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 そのときだった。
いきなりマリアに突き飛ばされ、わけもわからず龍麻は壁に激突する。
背中をぶつけた痛みに顔をしかめ、思わず怒りの声を放った龍麻の目に映ったのは、
背中から血を噴き、前へと倒れるマリアの姿だった。
赤い血――彼女が着ているジャケットと同じ色の体液が、龍麻の眼前で零れる。
この春からずっと、自身も含めて非現実的な世界に
片足を踏みいれてきた龍麻でさえ、受けいれがたい現実。
たった今まで手を握りあっていた女性が、静まりかえった東京の路上に
不本意にくちづけを強いられた光景を、龍麻は呆然と見ていた。
 その龍麻の右方、マリアの背中側の路地に、一人の男が立っている。
人ならざる存在であるマリアと、人でありながら人にあらざる力を持つ龍麻に、
一切の気配を悟らせることなくマリアを撃った男は、
銃口にたゆたう硝煙をこれ見よがしに吹き消した。
「やっと見つけたぜ、吸血鬼め」
 そこだけを切り取ったかのような黒いコートを羽織り、
眼鏡の奥に狂気を、声には喜色が滲んでいる。
「化物風情が人間のフリして生きようだなんて反吐がでるぜ。
死ねよ、いや、殺してやるぜ、神の慈悲の下になエイメン
 男は狩人だった。
闇に生きる人ならざるものをターゲットとし、
狙い定めた獲物を世界の果てまでも追いつめ、獲物の意思などお構いなしに狩る。
狩った獲物の肉や皮には興味も示さず、ただ生命を狩ることだけを目的とした狩人。
神と人間以外の全ての存在を否定する機関から派遣された狩人の名は、
来須狩夜といった。
 吸血鬼という大物を狩ることに成功した来須は、興奮を抑えきれなかった。
新たに開発された対魔用結界が、見事に性能を発揮していた。
開発部の連中がでかい顔をするのは気にくわないが、
吸血鬼を屠れるのならば悪くない。
事前に設置する手間はあるとしても、五百メートル四方の空間内で
あらゆる生命反応を隠す・・結界は、他の人間よりも感覚の鋭い化け物共にも
効果は絶大と思われた。
 『祝福を与えられた銀の弾丸』は闇の眷属に対して必殺の武器となる。
弾丸は確かに命中し、吸血鬼は倒れ伏した。
あとは吸血鬼と一緒にいた餓鬼を始末すれば、来須の仕事は終わりだった。
「少しばかり餓鬼にはショッキングな場面だったか?
だが吸血鬼の下僕になった奴は宿主が死ねば一緒に死ぬ。
せめてもの情けだ、てめぇは殺さないでおいてやる。宿主に別れでも言うんだな」
 得々と語る来須の弁を、龍麻は全く聞いていなかった。
聴覚は機能していたが、感情が神経の一部を断ち切っていたのだ。
 既に龍麻の怒りは限界に達していた。
その限界に最後の一滴を垂らしたのは、他でもない来須だった。
幼い頃から人ならざる『力』に振り回され、感情というものを摩滅させていた龍麻に、
全身の血管の隅々にまでマグマを流しこみ、噴火させたのは、
人ならざる者を狩るという名目の下に人と同じ姿形をしたものを殺す、人間だった。
人間に絶望した龍麻に再び希望を与えた人ならざる者を奪ったのは、龍麻と同じ人だった。
それをやりきれない、などと龍麻は思わない。
マリア以外の全ての存在がどうでも良かった龍麻にとって、
彼女に害なすものは人であろうとなかろうと全て同じであり、
龍麻の怒りはただそれだけの理由で制御不能なほどに膨れ、爆発したのだ。
 背後から撃たれたマリアを、一切の衝撃を与えない慎重さで抱きおこし、
仰向けに横たえたまでが、龍麻をかろうじて人と呼べる時間だった。
穏やかともいえる物腰で来須の方を振り向いた龍麻に、すでに人としての貌はなかった。
「きさま……」
 正対する化け物に、来須は鋭い舌打ちの音を立てた。
なまじ情けをかけたばかりに、余計な手間が一つ増えてしまったのだ。
「チッ、往生際の悪い……仕方ねぇ、てめぇも殺してやるぜ」
 来須が受けた命令は吸血鬼を狩れ、というものであり、
それ以外の者を、特に人間を殺すことは固く禁じられている。
しかし、特に吸血鬼の場合は手下となった人間が傍にいることもままあり、
その中には龍麻のように激昂して襲いかかってくる者もいた。
そういった人間を殺した場合、機関による厳正な審問が行われ、
機関が正当だと認めた場合は不問に付される。
だが審問そのものが異形を狩るエージェント達からも怖れられるほど苛烈であり、
ほとんどのエージェントは審問の対象となりそうな場合は一度後退し、
機を見るというほどだった。
 その中にあって来須は違った。
人ならざる者はもちろん、それらの存在に加担する者は女子供であっても容赦なく殺した。
その行為には当然批判が起こり、『機関』の影響が充分に及んでいる地域からさえも
抗議が殺到したが、来須は審問官に対し狂気ともいえる答えを返し、
彼らを鼻白ませること毎回だった。
それでも来須が職を解かれなかったのは、ひとえに『妖魔狩り』の能力の高さによる。
素質を意思が確立させた来須の才能は他に抜きんでており、
主であるはずの『機関』は彼の後始末をさせられることを苦々しく思いつつも、
手放すことはできなかったのだ。
 目の前の餓鬼はすでに吸血鬼の下僕となっているかどうか、
とっさには判断がつかない。
だがいずれにしても敵対するのなら殺すまでで、
来須はそれら・・・に対応する術を幾つも身につけていた。
弾倉にはまだ充分に弾が残っており、
たかが一匹の吸血鬼くずれを屠るなど造作もないことだ。
むしろ面倒くさげに来須は、事後処理アフター・サーヴィスを行おうとした。
 来須の油断を責めるのは酷だったろう。
来須は妖魔退治を三桁にのぼるほどこなしてきた熟練プロであり、
駆け出しの頃を除けば敵に遅れを取ったことはほとんどなかった。
吸血鬼は闇の眷属の中でも強敵であり、その吸血鬼をほとんど専門に狩る来須は、
『機関』の中でも五指に入る狩人だった。
 その来須が、龍麻の動きを予測できなかった。
復讐心に駆られた龍麻が反撃にでることまでは予想の範囲内としても、
速度が彼の計算を全く超えていたのだ。
「な……ッ」
 照準を定める間もなく、右腕が掴まれる。
銃を封じられた来須は、すぐに左手で対吸血鬼用の神具を取り出そうとした。
「ぐぁァァッ!!」
 その瞬間、右腕に激痛が走る。
腕が爆ぜたかと思ったほどの強烈な痛みだった。
たまらず左手で抑えた来須は、そこにまだ己の腕があることを知る。
では、何が──
答えはすぐに明らかになった。
「──!? てめぇ、何をしやがった」
 右腕が動かない。
肩から肘、指の一本に至るまで、全く感覚がなくなっていた。
壊された──膨大な量の氣を瞬時に流しこみ、身体組織に過負荷を与え破壊する。
理屈ではわかっていても、実際にそんなことができる存在など来須は知らなかった。
『機関』に属する氣の使い手にも、ここまで圧倒的な能力を持った者はいないのだ。
「貴様……、貴様、よくもッ」
 右腕を押さえるという致命的なロスを犯してしまった左手を、
急いで神具のあるコートの左のポケットに入れようとする。
すると無防備になった顎に、痛烈な一撃を見舞われた。
眩暈、などと生易しいものではない衝撃が弾け、平衡感覚が消失する。
致命的な一瞬の後に来須が見たのは、咆吼する人ならざるものだった。
 来須はようやく、自分が何と対峙しているのか知った。
決して目覚めさせてはいけない龍──地球上で最も危険な存在が、
怒りに震え、持てる力を解き放とうとしている。
仕留めた吸血鬼などとは比較にならない強大なもの。
文字通り地球の化身が、愛する者を奪われた怒りをただ一人の人間にのみ向けていた。
 俺は、死ぬ──
それは既に事実だった。
いかなる奇跡をもってしても、この事実を覆すことは叶わない。
愛する者を奪われて以後、神を捨て、
闇の存在を狩ることを生命の目的としてきた来須には、それが解った。
解らないはずがない。
目の前にいる、まだ二十歳にも達していないような子供は、
既に人の形をとっておらず、憎しみを赫い結晶と化して襲いかかっている。
その、あまりに純粋な赫に、来須は納得するしかなかった。
龍麻の拳は身体のありとあらゆる部分を殴っている。
氣を使っておらず、筋力だけで殴っているのは、いたぶろうとしているからではなく、
我を忘れた怒りが体内で氣が増幅するのを妨げていたからであったが、
死にゆく来須にはどうでもよいことだった。
 龍麻はひたすらに目の前のものを殴打する。
いや、既に殴っているという意識すらなかった。
己を赫怒かくどさせたものに対し、ただそれをぶつける。
目の前のものが消失するまで、何度でも、どれほどの時間を費やしても、己が肉体を、
もう委ねることはないと思っていた『力』に蹂躙させるだけだった。
 倒れようとする来須を掴み、引きずり起こして殴る。
殴るのを止めれば悲しみに直面しなければならないと知ってか知らずか、
龍麻の暴力はいつ果てるともしれず続く。
それを止めたのは、龍麻を上回る暴力ではなく、か弱い女性の声だった。
「待ち……なさい……」
 その声は耳を澄ませたとしても聞こえたかどうかというほど弱々しかったが、
龍麻の聴覚にパズルの最後の一片のようにぴたりと吸いこまれた。
人の形をした暴力は、糸を引っ張られた操り人形のように動きを急停止させる。
それでもなお、龍麻は愛しい女性の呼びかけに応えるのに、
砂粒がかなりの量落ちるまで待たねばならなかった。
目の前にうずくまる許しがたい存在は龍麻を惹きつけてやまず、
意識をそこから剥がすのには困難がともなったのだ。
「駄目よ、龍麻」
「どうしてです! こいつはマリア先生が憎んだ人間ですよ。
しかもマリア先生を撃った。百回殺したって構わないはずです」
 龍麻の声は抑えることが不可能な怒りを、
マリアと話すためだけに一時ねじ曲げているので、抑揚が定まっていない。
腹部に広がる、銃創以上の痛みに必死に耐えながら、マリアは諭した。
「あなたは……人を殺してはいけないわ」
「……」
「お願い」
 長い沈黙が流れる。
返事を促された龍麻の周りには、行き場を失った膨大な氣がまだらの模様を描いていた。
才気あふれる画家がいたら、これをモチーフに傑作を描きあげたかもしれない。
見る者を狂気へと誘いかねない、強烈な反発とごくわずかな崇拝を得ることになるが、
その代償として制作者の生命を要求される絵を。
 マリアの頼みを呑むか、龍麻は葛藤している。
この間に来須が逃げ出すことは不可能だった。
逃げようという素振りを見せた瞬間、龍はあぎとを開き、
紅蓮の焔で灼き払うというのが判りきっていたからだ。
 瀕死の来須は喘ぎながら龍麻とマリアの動向を見守っていた。
もはやそれだけしか、来須にできることはなかった。
 来須に背を向けたままの龍麻は、両肩から怒りを立ちのぼらせたまま、
微動だにしなかった。
長い沈黙の後に発せられた声には、歴戦の狩人である来須をも戦慄させる響きがあった。
「マリア先生が言うから、一度だけ見逃してやる。
だけど次に顔を見せたら必ず殺す。マリア先生が止めても必ず殺す。
俺はお前の顔を一生忘れない。だから命が惜しかったら二度と俺達の前に現れるな」
 龍麻が本当はそうして欲しいのだと来須は悟っていた。
今度目の前に現れれば、晴れてマリアの仇を取れる。
龍麻がマリアの命令だから自分を助けただけであり、
本心は来須狩夜を一分子に至るまで地球上から消し去りたいのだと、
殴打を受けた全身に、恐怖と共に植えつけられていた。
 敗北感と、それ以上に屈辱的な恐怖を抱いたまま、来須は立ちあがる。
吸血鬼は始末し損ねたが、命があっただけましだと納得しなければならなかった。
口の中に溜まる血すら吐きださずに、狩人はこの場を去った。
 来須の気配が消えたことなど、もはや龍麻にはどうでもよかった。
目の前に倒れる最愛の女性の安否、それだけが龍麻の関心事だった。
そして事態は龍麻の望まぬ方へと進もうとしていた。
マリアの衰弱はあきらかで、無限の命を持つはずの吸血鬼は、
彼女たちさえ支配できぬ闇へ旅立とうとしていた。
「先生……先生っ……!!」
 声が慄えているのも、泣いているのも龍麻は自覚していない。
龍麻の感覚が捉えているのは、マリアの青白い肌だけだった。
彼女の肌はこんなに青白かっただろうか?
記憶をたどろうとするが泥に足を取られたように思考が進まない。
考えている場合ではない。
なんとかしなければ。
でも、なにを、どうやって。
龍麻は混乱し、うろたえることしかできなかった。
とにかく、病院へ――しかし、銃に撃たれた吸血鬼を治療してくれる
病院などどこにある?
では、どうすれば。
泥はいっそう重くまとわりついてきて、全てを妨げる。
なぜ気配に気づけず、マリアを守れなかったのか。
自責と後悔までもが泥の濃度を高め、龍麻を引きずりこもうとする。
いっそ、あの男に一緒に殺された方が良かったのかもしれないとまで思ったとき、
どこかから男の呼ぶ声がした。
「緋勇」
 なぜこんな時に自分の名前が呼ばれるのか。
疑問はあっても解決しようという気になれず、応じる気にもなれず、
龍麻はうつむいたままだ。
だが呼んだ相手は図々しくも隣に来て、膝をついた。
「これは……何があった」
 返事をしない龍麻にもう一度訊ねるような手間はかけず、
男はいきなり龍麻の頬を殴った。
「……!! 犬神、先生……先生が……マリア先生が……!」
「しっかりしろ、何があったか話すんだ」
 マリアを倒すために来須が張った結界が、真神學園のすぐそばであったのが幸いした。
気配を感じる能力にかけては吸血鬼よりも優れている人狼は、
突如消失した気配にただならぬものを感じ、学校を抜けだして様子を見にきたのだ。
 正気を取り戻した龍麻は、必死に状況を説明する。
今や犬神のみがマリアを救う唯一の望みだった。
 だが、龍麻の話を聞き終え、マリアの傷口を確かめた犬神は、
常にも増して厳しい表情を保ったままだった。
「彼女は死んではいない……だが、このままでは意識を回復する見込みはない」
「そんな……!!」
「銀の弾丸は闇の眷属にとって致命的な武器だ。
マリアの場合、貫通したから死には至らなかったが、
生命力が極度に低下していて、自力で回復できなくなっている」
「何か……何か方法はないんですか……!」
 慄える龍麻を犬神は、同志に対する眼差しで見やった。
「崑崙へ行け。それしか彼女を救う術はない」
 煙草を咥え、火を点けようとして止めた犬神は、
ついさっきまで教え子だった男を真正面から見据えて言った。
マリアを抱えたまま、果てのない哀しみを宿した龍麻の瞳に応え、さらに説明する。
中国の奥地、天に連なる峻厳な山脈の果てにある神秘の世界。
人の世にある、人の世からもっとも遠く離れた場所。
そこに住まうのは、犬神やマリアといった闇の眷属ではないが、
同じ人ならざるもの――神仙。
崑崙あそこなら、清廉な空気が癒してくれるかもしれん。
あそこは人ならざるものおれたちにも、全ての生命に平等の場所だからな」
 犬神に答えぬまま、龍麻は聖者を扱うようにうやうやしくマリアを抱きあげた。
すでにマリアの意識はなく、だらりと垂れた手が、壊れた人形を思わせる。
「崑崙へ行っても治る保証はない。それに治るとしても、百年かかるかもしれん」
 何年かかろうと関係なかった。
マリアを癒せる可能性がそれしかないのならば、龍麻に迷いはなかった。
 頷いて意思を表明した龍麻は、もうひとつ、きわめて重要なことを訊いた。
「先生。あいつのこと……何か知っていますか」
 マリアと同じ闇に属する犬神でさえ背筋がぞくりとしたほど、
龍麻の咆吼には凄みがあった。
「奴を殺すのはマリアに止められたんじゃなかったのか」
「殺しませんよ。でもは壊しておかないと、また害虫が出てくるかもしれない。
結果として巣の中にいた害虫が死んでも、俺は知りませんが」
 止めようとして犬神はやめた。
龍を止めることのできる生物など、この世界には存在しない。
それに、むしろマリアを止め、人類を護ろうとしていた
龍麻の逆鱗に触れたのは人間の方なのだ。
驕り、省みることのない人間どもに、鉄槌が必要だという気分も確かに犬神にはあった。
「彼らは『魔女の鉄槌』という秘密結社だ。人外の者を探し、狩るのを使命としている。
本部は確かローマにあったはずだが、容易なことでは探せないぞ」
「いえ……それだけ判れば充分です。時間ならありますから」
 マリアの顔に一瞬眼差しを投げ、龍麻が呟く。
その抑揚のない呟きこそが、絶対の意思を凝縮したものであると、
犬神は紫煙に紛らわせた表情の奥で理解していた。
「それじゃ、先生。もう二度とお会いすることはないと思います」
「ああ……じゃあな」
 去っていく二体の人ならざるものを黙して見送った犬神は、
やがて彼らが見えなくなると、胸のポケットから煙草を取り出した。
「かくて龍は天に還る……か」
 犬神は呟き、愛用の煙草に火を灯した。
人に心が近づいてしまうこんな時は、人が生み出した嗜好品を吸うに限った。
いつもよりも深く煙を体に入れ、ややあってから吐き出す。
東京の空に消えた煙を、犬神はしばらくの間見つめていたが、
やがて踵を返し、彼の住処へと還っていった。



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