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戦前に建てられたという真神學園の旧校舎は今では完全に使われておらず、
近いうちに解体作業が始まるので立ち入り禁止になっている。
それでなくても圧倒的な存在感を放ち、夕暮れともなればただごとでない雰囲気を醸しだす旧校舎には、
あえて近づこうという生徒もほとんどいなかった。
ほとんど、というのは皆無ではないわけで、何年かに一度はお調子者が入りこみ、騒ぎを起こしている。
今年は美里葵と遠野杏子が担当というわけで、
後で彼女たちはこってりと油を絞られることになるのだろう。
だがそれも、龍麻が無事葵を救出できてからの話だった。
四月といっても六時近くにもなれば、昼よりも夜の領域に属する。
あたりはすっかり薄紫に染まり、完全な闇になるのも時間の問題といえた。
探すのに、あまり時間はかけていられない。
懐中電灯をもってこなかったことを、龍麻は後悔していた。
人一人捜すだけだからすぐ済むだろうとたかをくくっていたのだが、
旧校舎には当然まったく灯りがなく、これでは葵を発見できないどころか、
自分も迷ってしまうかもしれない。
龍麻は常人にはない力を持ってはいたが、それは万能の力などではなく、
こういった時に光を灯したり、暗闇でも物が見えたりはしない。
むしろほとんどの場合で役に立たない、忌むべき力だった。
ただ、遠野杏子が逃げだした原因に対しては、この力が必要になるかもしれない。
マリア・アルカードが言う、『黄龍の器』たる力が――
普段ですら寄る者の居ない旧校舎は、こんな夕暮れともなれば人の気配など皆無になる。
その闇に乗じて、龍麻は誰にも見咎められることなく潜入を果たした。
二人が開け放したままの入り口に身体を潜らせ、そのまま駆ける。
校舎はシンプルな一本の廊下に教室がいくつか連なっているという構造で、
龍麻は突き当りまで行って、そこに階段があれば上るという単純な策を採ることにした。
数歩ごとに床がきしむ。
外見に違わぬ古い建造物は、人間たちに見捨てられたあと、その恨みを訪れる者に伝えるかのような不協和音を奏でた。
龍麻は怖がる性質ではないが、床が朽ちている可能性を考えて速度を落とす。
ミイラ取りがミイラになっては笑い話にもならず、
あるいは遠野杏子が発行している真神新聞とやらの記事を飾ってしまうことにもなりかねない。
そんな事態になったら、マリアはなんと――
そこまで思いを馳せて、龍麻はつい小さく笑ってしまった。
彼女は世界を闇に陥れようと企む伝説の吸血鬼であり、龍麻は彼女に見初められた生贄なのだ。
逃げ出す方法を考えるならともかく、彼女を案じる必要などどこにもないのに、
人間に記事にされるよりは人ならざるものに支配されていた方が良いと考える自分に、笑わずにはいられなかったのだ。
しかし、それは偽らざる気持ちだった。
マリアの怒りが同胞を絶滅させられたことに起因するのなら、
大破壊を起こし、世界を闇に包むという彼女の野望も過剰とはいえないだろう。
人間の側にも言い分はあるだろうが、少なくとも龍麻は、人間全てが悪いわけじゃないとか、
復讐は何も生まないだとかいった陳腐な理屈で彼女を説得しようとは思わない。
したいのならば、すればいい。
マリアが復讐を遂げるためには、龍麻の命を捧げなければならないとしても、
その点については龍麻は意識していなかった。
こんな『力』を持っていては、いつか災厄を引き起こす。
政治家が核ミサイルのボタンを押せるのと同じで、自分自身が誰かを傷つけて血を見るよりは、
マリアに使われた方が気分的には楽だった。
それに――
考えている間に、危うく龍麻は一つ目の教室を通り過ぎてしまうところだった。
笑いを収め、頬を軽く叩いて扉の前に立つ。
扉が閉まっているということは、ここに葵がいる可能性は低い。
だが何者かが閉めたということもあるし、念のために全ての教室を調べた方がよいだろう。
洞察は当たり、願望は外れた。
扉を開けた龍麻を出迎えたのは、明らかにしばらく換気された形跡のない、埃をまとった空気だけだった。
暗く、かろうじて机や椅子があるのが判別できる程度の部屋を、それでも目を凝らして見渡した。
いつ頃使われていたのか、全てが木製の机と椅子は、久方ぶりの訪問者に挨拶するでもなく、
すでに遺跡のように古びた風格を漂わせ、そこにただ在るだけだった。
教室に荒らされた様子もなく、葵がいないことを確かめた龍麻は、
早々に教室を後にし、次の教室を探した。
全く形の変わらない二つめの教室の扉を、さっきよりも大胆に開け、素早く踏みこんで中を見渡す。
扉を開けた時にすでに想像はできていたが、この教室も長い間使われた形跡はなく、
中にあるのは冷たい空気とそこに漂う埃だけだった。
それでも、見落としがあったらいけないと思い、部屋の奥まで目を凝らし、
葵がいないことを確かめ、龍麻は足早に教室を出た。
三つ目、四つ目と廊下を移動していく。
何もかもが同じに感じられる作業の繰りかえしに、途方もなく無駄なことをしている気がする龍麻だったが、
探索は無駄には終わらず、六つ目の教室に葵はいた。
部屋に入ってすぐの辺り、教卓の近くに、仰向けで倒れた状態で。
近づいた龍麻はまず、素早く彼女の全身を見渡した。
見て判る怪我はなく、衣服にも乱れはない。
「美里さん……?」
だが、小声で呼びかけてみても葵からの反応はなかった。
胸の辺りに目をやり、そこがゆるやかに上下しているのを確かめた龍麻は、不意に頬が熱くなるのを感じた。
息を見るなら脈を見れば良かったのに、そこをいきなり見てしまったのを恥ずかしく思ったのだ。
心の中で謝ってから、それを振り払うように葵を抱きあげようとする。
その時気配を感じて、龍麻は反射的に上方に拳を放った。
何か柔らかい、厭な感触が当たる。
甲高い悲鳴と共に落ちてきたものを見て、龍麻は軽く息を呑んだ。
拳が捉えたのは、巨大な蝙蝠だった。
蝙蝠といえば翼を広げても二十センチに達するかどうかというところなのに、
床でもがいているそれは優に倍以上の大きさだ。
これならば杏子が恐怖したのも無理はなく、しかもこの蝙蝠は明確に龍麻に襲いかかってきていた。
もうほとんど漆黒になっている教室の奥に目を凝らしてみると、複数の気配が蠢いている。
慄然とした龍麻は、葵の肢体に素早く手を差しいれると、慎重に抱きあげる。
人間程度のすばやさでは触ることさえ難しい蝙蝠が、十数匹はいるのだ。
最悪、二人とも遭難して発見がもっと遅れる可能性もあったのだから、
杏子だけでも逃げだせたのは僥倖というべきだった。
息を殺して立ちあがった龍麻だったが、気配に反応した蝙蝠が一斉に襲いかかってくる。
気を失ったままの葵を抱きかかえ、一気に走りだした。
蝙蝠は教室の外までは追ってこず、なんとか無事に逃げおおせる。
入り口まで戻ったところで葵を横たえると、懐中電灯の灯りが龍麻を照らした。
顔に光を当てられ、まぶしさと不快さに目を細める。
敵ではないだろうが、味方かどうかはもっと怪しい。
もし佐久間とその取り巻きだったりしたら、かなり面倒くさいことになる――
しかし、幸いなことに龍麻の心配は杞憂に終わった。
懐中電灯を持つ主は、遠慮なく龍麻の顔に直接光を向けると、
明らかに佐久間とは異なる声で問いかけてきたのだ。
「美里は無事か」
答える前に龍麻は眼を細め、少しでも相手を見極めようと試みた。
化学者のような白衣を着ている男の声は低く、生徒のものではない。
学校にいる人間で教わる側でなければ教える側なのだろうから、彼は教師の一人なのだろう。
だが焦りも取り乱した様子もなく、妙に冷静な態度が龍麻を警戒させた。
杏子に事情を聞いたにしても、まるで全てを知っているかのような余裕さえ目の前の教師からは感じられたのだ。
確か彼は、隣のクラスの担任で、龍麻達のクラスの生物の授業も受け持っている犬神杜人という男のはずだ。
さえない、という龍麻の第一印象は、彼の授業が始まる前のクラスの会話を聞いていると
それほど間違っていないようにも思えた。
しかし、今龍麻を見る彼の瞳は、夕暮れにあって鋭い輝きを放っていた。
昼ではなく、これから始まる時間こそが彼の本領であるかのように。
葵を抱いた腕に何故か力を込め、龍麻は頷いた。
「はい、気を失っているだけみたいです」
「そうか……悪いが、保健室まで連れていってくれるか」
ここまで関わって嫌とは言えず、龍麻はやむを得ず葵を保健室に連れていった。
犬神はその間無言で、どこまでも落ち着き払っているように見える。
何も聞かれない方がありがたい、と思っていたにもかかわらず、
聞かれないことで龍麻は重いプレッシャーを感じていた。
そんな龍麻の心情を知ってか知らずか、白衣の生物教師は保健室に着くまで一言も口をきかなかった。
清潔なベッドに葵を横たえる。
葵はまだ目を覚まさなかったが、ゆるやかに上下する胸を見れば大事には至っていないようだった。
シーツをかけてやろうとしてためらい、龍麻は一歩下がる。
それを横目で見た犬神が代わりにシーツを無造作にかけ、龍麻の方に向きなおった。
「詳しい話は遠野と美里から聞くとして、お前……旧校舎(で何か見たか」
「……巨大な蝙蝠を」
「そうか」
異常な説明を一笑に付すことも、深く訊ねることもせず、犬神はただそれだけを答えた。
それが龍麻に、この昼行灯という単語の生きた見本のような教師は、
間違いなくあの場所について何かを知っていると確信させた。
「そのことは他言無用だ。旧校舎には改めて立ち入り禁止の措置を施す」
有無を言わさぬ犬神の口調に、龍麻は逆らわなかった。
龍麻の方でも詮索されたくない事情があり、犬神がそれ以上何も訊かないのならその方が望ましかったのだ。
ただ、ひとつ頼んでおきたいことがあった。
「美里さんには、俺が助けたって言わないでくれますか」
犬神の瞳に、ある種の獣のような光がひらめく。
その鋭さは龍麻をもたじろがせるほどで、龍麻はこの中年の教師が、
実は教師などではない、暗殺者だとかスパイだとかいった闇に生きる者ではないかという、
およそ現実的ではない想像をしてしまったほどだった。
だが、理性よりは野性を、知性よりは獣性を感じさせる輝きも一瞬で消え、
その後はいかにも億劫そうにうなずいた。
「……いいだろう。美里は俺が助けたことにしておく。いいんだな?」
「はい」
軽く頭を下げ、龍麻は事後を犬神に託して保健室を出た。
そのまま校門を出たところで、ようやく緊張を解き、大きく息を吐く。
考えたいことはいくらでもあったが、あえてそれらを無視して、
龍麻は予定よりだいぶ遅れ、帰路についたのだった。
龍麻がマリアの家に戻ると、家主はもう帰宅していた。
「遅かったわね」
何かあったのか、言外に問うているマリアに事情を説明しないわけにはいかず、
龍麻は、帰宅が遅くなった理由を述べた。
「そう……困ったものね、遠野さんにも」
落雷を覚悟していた龍麻だったが、意外にもマリアはため息をついて納得したようだった。
何か、幼い頃に門限を破ったとき、かろうじて叱られずに済んで安堵した時を思いだしつつ、
龍麻はあることに思いあたって訊ねた。
「先生もインタビューを?」
「ええ、まあね」
マリアの口調が珍しくしみじみとしているのは、よほど遠野杏子に辟易させられたからだろう。
子供である龍麻と違って、大人の、しかも教師という立場のマリアは逃げることもできなかったに違いない。
同じ負の感情を抱いたことで、一種の連帯感をマリアに覚え、龍麻は少し笑ってしまった。
慌てて機嫌を損ねたかとマリアを見るが、マリアも苦笑して何も言わなかった。
「もういいわ……食事の支度をしなさい。アナタは食べなければならないでしょう?」
マリアに促され、龍麻は慌てて食事の支度を始めたのだった。
「先生は……旧校舎について、何か知っていますか?」
夕食を採りながら、龍麻が改めて訊ねてきた。
何気なさを装ってサラダを口に運びながら、マリアは答えを選んだ。
「いえ……何かがある、というのは感じるけれど、多くは知らないわ。
教師としての準備も必要だったし、そこまでの時間はなかったの」
それは事実ではあったが、全てではなかった。
マリアは以前あそこに潜入しようと試みたことがあったのだが、犬神に阻まれたのだ。
マリアの演じた新任教師でうっかり近づいてしまった、少しだけ好奇心の強い外国人という役を、
犬神はものともせず、まるでここが秘密の研究所で、近づくものは容赦なく殺すとばかりの強い態度で、
マリアは引き下がらざるを得なかった。
それでなくても外国人の、それも美貌の女教師となれば風当たりは強く、
いくら犬神が教師連中からもそれほど好かれてはいない、
冴えない男だったとしても、着任歴は確実にマリアより長いわけで、
トラブルを起こせばマリアの方が分が悪くなるのは間違いない。
なぜ彼がこんな場所を守ろうとしているのか、それも疑問だったが、
訊いて答えが得られるわけもなく、旧校舎はマリアにとって鬼門めいた場所となったのだった。
そして、犬神杜人である。
初めて彼を見たとき、マリアは己の目を疑ったものだった。
なぜ彼のようなもの(がここにいるのか。
マリアもこの地球にあって今やほとんど孤高の存在、吸血鬼であるが、
犬神杜人は吸血鬼に比肩するほど伝説的な存在、人狼(なのだ。
人に変じ、群を持たず荒野をさすらう、吸血鬼以上に馴れあうことのない妖魔。
人に関わることなく辺境に住み、やがてその辺境すら奪われ、滅ぼされた種族。
彼がなぜ真神にいて、人間社会に埋没するように生きているのかはわからない。
だが種族は違えど人類に迫害されるという共通点を持つ彼は、
マリアの復讐心を見抜いたにも関わらず、協力を拒んだ。
それどころか復讐などというくだらないことはやめろなどと、
憎むべき人間に尻尾を振るような醜態(だった。
一度は殺意すら抱きかけたマリアだったが、
それ以上の干渉はしてこないので、現在は静観することにしている。
今のところ、龍麻が『黄龍の器』であることに犬神は気づいてはいないようだが、
事が起こった時に排除しなければならない可能性を考えると、
彼に、龍麻に対してあまり関心を抱かせない方が良いと思われた。
「そう……ですか」
龍麻はそれ以上旧校舎について質問せず、犬神についても追及してこなかった。
疑問は解消されていないが、マリアの意向に逆らってまで探索しようとも思わないのだろう。
どのみちあと一年もしないうちに、旧校舎どころか東京、ひいては世界が破滅するのだ。
気にしても仕方がない、という龍麻の心理は読み取りやすかった。
彼がそういうふうに従うのなら、波風を立てる必要もない。
マリアは小さく頷き、龍麻のそれ以上の質問を遮るように、必要のない食物を口へと運んだのだった。
寝室に入ったマリアは、寝間着に着替える。
灯りを点けたままなのも、龍麻が居る部屋で着替えるのも、意図的なものだ。
龍麻とひとつのベッドで寝るのは、今日で四回目になるが、
少年、といっても年齢的には大人に近い男は、未だ熟した果実をもぎとろうともしなかった。
枕を共にし、生命を捧げることを了承しても、それ以上は頑なに拒む男。
マリアは淫魔(ではないから血が啜れればそれで良いのだが、
マリアを構成する別の部分が、この牡を溺れさせてみたいと囁くのだった。
先にベッドに入っている龍麻は、衣擦れの音を聞いても微動だにしない。
芋虫のように身体を丸め、一日の最後の仕事として、首筋を主に差しだすばかりだ。
何も身につけない肢体に、絹の夜着をまとったマリアは、それでも衣の重さに辟易するような顔をしつつ、
男の待つベッドに潜りこんだ。
二人が寝てもまだ余裕のあるベッドに、龍麻は横を向いて寝ている。
マリアに対しては背を向ける形になっているが、それはマリアを拒んでいるからではなかった。
龍麻のすぐ隣に肢体を横たえたマリアは、そのまま身体を密着させる。
腕を彼の前に回し、一番上まで留められているパジャマのボタンを、まずひとつ外した。
「……」
若い肉体が軽く緊張する。
それでも、それ以上は反応しようとしない男に、マリアはさらにボタンをもうひとつ外し、
開いた胸襟から手を差しいれた。
ゆったりと、質感を愉しむように胸を撫で、そのついでにパジャマをはだけさせていく。
龍麻は全く抵抗しようとせず、ほどなくして寝着は乱れ、マリアが関心を持つ場所が露わになった。
「フフ……」
唇の隙間から恍惚を漏らし、マリアは舌なめずりをする。
前に回した右手で龍麻の顎をつまみ、狙いを定め、無防備な首筋に、ゆっくりと噛みついた。
しかしまだ牙は立てず、その代わりに舌を、毎日穿っている部分に這わせる。
「ぅ……っ……」
敏感になっている場所を舐められ、龍麻が小さく反応した。
それを抑えこむように身体を押しつけ、マリアはさらに舌を蠢かせた。
「あ、ぁ……」
龍麻の体温が上がっていく。
巧みに脚を、そして全身を絡みつかせて、マリアは男を興奮させる。
血は、温かい方が美味なのだ。
唇に感じる熱が、充分に高まったのを確かめ、女吸血鬼は静かに牙を突きたてた。
「うっ……!」
赤い血が牙を濡らし、肉体が脈動する。
それを全身で抑えつけ、マリアは龍麻の体液を啜りはじめた。
若い生命力を象徴するかのような熱い血流は、吸血鬼にも活力を与える。
ましてただの血ではない、この六十億人がひしめく地球上において、
この血を持つ者は同時にひとりしか存在しないという、
『黄龍の器』という特殊能力を持つ人間の血なのだ。
マリアが調べた文献には、『器』の用途については記されていたが、
血液についてはむろん何も記述はなく、血を吸ったのも抵抗する力を奪うためだった。
だが龍麻を拉致し、その血を啜った瞬間、マリアの裡には狂おしいほどの活力が湧き起こり、
数百年にわたる刻を生きて初めて味わう、一滴残らず飲みほしてしまいたいと欲する情動を、
必死で抑制しなければならなかった。
それでも常人なら数日は貧血で倒れるほどの量を吸ってしまったマリアだったが、
幸いにも『黄龍の器』は回復力も尋常ではなく、龍麻は翌朝には平気な顔をして台所に立っていた。
安堵すると共に、この程度までなら吸っても死なないという境界線を期せずして知ったものの、
以後もマリアは境界線を侵すリスクを取り続けていた。
「あ……ぁぁ……」
龍麻の呼吸が荒くなっていく。
不規則に跳ねる身体は、血を吸われているからというだけではない。
吸血鬼に血を吸われることによって、人間は性的な疼きを惹起されるのだ。
抑えつけるのを装って、マリアは龍麻の股間に足で触れる。
直接手で触れないのは、龍麻が二日目の晩にそういうのは止めて欲しいと言ったからだが、
そこは掠めただけでもわかるほど膨らみ、存在を誇示していた。
不可避の反応であるが、龍麻はきっと己を恥じているだろう。
その恥はやがて抑えられぬ欲求と融合し、理性を凌駕して牝を欲するようになる。
その時に彼が、どんな顔をして欲情す(るか、マリアには密かな楽しみだった。
だからマリアはまだ、焦らす。
龍麻の肉体はもう支配した。
残るは魂の方で、それも最終的には堕とし、光を打ち砕くための贄とする。
そしてマリアは世界を光と闇とが等しく覆う、在りし日の姿に還すのだ。
その時に彼から受け取る生命というものへの対価として、
快楽に耽る程度なら支払ってやっても多すぎるということはないはずだった。
ともかく、今日も龍麻は肉欲を欲しなかった。
それならばそれでマリアも構わない。
ただ、だからといって吸血の量を減らしたりはしない。
もう存分に吸った血を、最後にひときわ強く啜りあげ、マリアは官能の時を終えた。
「あっ……!」
長い時間をかけて生命を吸われた龍麻が、糸の切れた人形のようにベッドに沈む。
その首筋にくっきりと二つの孔が穿たれているのを眺め、マリアは満足げに微笑んだ。
身体に充ちていく乱流の如き生気(。
それは野心の成就を確信させるに足るもので、いくらか寛大な気分になったマリアは、
贄の服装を整えてやり、乱れた髪を撫でつけてやった。
「フフ……お休みなさい」
龍麻が気だるげに目蓋を開ける。
揺らめいている瞳に、マリアは彼が何か言うのではと待ったが、
血を吸われた直後で意識が明瞭でないのか、再び目を閉じたので、マリアも彼の隣に横たわった。
快い火照りは許容値を少し超えていて、ほんのりと身体が疼いている。
慰めようかとも思ったが、せっかく貰った彼の生命を、そんな形で消費してしまうのは惜しい気がして、
マリアは唇を舐めるだけで堪えることにした。
やがて龍麻から、静かな、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
彼はもしかしたら、眠りの挨拶がしたかったのではとマリアは気づき、
多分正解だろうとも思ったが、なぜそう思ったのかはわからないまま、
心安らぐ闇の世界に、一時還ったのだった。
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