崩れたからといって誰もが怪物に変ずるわけではない。
人には本来バランスを保とうとする能力が備わっており、そうたやすく振り切れてしまうわけではないのだ。
だが、人は土地が持つ氣からも影響を受ける。
普段は顧みることさえない大地にも氣は宿り、万物に影響を及ぼしているのだ。
そうした幾つかの条件が重なるとき、人は変生してしまう――
その不運な実例に、龍麻は遭遇してしまったらしかった。
 そうして龍麻は怒り、化け物へと変じた佐久間を斃す。
陰氣に魂を侵された人間は、いかなる手段によっても人に戻ることは叶わず、
死によってしか安息を与えられない。
もし佐久間がもっと大勢の人間に目撃されていれば、マリアの計画に気づく者も現れるかもしれない。
ゆえに龍麻の取った行動は、マリアにとっても正しいと認めうるものであった。
 だが、彼の精神に与えた影響は計り知れない。
いくら佐久間が化け物になったといえども、元は人間であり、龍麻は彼を消滅させた。
状況の全てがそうするしかなかったと語っていても、人の、
それも二十年そこそこしか生きていない少年の心はそうたやすく割りきれるものではない。
人を殺したという事実は、重くのしかかっているはずだった。
 佐久間を斃したところまで語り終えた龍麻は、そこで口を閉ざした。
喋り続けることで忘れていた心理的な負担が戻ってきたのか、
何歳か老けたかのように疲れた顔をしている。
休ませるべきだとマリアは思ったが、その前に聞いておくべきことがあった。
「……それで、美里サンは?」
 この問いに対する答えを、龍麻はかなり悩んだようだった。
顔にこれまでにない困惑と苦悩を浮かべ、発した声にも生気は全くといいほど感じられなかった。
「美里さんは俺の家に来てもらって、それで……落ちついてもらってから、家まで送りました」
「そう……」
 龍麻がその処置を悔いているのだというのは、訊くまでもなかった。
おそらく彼女は感謝しているだろう――暴行されたという事実が広まるのを、最小限に留めてくれたのだから。
だが、龍麻にとっては己の無力さを痛感させられるだけの時間だったに違いない。
「それで、美里さんが別れるときに言ったんです。『卒業まで、毎日学校に来てほしい』って」
「……そう」
 机を見て話を終えた龍麻は、そっと上目遣いでマリアを見る。
彼女の顔には怒りも同情も浮かんではおらず、龍麻の心臓は氷を当てられたように縮んだ。
言うつもりだったその先の言葉は封じられ、マリアを虚しく凝視することしかできない。
少しの沈黙を置いて発せられたマリアの声はひどく抑制されていたが、氷嵐の如き激しさがあった。
「事情は判ったし、美里サンに女として同情もするわ。
でも、アナタに彼女の願いを聞き届けさせる訳にはいかない。解っているでしょうけれど」
「……どうしても、だめですか」
 それは龍麻が初めてマリアに反抗した瞬間だった。
その事実を反抗した方もされた方も自覚していたが、どちらがより衝撃を受けたかはわからなかった。
マリアは表情を消していたし、龍麻は机に視線を落としていて、どのような表情か判別できなかったのだ。
 ただ、少なくともマリアは衝撃を受け、同時に怒っていた。
龍麻は命乞いをしようとしているのではなく、美里葵と交わした約束を守りたい一心で、
この半年間従順に従ってきたマリアに逆らったのだ。
そうと気づいた途端に、それが極めて一方的な関係であったにも関わらず、
数百年人間社会で隠し通してきた牙が抑えきれず疼き、血が命じるままにマリアは吠えた。
「どうしても、よ」
 龍麻の反抗は弱々しい、哀願に近いものにも関わらず、マリアはひどく苛立ちを覚え、
口の中に溜まるそれを、矢継ぎ早に放った。
「『黄龍の器』の力を解放した後、確実にアナタを殺すという約束は破棄してもいいわ。
でも、計画を中止することは絶対にないし、日付をずらすわけにもいかない。
美里サンには悪いけれど、アナタと美里サンが交わした約束を全うできるのは、その時までということになるわね」
 有無を言わさぬ口調が効を奏したのか、龍麻は目に見えて怯んだ。
あるいはこの場で一戦交えるかもしれない、と構えていたマリアには、どこかで失望の気持ちもあった。
自分勝手であると知りつつも、龍麻が大切なものを守るために闘うのではないかと期待めいた予感もあったのだ。
だが、龍麻もしょせん人間であり、自分より強いものには逆らおうとはしなかった。
 彼に対する評価は過大だった、と訂正するうち、いくらかの余裕がマリアには生じる。
冷えた紅茶を今更飲む気にはなれなかったが、カップを手にして口元に運んだ。
「ところで以前にも訊いたけれど、どうしてアナタは自らの死を望んでいるのかしら?」
 殺される、と聞かされたときでも龍麻は冷静であり、それどころか『黄龍の器』としての力を解放してなお
生き残っていた場合、確実にとどめを刺してくれるようマリアに頼んでいるほどだ。
人間を抹殺するなどという狂気に出くわしたなら、自分だけはなんとか助けて欲しい、
と考えるのが普通のはずで、その点をマリアは言ったとおり、以前に問うたことがあった。
そのとき龍麻は真神に来る原因となった事件を挙げ、マリアは一応納得した。
だがその事件だけでは彼が死の欲動デストルドーに魂を捧げている理由に、どこか足りないとも思っていたのだ。
 そして今、龍麻は初めて生の欲動リビドーを見せ、それが拒絶されるとまた死の欲動へと篭もった。
吸血鬼ヴァンパイアたるマリアに敵わないとはじめから諦めているのだとしても、
あまりにも極端な、強い渇望は、もっと彼の根源に巣くっているのではないかとマリアは考えていた。
 本来なら、龍麻個人に関わる必要などない。
マリアが欲しているのは『黄龍の器』という能力であり、使い終わった後の容器になど興味はないのだ。
だが、この半年間でマリアは龍麻に関わりすぎた。
行動を監視するためとはいえ同居し、寝食を共にしたマリアは、
少なくとも彼を満足のうちに死なせてやりたいと思うようになっていた。
彼の二つ目の望みを叶えてやるわけにはいかない以上、
他に代替できる望みを聞いてやるべきだろう。
そう考え、マリアは、これまで意識的に避けてきた彼の過去を問うことにしたのだ。
 龍麻の瞳孔が拡大する。
全てを吸いこみそうな黒の瞳を、マリアは真正面から見つめかえした。
蒼氷の光が照射され、黒の中に呑みこまれていく。
どれほど強い眼光を浴びせても、彼の瞳が輝きを返すことはなかったが、
やがて目蓋が一度閉じられ、ゆっくりと開いた。
「俺が普通の人間じゃないってのは、随分前から気づいてました」
 龍麻の告白は、マリアにとって興味深いものだった。
目で続きを促すと、龍麻は自分が淹れた琥珀色の液体に眼差しを落として語り始めた。
「初めて自分が人と違うのに気づいたのは、小学四年の時でした」
 同じクラスの友達が、公園で中学生に絡まれていた。
彼らの裏面の事情を、この時は知らない龍麻だったが、金をせびられている友達を見て、
幼い正義感を燃やして中学生達に挑みかかった。
しかし、特に体格に恵まれているわけでもなく、武術を学んでいたわけでもない龍麻が、
中学生の三人組に勝てるはずがない。
たちまち龍麻は打ち倒され、加減を知らぬ中学生達の暴力の無惨な的になった。
それでも龍麻は友達を助けられるのなら、今のうちに逃げ出して助けを呼んでくれれば、と必死に耐えた。
人間の持つ最も狡猾な性──無抵抗の者に暴力をふるい、恥じるところを知らぬ──
に目覚めた中学生達は、その醜い本性を剥き出しにして龍麻を暴行し続けた。
止めようという者はおらず、呻いても悲鳴はあげない龍麻に泣き叫ばせようと腹を蹴り、頭を踏みつけた。
それは明らかに度を越したものであり、龍麻は泣き叫ぶどころか、意識さえ失いかけていた。
このまま暴行が続けば、生命の危険すらある。
しかし暴力に酔った中学生達には龍麻の状態すら把握できず、なおも暴行を加えようとした。
 殺される、という自覚はなくても、本能的な危機を龍麻の生命が発したとき。
龍麻の身体から、まばゆい光が迸った。
幼い身体を包む光輝は、すぐに輪郭を失い、拡散していく。
発した当人には、眩しさも熱さも感じられなかった。
異変に気づいたのは暴行を加えていた中学生達の方で、
彼らが囲む餓鬼が尋常ではない光を放っていると気づき、どこまでも膨張していた狂熱が一瞬止まる。
それが彼らの最後の意識で、誰に語ることもできず圧倒的な恐怖として死ぬまで刻みつけられた真相だった。
 気がつけば、中学生達は皆倒れていた。
それも尋常でない様子でのたうちまわっている。
何が起こったのかは解らないが、自分がやったのは間違いなかった。
何故なら周りには、自分達以外には誰もいなかったからだ。
友達は、上手く逃げてくれたんだ──自分が中学生を倒したことよりも、
そちらの事実の方に満足した龍麻は、そのまま気を失った。
 次に目を開けたのは、病院のベッドの上だった。
眩しい照明と白い天井に、一度開けた目を細めると、あわただしく世界が動きはじめた。
看護婦と、医師。
医師はともかく、看護婦はどこか腫れ物に触るような態度だったが、
幼い龍麻にはそこまではわからなかった。
目覚め、同じ天井を見ながら眠り、また目覚める。
実際には眠っている時間の方が遥かに長いその繰りかえしが十数回続き、
ようやく龍麻は起きあがることができた。
傍には両親がいた――それに、見知らぬ男性も。
数日後にもう一度会ったその男性は、龍麻の話を良く聞いてくれた。
友達を助けようとして中学生に挑み、負けてしまった。
拙い言葉で何度も繰りかえされる龍麻の話を、彼は飽きもせず、時には詳しい描写をせがんで聞いた。
今の龍麻には、彼が誰なのかわかる。
彼、というよりも所属する団体の方が意味を持つ、おそらく不必要に刺激を与えないために私服で現れた男を。
 だが、それ以外の場所で龍麻は彼を、あるいは彼に類する人間を見た記憶がない。
あるいは両親が秘密裏に処理してくれたのかもしれないが、それにしても龍麻はこの件に関して、
誰にも全く怒られた覚えがないのだ。
いくら小学生のやったことといえども、事の重大さを考えれば何らかの処分が下されて当然だ。
当時の龍麻は自分の行いが認められたのだ、と深く考えもしなかったが、
今ならばその不自然さに疑問を、そしてある程度の解答を出すこともできる。
 『力』など存在しない――
それが彼らの出した結論なのだろう。
何も武道を修めていない子供が、年齢差以上の体格差がある中学生三人を再起不能にするなど常識ではありえない。
おそらく彼らはより上位の、高校生か、あるいはチンピラ辺りにやられたのだろう。
この子供は中学生を倒した何者かが去った後にわずかに意識を取り戻し、
倒れている中学生を見て自分がヒーローになったと錯覚したのだろう。
TV番組から影響を受ける年頃ならば、良くある話だ――
おそらくはそんな線で話をまとめ、真犯人を捜したのだろう。
 後に聞いたところによれば、一人は一生病院から出られない身体になり、
残る二人も何らかの後遺症を抱えているという。
それを聞いても、龍麻は悪いことをしたとは思わなかった。
先に友達を苛めたのは彼らであり、当然の報いだと思った。
両親が彼らの親に頭を下げるのが、許せないくらいだった。
 龍麻が退院した翌日から、世界は終わりを告げた。
普段通りに、一週間ぶりに登校した龍麻を出迎える声はなかった。
それどころか皆、教師までもが露骨に距離を置き、動物園のライオンに対してよりも警戒するようになっていた。
その中には彼が助けた友達もおり、それが一層龍麻を苦しめた。
なぜ、と訊こうにも、入院している間に彼らは完全に龍麻を除外したグループを完成させたらしく、
休み時間になっても、あきらかに龍麻を避け、一人になるのを極力避けている。
誰かを捕まえて無理に聞きだすことも、あるいはできたかもしれないが、
クラス中から敬遠されるという現実は幼い龍麻を打ちのめすのに充分すぎるほどで、
その頃から龍麻は、最小限の会話しか行わないようになっていった。
話しかけなければ、無視されて傷つく必要もない。
それが十歳になった頃の龍麻が身につけた処世術だった。
以後は何もないまま、小学校を卒業した――誰とも何も話さないのを、何もないと言えるのならば。



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