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 だが、マリアに、ここで龍麻を失うという考えはなかった。
龍脈の掌握に関しては諦めるとしても、
この人間を手放して逃げるつもりは全くなかった。
 それがどういう心境の変化によるものか、マリアにはわからない。
ただ、偽りのない本心であることに間違いはなかった。
 龍麻に指示を出しながら、柳生に踏みこませぬよう、マリアは慎重に間を計る。
全力で逃げてくれたなら、龍麻だけは助かる公算が大きい。
 ところが龍麻は踵を返すどころか肩を並べ、前方を見据えたままマリアに囁いた。
「俺が、柳生あいつを倒したら」
「え?」
「俺が柳生を倒したら、龍脈の活性化を止めて、一緒に生きてくれますか」
 マリアは思わず眼前の敵から目を離し、龍麻を見そうになった。
二人分の生死がかかっているというのに、現実を見ていない龍麻に対し、
苛立ったままの感情をそのままぶつけた。
「おかしな話ね。ワタシの目的のために柳生が邪魔だというのに、
彼を倒してワタシは目的を諦めなければならないというの?」
「……」
「それにあの男はアナタにんげんよりもワタシに近い存在……
いくら『黄龍の器』だといっても、アナタが勝てるものではないわ」
「やってみなけりゃ、わかりません」
 龍麻は驚くほど頑なだった。
マリアに想いを告げたときですら、我を押し通そうとはしなかったというのに。
親の仇を前にして、知らず興奮しているのだろうか――
そんなことを考えながら、マリアの声も固さを増していく。
「……駄目よ。アナタが負ければ柳生が龍脈を活性化させることになる。
ここは一度退くべきだわ」
「あいつは逃がしてくれそうにないです」
「この距離ならまだ大丈夫だわ……万が一追いつかれても、
ワタシが防ぐからアナタは逃げなさい」
 その一言が龍麻に決断させたのだと、マリアは気づかなかった。
沈黙した龍麻が了解したとみなし、逃げる機を慎重に計る。
目の前の巨大な危険に気を取られていた吸血鬼は、人間が敵意を振り向けてきたとき、
全く回避する術を持たなかった。
「……! アナ、タ……!」
 腹に痛みが拡がり、視界が薄れていく。
闇の誘惑をこの世に生を受けて初めて拒もうとしたマリアだったが、
龍麻の一撃は深く意識にまで達し、人ならざるものは偽りの闇に落ちていった。
「……すみません、先生」
 滑るように前進し、気を失ったマリアと柳生の間に割ってはいった龍麻は、
愛する女性に小声で謝った。
闘う前に彼女の顔を一目見ておきたかったが、近づく殺気はそれを許さない。
マリアのことは一旦忘れ、龍麻は心を切り替えた。
 父の仇であり、百年以上の刻を生きる恐るべき魔人。
まだ刀は抜いていないが、放たれる威圧感は凄まじく、
マリアが逃げようとしたのも当然な気がした。
自分の身体が震えているのは、おそらく幾らかは恐怖しているのだろう。
 しかし、底にまで怖れは達していない。
龍麻は自分の心を正確に把握していた。
柳生と闘い、そして勝つ。
マリアと共に生きるにはそれしか方法がなく、そして、
その方法を冷静に考えることができた。
 深く息を吸い、吐いて、龍麻は柳生へと近づいていく。
「別れの挨拶は済んだか」
「……ああ」
「ならば黄泉路に送ってやろう、親子仲良く冥府で暮らすがいい!!」
 言い放つと同時に閃光が疾る。
その輝きが消えたとき、『黄龍の器』が死んでいることを柳生は
確信していたに違いなかった。
それほど必死の一撃であり、並の人間ならば、
斬られたことすら知らずに死んでいただろう。
 その横凪ぎの斬撃を、龍麻は身体一つ分で躱していた。
衝撃波が服と頬を裂き、生赤い血が肌寒い冬の夜にそぐわない温かさをもたらした。
だが、それらを一顧だにすることなく龍麻は突進し、一気に間合いを詰めた。
「……フン、小賢しい!」
 必殺の斬撃を躱された柳生は、自失するでもなく人にあらざる速度で
振り下ろした剣を、同じ軌跡で振り上げた。
夜闇に白い輝きが瞬く。
実際に刀を武器として用いた時代に生きた者にしかなしえない神速の斬撃を、
だが、龍麻は再び躱していた。
 渾身の力による攻撃を二度も避けられ、さすがに柳生の体勢が崩れる。
それは一呼吸にも満たない瞬時のことだったが、龍麻はその隙を逃さなかった。
 懐に潜りこみ、拳を突きだす。
武術を学んだこともなく、喧嘩をしたこともほとんどない龍麻の殴打は、
柳生でなくともプロのボクサーであれば軌道は見える程度のものだった。
全身をばねにするでもなく、腕だけで打ち抜こうとしたパンチは、
専門家が見れば失笑してしまうものだったに違いない。
 だが、それは見えれば、という条件つきだった。
モーションからどこを狙っているのかは一目瞭然の龍麻の動きだったが、
そこから放たれた拳は、常人の視力で捉えられる疾さではなかった。
それは数多くの人間を斬ってきた柳生ですら例外でなく、
極小の時間無防備となった腹に撃ちこまれた殴打は、
魔人の想像を超えた一撃となり、大きくよろめかせた。
「ぐ……ッ……!」
 龍麻を無手と侮っていた柳生は、ようやく自分の愚かさに気づいた。
目の前の餓鬼は『黄龍の器』であり、ここは黄龍……
大地の氣が噴きだす場所、龍穴だ。
つまり黄龍の器を相手とするには最も不利な場所、不利な刻であると。
 起動した龍脈は黄龍の器に呼応し、その凄まじいエネルギーを注ぎこむ。
柳生は本来一時代に一人しか存在しない黄龍の器を、
外法と呼ばれる禁忌の呪法を用いて人工的に作り出すことに成功した。
ゆえに本来の黄龍の器である龍麻なしでも龍脈を起動させ、
龍の力を掌握しようとしたのだ。
 だが、龍脈は当然一つ目の器にも反応する。
黄龍の器を造りだすのに時間がかかり、龍麻を始末する暇がなかったのが、
ここにきて大きな誤算となったのだ。
「貴様……ッ……!」
 憤怒を刃に塗り、柳生は刀を横薙ぎに振る。
大木でさえ断ち切ろうかという白刃は、しかし、
たかが人間一人を両断することができなかった。
 触れれば即致死になりうるだろう柳生の凶刃を右に躱し、左に避ける龍麻を
支配していたのは、かつてない高揚だった。
これが死闘の最中であることを忘れそうなほど、肉体が活性化している。
マリアは『黄龍の器』を覚醒させるためになにがしかの儀式を行うと語っていたが、
そんな必要などないほど大きな力が全身に流れこんでくるのを感じていた。
 柳生の殺気は尋常なものではなく、父に続いて子を殺すことになんらの
ためらいも抱いていない。
己以外の全てを両断せんとする柳生にとって、父子であろうと路傍の石と変わりなく、
『黄龍の器』としての価値も必要なくなった龍麻など、もはや苔同然だった。
 その苔に、苦戦している。
一打一打が信じがたいほど重い龍麻の打撃を幾度となく受けながら、
刀を手放さない柳生は確かに尋常な存在ではなかったが、
この闘いにおいての実力差は圧倒的だった。
「ぐォッ……、貴様ッ、貴様ッッ……!!」
 ろくに狙いも定まっていない拳が、槌で殴ったような破壊力をもたらす。
それは柳生が初めて受ける、龍脈の力だった。
修羅の世――闘いのみを生とし、負けた者、そして闘わぬ者は全て価値のない世界。
全ての者がただひたすらに殺し合う狂気の世界で王たらんと欲した男は、
確かに覇者となれるだけの資質を持ってはいた。
 だがそれも、露と消える。
『黄龍の器』を力の容れものとしか考えなかった柳生は、
その容れものが宿す意志に敗れようとしていた。
「この俺が……貴様ごときにッ……!!」
 質量共に圧倒的な攻撃に、すでに柳生は瀕死となっている。
必殺の斬撃を繰りだすこともかなわず、
ただ龍麻の奮う拳の的と成りはてている有様だった。
そしてついに、龍が魔人を咬みくだく。
近接して闘う両者の間から一条の光がほとばしったとき、
龍麻の両腕から無数に繰りだされた拳のひとつが、柳生の顎を撃ち抜いていた。
「グ……ォォ……!!」
 断末魔の悲鳴すら放てる状態ではなかった柳生が、
口の端から髪の色と同じ液体を噴きこぼす。
それでもなお魔人は刀を支えに倒れまいとしていたが、
その力もすでになく、数ミリ顔を動かし、龍麻を見上げたのが最後の動作だった。
柳生は斃れ、その数秒後に持ち主を喪った刀も倒れる。
刀がたてた澄んだ音が、激しくも短い戦闘の終了を告げる合図だった。
 闇が、マリアを目覚めさせる。
激しい戦闘が終わり、龍麻が本堂に入って数分、
寛永寺の境内は寺社にふさわしい静謐さを取り戻していた。
 目を開けたマリアは、状況を把握するのに十数秒ほど必要とした。
なぜこのような見覚えのない場所にいるのだろう、
と訝しんだところで、地面にある一本の刀が目に入る。
途端に何もかもを思いだし、急いで立ちあがった。
倒れる前に感じていた異常な気配はもうない。
そして刀の持ち主である柳生の姿は見えず、彼と闘ったであろう龍麻の姿もなかった。
「龍麻ッ!」
 闇に消えていく自分の声に、ひどく孤独を感じた。
だから二度目は呼ばず、歩き回って龍麻を捜した。
死体はなかった――だから、生きているに違いない。
そう言い聞かせる心が、激しく鳴っていた。
 本堂の中に、龍麻はいた。
「龍麻……!」
 時間にすればほんの数分彼を捜しただけだというのに、
マリアはひどく安堵し、そして怒りがこみあげてきた。
返事くらいしなさい、と教師の口調で言いかけて、
それよりも先に状況を確認する方が先だと考え直した。
「マリア……先生……」
 振り向いた龍麻は、ひどく弱々しく見えた。
外見に傷はないが、大きなダメージを受けたのだろうか。
「柳生はどうしたの? アナタ、怪我は?」
「……斃しました。怪我はありません」
「それならどうして」
 そんなに浮かない顔をしているのか、マリアは訊ねようとして気づいた。
あれほど凄まじかった龍脈の気配が、全く失せていた。
たった数分の間に、世界は大きく変貌していた。
「柳生を斃してすぐに、ここに来たんです。そうしたら、
たぶん柳生が造った『黄龍の器』だと思うんですけど、男がいて」
 その男も斃したのか、と目で問うマリアに龍麻は首を振った。
「もともと正気じゃない……っていうか意識がないみたいだったんです。
それで起こそうとすると、いきなり氣が強くなって」
 目を開けていられないほどの光が龍麻を覆い、
それが引くと、男は影も形も見えなくなっていたのだという。
「柳生は儀式の途中だと言っていたわ。もしかしたら、器としての能力が足りなくて、
龍脈の氣に呑みこまれてしまったのかもしれないわね」
「そんな感じでした。とにかく、そいつがいなくなるとだんだん龍脈の方も
静かになっていって、でも俺じゃどうしたらいいか解らなくて……すみません」
 龍麻が浮かない顔をしていた理由を知ったとき、
マリアの心を占めたのは怒りでも、喪失感でもなかった。
およそこの場に似つかわしくはない、軽やかさ。
すがって生きてきたはずの恨みは同時に重りにもなっていて、
今、それが解き放たれたのかもしれなかった。
 これはくだらない結末というべきだろうか。
マリアは目を閉じた。
五百年以上にも渡って計画してきた復讐は無残に失敗した。
龍麻の望みも果たしてやれず、二人ともぶざまに生きている。
そして世界は何も変わらない。
「先生……?」
 呼びかけに応じて、マリアは彼を見つめた。
これからどうするのか。
彼は。
自分は。
「終わったわ。……ワタシにとっては全てが」
「……次の機会を待ったりはしないんですか」
 マリアは答えなかった。
この期に及んで素直になれない男に腹が立ち、
この期に及んで素直になれない女に腹が立ったのだ。
「龍麻」
「はい」
 呼びかける調子が強かったので、龍麻は驚いている。
渋面を作ったまま、マリアは一気に言い放った。
「最後にもう一度だけ訊くわ。もう、ワタシに『黄龍の器』は必要ない。
アナタは……どうするの?」
 かつては……否、数十分前までは死にたいと願っていた龍麻だ。
最後の願いではなかったとしても、もしも彼が心を翻していたら、
マリアは聞き届けてやるつもりだった。
「俺は、マリア先生と生きたいです」
 年上の女の狡猾な質問に、龍麻は迷わず答えた。
それこそが彼の最後の願いであり、その場合でも叶えてやるつもりだった。
しかし、その眩しさに目を細めながら、なおマリアは解答をためらった。
「アナタは……本当にワタシと生きるつもりがあるの?
永遠の生命を持つ不死族ワタシと?」
「はい」
 彼は、吸血鬼と共に生きるという困難を、決して理解はしていないだろう。
ただ生きるというそれだけのことにも、人間の敵という烙印を押された者には
永劫に等しい逃亡と恐怖がつきまとうのだ。
その見返りに得られるものはほとんどなく、龍麻は自分が老いてなお出会った頃の
ままの姿であるマリアを見て、嫉妬と絶望にうちひしがれるかもしれないのだ。
 そうなった時に辛いのは、マリアの方だ。
龍麻は死ぬだけでいい――しかし、マリアは愛する者に裏切られたという想いを
抱えて生き続けなければならない。
 それは容易に出せる結論ではなく、二度も意志を確かめさせておきながら、
マリアはまだ答えられなかった。
「先生――俺じゃ、駄目ですか」
 焦りがにじんでいる龍麻の声に、マリアは気圧されていた。
たかが人間、たかが二十年も生きていない男に、困惑させられていた。
「駄目じゃ……ないわ」
 長い沈黙の末にようやく絞りだした声は、
彼女らしくもないあいまいな揺れに覆われていた。
「駄目じゃない……けれど、本当にワタシでいいの?」
 三度も同じことを訊くなど、マリアの人生で初めてのことだった。
そして、返事が予測できなかったというのも。
「――!」
 強い力がマリアを引き寄せる。
それは、マリアが孤独を託すのに充分な強さだった。
彼の首筋に触れそうになった口唇を、短い逡巡の後に遠ざける。
龍脈の力を得られなかった黄龍の器と同様、
本能を喪った吸血鬼にもはや存在理由はない。
だからマリアは、龍麻とくちづけを交わした――男と、女として。



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