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道無き道を、龍麻は進む。
もはや獣の気配すら失せた、始原の混沌を思わせる濃密な霧と、
これもやはり原初の息吹そのままの荒ぶる風が吹く、
現世かどうかも判らぬ霊峰が連なる場所。
黄龍の力を以てしても、少しでも気を抜けばたちまち颶風と同化してしまいそうな
険しい道を、ただひたすらに龍麻は歩き続けた。
目指す場所は、ただひとつ。
背中に負った最も愛する、人ならざる女性の命を救う崑崙と呼ばれる地。
あるのかどうかすら判らぬ、たとえあったとしてもそこで魔を滅する銃弾を受けた
マリアが回復するかどうかは、蜘蛛の糸よりも細い望みしかなかったが、
龍麻は自身の生命をも省みず、人の身では決して辿りつけない仙境を求め、
峻峰をさまよった。
背中にあるマリアの重さだけが全てとなって、一年が過ぎた頃。
山中を歩き続ける龍麻の眼前に、唐突に一人の男が現れた。
うつむいて歩いていた龍麻は、はじめ男の存在に気がつかず、
声だけを先に聞いたので、幻聴かと思ったほどだ。
しかし顔を上げた先には、確かに一人、人間かどうかはさておいても、
少なくとも人語を話す何者かが立っていた。
「お待ちなさい。ここより先は人が進むことは叶わぬ地です。
見たところあなたも純粋な人ではないようですが」
声の主は龍麻よりもやや年上に見えた。
だが編み笠を深く被って顔は判然とせず、
声も十重二十重に反響して男のものであるかどうかすら判らない。
明確な敵意は感じられなかったが、この秘境に住まう以上常人であるはずがなく、
おそらくは門番的な存在として、
人の身で崑崙を目指そうとする愚者を阻む役割があるのだろう。
しかし、そうと分かっていても龍麻は退くわけにいかない。
疲労は限界に達し、今この場で倒れ伏してしまいそうだったが、
龍麻は残された気力をかき集めて目の前の神仙に懇願した。
「お願いだ、崑崙ならこの女性(を救えるって聞いたんだ。
だから、頼む……俺達を通してくれ」
「駄目だ、と言ったら崑崙ごと壊しそうな勢いですね、あなたの氣は」
穏やかな口調を崩さないまま、番人はあっさりと二人の立ちいりを許可した。
彼の言うとおり、最終的には戦ってでも通らなければならないと覚悟をしていた
龍麻は、安堵と襲ってきた疲労を一度に吐きだした。
「ですが、ひとつだけ言っておくことがあります。
崑崙に入ったら最後、あなた達は人界へ戻ることはなりません。
これはいかなる理由をもってしても覆すことは適わない、天の理です。
その覚悟がおありなら、どうぞお進みなさい」
「ありがとう。……それなら、先にこの女性(だけ世話をしてくれないか。
俺はまだ、やり残したことがあるから」
「いいですよ。ただ言っておきますが、崑崙では時間の流れは無意味です。
つまり、あなたが人界で時を過ごすほど、彼女との時間は離れてしまいます」
「ああ、多分……一年はかからないから」
いつのまにか目の前に立っている神仙が手をさしのべたので、
龍麻は最愛の女性を預けた。
神仙は筋骨隆々ではないのに軽々とマリアを抱きあげる。
本当ならせめて彼女が休める場所までついていきたいところだったが、
二度と人界に降りられないというのならば、しておかなければならないことがあった。
龍麻は神仙に深々と頭を下げる。
神仙は軽くうなずいただけであったが、彼は信用できると龍麻は思っていた。
少なくとも抵抗の意志すら見せていない女性を背中から撃つような輩とは違うと。
頭を上げた龍麻は、未練を断ち切るようにマリアに背を向け、
ようやく辿りついた秘境を再び後にしたのだった。
二十一世紀、東京。
犬神は変わらず真神學園で教師を続けていた。
その授業は教師の投げやりな口調のためにやや分かりにくいが、
内容は過不足なく必要な知識を与えてくれるというのが生徒の間での評価だった。
むろん犬神がそのような評判など意に介することはなく、
マリアと同じく無限の寿命を持つ人狼は、人間に抗うでも諂(うでもなく、
淡々と己に課した役目を遂行していた。
その犬神が、イタリアの片田舎にある小さな教会が消滅したというニュースを
知ったのは、彼の元同僚と元教え子が同時に姿を消してから約二年半後のことだった。
そこがある特定の偏狭な人間にとって極めて重要な施設であることを犬神は知っているが、
事件はそれが故にニュースになったのではない。
教会がある夜を境に完全に消滅していたことが、世間の耳目を集めたのだ。
一切の痕跡を残さず、ただ地面に建っていた跡を残すのみで消失した教会に、
様々な憶測が流れとんだ。
悪魔の仕業、落雷、新兵器の実験。
科学的なものも非科学的なものも、だがそれらのいずれも違っていると知っているのは、
遠く離れた異国の一高校教師だけだった。
数ヶ月後、今度はハンガリーで。
そして更に数ヶ月後は、スペインで。
同種の事件が発生し、それらはいずれも最初のフランスと同じ状況であったために、
人々の想像欲をかき立てずにはおかず、
多くの科学者やオカルティスト達がこぞって自説を発表したが、
結局原因が明らかにならないので、やがて人々の興味は薄れていった。
もしも彼らが真相を──古代東洋に伝わる『龍』が怒りを顕現させたのだと知ったなら、
彼らは決して龍を放置したりはしないだろう。
怖れ、次いで怒り──過去、彼らがそうしたように、
自分達の怒りになんら疑いを持たずに征服しようとするに違いない。
それは彼らにとって幸福なことであっただろう。
龍は、彼らが踏みつけ、存在を顧みることさえしなかった数多のものと異なり、
本当の意味で畏怖しなければならないものなのだ。
自身と愛する者を守るためになら、龍は地球を破壊することすら辞さないだろう。
新聞を畳んだ犬神は、肺の奥まで導きいれた紫煙を、天上に向けて吐きだした。
煙は濁った空を遥か、龍の住まう彼方へと消えていく。
かつての同僚と教え子に手向けた、それは最後の花束だった。
龍麻が崑崙に戻ってきたのは、当初のもくろみとは異なり、
初めて彼がこの地を訪れてから十年が過ぎた後だった。
マリアを撃った者が属する機関は予想以上に規模が大きく、
本部を壊滅させるまでにそれだけの時間がかかってしまったのだ。
「お久しぶりですね」
十年前と同じ門番は、十年前と同じ姿で龍麻を出迎えた。
彼が崑崙に住まう神仙であるという事実を改めて確認した龍麻だが、
その驚きよりも意識はよそに向いていた。
「彼女は目覚めてはいません」
おそらくはそれを察して、神仙は龍麻がもっとも気になっていた事実を端的に告げた。
目覚めてはいない――覚悟はしていたけれども、辛い現実。
しかし同時にマリアはまだ死してはおらず、いつの日か目を覚ます可能性がある。
ならば龍麻にできるのは、待つことだけだった。
「ご案内しましょう」
彼の後に続き、龍麻は崑崙へと足を踏みいれた。
マリアの姿もまた、十年前と変わらなかった。
マリアはもともと極めて寿命が長い種族だから、
十年ていどで見た目は変わらないかもしれないが、
十年の月日を人界で戦い続けて相応に歳を取った龍麻は、
やはりここが異世界なのだと実感する。
「それでは、私はこれで」
「ああ――ありがとう」
余計な質問を一切せずに去ってくれた神仙に、龍麻は心から礼を言った。
いずれきちんと説明する必要があるとしても、今だけはしばらく二人にして欲しかった。
「マリア、先……生……」
十年ぶりに口にした愛する女性の名は、
あふれる情感に声帯のコントロールを妨げられて、上手く発音できなかった。
呼びかけに応じないマリアの手を、龍麻はうやうやしく取る。
冷たい手――最後に手を握った、彼女が撃たれた時の記憶がよみがえり、
龍麻の目からふいに涙がこぼれた。
手の甲にはじけた熱さが、マリアの手にも伝う。
この熱で、マリアが目覚めればよいのに――龍麻は願い、
願いが叶う日を信じて待つことにした。
時間の流れさえ、もはや龍麻には不用となっていた。
ただマリアが目覚める時だけが、唯一龍麻の必要とする瞬間だった。
一日に数度、マリアに話しかけ、目覚めない彼女にほんの少しの落胆と、
死んではいない彼女に大きな希望を抱いて次の日を待つ。
それを何回も、何百回も、何万回も繰り返した。
果てのない旅路に龍麻は、永い刻を一人生きてきたマリアの孤独を理解する。
傍に愛しい人が居て、希望という杖に頼ってさえ時に辛いと思うのだ。
憎しみによって支えられてきた彼女の孤独は、
素足で茨の上を歩くに等しい辛苦だったに違いない。
マリアが目覚めたら代わりに自分が杖となろう。
どれほど細く、頼りなかったとしても、絶対に折れない杖に。
龍麻は誓い、その日が訪れるまで、また歩き始めるのだった。
無限の夜と永劫の昼が龍麻とマリアの上に積もる。
龍麻はあきらめこそしなかったが、変わらない日々にいつしか慣れてしまい、
目覚めないマリアを日常だと受けいれていた。
時折訪れるあの門番の神仙に、人界ではどれくらいの時間が流れたのか
聞かされても、驚きも感慨も抱くことはなく、淡々とマリアの傍に座るだけだった。
そんなある日のことだった。
闇の中から、意識が抜け出る。
瞼に感じる光に不快感を抱きながら、マリアは目覚めた。
眼前に広がる天井は、見知ったものではなかった。
それはすぐに判ったが、思考が全くついてこない。
ぼんやりと、視界同様霞む意識はもどかしく、随分と永い時間眠っていたのだろう。
まだ身体を起こす気にはなれず、まず、ゆっくりと溜まっていた呼気を吐きだした。
次に唇を舐め、そこが随分と乾いていたことを知る。
口全体もどこか、薄衣を挟んだようにしか動かせず、マリアは、
ひとまずもう一度息を吐き、起きるための力を溜めようとした。
その時、すぐそばで音がする。
「先、生……?」
ひどく懐かしく感じる、男の声。
それは他のどんな儀式よりも素早く、沈降していたマリアの意識を水面へと引き戻した。
「龍麻……?」
自然に名前が口を衝く。
それは呼ばなければならない名であり、呼べるはずのない名だった。
「ワタシ……撃たれたはずなのに……どうして……?」
マリアの疑問は解答を得られなかった。
記憶の中よりも大きく見える龍麻は、相変わらず長い前髪で隠れている目を
一杯に見開いたかと思うと、いきなり泣きだしてしまったからだ。
事情が全くわからないまま、マリアは数分の間、辛抱強く待ち続けなければならなかった。
「……そう」
泣き止んだ龍麻から、眠っている間にどれだけの時間が人界では流れたか
聞かされたマリアは、静かにため息をついた。
自分はもともと無限に近い時を生きる種族であるから、何百年が過ぎていようと関係ない。
だが龍麻を巻きこんでしまったことに、マリアは深い悲しみを抱かずにはいられなかった。
彼はもう、孤独なのだ──自分と同じに。
「ごめんなさいね」
彼の知り合いは誰もいない。
共に高校の一年間を過ごした仲間達は、既に何代も前の祖先となっていた。
そして人間は増え続け、持てる貪欲さを恥じらおうともせずに
マリアの望まない世界を作り続けている。
しかしマリアは、もう彼女から全てを奪っていった彼らに関心を持っていなかった。
全てを喪っても、代わりにたったひとつ手に入れたものがあったからだ。
「いえ。どのみち、もう人界には下りられませんし」
初めて会った時と較べると、龍麻は随分とおとなびた話し方になっていた。
彼と共に過ごした時間の永さを思うと、マリアの目頭は自然と熱くなった。
おそらくは同族でさえも経験したことはないであろう、永い時間――
緋勇龍麻は、かつては教え子であり、贄であり、そして、愛した男は、
マリアですら信じなかった永遠を信じ、待ち続けてくれたのだ。
あふれだす涙を、マリアは拭わなかった。
それは龍麻に与えられるべき煌めきであったから。
幾百年かぶりの涙は、その意味を龍麻に正しく伝えられているだろうか。
マリアは急に不安になり、彼を見た。
そこにあったのは、陽(だった。
あまねく世界を照らす、暖かな光。
もうマリアは迷わなかった。
闇の眷属ですら包みこむ陽に、マリアは飛びこんでいった。
蒼氷色の瞳は輝きを乱反射させて、正視できないほどの眩しさを放っていた。
それゆえか、視線を避けようとする龍麻の頭を抱き寄せたマリアは、首筋に腕を回す。
そこにかつて存在した孔はなくなっていた。
いつかまた、穴を穿つ日が来るかもしれないが、
それはしばらく後になるだろう――龍麻が傍にいてくれた日数程度くらいは後に。
待つことは、もうマリアにとって苦痛ではなかった。
「ところで」
泣きはらしたままの男の顔に、たまらない愛おしさを覚えながら、
マリアは低い声を発した。
首筋に回した腕にも力をこめ、ただごとでない雰囲気を龍麻に知らしめる。
含み笑いを噛み殺し、目覚めて何よりも真っ先に気づいた点を静かに指摘した。
「まだ直っていないのね……先生はつけないで、と言ったはずだけど」
「……!! す、すみません」
狼狽する龍麻の耳元に唇を寄せ、さらに声を低めてささやいた。
「これからは名前の後に『愛してる』をつけなさい。
そうすれば、先生なんてつけなくなるわ……いい考えでしょう?」
言わなければ離さない、と抱きしめると、龍麻は顔を火照らせて従った。
彼の顔を正面に捉えたマリアは、唇を触れさせんばかりに近づけて言った。
「ワタシもよ、龍麻。愛しているわ……永遠に」
偽りのない、それは誓約だった。
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