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一九九九年、早春。
春というにはまだ早く、防寒着なしでは寒い季節。
東京の高校は大部分が卒業式となっている日で、
龍麻が通う真神學園もその中に含まれていた。
校長の訓辞や在校生の送辞、卒業生の答辞など、
おそらくはどこの高校でも変わらない儀式が、淡々と進行していく。
それでも卒業する三年生の、主に女子生徒のすすり泣きがあちらこちらから
聞こえてきて独特の雰囲気を醸成し、当事者達はそれなりに感動して式を終えていた。
退場が始まるまでのわずかな時間、整然と並んでいる生徒達の中で、
龍麻は彼女たちをやや白けた目で見ている。
三年次に転校してきた龍麻は友情をはぐくんだ友達もなく、
クラス内でも交流を持とうとはしなかったので、孤立したまま卒業するのだ。
自分で選んだ道だから、それに文句はないとしても、
どうしてたかが卒業で泣くのか、いまひとつ理解できなかった。
では、卒業生の中で龍麻がもっとも醒めていたかというとそうではなかった。
全員の心情を順位づけしたなら、龍麻はむしろ上位に位置するほど高揚していた。
なぜならこれからそれぞれの進路を歩む彼らの中で、
おそらく龍麻が一番に行動を始めるからだ。
教室で卒業証書を受け取り、名実共に真神學園を去る。
校門を出た龍麻の行く先は、家に戻ることなくそのまま空港だった。
それも一人ではなく、二人で。
進路のみならず今後の人生を共に歩む相手は、龍麻と同じ校門から出てくるのだ。
マリアと――三年C組の担任と共に、彼女の故郷に旅立つと知れば、
同級生はどのような反応を示すだろうか。
たとえ相手がこの一年間で交わした言葉が指折り数えられてしまう、
無愛想という言葉の見本のような人間であっても、
彼女と共に暮らすに至った経緯やその他諸々のことを、
一日中かけて聞き出そうとするに違いない。
飛行機のチケットはすでに用意してあり、乗り遅れてしまったら大変なことになる。
だから龍麻はマリアと彼女の故郷であるルーマニアに行くことが決まった日から、
いっそう輪をかけて一日中仏頂面を保つ努力をしてきたのだった。
マリアが来るまでの時間、教室は喧噪に満ちていた。
写真を撮ったり進路を話しあったり、そこかしこで小規模の集団が生じ、
解散し、また生じているそれらは、花火にも似た趣があったが、
龍麻はそのどれにも加わらず、席でじっと座っていた。
この一年ですでに龍麻の存在を認めずに過ごすことに慣れたクラスは、
興を醒ますような態度にも構うことはない。
悪意も、もちろん善意も一切向けず、ただ存在を無視して晴れの日を祝っていた――
ただ一人を除いて。
「緋勇君」
小さく呼びかける声がして、龍麻はふり向く。
そこにはさっきまであちらこちらで呼ばれていた美里葵が、
いつのまにか戻ってきていた。
どんな天使が仕事をしたのか、クラスで一番人気がある葵と、
もっとも関心を呼ばない龍麻が、目を合わせても誰も気に留めていない。
龍麻が気にしたのは、むしろ自分と話すことで彼女に迷惑をかけるのではないかという
点だったが、葵は明確に龍麻一人を相手として話しかけてきていた。
葵がなぜ呼んだのか、龍麻には見当がついている。
龍麻は彼女と約束を交わしていた――卒業まで、毎日休まずに登校すると。
ある悲劇をきっかけに交わされたその約束を、龍麻は守れないとわかっていて交わした。
それは龍麻の心に小さからぬしこりとなっていたのだが、
運命がいくつか進路を変えた結果、こうして約束を守ることができた。
その紆余曲折については語る必要もなく、
約束を果たし、共に卒業できることを素直に祝ってよいはずだった。
「卒業、おめでとう」
「ああ、美里さんも」
短い挨拶を交わしただけで、二人とも口を閉ざした。
必要なことは全て伝えたという想いがそうさせたのだ。
葵はまっすぐ龍麻を見つめ、龍麻は目をそらさずに受けとめる。
葵が話しかけたのは、むしろ見つめあう時間を補おうとしてのことだった。
「緋勇君は……これからどうするの?」
「海外に行くんだ」
「……そう」
小さくうなずいた葵に、龍麻は、自分からも彼女の進路について
訊くべきかどうか迷った末に止めた。
彼女の未来を見届ける資格は、自分にはない。
ただ、彼女が未来に向かって歩いていくのを確かめたなら、それで充分だった。
「緋勇君……元気でね」
「ああ、美里さんも」
芸のない返事を繰り返してしまい、葵が口元をほころばせる。
その笑顔こそが、龍麻にとってもっとも意味のある卒業式の式典となったのだった。
「それでは皆――卒業、おめでとう」
マリアから卒業証書が渡され、高校生活が終わる。
彼女の挨拶と同時に教室には爆発的な歓喜があふれ、
さっきあれほど写真を撮ったり色紙を書いたりしていたのに、
まだ足りないと見えるのか、教室内ではほとんど誰も帰る気配がなく、
あちこちでシャッター音とサインペンが走る音が鳴りはじめた。
彼らに用はないが、学校には居る必要がある龍麻は、
ひとまず教室を出ることにする。
扉を出るときに、たくさんの生徒に捕まっているマリアが
こちらを見たような気がしたが、気づかないふりをした。
まだ油断してはいけない。
最後の瞬間に気を緩めて、すべてを台無しにするわけにはいかないのだ。
そこのところを彼女もわかっているのだろうか――緩む口元を必死におさえながら、
人気のないところまで、早足で向かう龍麻だった。
三十分ほど時間をつぶしてから、龍麻は外に向かう。
待ち合わせ場所は学校を出て最初の角だが、校門のところにはまだ生徒が何人かいた。
その中には龍麻と同じC組の生徒もいて、今出て行くのは何かと不自然だ。
マリアが来るまでに彼らが帰ることに期待して、
龍麻は校門の少し内側で待つことにした。
なるべく目立たないように樹木の陰に隠れるように立つ。
しかし、それがかえって良くなかったのか、
ほどなく龍麻のところに、一人の教師が近づいてきた。
「緋勇」
「犬神……先生」
隣のクラスの担任である犬神杜人は、特に龍麻と親しかったわけではない。
今日はさすがに白衣ではなくスーツを着ている彼が、
特に自分に声をかける理由を、龍麻はむろん知っていた。
「頼みどおり、お前はこの街と彼女を救ってくれた。礼を言うよ」
「街はともかく、マリア先生に救われたのは俺の方です」
謙遜と受け取ったのか、犬神は短く鼻を鳴らした。
無精髭に整えてもいない髪は、いかにも人生に倦んでいる中年教師の態で、
龍麻は未だに彼がマリアと同じく人ならざるもの、
人狼(であると信じることができない。
どうして太古より恐怖と畏敬の対象である人狼が、
人間社会で一介の教師などを務めているのか、龍麻には疑問で仕方がなかった。
ただし、それを訊いたところで答えが返ってくる可能性はゼロだろう。
同じ闇の眷属であるマリアが同じ質問をしたときでさえ、
けんもほろろにあしらわれたそうだから。
ポケットを探る犬神が、目当てのものを見つけ、取りだす。
けれどもそれをただ咥えただけで、紫煙をくゆらそうとはしなかった。
それが卒業生の門出を祝うためか、それとも煙草はあっても火がないからなのかは
龍麻にはわからない。
龍麻にわかったのは、今日の犬神の眼は狼のそれではなかったということだった。
「……マリアと、行くのか」
「はい」
「そうか。……大変だろうが、頑張れよ」
片手を上げて犬神が去っていく。
その背を見送っていた龍麻は、人の世に生きる人ならざるものに対する敬意として、
一度だけ小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、待たせたわね」
吸血鬼らしからぬ陽気さで、マリアは現れた。
道行く者を男女問わず振り返らせる颯爽とした足取りで、
季節を二十日ほど先取りしたような笑顔を浮かべている。
「いえ」
迎える龍麻は彼女に較べれば愛想が少なかったが、
それでも彼を知る人間が見れば驚くに違いない、これも楽しげな表情をしていた。
ようやく二人だけの生活が始まる。
吸血鬼と龍の化身とがお互い必要であると確認し、
共に生きる約束を交わしてからおよそ二ヶ月。
いわば猶予期間はそれなりに楽しかったが、
やはり新生活を本当に始める喜びには及ばない。
しかも、それは龍麻よりむしろマリアに顕著で、この二ヶ月、
龍麻は昼と夜とを問わず新しい生活について、
男からすると少し細かすぎるのではないかというようなことにまで及ぶ、
相談と心得とが一緒になったものを聞かされ続けていた。
煩雑に感じたそれらも、いざ実践するときが来たと思うと感慨深いものがある。
「それじゃ、行きましょう」
「はい」
マリアが驚くほど強い調子で答えた龍麻は、新たな未来への一歩を踏みだしたのだった。
二つ目の角を曲がり、学校が見えなくなると、
マリアが待ちかねたように龍麻に腕を絡めてきた。
まだ少し早いのではないかと龍麻は後ろを向くが、
マリアにお構いなしで腕を引かれ、よろめいてしまう。
「時間には余裕があるはずですけど」
抗議もどこ吹く風で歩くマリアに、龍麻は諦め、彼女に並んで歩き始めた。
ヒールを履いたマリアの身長は、龍麻にほぼ等しい。
真横に女性の顔があるというのはもちろん初めての経験で、
龍麻はどうにも落ちつかず、つい視線を横に滑らせてしまう。
「どうしたの?」
昼間といえども感覚は人間より優れている吸血鬼がそれを見逃すはずがなく、
すかさず問いかけてくる。
「いえ……その」
あいまいに言葉を濁して逃れようとするも、
出会った頃より明度を増した蒼氷の瞳にじっと見つめられると
たちまち白旗を揚げるほかない龍麻だった。
「まだ慣れなくて」
「どういうこと?」
「だから、その……女の人と並んで歩くのが」
言ううちなにやらとてつもなく恥ずかしくなって、季節にそぐわぬ熱を頬に感じる。
するとマリアは澄んだ笑い声をたてて、絡めた腕にいっそう力をこめた。
歩くには少し不都合なくらい密着してしまうが、マリアに気にした様子はない。
急激に早くなった心臓の音を聞かれてしまったら、
またからかわれてしまうだろうと危惧しつつ、笑う彼女に自分も嬉しくなる龍麻だった。
二人は改めて手を繋ぎなおして歩きだす。
マリアはあきらかにそれ以上のスキンシップを求めていたようだったが、
龍麻にはまだ白昼堂々そこまでする気概はなく、
渋るというより駄々をこねるマリアをなだめすかして諦めさせねばならなかった。
これまでの二ヶ月でおおよそ覚悟はできていても、
これからずっとこんな風にマリアと過ごすことに、
龍麻は喜びが九割で残りが迷惑といったところだ。
何しろ彼女は年期が違う――それに、色気を惜しげもなく散りばめた
彼女の交渉術に冷静な対応をするのはほとんど不可能と言ってよく、
出発点からまるで違うところに着地してしまったのは十や二十ではない。
夕食の献立を決めるはずが台所で血を吸われていたなどというのは可愛い方で、
この二ヶ月でどれだけの体液を失ったか、考えてみるのも怖ろしく、
当然、今後はさらに多く失われる可能性があった。
未来に思いを馳せ、恐怖と同量以上の甘い悦びに龍麻はつい頬を緩ませる。
「どうしたの?」
「い、いえ」
また彼女のペースになってしまうと、本当に飛行機に乗り遅れかねない。
気を引き締め、早足で歩きだす龍麻の背筋に、突然、違和感が疾った。
数ヶ月前寛永寺で感じたものに近い、気持ちの悪い感覚。
それが良からぬものであると直感した龍麻は、
危険の正体を確かめようと周囲を見渡した。
気配はない――人も、生物も。
それどころか周りに立つ木からも、生命の気配が感じられなかった。
こんなことはありえない。
この通りに入るまでは確かに雑多な気配があったのに、
今は砂漠の真ん中に放りだされたかのように、否、
砂漠でさえそこに生きる生命がある以上、
微弱ではあってもなにがしかの気配は感じとれるはずだ。
だが今は、何もない――意識はあり、
五感もあるのに周りから気配だけが消失しているのだ。
何が起こっているのか、龍麻は焦る心を抑え、
マリアの手を強く握りしめて警戒を強めた。
マリアも異変を察知し、一転して険しい表情で辺りを探っている。
もう柳生は倒れ、『黄龍の器』も役目を失い、命を狙われるようなことはないはずだ。
しかし現に異変は生じている。
もしかしたら以前夢の中から美里葵を拐かそうとした輩のような何者かが、
自分かマリアのどちらかを狙っているのだろうか。
いずれにしても、ここに留まっているのは危険だ。
進むべきか、退くべきか。
初春だというのに龍麻は額に汗を感じ、空いている方の手でぬぐおうとした。
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