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緋勇龍麻が真神學園の三年C組に編入されてから、一ヶ月と約半分が過ぎていた。
それは同時に、學園の教師であるマリア・アルカードと共に暮らし始めてから、
それだけの月日が経ったことを意味する。
男と女、教師と生徒、未成年と成人、どう切り取っても微妙に断面の揃わないこの奇妙な組み合わせは、
意外にもこれまでのところ、破綻することもなく、当人達もおおむね満足のまま過ごせていた。
それがいつまでも続くわけではないと、充分に承知はしていたが。
マリア・アルカードは睡魔を振り払ってベッドに半身を起こした。
陽の干渉しない薄暗闇に快い布団の組み合わせは、人外の存在であっても目覚めを容易にはしない。
闇の眷属、その中でも最も高貴な一族に属するマリアは、その生まれ持つ気品をいささか損なうようなあくびを
ひとつすると、優雅な身のこなしでベッドから下りた。
立ちあがり、軽く頭を振ったマリアは、日本ではあまり見かけないサイズの巨大なベッドが、
無人であることを確かめ居間へと歩きだす。
闇は心地よい――けれども、ここは本当の闇ではない。
かつては在った、今は失われたそれを取り戻すために、マリアは偽りの闇を後にした。
居間では、芳しい匂いがマリアを待っていた。
それらはマリアの生命に関係する匂いではないが、良い匂いであるのは間違いない。
この数十日ですっかりなじみになった、毎日わずかずつ異なる香りを、マリアは自然に満喫した。
匂いの源では、マリアの同居人が動き回っている。
彼は慣れた手つきで新たな匂いを続々と生みだしていて、マリアはしばし観察した。
まだパジャマを着たままで、それも着崩れてはいない。
昨日は寝る前にボタンを全て外してやったはずなのに、いつ直したのだろうか。
眠気に任せて愚にもつかないことを考えているマリアに気づいたのか、
緋勇龍麻という名の同居人は顔を振り向かせた。
「おはようございます、マリア先生」
「ええ、おはよう」
フライパンを操りながら器用に挨拶する龍麻に対して、
マリアの返事はそっけないほどだが、龍麻は気にした風もなく朝食の準備を進める。
全く無防備な首筋に、朝から牙を突きたててやったらどれほど気持ちが良いだろうか、
とさらに愚にもつかないことを考えながら、マリアは洗面所へと向かった。
卵料理に、ソーセージに、パンと紅茶。
洗面所から戻ってきたマリアを待っていたのは、
すっかり支度を終えた朝食と、それらを揃えた料理人だった。
メニューはどこにでもあるような、なんの変哲もないものだが、
用意しているのが十八歳の男ならばまずまず上出来といえるものだろう。
まして食べる二人のうち一人は、調理師にとっては天敵ともいえる、
料理にほとんど関心を示さない存在だ。
マリアが食卓に座ると、すぐに龍麻も向かい側に座り、二人はそれぞれの所作で食事を始めた。
手を合わせ、「いただきます」と告げてから食べる龍麻と、
特に何もせず、新聞を広げ、無造作に紅茶を飲み始めるマリア。
二人の食事は淡々と、ただ栄養を摂取するといった感じで、
団らんめいた空気はテーブルの上に漂ってはいない。
それでも、まるっきり寒風というわけでもなく、龍麻の方はときおりマリアのティーカップに目をやり、
空になったら二杯目を注ぐか訊こうと機会を伺っているようだ。
そしてマリアは知って知らずか、ティーカップを手に取りつつも形の良い唇を触れさせただけで戻したりして、
年下の同居人をひそかに落胆させていた。
結局二杯目を注がせることなく朝食を終えたマリアは、
龍麻が何か言いたそうにしているのに気づいた。
二杯目を注ごうとしていたのも、このきっかけを得ようとしていたのかもしれない。
少し意地悪をしてしまったと顔を上げるマリアに、龍麻はすぐに話しかけてきた。
「今日の予定は何かありますか?」
「別に何もないわ」
食事は目の前に居る(のだから必要がないし、その他の物も現在の人の世には
通信販売という便利な手段があるので、外に出歩く必要もない。
買い物自体が嫌いなわけではないマリアだが、人間の群れに飛びこむのは嫌だったし、
不特定多数の男の恥知らずな視線を浴びるのはうんざりで、
だから休日であってもほとんど外出はしなかった。
それは龍麻と同居するようになってからも変わらず、当然彼も知っているはずだ。
つまり龍麻は、自分の予定をこそ聞いて欲しいのだとマリアは結論を導いた。
「どうしたの? 何か望みがあるなら言ってごらんなさい」
希望に添えるかはわからないけれど。
釘を刺すのを忘れずに微笑んだマリアだったが、龍麻の希望はシンプルなものだった。
「一度、家に戻りたいんですけど」
家、というのが龍麻の実家ではなく、下宿を指しているのにマリアが気づくまで数秒かかった。
たかだか一ヶ月半程度の期間とはいえ、生活習慣というのはいつのまにか馴染んでしまうものらしい。
龍麻が東京にやってきてすぐに彼を拐(かし、一緒に住まわせていたマリアは、
怪しまれないために彼が借りたアパートはそのままにさせておいたことを失念していたのだ。
「それくらいなら別に構わないけれど……どうしてかしら?」
逃亡の阻止と監視、という目的で同居を強いたマリアだが、
龍麻が逃げるつもりなどない、というのはほぼ信用してよさそうだった。
龍麻は最初にマリアに血を吸われた日から、逃げようという素振りさえ一度たりとも見せず、
むしろ破滅の日を待ち望んでいるかのような言動が端々に見られたのだ。
周到に逃亡の計画を練っているとも思えず、まして龍麻の下宿は同じ新宿区内なのだから
帰るのを咎める理由などない。
それでもマリアは、ティーカップをその肉感的な唇に押しあて、即答はしなかった。
冷えてしまった紅茶に眉をしかめるふりで表情を眩ませつつ、目だけで問う。
龍麻は口ごもり、マリアに疑念を抱かせたが、聞いてみれば理由はばかばかしいほどのものだった。
「服を取りに行きたいんです」
マリアはもう一口、紅茶を啜った。
ぬるい液体を上品に流しこんで喉を潤してから、穏やかに諭す。
「寝巻なら、何も着なければいいじゃない」
男なら、それもマリアの隣に寝る栄誉が与えられた男なら、
一も二もなく同意するはずの誘いに、若く、性的に不能でないのだけは確かな少年は、
ピエロよりも滑稽なほど狼狽した。
「そ、そういうわけにはいかないです。それに、取りに行くのはパジャマだけじゃないですから」
マリアは独りになってからこの四月まで、寝るときに下着をつける習慣などなかった。
数百年続けてきた、くだらないとはいえ約束事を破ったのは、
目の前にいる十八歳の男性、というより子供が原因だ。
たかだか十数年、闇の眷属にとってはまばたきに等しい年月しか生きていない人間が、
生意気にも裸の女とは寝ないなどと言い張ったのだ。
彼は贄であると同時に、重要な鍵でもあったから、マリアは彼の要望を聞きいれた。
その程度の譲歩はマリアが手に入れ、龍麻が失う物と較べれば大したものではないし、
野望が実を成す数ヶ月後までの間、彼を堕落させるのに費やすのも悪くない、と考えたのだ。
そして、今でもマリアは寝るときに下着を着用し、龍麻は夜、求めてはこない。
彼の聖職者的な頑なさに呆れると同時に、是が非でも肉の悦びを教えこんでやりたいと、
日々龍麻が目を止めずにはいられないようなデザインの下着を選ぶマリアだった。
今日マリアが着ているのは、特に過激ではないネグリジェだ。
休日であるのをいいことに、マリアは着替えもせず朝食を採っているが、
過激ではないというのはマリアの主観にすぎないようで、龍麻は全く見ようとしない。
いや、全くというのは誤りで、マリアに話しかけるときなどうっかり顔を上げてしまって慌てて逸らせる、
という行動をもう数回は繰りかえしている。
それがマリアにはおかしくて、ティーカップを持ちあげるときなどわざとらしく背を反らせ、
バストを意識させてやったりしていた。
たったそれだけのことで狼にでも出くわしたかのように右往左往する龍麻を愉しげに鑑賞していたマリアに、
この時ある考えが閃いた。
蒼氷色の瞳を、滅多に見せることのない明るい色調に踊らせ、軽く肩をすくめてみせる。
「そう……それなら仕方ないわね。いいわ、新宿区内だったかしら?」
「はい」
断られることはないと思っていただろうが、安堵の表情を見せて龍麻が立ちあがった。
食器を片づけ始めたので、マリアも立ちあがる。
また目を逸らせる子供の無防備な首筋に、噛みつきたい衝動を抑えるのはなかなかに大変だった。
「お昼ですけど、どうしましょうか」
採る必要はない、と知っているくせに、龍麻は律儀に訊ねる。
それに対してマリアは、予習をしてきた生徒を褒める笑顔で応じた。
「一緒に採ればいいわ……アナタの家で」
「……え?」
「何と言ったかしら……そう、家庭訪問」
「……! いや、家庭訪問って親と面談するのが目的ですし、そもそも高校じゃそんなことしません」
龍麻は手にした食器を落としそうなくらい動揺している。
年の割に落ちつきすぎている少年を、性的な方向以外からの攻撃に成功して、
マリアは久しぶりに愉快になった。
「フフ、一人暮らしをしている生徒の生活がただれていないかどうか、教師には確かめる義務があるわ」
「……俺の家なんて見ても、面白くないですよ」
明らかに面白がっているというのを、どうやら龍麻も悟ったようだ。
これみよがしにため息をついてみせたのは、せめてもの抵抗だったようにマリアには見えた。
龍麻の家はマリアと同じ新宿区内でも方向が違い、かれこれ三十分近く歩いていた。
炎天下とは言えないまでも春と夏の間の季節は、たとえばルーマニアの北西部辺りでは
もたらされることのない暑さを浴びせかけてきて、
もしかしたら龍麻がわざと遠回りの道を選んでいるのかもしれない、とマリアは邪推したほどだった。
マリアにとって日光は関係なく、陽光の下に出たくないのは生まれ育った環境に負うところが大きい。
ルーマニアにも四季はあるのだが、むろん東京ほど暑くはなく、
さらにヒートアイランドとやら言う現象のおかげで耐えがたいほどになったこの街に、
マリアは目的がなければ決して住むことなどなかっただろう。
ネグリジェ姿で来れば良かったかもしれない、と暑さのあまり龍麻が聞けば
絶対に同行を許可しないようなことをマリアが考え始めた時、ようやく今日の目的地が姿を現した。
「ここです」
龍麻が指さしたのは二階建てでさほど大きいわけでもなく、ごく一般的な印象のアパートだった。
大学生か一人暮らしのサラリーマンが住むような感じで、マリアの現在の住居とは較べるべくもない。
だが、それはマリアが経済的には不自由していないからで、
現代の日本、それも東京で成人していない高校生が一人暮らしをしているだけでも
恵まれている方だということをマリアは知っていた。
龍麻は階段を上っていき、奥から二番目のドアで立ち止まる。
最低限部屋を片づけるくらいの時間は与えてやるべきだろうか、
と思春期の少年の後についたマリアは思ったが、龍麻は慌てる様子もなく招き入れた。
部屋はマリアの想像以上に片づけられていた。
ただし一月半無人だったための埃が舞っているのはどうしようもなく、マリアはほんの少し眉をしかめる。
けれども龍麻が一月半も家を空けることとなったのは、他ならぬマリアが原因なのだ。
それも家を引き払っては怪しまれる、という利己的な理由なのだから、
埃が舞う程度で龍麻を責めるのは酷というものだった。
その龍麻は掃除も手慣れているらしく、まず窓を開けて換気から始めている。
健気ともいえるくらい真面目な態度に、些少な不快さも忘れてマリアは彼の肩を叩いた。
「アナタはまずそっちの部屋から始めなさい。ワタシはこの部屋に掃除機をかけるから」
「え……いや、でも……」
マリアの家に来て以来、家事は全て龍麻が行っている。
だから掃除に関しても全く員数外だと思っていたのだろう、いささかならず驚いている龍麻に、
学校では見せることのない挑発的な笑みを浮かべた。
「フフ、掃除くらいワタシにもできるわ……苦手なのは料理だけよ」
それは完全な事実で、料理が苦手、というのはここ何百年かはしていないからにすぎない。
もしも龍麻が全く料理が出来なかったのなら、彼が餓死しない程度には食事を作ってやるつもりだったのだ。
まだ半信半疑でいる龍麻をよそに、さっさと掃除を始めるマリアだった。
それほど広くもない床に掃除機をかけ始めて、すぐにマリアは気づいた。
この部屋には、生活感が欠けていた。
もちろん、住んでいないのだからそんなものがあるわけもないが、それ以前に物の数が少ないのだ。
申し訳程度の机と、本棚がひとつ。
あとは最低限の家電のみで、マリアの家にすら一応はあるテレビさえなく、
この部屋を見ただけで住人を予想するのは、極めて困難だろう。
マリアは湧き起こる好奇心を抑えきれなかった。
「どれくらいここに住んでいたの?」
それが火薬の横で火を点けるに等しい質問であるのは承知している。
これまで龍麻はマリアに対して怒りの感情を見せたことは一度もないが、
この問いはそんな前例を破るだけの悪意に満ちていた。
「二週間くらい、だったと思います」
龍麻の態度に変化はなく、それがマリアを驚かせる。
初めて龍麻の血を吸い、彼の人生を決定づけた日も、龍麻は取り乱したりはしなかった。
人間である(という以外に何の落ち度もない若者が、
いきなりあと一年もしないうちに生命を全うできなくなると告げられたのに、
夕食に嫌いな物が出されるよりも平然と受けいれたのは、
現実感が断線したからなのだろうとマリアは考えていた。
けれどもそれは誤りで、まだ青年ともいえない年齢の龍麻は、
マリアが理解に苦しむほどの厭世観を身にまとっていたのだ。
むしろ積極的な死すら望んでいるような態度は、一過性ではなかった。
新たな生活を始めようとして強制的に中断させられたというのに、マリアを恨む気配すら龍麻にはなかったのだ。
それがマリアには不気味でもある。
この一ヶ月半反抗の兆しも見せていないのは、周到な計画を実行するための偽装なのではないかと、
どうしてもマリアの立場からは疑ってしまうのだ。
これを機会にマリアは、これまであえて触れなかった彼自身について、少しだけ訊いてみることにした。
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