<<話選択へ
次のページへ>>
(1/2ページ)
マリアにとって新たな偽りの仮面を被る朝。
あとおよそ八ヶ月この仮面を被り続ければ、数百年待ち望んだ刻が彼女を祝福する。
その刻を思えば、数百日などマリアにとって秒針が移ろう程度の時間でしかなかった。
小さな伸びをして、マリアは心地良い目覚めを迎える。
日が射しこまないよう厚いカーテンを引いてある部屋は、灯りを点けなければ
朝でも夜と変わらぬ暗さだったが、闇に生きるものであるマリアには関係ない。
頭を振り、鮮やかな金髪にまとわりつく最後の眠気を振り払ったマリアは、
隣にあるべきものの姿がないことに気づき、愕然とした。
「緋勇クン……?」
昨日から一つのベッドで寝ることになった若い男の名を呼び、すぐに舌打ちする。
闇の種族でない彼が、姿を消す能力など持っているはずがなく、
ここに居ないのならば返事など返ってくるわけがないのだ。
シーツに手を置き、まだ温かいことを確かめたマリアは、素早く昨日の行動を再確認した。
転入に関する伝達事項があると偽って龍麻を呼び出し、雑談をする。
何の疑いもなく紅茶に混ぜられた薬を飲んだ龍麻は昏睡し、
マリアが目論む大破壊(に向けての最大の難関であると思われた、
『黄龍の器』はあっけないほど簡単に手中に堕ちた。
死する運命を告げられた龍麻は、意外にも取り乱したりはせず、
自らの境遇を受けいれ、マリアの家に同居することをも承諾したのだった。
そこまでは神の存在を信じかけるほど順調で、マリアは祝杯をあげたくなったほどだ。
だが、その後にようやく、トラブルらしきものが訪れた。
迂闊と言えば迂闊だが、マリアは捕らえた龍麻をここに住まわせることまでは計画していたのだが、
その後のことは全く考えていなかったのだ。
彼の分を用意し忘れたベッドもそのひとつで、捕らえた贄にその夜に指摘されて初めて、
マリアは龍麻の分のベッドを用意するのを忘れていたのを知ったのだった。
もっとも、龍麻は贄であり、贄に裸身を晒したところでマリアが動揺する必要などない。
つまるところこんなことは些事であり、ベッドは幸いにして二人寝られる大きさがあるのだから、
マリアとしては何の問題もなかった。
ところが、一年後に死を約束されても平然と受け入れた龍麻が、
下着姿の女と同衾するだけでひどく抵抗を示し、それだけはできないと強く突っぱねた。
挙句、三十分に渡る押し問答の末、寝ても良いが、
マリアが寝着を着なければ帰るとまで言い出したのだ。
家畜以下の存在に歯向かわれ、マリアは激昂しても良いところだった。
それを抑えたのは、他の部分では龍麻はおおむね従順であったから、
この程度は妥協しても良いと思ったこと、
そして、頑なな諦観を備えたこの若き人間に、
堕落を教えてやるのも悪くないと闇の眷属としての性(が囁いたという理由からだった。
そうしてマリアが、何世紀かぶりに夜着を着てベッドに入ると、龍麻はあからさまに背を向けた。
龍麻はマリアが誘惑しようとした相手ではなく、虜にならなくても気にする必要などない。
にも関わらずマリアは、ちらりとも視線を投げずに自分を拒む男に、怒りにも似た感情を抱いた。
血を吸われ、命を削られてもなお服従せずにはいられない背徳の悦びを、
四肢の隅々にまで植えつけてやらなければならない。
そして最後の瞬間には、贄みずからが望んで命を差しだすように──
マリアにあと必要なものは時間のみだ。
その刻が訪れるまで、この程度の他愛のないゲームなら興じてもよいだろうと考えたのだ。
そしてその結果が、今朝のこの状況というわけだった。
稚気にも似た余裕を見事に逆手に取られた格好で、
数百年の刻を生き、これからも生きるだろう存在は、いささかならず動揺してベッドから下りた。
その、人ならざるものにしかありえない白さの踝(を、
カーテンの裾から漏れた朝の光が照らしだす。
闇の眷属であるマリアにとって太陽の光は喜ばしいものではないが、
伝承に伝えられるように浴びると灰になるなどということはない。
炎天下の中に一日放り出されれば倒れるのは人間も同じで、日傘をささずに歩き回る程度なら、
つまり人間とほぼ同じ条件で太陽の下でも活動することができた。
十字架、などというシンボルに恐怖することも当然なく、
教会の前を歩いて気分が悪くなる、などという弱点もない。
今朝のマリアが不快感を抱いたのは、たかだか十八年程度しか生きていない人間に足元をすくわれたのと、
肌にまとわりついている薄衣のせいだった。
もどかしげに服を脱ぎかけ、ふと隣室から漂ってくる匂いに気づく。
ひとりでに発生することはないその匂いの発生源を確かめようと、マリアは寝室の扉を開けた。
久しく嗅いだことのない匂いを家の中に認め、女吸血鬼は優美な眉を軽くひそめた。
設置はされているが使ったことのない台所に誰かが立ち、何事かしていたのだ。
永き時を経た復讐の、記念すべき始まりの日から一夜明けたところの全く想像外の展開に、
さしものマリアも言葉を失って立ちつくした。
自失しているマリアの気配に気づいたのか、台所の主が肩越しに振りかえる。
薄く浮かんだ照れ笑いは、虜囚にはまるで似つかわしくないものだった。
「おはようございます、マリア……えーと、マリア先生、でいいですか?」
人間に親しげに呼ばれると虫酸が走る思いだったし、敵と狎(れあうなど矜持が許さなかったから、
そう呼ばれることがマリアは好きではなく、プライベートで、
しかも贄にそう呼ばせるなど断じて認めなかっただろうが、この時は訂正するのをすっかり忘れてしまっていた。
昨夜の崇高な儀式は茶番だったのかというほど、新たな世界のために捧げられるべき贄は落ちつき、
穏やかな朝を迎えようとしていたのだ──おそらく二人で。
和やかな空気が部屋に満ちていくなか、マリアはようやく声を振りしぼって問いただした。
「これは……どうしたの?」
「食事……ですけど。二人分」
久しぶりに使われたテーブルを、マリアは困惑の表情で眺めた。
湯気を立て、香気を放つ紅茶や、黄金色に焼かれたパンが成す朝の食卓は、
吸血鬼の棲処にはあまりに似つかわしくないと思われたのだ。
マリアは特に食事を採る必要がない。
食べられないのではなく、血を吸えない時は人間と同じ食物で代用もできるのだが、
やはりその効率は吸血に較べると劣り、また、
二日程度なら何もエネルギーを摂取しなくても平気な身体なのだ。
だからマリアはこれまで、自分が人外の存在であることを隠すための、
つきあいの食事以外はほとんど採らなかった。
それがどうだ、目の前に並んでいる食事の蟲惑(的なことといったら、
マリアが最も愛する深紫の液体にも劣らないくらいだ。
果たしてこの家に、これだけの献立となりうるだけの材料があっただろうか、
いぶかる家主に、コックがおそるおそる訊いてきた。
「要りま……せんか?」
「いえ、食べるわ」
沈思の末にマリアは妥協をみせた。
餌という立場をわきまえない龍麻に対する腹立たしさが皆無ではなかったものの、
ひさしぶりに嗅いだ、他人が淹れた琥珀色の液体への懐かしさが勝ったのだ。
人の欲望というのは際限がない。
だからこそ地球の支配者になれたのだ、と半ば蔑むマリアだったが、味覚に対する貪欲さには素直に感嘆していた。
地中や海中からも食材を探し、海を越えて新たな大陸へ往くことも辞さない。
そうした彼らの追求の一端がこの紅茶であり、マリアが好む飲み物の一つでもあった。
うなずいたマリアに、龍麻は破顔する。
それはやはり贄が主に対するものではなく、少なくとも敵意の片鱗さえなかった。
「じゃあ、もう少しでできますから、顔を洗ってきてください」
「……ええ」
年下の男に指示を下され、失調感に苛まれたマリアは、促されるまま洗面所へと向かうのだった。
顔は洗ったものの、気分は全く晴れることがないままマリアがテーブルにつくと、龍麻も向かいに座った。
朝食がそれほど豪華なものではなかったのは、家の主が食材を準備しておかなかったのだから当然だ。
しかしありふれたパンと紅茶、それにスクランブルエッグとサラダは、なぜか輝いてすらマリアには見えた。
無機物に対する錯覚を自嘲の思いで振り払うと、正面にいる男が怪訝そうな顔をする。
これも、マリアの変調の原因だ──誰かと向かいあって食事を採るなど、いつ以来のことだろう。
久しく抱いたことのない感情が芽生えたのに戸惑いつつ、マリアはパンをちぎった。
「いつも料理を?」
「ええ、一人暮しが長いですから」
龍麻の両親は健在であると書類には記されていた。
なのに一人暮らしをする理由が何かあったのだろうか、マリアは聞いてみたく思ったが、
幾重にも吸血鬼としての一面を損なわせるような環境が揃っている今は、
どうも調子が狂いそうなので後で訊ねることにした。
かりそめではあっても、今のマリアは真神學園の英語教師だ。
義務を果たすために、家から変な感情を持ち込むのは避けるべきだった。
「……あの、美味しくないですか?」
「え?」
ところが、無言で食事をするという習慣がないのか、龍麻はなお話しかけてくる。
新聞に目を落としてやり過ごそうかとも思うマリアだが、
これから半年以上共に暮らすのにそれも芸がない。
「そんなことはないわ……どうしてかしら?」
美味しいかどうか、などほとんど意識の外にあったが、それでもマリアはそう答えた。
「えっと……誰かに食べてもらうの、初めてなんですよ」
意外すぎる返答に、思わずマリアは龍麻の顔を凝視する。
すると龍麻は何を勘違いしたのか、顔を目の前の紅茶よりも紅くし、うつむいてしまった。
「そうだったの……でも、本当に悪くないわ。夕食も期待していいのかしら?」
やや不毛な感じを抱きつつも、マリアは訊ねた。
マリア個人に限ればこうした食事を取る必要などなく、
むしろ龍麻自身(から栄養を摂取した方がよほど好ましい。
そもそも主人が贄と晩餐を共にするなど吸血鬼の歴史でも聞いたことがなく、
同族が居れば笑われるのは必至だっただろう。
しかしマリアは、わずか一晩の間に、多少なりとも緋勇龍麻という男に対して、
彼女が彼を必要とする理由である『黄龍の器』以外の部分で興味を抱きはじめていた。
十八歳という若さなのに達観し、死を望んでいるかのような態度。
知ってしまえばつまらない理由なのかもしれないが、
時が満ちるまでの時間、戯れてみても良い。
もちろん、龍麻が逆らうような態度を取れば、その時はすぐに立場を思い知らせてやることになる。
今朝の油断は失態というほかないが、二度同じ過ちを繰りかえすつもりはマリアにはなく、
その意味では、もし龍麻が逃走を図っているのなら、最大の、そして最後のチャンスを失ったといえるだろう。
だが、あくまでも贄としての範囲内でなら、彼がしたいことはさせてみようという気にマリアはなっていた。
「はい、頑張ります。……好きな食べ物とか、味の好みとかあったら先に教えてください」
これまで人間社会に紛れて生きていくために、マリアは数多のくだらない質問を受けてきた。
その中でもこれは、最も返答に窮する質問だった。
答えを聞き逃すまいとしている龍麻に、マリアはティーカップを口につけることで時間を稼いだが、
結局気の利いた答えは浮かばず、特にないわ、とだけ答える。
「そうですか……」
主のために尽す機会を与えられなかったシェフのような顔をする龍麻に、
マリアは残った紅茶を一息に飲みほしたが、
失調感までは飲みきれなかったようで、今日は一日この奇妙な感覚を抱えて過ごすことになりそうだった。
先に支度を終えた龍麻が、玄関に立つ。
学生服に身を包んだ龍麻に特におかしな素振りはみられず、
もし彼に不審を抱いたとしたら、それはマリアの精神に原因があっただろう。
「それじゃ、学校で」
襟のホックを片手で嵌めながら、龍麻が振り返る。
一緒に行くと要らぬ誤解を招くから、という龍麻の提案に、マリアは同意した。
あと一年、できれば誰にも気取られずにすませたい。
龍麻が妙に協力的なのが気にはなるが、マリアでも気づかぬ細かな指摘は素直に受けいれるべきだった。
「ええ、それじゃ」
鞄を抱えて出ていく龍麻を見送ったマリアは、不意に失笑した。
こんな場面は自分にはきわめつきに似つかわしくない。
闇の支配者たる存在がさわやかな朝、家庭的に男を見送るなど、どんな笑い話の種になるというのか。
踵を返し、自分も出勤するために部屋に戻ったマリアは、用意を整える間中、
これから毎日、彼を見送るべきかどうか考え続け、結論のでないまま、
龍麻の後を追って真神學園へと向かったのだった。
マリアが職員室に着いた時、龍麻はもう待っていた。
目礼する龍麻に愛想笑いで応え、彼を伴って教室に向かう。
龍麻は良く心得たもので、過度によそよそしくしたり、馴れ馴れしくしたりはしてこなかった。
むろんマリアも彼が彼女の虜囚であり、同居しているなどとはおくびにも出さない。
学校ではあくまでも教師と生徒、その範囲を一ミリたりとも越えないという方針は、
どうやら暗黙の裡に成立を見たようだった。
「緋勇クン、だったわね。今日から一年間、よろしく」
「はい、よろしくお願いします、マリア先生」
自分の吐いた嘘に、マリアは笑いそうになるのを耐えなければならなかった。
来年の三月、卒業まで担任を受け持つつもりなど、マリアにはない。
およそ十ヶ月、その程度がマリアが人類に与える最後の期間であり、
それ以後は、大いなる混沌(の中で、強い生命を持つ存在だけが生きられるのだ。
ここに居る同僚、彼女が受け持つ生徒達がその中に入るのかどうか、マリアには関心などない。
彼女はただ在りし日を望むだけ――世界が、世界のままであった日を――だった。
「それじゃ、行きましょうか」
優美なほどの動作で立ちあがると、マリアは彼女の贄と共に、彼女が受け持つ教室へと向かった。
担当クラスである三年C組に近づくと、すでに教室の中は騒がしかった。
人間の年齢で十八歳といえばもう成人だろうに、子供じみた喧騒は、ごくわずかながらマリアの癇に障った。
憎むべき眷属にではなく、成人として子供を叱りつけるべきか、との考えがよぎる。
しかし、彼らが騒げるのもあと数ヶ月なのだ。
そう思えば後わずかばかりこの世の春を謳歌させてやっても良いのではないか、とマリアは鷹揚に構えることにした。
「はい、席につきなさい」
マリアが教壇に立っても、喧騒は収まるどころか一層うるさくなった。
彼らにはそうするだけの理由があったとしても、うるささは受忍限度を超えつつある。
マリアは冷ややかな瞳で一瞥し、一瞬、彼らが静まったところですかさず口を開き、
一気に騒音を沈静化させてしまった。
「ワタシがC組の担任のマリア・アルカードです、よろしく。
それから、彼は今学期から真神(に転校してきました。名前は」
「緋勇龍麻です。よろしく」
短くそう名乗った龍麻は、集中する好奇の視線を全て無視して担任の方を見た。
マリアは心得たようにうなずき、生徒達が龍麻に対する質問を始める寸前に事務的に話を進めた。
「はい、それでは緋勇クンは……あそこが空いているわね」
マリアが窓際の誰も座っていない机を指し示すと、龍麻は大股で歩いていった。
数十の視線が後を追いかける。
それらへの疎ましさを押し殺して、龍麻は席についた。
窓際の席であるのを幸いに、外へと顔を向ける。
なんでも良いから話しかけようとしていた同級生達も、
露骨に避けているのがわかる態度に、好奇の視線は一つ減り二つ減り、ついにはほとんど消えうせた。
初日の最初からこんな、誰との接触も拒むようにしていては、
さぞ学園生活が過ごしにくくなるだろうが、龍麻は意に介さなかった。
先天的に多弁ではないし、後天的にも他人との交流はあまり好きではなくなった龍麻には、
むしろ冷たく無視されていた方が楽なのだ。
あまりに鼻白ませる新参者に、すでに教室内からは新学期の初日と転校生という昂揚も完全に消え失せていたが、
龍麻はしばらくの間、窓の外に広がる世界をじっと見ていた。
青い空と林立するビル群。
自然と人工の相容れない対比のはずが、なぜか奇妙に調和している東京という街。
この世界があと一年後には闇の眷属が跋扈(する暗黒へと変わるという。
一人の高校三年生を触媒として、担任の教師によって。
素人小説家でももう少しマシな空想を思いつくだろう、とかわりばえのしない景色を眺め、龍麻は小さく笑った。
空想――ならば良かったのかどうか。
マリアがただの教師で、自分も『黄龍の器』と称される存在ではなく、
このままこの東京(で他の大多数の人々と同じように生きていくことができるのなら、
その方が良いのだろうか。
当然だ、と言い切れるだけの根拠を、龍麻は持っていなかった。
今のまま生きる延長線上にある未来に、龍麻はそれほど希望を抱いていないのだ。
無為に人が死んでいくのは、辛いのかもしれない――だがそれも、結局他人だ。
死なれたら困る誰かや、守りたい人がいるわけでもない龍麻にとって、
自分が死んだ後の世界など、ほとんど関心がなかった。
むしろどちらかといえば、マリアの語る混沌(の世界とやらがどんなものなのか、
多くの人間が望まない方の未来にこそ興味があるかもしれない。
それを見るためには、生命を差しださなければならず、結局龍麻にはどうでもよいことなのだが。
よく晴れた、穏やかな四月の空を見ながら、薄暗い思考に浸っていた龍麻は、
そろそろ無責任な興味も一段落しただろうと考え、教室へと意識を戻した。
ホームルームはまだ続いていて、いくつかの連絡事項がマリアによって通達されていた。
その中に進路、という二文字があって、龍麻はついまた笑いそうになった。
ここにいる生徒達の進路を閉ざそうとしている張本人が何食わぬ顔で未来を語るとは、
よくできた笑い話というしかない。
そして自分は、積極的ではないにせよそれを手伝おうとしているのだ。
今ここで、担任が実は吸血鬼で、東京を壊滅させようと企んでいる──
そう告げたら、皆はどういう反応をするだろうか。
考えるまでもない、もっとも好意的であっても冗談として捉えて爆笑するか、
もしくは転校初日にして極めつけの変人というレッテルを貼られて相手にされなくなるだろう。
つい今しがたとった態度からすれば、狂人と見られる可能性が一番高いかもしれない。
などとまたとりとめのないことを龍麻が考えていると、すぐ近くから強い眼差しを感じた。
考え事をしていたのもあって、思わずそちらを向いてしまう。
視線は隣の席から発せられていて、放った相手は龍麻が視線を合わせると驚いたようにまばたきしたが、
すぐに笑顔を見せた。
「私、美里葵っていいます。よろしく、緋勇くん」
微笑む少女の顔に、陽光がきらめいている。
未だ女性の美しさというものにほとんど関心がない龍麻でさえ、少女を美しいと思った。
それも、単純な美ではなく、冒しがたいものをすら、偶然隣の席になっただけのはずである少女から龍麻は感じていた。
「……よろしく」
一旦は踊るのをやめた彼女を照らす光の粒子が再びステップを踏み始めてから、ようやく龍麻は返事をした。
そのとたん、首から上がかっ(と熱くなる。
こんな身体の反応は初めてで、龍麻はどうしたらよいかわからなくなっていた。
葵が微笑することでそれは加速して、意味もなく制服のホックをかけ直したりしてみる。
着慣れた制服だが、こんなにも窮屈だったろうかと突っ張る肩の辺りに視線を落とし、
再び顔を上げると、葵はまだじっとこちらを見ていた。
何か顔に変なものでもついているのだろうか、と不安になりかけたところで、
葵はもう一度微笑し、視線を教卓へと戻した。
安心と落胆と、二つの気持ちを両の眼に乗せ、龍麻もまた、
学生を演じるために教壇へと向き直ったのだった。
<<話選択へ
次のページへ>>