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マリアが目を覚ましたとき、腕の中に龍麻は居なかった。
それほど時間は経過していないはずだが、抱いていた男が居なくなっても気づかないほど
寝入ってしまった自分に赤面し、時間を確かめようとしてこの部屋には時計以外、
時の経過を確かめる術がないことに苛立ちめいたものを一瞬覚える。
人間の生活習慣に合わせるためだけに用意した時計は、夕方の四時を過ぎたところを指していた。
東京の今の季節ならば、まもなく黄昏になろうかという刻。
闇の眷属たるマリアにとっては、夜よりも心騒ぐ時間でもある。
だが、今マリアの心臓が穏やかならぬ鼓動を持ち主に伝えているのは、
湧きたつ心のゆえにではなかった。
龍麻が帰ってきてからおよそ八時間、休息には充分な時間である。
ただしそれは通常の疲労を回復するならであって、彼がこうむった心の傷を癒すには、
百倍の時間でもまだ足りないだろう。
頭を振って睡眠の残滓を捨てたマリアは身体を起こす。
そのまま居間へ向かおうとして裸なのに気づき、手早くガウンを着てドアへと向かった。
扉の向こうに龍麻が居る、というのは確信できた。
だが、彼がどのような状態で居るか、というのは、人間よりも優れた五感を持つ吸血鬼にも、
皆目見当がつかなかった。
マリアは深呼吸をして、どのような事態に対しても応じられるよう心を構えてからドアを開けた。
「おはようございます」
龍麻は台所に立っていた。
その場所はマリアはほとんど使わない、龍麻がこの家に来てからは彼専用とも言ってよい場所だ。
だから龍麻が立っていても、時間が変則であることを除けば、おかしなところはない。
しかし、やはりいつものように一瞥だけして放たれた龍麻の一声は、
この半年にわたって繰りかえされてきたものとは微妙に異なっていた。
弾んではいなくても誠実さはある、落ちついた声に変わりはない。
だが、声を発する肉体そのものが生気に乏しい印象を与えた。
地球それ自体が有する生命エネルギーを無尽蔵に吸収し、
操ることのできる『黄龍の器』にしてはひどく沈んでいるその理由を、むろんマリアは知っている。
心に受けた傷はともすれば肉体よりも回復が遅く、それは人間でも吸血鬼でも変わらない。
それでも『黄龍の器』という人ならざる力を与えられた若き人間は、
底知れぬ深みから頭だけを出し、沈むまいともがいていた。
「ええ、おはよう……というのも変な挨拶ね。アナタがワタシと同じ種族なら、おかしくはないけれど」
「そうですね。……腹、減っちゃって」
冗談と判るよう笑ってみせたマリアに、龍麻も明らかに儀礼的ながら小さく笑って応じた。
今は、心の底にある重力場にも似た澱みに魂を閉じこもらせないよう、
とにかく彼の心を外へと向ける必要がある。
そのためならどんなことでもマリアは厭わないつもりだった。
おそらくは龍麻の精神がどのような状態であっても、『黄龍の器』は器たる役目を果たせるだろう。
だが万全を期するためには安定しているに越したことはないはずで、
だから彼を落ちつかせようとするのは理に適った行動なのだ。
柄にもない冗談を言ったことに対する内なる声が求める弁解に、マリアはそう答えた。
「そうね。夕食にはまだ早いけれど、たまにはこんな日があってもいいわね」
龍麻が料理を好きとは言わないまでも苦にしていないのは、この半年の同居でわかっている。
食物では栄養摂取できないので、これまで彼が作ってもほとんど口にはしなかったマリアだが、
今日は食べても良いと思った。
「それじゃ、少し待っててください」
台所に向き直り、龍麻は料理を始める。
彼の後ろ姿を、マリアはただ無言で見つめていた。
食事を始めたからといって、ひとりでに雰囲気が変わるはずもない。
食事の際に彼と会話する習慣を作っておかなかったことを、マリアはいまさら後悔した。
テレビはもっと習慣になっておらず、向かいあったままどんな会話も交わさない、
無意味とすら思える時間が過ぎていった。
これでは余計に彼を落ちこませるだけだと苛立ちつつ、
適当な話題を思いつけないマリアは、黙々と箸を口に運ぶ。
ふと気づくと、龍麻が興味深げに見ていた。
「どうしたの?」
「あ、いえ……すみません。箸を上手に使えるんだなって」
そういえば、彼の前で箸を使ってみせるのは今日が初めてかもしれない。
半年以上も用意はされても手をつけることがなかった食事が、意外な形で役立ってくれたのだ。
「失礼ね」
怒ってはいない証に軽く笑うと、龍麻も口許だけではあったが笑い返した。
「時間はあるからこの手の練習はいろいろしたわ。日本語だってある程度は書けるのよ」
日本では異国人があまり上手にこなしてしまうといらぬ好奇心を呼んでしまうということを知るまでは、
マリアは日常生活に不自由ない読み書きなら普通にこなしていた。
次代の龍脈は日本で活性化するのだという確証を得てから、学習を怠らなかったのだ。
どんな些細なことでも、『黄龍の器』を手に入れるという目的のために必要だと思えば
失敗しないよう手は打っておく。
あっさりと龍麻を捕らえることができたのは、それらの努力に対する正当な結果であって、
望外の幸運などではないとマリアは考えていた。
「ただ、日本語は難しいわね。ひらがな、カタカナ、それに漢字。
アナタ達は良く使いこなしていると感心するわ。英語の方がよほど簡単よ」
「言われてみればそうですね。俺は英語もあんまり得意じゃないですけど」
「英語教師の前で聞き捨てならない発言ね、それは。勉強も監視しておくべきだったかしら」
軽やかな、およそ自分たちには似合わない空気が漂うのをマリアは感じとっていた。
二人ともが芝居をしている、それも役にそぐわない演技を強いられて。
それでも、マリアは舞台を降りるつもりはなかった。
たとえ目的のためだったとしても、龍麻を元気づけたいと想う気持ちは本心だった。
「マリア先生は、英語以外は何か話せるんですか?」
「聞くだけならヨーロッパの国なら大体大丈夫よ。話すとなるとそれほど多くはないけれど」
「凄いですね」
「年の功、というものかしらね」
種族の違いを材料にした軽口をどう受けとったらよいのかと龍麻は困った顔をしている。
それがマリアにはおかしくて、今度の笑顔は意識してのものではなかった。
「先生……?」
「ごめんなさい、アナタがあまり困っていたから」
「……」
「気にすることはないわ。ワタシは吸血鬼、アナタ(とは違う」
「……はい」
それでも龍麻はやや気後れしたのか、口を閉ざす。
せっかく彼が用意してくれた機会を逃すわけにはいかず、今度はマリアの方から話しかけた。
「さっきの話だけれど、アナタが望むなら、『黄龍の器』の力を解放した後で生きていたなら、
アナタを殺すという約束は破棄してもいいわ」
龍麻に語りかけながら、これは妥協なのだろうかとマリアは自問した。
自分は人間の三文話を聞かされて情にほだされた、間抜けな吸血鬼なのだろうか。
そうなのかもしれない、と自嘲気味に肯定する一方で、
この取引は自分の目的にとって何ら譲歩にはあたらず、そもそも力を解放した後龍麻が生きているという保証もない。
それに龍麻自身が死を望んでいるのだから空手形でもなく、
単に幾つかの可能性のひとつを提示しているにすぎないのだ。
「……いえ、いいです。最初にお願いした通り、マリア先生が目的を果たせたら、俺を殺してください」
しかし、返答までにやや間はあったものの、龍麻の決心は変わらなかった。
ここまで頑な態度をとられると、マリアにも説得のしようもない。
そもそも、彼女が望んだ未来が訪れれば、それは人間にとって辛い世界になるはずで、
その点も含め、生きていればいいこともある、などと無責任には言えなかった。
「……そう。アナタの決心が変わらないなら、それでいいわ。もうこの質問もしない……アナタから言わない限りは」
すでに二度手は差し伸べた。
その手を握るかどうかは龍麻の権利であり、その権利を彼は行使しなかった。
それだけのことだ。
マリアはいくつかの感情を整合させるように小さく頷いた。
口を閉ざしたマリアに代わり、龍麻が訊ねる。
「先生は……目的を達したら、その後はどうするつもりですか?」
「そうね……まずなんとしても目的を達しようと、それだけを考えていたからその後のことは
まだあまり、というのが正直なところね。でも、ワタシが世界の支配者になる、という可能性だけはないわ」
「そうなんですか?」
「ええ、女一人で背負うには、世界は重すぎるもの」
人間がかつて持っていた畏れを思いだしてくれれば、
マリアは彼らを最後の一人に至るまで殺し尽くそうとまでは思わない。
そもそも龍脈を暴走させた結果、破壊がどこまで広がるかはマリアにも予測がつかないのだ。
世界中に波及して人間社会が壊滅するかもしれないし、東京さえ壊滅させられないかもしれない。
だが、仮に地球規模で力が発動したとしても、あるいは大きめの地震程度の損害しか与えられなくても、
二度目を期するつもりはマリアにはなかった。
千載一遇のチャンスをもう一度手中に握れるなどと期待するのは、
人間が悔い改めてマリア達との共存を選ぶ可能性に等しい無理難題である。
それに、疲れてもいた。
マリア達の寿命は人間より遥かに長い。
だが感情まで長いわけではなく、何百年もの間怒りや復讐心を持続させるのは困難なのだ。
煮えたぎっていた怒りは容易には溶けない氷に覆われている。
だが、氷の外側に付着する塵もあり、何百年という刻が経てばそれも確かな重量を有するようになっていたのだ。
眷属を絶滅させた人間が勝ち誇るのは気にくわないが、事が成った後はどこか、
人間の訪れない場所にでも隠棲するつもりだった。
それらの膨大な感情を軽口に紛らわせてマリアは語った。
だが、龍麻はくすりとも笑わなかった。
それどころか裁判官めいた態度で、マリアの発言に隠されているものを暴きたてるかのように鋭い声を発した。
「犬神先生はどうなんですか?」
「彼は……人狼は群れるのを良しとしない性だわ。それに、彼には悪いけれど、ワタシのタイプではないの」
豹変した龍麻に、マリアは内心の驚きを隠すのに苦労しつつ、両肩を軽くすくめて道化師を演じ続けた。
なぜここで突然犬神の名前が出てくるのか、彼の真意を測りかねたのだ。
犬神に何か言い含められたのかも知れないという懸念は、現在のマリアの立場なら抱いて当然だった。
「アナタなら、考えないこともないけれど」
「……俺は……」
冗談の締めとして言ったつもりの台詞。
先に言ったようにマリアは地球の支配者として立つ意欲など毛頭なく、
パートナーを持つ意思はさらにない。
龍麻に対して当初抱いていた、人間であるということ自体に対する憎しみは薄れているものの、
それは抑制が効かせられるものであって、当初の目的のために彼の生命を奪うことにためらいはなかった。
ないはずだった。
だが、龍麻の反応はおそろしく真剣だった。
黒い瞳から輝きを消し、思いつめた表情で何かを言いかけ、口をつぐむ。
それは言うのを止めたというよりも、大きすぎる感情の塊がつっかえて出てこなかったようにマリアには見えた。
彼は何を言おうとしているのだろうか?
鼓動が早くなる。
それは、過去何百年かでは経験したことのない動悸だった。
マリアは龍麻の声を聞きたいのか聞きたくないのかわからないまま、瞳の圧力を強める。
獣でさえ退かせるであろう眼光は、しかし、たかが人間の少年一人止めることはできなかった。
「俺は、マリア先生の隣になら、居たいです」
ゆっくりと、聞き間違いのない発音で龍麻は告げた。
この半年で聞き慣れた声が、初めて耳にする音のようにマリアの聴覚に触れた。
確かに身体の中には入ってきていながら、吸収されないそれは、心と肉体の隙間で乱反射している。
そのせいなのか、全ての感覚がぼんやりとしていた。
「……いつからなの?」
間の抜けたことを訊いている、と思ったが、思考がかき乱されていて、
まともな質問などとても思いつけそうにない。
だが沈黙を許してしまえば、答えなければならなくなる。
考えられないままで答えてしまうのを怖れる一心で、マリアはとにかく喋り続けるしかなかった。
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