<<話選択へ
次のページへ>>
(1/2ページ)
刻が、満ちようとしていた。
人ならざるものが待ち望んだ刻が。
ただ一人の生き残りとなった吸血鬼が、世界に喪われた闇を取り戻す刻が。
元始、光と闇は均等に存在していた。
この世界に住まうものたちはそれぞれを敬い、畏れ、
お互いの領分を侵さずに生きていた。
それが破られたのは、もっとも新しくこの世界に誕生した者達の出現によってだ。
はじめは控えめに、身の程をわきまえていた彼らは、
いつしか我が物顔でこの世界を支配するようになり、
自分たちの邪魔になるものは倒し、征服してきた。
そして遂には闇という禁断の領域までも蹂躙し、万物の霊長などと傲るようになった。
彼らの台頭によって幾千もの生物が滅び、幾万もの生命が喪われようとしている。
――それは、許されざることだった。
十二月も――西暦一九九八年も終わりを迎えようとしていた。
龍脈の活性化はすでに始まっている。
日々増大する大地のエネルギーは『黄龍の器』ではないマリアにも感じとれるほどで、
それは新たな年の始まりとともに最大に達するのだ。
そのとき、マリアの復讐が幕を開ける。
五百年以上の永きに渡って封じこめてきた、
龍脈に匹敵するほどの怒りのエネルギーを、ついに解放するのだ。
他の生物の生命を奪い、自らを省みることのなかった傲慢な人間に、
虐げられた者達を代表して裁きを与える。
この世界は全ての生きる者達にとって平等であるのだと、わからせてやるのだ。
そのための用意を、マリアはすでにほぼ終えていた。
儀式の手順は頭に叩きこんであり、あとは当日、
『黄龍の器』を伴って現地へ行くだけだ。
地球の咆吼を地表に現出させたとき、巨大な力がこの世界を呑みこみ、
その後新しい秩序が生まれる。
それを見届けるまでが、マリアの役割だった。
すでに学校は冬期休暇に入っており、マリアも龍麻も登校はしていない。
そしておそらくは永遠に、二人とも真神學園の地を踏むことはないだろう。
年が明け、新学期が始まれば、
教師と教え子が揃って姿を消したことに騒ぎが起こるかもしれない。
もっとも、マリアの目論見通りに事が運べば、そんな心配は無用だった。
真神學園のみならず、東京という都市自体が大災厄に見舞われ、
学校になど通っている場合ではない事態になるのだから。
十二月三十一日の二十二時を過ぎた頃、マリアと龍麻は上野に向かって出発した。
上野にある寛永寺こそが、龍脈が噴きだす穴、龍穴が封じられた場所なのだ。
東京という大都市のこれほど中心部にあるとは驚きだったが、
だからこそこの街は世界でも有数の巨大都市へと成長したのかもしれない。
上野までは平時ならば新宿から二十分程度で着く距離で、
年末の混雑を加味しても日付が変わる前には到着できるだろう。
「それでは、行きましょうか」
同居人に向かってマリアは告げた。
もともと東京は夜にあって眠らぬ街であるが、大晦日である今日は、
昼と見紛うほどに人にあふれ、音に満ちている。
夜をこそ貴重な生の時間とするマリアには、彼らの傲慢さが忌々しかったが、
それも今日までのことだ。
あと数時間後には夜は夜の姿を取り戻し、
人間は己の分をわきまえざるを得なくなるのだ。
喜びで駆けだしそうになる足を抑制しなければならないマリアだった。
「はい」
龍麻は同居人に静かに答えた。
これから出かける先で、龍麻は人生を終える。
まだ二十年も生きていないが、自ら為したその選択に悔いはない。
一時はマリアと共に生きたいとも考えた。
だがそれも、夢と捨てた。
彼女が世界を滅ぼしたいと願わなければ、
そもそもマリアと出会わなかったことを考えると、
やはり彼女の願いを優先するべきだと思ったのだ。
仮に『黄龍の器』として役目を果たした後に生き残った場合、
殺して欲しいという頼みも変えなかった。
『黄龍の器』の力は人間などたやすく殺してしまうほど強大であり、
完全に制御できる自信もない。
現に人ではなくなったとはいえ、
葵を守るために同級生であった佐久間を斃してしまった。
生きているだけで人殺しになってしまう可能性がある以上、
生命を捨てるしか方策がない。
それも容易だとは思えないが、人間に優る能力を持つマリアならば
確実に仕留めてくれるだろうから、千載一遇のチャンスを逃したくはなかった。
マリアへの好意を告げてからこの日まで、龍麻の態度に変わりはなかった。
結局龍麻は一度もマリアを抱こうとはせず、これまでどおりの関係を維持し続けたのだ。
未練が、生じてしまうから――そう言われればマリアに強いる理由はない。
ただ、彼の体調のことも考えて、毎夜の吸血は可能な限り抑制した。
それについて龍麻は、今まで通りで良いと言った。
むしろ龍脈の活性化で力がみなぎってきて、
少し余分に吸ってくれても構わないとさえ告げたのだが、
マリアにも矜恃というものがあるので、必要量以上は吸わなかったのだ。
そうして二人は最後まで、血を吸う者と吸われる者という関係を変えなかった。
変えようという意志があったのかどうかも、
少なくともお互いからは感じられなかったのだった。
外は氣に満ちていた。
龍麻ほどではなくても、普通の人間よりは氣を感知できるマリアは、
その猥雑なエネルギーに酔ってしまいそうになる。
今日は十二月三十一日、日本では大晦日と言うそうだが、年の最後の日は、
どこの国であっても新年を祝うために人が街にあふれ出す。
日本では特に寺や神社に詣でる風習があるそうで、
今日はこれから特に氣が増していくのだろう。
それらを根こそぎ絶つことに忸怩たる思いがないわけでもないが、
長年心に核として装着してきた復讐の念に軽く触れれば、
一時の感傷など砕け散る冷たさが未だ厳として存在していた。
道中、二人はほとんど会話を交わさなかった。
すでに打ち合わせは済ませているし、これから為すことを考えれば、
軽口を叩くのはさすがにはばかられたのだ。
それが、寛永寺まで数分というところで、初めて龍麻が口を開いた。
「先生、妙です。人の気配がしません」
マリアは小さくうなずいた。
確かに駅前はまっすぐ歩くのも難しかったほどの人の流れがあったというのに、
急に途絶えた。
寛永寺はそれほど大きな寺院ではないというのが龍麻の説明だったが、
それにしても初詣客が皆無ということはないだろうし、
何より路地に一本入った途端に人の気配がなくなるというのは不自然にすぎる。
「とにかく、行ってみましょう」
ここまで来たら鬼が待っていようと進むしかない。
マリアは龍麻を促し、不測の事態に備えて警戒を強めつつ歩を速めた。
ほどなく二人は寛永寺に到着する。
やはり人の気配はなく、この一角だけが異様に静まりかえっていた。
入るかどうか、龍麻が目で問うが、マリアの答えは決まっている。
小さく、だがはっきりとうなずき、マリアは自分から一歩踏みだした。
境内に足を踏み入れた瞬間、激しい違和感が二人を襲った。
一陣の風もないのに、物理的な圧力で押し戻されるような感覚に思わずよろける。
マリアのヒールが大きな音を立て、龍麻が慌てて腕をつかんで支えた。
「……ありがとう」
これから生命を奪おうという男に救われるとは。
自分の間抜けさを嗤おうとしたマリアは、
自分を凝視している双つの瞳に相対して表情を凍りつかせた。
夜よりも暗い黒の瞳は、真剣に目の前の女を案じている。
どんな宝石よりも貴重なその輝きには、どんな笑いを向けることも冒涜と思われた。
表情を改めたマリアは、前方に目を凝らした。
正面にある建物から、凄まじいエネルギーの高まりを感じる。
あれが龍脈であるのは間違いなく、おそらくはあの建物で
龍氣の噴出口である龍穴を封じているのだろう。
ついに目の当たりにした伝説の力を前に、この地球上に怖れるものとてない
闇の眷属の最後の生き残りは、知らず身震いしていた。
これが、龍脈の力――
荒ぶる大地の咆吼は、そのうなりだけで地表を這い回るものどもなど
軽く吹き飛ばしてしまうというのか。
本格的に力を解放した暁には、どれほどの破壊をもたらすというのだろうか。
自分が手に入れようとしているものに、マリアは改めて畏れを抱いた。
まさしく地球の生命そのものであるこの力は、どんな種族であれ欲望のために
用いてはならないのではないかという本能的ともいえる畏れを、
だがマリアはねじ伏せる。
数多の生命を欲望のために奪ってきた人間に裁きを与えるのは、
理(にかなっているはずだ。
増えすぎた人間は、自らを律する能力も意思もない。
だから自分が、全ての生命を代表して彼らの声を伝えるのだ。
地球は、人間だけのものではないと――
一秒ごとに高まっていく膨大な龍氣は、それが存在する場所を見ているだけで
生命力を吸い取られるような錯覚を覚えるほどの圧倒的な偉容だった。
一度はマリアも竦みかけたが、心の奥底にある凍えた焔がかがり火となって
往く道を照らし、復讐者を前へと進ませる。
彼女に寄りそうように龍麻も続き、いよいよ本堂へと入ろうという時だった。
閉まっていた木の扉が、突然音もなく開く。
驚き、目を瞠る二人の前に、一人の男が立っていた。
血の色を想起させるくすんだ赤の服に、同じ色の髪。
顔には大きな傷があり、そして、左の腰に日本刀とおぼしき刀を下げていた。
一見して尋常ではないと思わせる凶々しさをまとう男は、
マリアと龍麻を見て薄く嗤う。
悪意と侮蔑のみが曲げる唇は、人間に破滅をもたらそうとしている
二人を上回る邪悪に満ちていた。
「誰かと思えば黄龍の器ではないか。
それにその女は……人ではないな、妖(か。
今頃何をしに来た、と言いたいところだが、
せっかく龍脈が目醒めるのだ、観客が居てもよかろう。
見物していくがいい……見るのは、素首だけだがな」
「……誰だ、お前は」
龍麻の問いに男は哄笑で答えた。
「俺の名は柳生宗祟。世界を混沌に導く覇者の名だ、覚えておくがいい」
「柳生……!? そんな、まさか……」
「知っているんですか、先生」
マリアはすぐには答えられなかった。
永き刻を生き、数百年の歴史を記憶に刻みつけている不死者(が、
その名を思いだすことを拒絶していた。
やがてふりしぼった声も、今にも崩れさりそうな砂のごときもろさだった。
「彼は……名を騙っているのでないとしたら、
十八年前に中国でアナタの父親と戦って……殺した男よ」
「――!!」
龍麻は呆然としてマリアと、彼女が語った男を見た。
柳生は毛髪一本すら動揺を示さず、マリアの記憶を肯定した。
「フン、あの時は油断したまでよ。だが今度はそうはいかん。
すでに龍脈は目醒め、俺が造った『黄龍の器』も用意してある。
今度こそこの世に破壊と混沌を、強き者だけが生を許される世界を創りあげるのだ」
傲然と言い放つ柳生を、マリアは声もなく見るほかなかった。
あと一歩、もう手の届くところまで来ていた野心の成就が、
こんな形で妨げられるとは思いもしなかったのだ。
世界を掌握できるともいわれる龍脈を手中に収めようという輩が、
自分の他にもいる可能性をマリアは当然考えていた。
そのための最も重要な鍵が『黄龍の器』で、
それを手に入れた者こそが龍脈を思い通りにできる。
ほとんど偶然といってもよい幸運で、緋勇龍麻という『黄龍の器』を手に入れた
マリアは、あとは彼を奪われさえしなければ目的が達成できると思っていたのだ。
だが、一時代に一人しか現れないという『黄龍の器』を、
柳生もまた手に入れているという。
しかもマリアよりも先に事を運び、すでに儀式を始めているというのだ。
柳生に目を据えながら、マリアは視界の端で龍麻を見る。
突然本当の親の仇が目の前に現出して、龍麻も戸惑っているようだった。
育ての親から絶縁を言い渡されたときに、本当の親は死んだとは聞かされても、
殺されたとは聞かされていなかったのだろう。
十八年前、中国。
『凶星の者』と呼ばれる柳生宗祟は、当時龍脈が活性化を始めていたかの地で、
その力を我が物にしようと企んでいた。
それを阻もうとしたのが龍麻の父を含む数人の男たちで、
激しい戦いが繰りひろげられたという。
だが、当時すでに外法と言われる妖術を身につけていた柳生の力は強大で、
数人がかりでも柳生を倒すまでには至らなかった。
そこで龍麻の父が採った手段が、自分もろとも霊山に柳生を封じるというものだった。
本人は助かる術のない、捨て身の戦法は効を奏し、柳生は封印された。
龍麻の父も死に、すでに母親も亡くなっていた赤ん坊の龍麻は、
共に戦った男の一人に連れられて日本へと渡る。
そして信用のおける義父母を探し、預けられたのだ。
戦いに数ヶ月遅れて中国を訪れたマリアは、激闘の跡と、
柳生が目的を果たせなかったことを知り、次の龍脈が活性化するまでの期間を、
さらなる情報収集と『黄龍の器』捜索に費やすことにしたのだった。
マリアは他に『黄龍の器』を狙う者がいる可能性について考えなかったわけではない。
ただ、最大の脅威と思われる柳生は封印され、龍麻を確保してからも、
彼に近づく者は見あたらなかったので、もう自分以外にはいないと思っていたのだ。
だが、柳生宗祟は封を破った。
そして十八年を経てもなお減ぜぬ、修羅の世界を創るというマリア以上の狂気を
実現させるべく、ここ寛永寺に現れたのだ。
マリアが野心を成就させるには、この人にして人ならざる魔人を斃さねばならない。
だが、戦って勝てるかどうか。
人間よりは遙かに高い能力を持つマリア(だが、
柳生に一対一で勝てるかどうかを判断するならば慎重にならざるをえなかった。
負けられない――引き分けでも負けを意味する以上、戦いを挑むのは不利だ。
それがマリアの下した結論だった。
仲間を滅ぼされてから数百年、復讐のみを糧に生きてきたマリアにとって、
ここで撤退するという決断は、苦渋というのもあまりある。
この期を逃せば次はいつになるのか、否、柳生が龍脈を掌握してしまったら
次の機会など訪れない可能性が高い。
それでもなお、日本刀を下げ、傲然と殺気を放つ柳生には、
吸血鬼の身体能力をもってしても両断されてしまうのではという怖れがあった。
これまで、個人の敵には決して抱いたことのない感情――
それが、誇り高き吸血鬼に逃走を決意させたのだった。
龍麻が激昂して柳生にいどみかかる心配はなさそうと見て、
マリアは彼にささやいた。
「ワタシが囮になるから、隙を見て逃げなさい」
マリアにしても逃げ切れるかどうか、五分というところだろう。
だが龍麻では柳生に敵わないのは明白であり、
まだしも確率の高い方を選ぶほかなかった。
このとき、マリアは矛盾に気づいていない。
利用価値を失った『黄龍の器』など見捨てて逃げるべきであり、
命を賭して彼を護るなど、彼女のこれまでの行動原理からは大きく外れている。
それに、彼は死にたがっているのだ。
確実な死を求めてマリアに従っているが、人間以上の存在というならば柳生も該当する。
むしろ後顧の憂いを絶つために龍麻を抹殺しようとしているはずで、
柳生ならば彼の望みをあやまたず叶えるだろう。
<<話選択へ
次のページへ>>