<<話選択へ
<<前のページへ

(2/2ページ)

「……最初からです。この家に来て、先生に捕まった日から」
 こんな茶番劇はありえない。
マリアは龍麻を誘惑し続けたが、それはあくまでも女を知らないであろう彼に対する戯れでしかなく、
万が一にも彼がれるようになったなら、即座に思い知らせてやるつもりだった。
だが、実際には龍麻は一度たりともマリアを求めなかった。
彼もまた、マリアを女として見ていたというのに。
「それならなぜ、ワタシを抱こうとしなかったの」
「それは……」
 ほとんど叫ぶように訊ねるマリアに対して、龍麻の口調は弱々しい。
「それはその、ああいうのは気持ちを確かめあった男女でないと、するべきではないと思うんです」
「……」
 マリアは思わず目の前の男を凝視した。
この男は本気でそんなことを信じているのだろうか?
彼らが覇権を得るに至った理由である、世界中昼夜を問わず、のべつまくなしで行われている繁殖行為を、
未だに崇高な精神の昇華の果てにのみ存在すべきものだと考え、訪れるあてもないその日まで、
ただひたすらに耐え抜こうとしているのだろうか?
 自分が急に低級の淫魔に思え、マリアは軽い苛立ちを覚えた。
身の程知らずにも聖者を誘惑しようと試み、痴態を見せつける。
だが聖者は哀れみをもって淫魔を眺め、決して煩悩に囚われることはない。
やがて淫魔は自らの滑稽さに気づき、存在意義を見失ってほうほうの体で逃げていく……
「アナタはワタシの心を把握しているとでもいうの?」
 不意に感情がふりきれた。
抑えの効かない、津波のような怒りがマリアを叫ばせた。
「ワタシは貴方の何十倍もの刻を生きてきたわ。だから愛についても、アナタよりは理解しているはずよ。
アナタはどうなのかしら? 今までに誰かを愛したことがあるの? それが愛であると、断言できるのかしら?」
 恥辱が声を震わせる。
それとわかっても、マリアは自制できなかった。
むしろ、その自覚によっていっそう感情の抑制がきかなくなっていた。
「アナタがワタシを抱かないのは、ワタシがアナタを愛していないから。
そう言いきれるだけの根拠を、アナタは持っているの?
たかが二十年も生きていないような人間のアナタに」
 波は退き、静寂が訪れる。
言い終えた直後、龍麻の目に後悔がよぎるのをマリアの瞳は捉えていた。
答えを確かめようのない卑劣な質問。
それも感情に任せた、吸血鬼だの人間だのに関わりない、
およそ年長者が発するべきではない激昂を、マリアはしてしまった。
マリアの年齢の十分の一も生きていない彼に、なんという醜態を見せてしまったのか。
 急激に心が醒め、肉体が冷える。
それは吸血鬼にとってさえ痛覚を伴う冷たさで、マリアはこの五百年以上絶やしたことのない憤怒の焔が
消えてしまったかのような錯覚に寸時とはいえ陥った。
 過ちは認める。
けれども、どう償えばよいかマリアにはわからなかった。
彼の心の傷口を、いくらかでも埋めてやろうと考えていたのに、治すどころか傷を拡げてしまったのだ。
 美貌の吸血鬼はうつむき、せめてもの謝罪を試みる。
しかし、必死に言葉をたぐり寄せ、紡ぎだそうとしたとき、彼女が放とうとした言葉を、彼女以外の人間が発した。
「……すみません」
 龍麻が謝る理由がマリアにはわからなかった。
謝るべきはマリアの方であり、彼が頭を下げる必要などどこにもないというのに。
「無理なのはわかっていたんですけど、でも、死ぬ前に言おうとは思っていたんです」
「いいのよ」
 機先を制されたマリアは、彼の謝罪を受けいれるしかなかった。
口の中に苦味が走り、言葉にすら毒が含まれたように思えてしまう。
龍麻の顔を見れば、そんな風に受けとっていないのは明らかだ。
たが、マリアは彼を直視できなかった。
たとえ見つめられることを彼が望んでいたとしても、顔を上げることすら今のマリアには不可能事だった。
 ぎこちなさを多量に残したまま、晩餐は終わった。
おそらくは双方にとって望まない結果だっただろう。
ただよう沈黙を忌むように龍麻が先に立ちあがり、食器を下げ、そのまま洗い始める。
マリアは彼の背中を見ていることに耐えられず、シャワーを浴びに行った。
 衣服を脱ぎすて、一気に蛇口を全開にする。
熱い湯が容赦なく白い肌に襲いかかり、痛みにも近い刺激が全身に走ったが、
マリアはその極限に近いほどの女性的な美しさを有する肢体をそのまま湯に打たせた。
 龍麻を子供だと軽んじていたのだろうか。
女を恥ずかしがる彼を無垢な子供だと決めつけ、弄んでいただけなのだろうか。
彼がマリアにとって道具であり、憎むべき人間の一員であるとしても、
侮辱した事実は近いうちに謝らなければならないだろうが、
いずれにしても、彼に対する態度を決めなければならなかった。
これまでどおり彼を目的のための道具とみなすのか。
それとも――マリアはシャワーの勢いを強める。
いや、もうひとつの選択肢などあるはずがない。
彼はあくまでも贄であり、今回は彼のコンディションを戻してやろうとして失敗したにすぎない。
龍脈が満ちる刻まではまだ数十日あり、挽回の余地はあるし、現状でもおそらく支障はないだろう。
 だが、顎を伝い、胸へと落ちた水滴が、マリアの心を騒がせる。
意思を覆う永久凍土にも似た氷は、熱湯などで溶けるはずがないというのに、
この幾百年か迷うこともなかった心が、疎ましいほどに揺らいでいた。
きしみ、ぶつかり、割れる。
もう心は全て凍てついていたと思っていたのに、凍結をまぬがれた部分があったのか。
 邪念を払うつもりで熱湯に身体を打たせたマリアだが、
激しい水音にかえってわずらわしさを感じ、水流を弱めた。
だからといって、排水口に向かって集合する水のように、思考が一つには定まらない。
もっとも肝心な自分の気持ちが彼に向いているのかどうかさえ、滴る水を見ていても判然とはしなかった。
 これほど迷ってしまうのなら、彼と同居すべきではなかったと思う。
もちろん、それは全く意味のない考えであり、そんな風に後ろ向きの考えをしてしまうこと自体、
自分らしくないとマリアは自嘲し、壁に額を当てた。
タイルの冷たさが散らばっていた思考を束ねる。
束ねるといっても割れて床に散らばったコップの破片を、とりあえず袋に入れるようなもので、
明晰な考えは未だできなかったが、ふとマリアは気づいた。
 龍麻は葵に呼びだされて公園に行ったと語った。
美里葵はマリアですら認める美少女であり、
彼女に呼びだされたのなら当然好意を受けいれるつもりだと思っていた。
しかし、龍麻は断るために彼女に会いにいったのではないか。
たぶん……いや、確実にそうだろう。
弾みや勢いといったものがあったにせよ、その誤解を解くために龍麻は、
唐突とも言える告白をしたに違いない。
 そう考えることで、マリアの心には一本の道が作られていく。
まっすぐとはいえず舗装もされていないが、それは確かに道だった。
 再び蛇口がひねられる。
さっきよりは激しさも熱量も穏やかな水流を、マリアは全身に浴びせた。
冷たい水が肌と心を引き締める。
シャワーを止めたマリアは、息を止め、己の裡に在るものを確かめると、
小さく頭を振って浴室を後にした。

 龍麻は居間のソファに座っていた。
そこは家主であるマリアでさえ滅多に使わない場所であり、
その場所にいるというだけでひどく新鮮な刺激を視覚にもたらした。
 浴室から出てきたマリアに対して、龍麻は一瞬だけ顔を上げ、すぐに元の位置に戻す。
いかにも不自然な動作ではあったが、それを追及するつもりはマリアにはない。
実のところ、それどころではなかった。
 あと数歩のうちに、マリアは決心を固めなくてはならない。
ほとんどは決めていたが、最後の一押しが必要だった。
だが、その一押しとは何か、マリア自身にもわかってはいない。
「先に寝ているのかと思ったけれど」
「食べたばっかりですし。それに、その前は寝ていましたから」
 そう、とだけ答え、マリアは彼の隣に座った。
龍麻はさりげなく身体を、数センチとはいえマリアから遠ざける。
それをマリアの感覚は認識していた。
彼が同性愛者なのではないかと疑うくらいに潔癖なのは今に始まったことではなく、
この程度で怒るようでは、女性の自信でさえとうに失われていなければならないからだ。
この少年――肉体はほとんど大人でありながら、精神は異性に目覚めたばかりの子供でしかない人間は、
マリアの誘惑を精神力のみでついに耐えきったのだ。
彼に対して過剰ともいえる干渉を行ってきた日々を思い返し、マリアは小さく笑った。
 その横顔を、龍麻が見ている。
彼には笑った理由など判らないだろうが、眼差しは真剣だった。
他人に関心を持たないと言う男が持つはずがない、マリアを知ろうとしている眼。
今日は彼こそが案じられるべき人間であるのに、好意の対象をじっと案じていた。
 最後の一押しというには、弱いのかもしれない。
けれども吸血鬼すら欺いた人間に、マリアは自分から半歩踏みだす気に、すでになっていた。
「龍麻」
「……はい」
 龍麻の返事が遅れたのは、呼びかけて欲しくなかったからなのかもしれない。
そうではない、と断言できるだけの自信が、マリアにはなかった。
どうして急に弱気が顔を出してきたのか、自身にも不明だ。
しかし踏みだしてしまった以上引き返すわけにもいかず、
立ち止まるのも性に合わない気がして、マリアは彼の方に向き直った。
いきなり動いたからか、龍麻は驚いて姿勢を正す。
そのため真正面から見つめあうことになり、マリアの心はいちじるしく乱れた。
言うべきか否かは充分に考えての判断だったが、どのように話すかまで決めていたわけではない。
おおまかにしか考えていなかったものが、出鼻を挫かれる形になって、
何と語りかければよいか、何百年もの間狡猾に人間社会を生き抜いてきた吸血鬼はすっかりわからなくなっていた。
「考えてみたのだけれど」
 龍麻はあいづちどころかまばたきすらしない。
彼の瞳は日本人らしく漆黒だったが、マリアには透きとおって見えた。
混じりけのない、ただ目の前にあるひとだけを一心に見ようとする瞳。
黒い瞳に内包された強い想いに、一度は乱れたマリアの心は落ち着きを取り戻した。
「今ワタシが抱いている気持ちは、確かにアナタの言う愛とは違うのだと思う。
でも、アナタに……応えたいという気持ちは偽りではないわ。それでも、ワタシを抱くのは嫌かしら?」
「それは……その、でも」
 黒が揺れ、マリアを捉えなくなる。
それはマリアがこの半年以上にわたって求めてきた、肉欲に惑い、溺れようとする少年の眼だった。
だが、念願かなったマリアは彼を笑おうとせず、人間はおろか吸血鬼にも存在しない美しい肢体は、
厚手のバスローブでさえ隠しきれてはいなかったが、美貌の人ならざるものは、むしろ彼を醒ますように襟を整えた。
「もちろん、今日これからするかどうかなんて返事を求めてはいないわ。
でも、アナタを受けいれたいというのは同情や慰め、まして戯れなんかではない、偽りのない気持ちよ。
だから、アナタがしたいと思うのなら、遠慮をする必要はないから言いなさい。
……あまり、時間もないことなのだから」
 言いながらマリアは、おそらく彼は言わないだろうと確信していた。
こちらから問うてやらない限りは、きっと。
それは、結局これまでと変わらない日々なのかもしれない。
けれどもマリアは、彼の肉体に触れるのを、これからは必要最小限に留めようと決めていた。
「先生」
「何かしら?」
「ありがとう、ございます」
 ここで礼を言うのはややちぐはぐにも感じられたが、彼にふさわしい返事だとマリアは思った。
「今はまだ、何ていうか……気持ちが落ちついていないですし、
落ちついても、その……したくなるかどうかはわからないですけど、
いえ、マリア先生が魅力的じゃないとかそういうのじゃなくて、あくまでも俺の側の問題で」
 狼狽する龍麻に、マリアは笑みをこらえるのに苦労した。
それは先刻のマリアを鏡に映した姿であり、彼の経験の乏しさは、
彼に対しての好意的な感情をはぐくませずにはおかなかったのだ。
「でも、マリア先生には感謝しています、これは本当です」
 死をもたらす者に対して感謝するのは、龍麻にとっておかしなことではない。
死は龍麻の望みであり、それを叶えてくれるマリアに感謝するのは当然だ。
そして、さらにもうひとつ、彼女は龍麻を必要としてくれた。
誰からも必要とされなかった自分を、『黄龍の器』として必要としてくれただけでも充分なのに、
緋勇龍麻として、肉体だけでなく心をも求めてくれたのだ。
マリアにはどれほど感謝してもしきれるものではなかった。
あと数十日しか彼女と居られないことを、残念だとは思わない。
そもそもこの『力』がなければ、彼女に求められることもなかったのだから。
 万感の想いをこめて、龍麻は深く頭を下げた。

 龍麻は穏やかな寝息を立てている。
彼の、ともすれば目が隠れてしまうほど長い前髪を優しく梳きわけ、
マリアは数十分前からの記憶を振り返っていた。
 男に言い寄られたことは、数え切れないほどある。
人間にも、吸血鬼にも。
しかし、これほど心を揺さぶられた男は、数人しかいなかった。
数百年来の悲願を前にして、感情が昂ぶっているのではないか。
あるいは、気が緩んでいるのではないか。
どちらの可能性も否定はできない、けれど。
 本気なのだろうか――
彼の寝顔を見ながら、マリアは考える。
そうだろうとは思う。
本気でないのならば、それこそもっと早くに求めていただろうから。
ただ本気である証明をしたいがために彼は肉欲を拒み続けていたのだ。
死にたい、というのも本心だろうが、マリアの隣で生きたいというのも、
彼の本当の気持ちであるのは間違いないだろう。
今日はあいまいなままとなっているが、龍麻が可能性のある生ではなく、
百パーセントの生を求めたとき、マリアは決断しなくてはならない。
 そこまで考えて、マリアは考えを打ちきった。
未来のことは判らない――何百年生きようとも、明日のことなど判りはしないのだ。
ならば、しばらくは刻の流れに身を委ねようとマリアは思った。
永い間のことではない。
せいぜい百日にも満たない、マリアにとっては一瞬に等しい時間でしかない。
その間くらい感情のままに生きてみても、悪くはないのではないか。
それはおよそ彼女らしくない結論だったが、同時に、ひどく新鮮でもあった。
 薄く息を吐いたマリアは、龍麻の額に静かにくちづけをすると、
目を閉じ、彼にならって眠りに落ちていった。



<<話選択へ
<<前のページへ