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生活スタイルが変化してから、四日。
朝食が用意されている、という日常に、未だマリアは慣れていなかった。
吸血鬼だから血液以外の食事など必要はない、といっても、
これまでずっとそうしてきたわけではない。
同族が居た時は少量ながらも朝食を採っていたし、
人間と、幾らかの緊張はあったものの共存していた頃は彼らに合わせて
食事をする習慣を身につけたりもしていたのだ。
だが一族最後の生き残りとなってからは、その習慣も忘れて久しい。
それが一昨日から突然復活し、マリアはこれまでより三十分ほど早起きを強いられるようになっていた。
「あ……おはようございます、マリア先生」
「おはよう」
居間に入ると龍麻が挨拶をよこす。
プライベートで朝の挨拶をする習慣もマリアはかなり以前からなくしていて、
その違和感は未だ、口の両端にある犬歯のあたりに蟻走感をもたらした。
マリアがこの年下の男と同居するようになって、今日で四日目だ。
同居、といっても愛情の帰結ではなく、マリアはある理由から彼を必要とし、
逃げられないよう監視する必要があるからという、軟禁に近いものだった。
彼に与えられた期限はおよそ八ヶ月、それまでは生命を謳歌させてやろうと、
マリアは必要以上の拘束はしないつもりだし、
人間は基本的に一日三食採らないといけない、というのも理解している。
龍麻は吸血鬼(が居たら奪い合いになっていたかもしれない、
極上の血液を有する人間で、いくら彼が『黄龍の器』という特異体質を有していても、
人間である以上、その血を毎晩啜るためには栄養を補給する必要があるのだ。
それでもこの三流のホームドラマのような展開に、マリアは早くも
自分の忍耐心が限界を試されていると思わざるをえなくなっていた。
有無を言わさず血を啜り、瀕死の状態まで追いこんで従わせるか。
脳はまだ本格的に目覚めていないのか、本能がそう囁いたりもする。
「……」
だが二人分の料理はすでに並んでおり、種族を問うことはおそらくない、好ましい湯気をたてている。
これを価値観の違いというだけで下げさせるのはいかにも狭量な気がして、
結局マリアは何も言わず、身支度を整えるために洗面所へと向かったのだった。
「いただきます」
「ええ」
龍麻は、というよりも日本人が食事の前に神に祈りを捧げないのは、
余計な苛立ちを生まずに済んだ、という意味でマリアは評価していた。
十字を苦手とするマリアではないが、神という言葉に好ましい感情は抱けない。
現在世界を支配する神は、人間、それも彼を信じる人間のみを救う器量しかない、偏狭な存在だ。
価値観にそぐわないものを排除し、それに飽きたらず覆滅させるという悪徳を教えこんだもの(が
上位の存在であるなどと、マリアは絶対に認めなかった。
一方でいただきます、という言葉にも、マリアは良い感情を持ってはいなかった。
奪った生命を食し、それを生みだした万物に感謝するという思想は理解できても、
やはり偽善に聞こえるし、同じ姿形でありながら、食事(をする時にそんな台詞を言われたら、
自分の時にもそう言うべきなのか、などと皮肉を投げつけたくなるのだ。
ただしマリアは、それを口にしないだけの分別は持っていた。
目の前にいるのは同胞(を滅ぼした種族の一員であり、同情するべき理由などない敵であったが、
彼という個体で見るなら、それほど悪感情は抱いていない。
加えて彼は一年以内に死を約束されており、あまり些細なことで負の感情を刺激するのも哀れだった。
それに見た目では十年以上、実際にはその十倍以上マリアと龍麻には年齢差があり、
種族は異なっても年長者としての振るまいをするべきだとマリアは考えていたのだった。
テーブルに並んでいるのはトーストに紅茶、それにスクランブルエッグとサラダ。
マリアにとっては食欲を刺激されるようなものではないが、
ごく一般的な人間の朝食といえるだろう。
椅子に座ったマリアは何気なくトーストをちぎり、口に運んでから、
龍麻も同じ動作を始めたことに気づいた。
律儀にも、彼はマリアが食べ始めるまで待っていたようだ。
躾の良さを褒めてやりたいとマリアは思ったが、
どう言ったところで皮肉にしかなりそうにないので止めておくことにした。
そのまましばらくはお互い何も話さないまま、朝食を採った。
マリアにとってはかなり無意味な時間ではあったが、新聞に目を通し、
教師として振るまえる程度の情報は仕入れておく。
人間社会は相も変わらず円滑に動いていた。
戦争や殺人事件は絶えることもなく、人間はおそらく一日に何百人という単位で減っているだろう。
にも関わらず、それ以上の繁殖力で増える彼らは、未だ決定的な破滅へとは至らないようだった。
その辺りがマリアには口惜しい――と同時に嬉しくもある。
同胞(を根絶させた人類に対して、凍てついた復讐心を溶かすだけの焔を得るには、薪は多い方がよい。
あと数ヶ月、種族としての繁栄を謳歌した彼らは、そこで自らの矮小な立場を再確認することになるのだ。
せいぜいその時まで、驕っているがいい。
知らず笑みを浮かべるマリアの口の端には、人のそれではありえない長さの歯が覗いていた。
「先生」
食事も半分が終わった頃合いを見計らって、それまで無言だった龍麻が話しかけてきた。
「何かしら?」
マリアと呼ばれるのと先生と呼ばれるのと、どちらがより不快にならないか考え、
マリアは後者を選んだ。
といってもこの肩書きもつい一年ほど前、必要に迫られて得ただけの物だから、
身体に馴染んでいるとはいいがたい。
教室内ならともかく、自分の家の中で先生などと呼ばれると、
誰か他にそう呼ばれる人物が居るのではないかと振り向いてしまいそうになるくらいだ。
「晩飯のことなんですけど、米って大丈夫ですか?」
マリアは口許に運びかけたティーカップを停止させ、
何気ない動作を停止させるに至った質問者を凝視した。
蒼味を増した眼光を正面から浴びた龍麻は、ようやくその質問の愚かさに気づいたようで、
こちらは顔中を鮮やかな紅色に染めてうつむいてしまった。
吸血鬼にとって、これほどくだらない質問はなかった。
そもそも人間が吸血鬼と同じ食卓に着く、というのがトランシルヴァニアの冬をコートなしで歩くような、
致命的な誤りなのだ。
人間は他の動物を殺してその肉を喰らい、吸血鬼はその人間の血を飲みほす。
それが食物連鎖というものであって、獅子と兎は決して一緒に晩餐などしないのだ。
パンでも米でも、好きな物を自分だけ食べればいい。
そう言い捨てようとして、マリアの視線は顔を上げた龍麻のそれと真っ向からぶつかった。
日本人は圧倒的に黒目が多いが、その中でも黒炭を埋めこんだかのような深い黒の瞳。
決して険しくはなくても、動かしがたい勁(い意思を感じるその瞳は、
確かに彼が『黄龍の器』という、特別な力を持つ存在と信じさせるものだった。
威圧的ではないが、かけ値なく真摯である眼差しに、マリアはやや態度を和らげることにした。
「ええ、大丈夫よ。昨日も言ったけれど、吸血鬼(にとって血液以外は全て
副食みたいなものだから、アナタの好きな物を作ってくれればいいわ」
「わかりました。それじゃ今日の夜からはそうさせてもらいます」
今日の夜、と言われて、昨日の晩はパンであったことをマリアは思いだした。
龍麻が望んでのことではなく、不本意な事情のためにそうなったのだ。
「そういえば、痛みはもうないの?」
龍麻は昨日、同じクラスの佐久間猪三という不良に因縁をつけられ、手酷く暴行を受けた。
骨折などはしなかったが、普通の人間ならばもっと深刻な怪我をしていたかもしれない。
「ええ、大丈夫です。昔から回復力は高くて」
「それは……やはり『黄龍の器』の?」
「多分そうだと思います」
生命エネルギーとも言える氣。
地球上で最も巨大な生命である地球自身が宿す氣を、その身に蓄えることのできる存在が、黄龍の器と呼ばれる。
マリアはこの黄龍の器を手中に収めるために来日し、そして緋勇龍麻という少年を捜し当てた。
龍麻は己が持つ、世界の支配すら可能な力を乱用したりはしていない、ごく普通の少年だった。
マリアが仕掛けた罠にも拍子抜けするほど簡単に引っかかり、
抵抗すらしようとせず虜囚たるを受けいれた。
やや厭世的なところが見受けられるにしても、それ以外は年相応の人間だとマリアは思っていたが、
やはり自分の力について、全く知らないというわけではなさそうだった。
となるとどの程度知っているか、今度はそれが問題になる。
マリアもある程度までは調べたが、地球のエネルギーを制御できるほどの力を
操ることができたなら、マリアの手に負えなくなるかもしれないし、
それ以外にも何か隠された能力を持っているかもしれない。
龍麻は今のところ敵対する素振りはみせていないが、
マリアが油断するのを待っているということもありえるのだ。
「あの……先生?」
いつのまにか思考に没頭していたらしく、龍麻が呼びかける声でマリアは我に返った。
龍麻は心配げな表情をテーブルの向こうから投げかけている。
心底案じているような顔ではあったが、この少年も所詮は人間、
自分たちの敵になる存在なら、笑って心臓に杭を打てる種族なのだ。
いかに友好的な態度でも、警戒を緩める必要などなかった。
「いえ……なんでもないわ。それより佐久間には気をつけなさい、
いざとなれば途中で帰ってもいいわ」
だが、事務的にマリアが告げると、龍麻は戸惑ったように目をしばたたかせた。
穿った目で見ればそれもわざとらしく、マリアは蒼い瞳の温度をいくらか下げて龍麻を見やった。
「何か不満でもあるのかしら?」
「え……違います、ただ」
「ただ、何?」
たたみかけるマリアの声は鞭のように鋭く、龍麻は明らかに怯えはじめていた。
「ただ、先生に授業をサボっていいって言われたのが、ちょっとだけ変な感じがして」
「……」
何がそんなに怒らせたのだろう、と不安がる龍麻に、
それ以上の言葉を呑みこんだマリアは、朝食を済ませたら早く学校に行きなさい、
とだけ告げて、自分が先に席を立ったのだった。
見慣れた、というにはまだ日が浅すぎる。
けれども学校の教室という空間は、奇妙にそこに入る人間に新鮮味を与えず、
龍麻は通い始めてまだ数日の三年C組に、半ばは溶けこんでいた。
半分なのは主に外見の部分で、黒の学生服を着て窓際の席に座るのは他の、
一年時から真神に通っている同級生達と変わりない。
ただし残りの半分、内面の方は、四十人ほどの同じ歳の人間が居る中で、
氷原に落とした墨の一滴ほどに孤立していた。
龍麻が教室に入っても、挨拶をよこす生徒は誰もいない。
扉が開くことで反射的に振り向いた生徒は、男子も女子も、皆一律にしまった、という顔をして、
なるべくさりげなく顔を元の位置に戻すのだった。
龍麻はそれを意に介さず、六メートル四方ほどの部屋で、与えられた自分の場所に向かう。
椅子を引き、鞄を置いて腰かけても、話しかけようとする同級生などおらず、
存在すらしていないかのように振る舞われていた。
それは龍麻自身が選んだ方途で、龍麻はこの教室に延べ二十時間程度は居る計算になるが、
その間話した言葉は鳥のさえずりよりも少ない。
転校初日からあからさまに他人を拒絶する態度を見せた龍麻に、
同級生達が親切にしてやる理由もなく、必要最小限の接触しかしないようになったのに、
そう長い時間はかからなかったのだ。
龍麻は同級生に背を向け、それが基本の姿勢であるかのように机に片肘をついて外を向く。
空はそれなりに青く、目を休ませる程度の景観ではあったが、
日本人にしても珍しい、どこまでも黒い瞳は映るものを全く捉えていなかった。
同級生達の話し声もむろん耳に入れず、ぼんやりとした思考に身を委ねる。
思考といっても大したものではなく、ただ五感をカットしただけで、深くも考えない。
それはまどろみに近い、どちらかといえば幸福な時間の過ごし方であったろうが、
朝の心地よいひとときは、それほど長い時間を与えてはくれなかった。
「おはよう、緋勇君」
柔和な声に思わず反応しそうになって、龍麻はすんでのところで踏みとどまった。
声の主は隣の席に座る、美里葵のものだった。
葵に非などない。
学級委員長である彼女は、生徒会長も務めているらしく、休み時間はひっきりなしに誰かが尋ねてきている。
人望は申し分なく、女性に関心をあまり抱かない龍麻ですら美しいと思える美貌も揃い、
どれだけ意地悪く埃を見つけようと指を擦っても塵の一つさえ付かない、
信じがたいほど完璧な少女だった。
その彼女が、たとえ偶然席が隣り合っただけだからだとしても、
話しかけてくるのは、学校中の男子生徒から羨まれることなのだろう。
しかし、龍麻は葵と距離を置かなければならない。
葵に目をつけている佐久間という不良が、彼女に近づく男を許さないのだ。
佐久間を恐れなどしない――が、なるべく事を荒立てないようにというマリアの意向もある。
だから彼女には悪いが、葵も他の生徒と同じように無視することに決めたのだった。
「……」
「あの、緋勇君……」
それでもこの葵という少女は、どういった物好きなのか、話しかけてくるのを止めようとしない。
昨日の一件を知らないからにしても、転校生に対する一般的な好奇心だというのなら、
早く醒めて欲しい──そう願いながら、龍麻は冷淡に葵をあしらった。
「あの……」
迷惑だとはっきりわかるように、ことさらに身じろぎしてみせる。
葵が悲しげな表情をしているのが、背中越しにも感じられたが、龍麻は心に鎧を着せ、葵の視線を防ぎ通した。
自分に関わるとろくなことにはならない。
ならば変に親しくなるよりは、最初から拒絶していた方がお互いに傷は小さくてすむのだ。
あからさまな無視に、さすがに葵もかける言葉はないようで、
失望の、ごく小さな吐息を最後に話しかけてこなくなった。
これでいい――外の景色を見ながら、龍麻も小さく嘆息した。
どうせあと一年もしないうちに、より大きな悲しみがこの東京(を襲うのだ。
その時に、変に同情したくなるような人間は、一人でも少ない方がいい。
龍麻はそう自分に言い聞かせ、身体をひねったやや窮屈な姿勢を保ち続けた。
無理な姿勢はどれほどのことでもないが、
背後から下卑た笑い声が複数聞こえてくるのだけが、唯一不快だった。
今日は佐久間は来ていないようだが、子分達は出席している。
何かあればすぐさま佐久間に報告し、暴行の口実に使うつもりだろう。
龍麻の忍耐心は無限でなどなく、その境界を一滴でも超えたなら、
徹底的な反撃を彼らにすることにためらいはない。
しかし自分の持つ力を知る龍麻は、生来のものに加えて自制という名のスコップで
忍耐心を相当の深さ拡張してあり、嘲笑程度の不快感で暴発することはなかった。
ただし穴は深くても、そこに放りこまれたものから腐臭が漂うのはどうしようもない。
募るいらだちを考えないようにするために、龍麻は始まった授業に集中することにした。
今日の授業も全て終わり、生徒達は一斉に秩序から混沌へとなだれこむ。
部活に向かう者、友人とおしゃべりする者、四十人ほどの教室は
誰一人として同じことをしていないかのような喧騒ぶりだったが、
龍麻はそのいずれにも与しなかった。
いきなりではなく、最初の混雑が一段落したのを見計らってから、
書類を提出しに職員室へと向かう。
同級生の何人かがちらりと反応したが声をかけてくることはなく、
龍麻も愛想を振りまくようなことは一切せずに教室を出ていった。
用事を済ませ、教室に戻ってきた龍麻を待っている同級生は誰もいなかった。
葵を――誰が見ても非の打ち所のない、聖女とも呼ばれる女性を無視すれば
その反感はたちまちクラス中に伝播するし、
龍麻は葵だけでなくクラスの全員から距離を置くようにしていたから、
転校数日にして情勢は龍麻に極めて悪いものとなっていた。
必ずしも積極的でないにせよ自分で選んだ道であるから、龍麻はそれを許容するしかない。
それに、龍麻はこういった環境に慣れていた。
十八年の人生のうち、集団生活を送り始めた十四年ほどの間でほぼ半分の年数、
龍麻は消極的な無視を受け続けてきた。
子供の頃は学校が世界の全てのようなものだったから、
同級生達に口も聞いてもらえないのはそれなりに堪えたが、
高校三年にもなれば別にどうということもない。
世界は外にも広がっているのをもう知っているし、
誰かと話さないからといって死ぬわけでもないことも知っている。
孤独というのは本人の気の持ちようでしかなく、それを意識しないようにするための術を、
すでに龍麻はいくつも見つけだしていた。
たとえば、料理――
一人暮らしをするために、必然的に覚えなければならない技能も、熱中すれば中々奥が深い。
自分の舌が正しいのかどうか、確かめる術がないのが残念だったが、
奇妙な運命の導きによって、龍麻は初めて他人に料理を食べてもらう境遇を得た。
マリアは料理の腕を試す相手としては残念ながら不適格のようだが、
他人に食べてもらうために料理を作るのがこれほど楽しいとは、
龍麻は新発見した気分だった。
少なくともあと半年は、マリアのために腕をふるえる。
その間に一度くらいは美味しいと言わせてみたい、と、
さっそく今日から張りきることにしていた。
献立を考え、材料を買いに行く。
充分な時間はあるはずでも、心が逸り、置いてあった鞄を取りに来た龍麻は、
乱雑に鞄を掴むと大股で出口へと向かった。
それが急停止を強いられたのは、龍麻が出ようとした扉の、
反対側から勢いよく飛び込んできた女性がいたからだった。
「誰か、誰かいないッ!?」
そう、けたたましい声を上げたのは、隣のクラスの遠野杏子だった。
龍麻は転校初日に新聞部部長だというこの少女につきまとわれて辟易したのを覚えている。
好きな食べ物は何か、好きな女性のタイプは──
くだらない質問を延々とされ、わずか数十分でこの口うるさい女を佐久間の次に嫌いになっていた。
彼女の方でもそれは察しているのか、誰か、と言ったのにも関わらず、
それが龍麻一人だと知った時の彼女の反応は正直すぎるものだった。
「緋勇君……」
龍麻の方も別に、彼女につき合うつもりなどない。
俺で残念だったね、と皮肉を言うのを止めたのは、単に面倒くさいというだけの理由だった。
彼女の態度は何か普通でない事態が発生したことを示しているが、
そんなことに関わる理由も必要も龍麻にはなかった。
一度は止めた足を再び動かし、帰路につこうとする。
ところが、教室を出ようとすると杏子に引き留められた。
振り払おうとするには、彼女の力は意外なほど強かった。
「お願い、美里ちゃんが旧校舎で」
「……どういうこと」
わずらわしいことに関わりたくない、という気分は相変わらずあっても、
転校してきた時から気になっていた旧校舎の名が出てきて、
それに対する好奇心がわずかながらわずらわしさを上回ったのだ。
「あたし達、旧校舎に怪しい光が出るっていう噂を確かめるためにあそこに行ったのよ。
そしたら本当に何か光るものがあって、あたし達の方に向かってきたの」
「……で、遠野さんは一人逃げてきたと」
たとえそうでなかったとしても、それ自体に悪意がある台詞を、思いきり悪意を込めて龍麻は言った。
どうせ杏子の方が葵を誘ったに違いなく、そしてトラブルが起こると自分は一人で逃げたのだ。
龍麻の想像は言葉を選ばなさすぎるとしても的外れなものではなく、
事実、杏子は唇を強く噛みはしたものの、機関銃のように反論をまくしたてることはせず、
黙って罵倒を受けいれた。
反論がかえってくれば、もう一言二言は皮肉をぶつけてやれたのにと龍麻は内心で肩をすくめる。
自分が起こした問題は自分で解決すれば、と言ってやろうかとも思ったが、
これを口実に旧校舎に入ることができるし、杏子に恩を売っておけば後日役に立つかもしれない。
それに何より、葵を傷つけてしまったという後悔が、意外なほど心の底に根を張っていたようで、
杏子の口から葵の名が出てきた時、自分でも驚いたほど動揺した龍麻は、
杏子に対する恩はともかくとして、葵を探しにいってやることにしたのだった。
「わかった、探しに行くよ。遠野さんは先生を」
「あッ、あたしも一緒に」
「危険を感じて逃げてきたんだろ? その判断は多分あってる。
それに美里さんを見つけて逃げる時、二人は庇えない」
龍麻の理屈は説得力があるものだったが、もうひとつ、語らなかった理由として、
『力』の存在を杏子に見せたくないというのがあった。
好奇心と口が服を着ているだけのような彼女が異能の『力』など見たら、
葵の救出などそっちのけで追及を始めるかもしれない。
それは騒動を起こして欲しくないというマリアの思惑に反するし、
龍麻自身杏子とはあまり関わりたくない。
はぐれた、といってももともと校舎なのだから迷うはずもなく、
案内などなくても一階から順に見ていけば葵は見つけられるだろう。
強い口調で止める龍麻に、杏子はしぶしぶながら同意した。
美里ちゃんをお願い、と強く言い残して背を向ける。
職員室へと向かった彼女を見届けると、龍麻も旧校舎へと走りだした。
杏子が見た光というのがたいしたものとは思えないが、万が一一般人の手に余るものだった場合、
騒ぎが大きくなってしまうだろう。
できれば教師が来る前に葵を見つけ、脱出しておきたかった。
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