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物のあまり置かれていない部屋は、それほど時間もかからずに一通りの掃除を終えることができた。
龍麻は一人でするつもりだったからだろう、時間はまだ昼にもなっていないくらいで、
手持ちぶさたになってしまった二人はなんとなくテーブルに向かいあって座る。
テーブル、といっても椅子は使わない小さなタイプで、二人の距離はかなり近かった。
「何か、飲むものでも買ってきましょうか」
落ちつかなげに龍麻が言う。
席を外したいのだろうとマリアは見てとったが、あえて気づかないふりをした。
「いえ、今はいいわ。それよりも、訊きたいことがあるの」
「……なんですか?」
もしかしたら掃除は、龍麻にとって息抜きだったのかもしれない。
それを邪魔された上に質問などされては、たまらないだろう。
家を出るときはそこまで思い至らなかったマリアは、彼に対して少し悪い気がしたが、
どうせ機嫌を損ねてしまったのなら、これまで訊く機会の無かったことを訊いてみようと思った。
「アナタはどうして真神に?」
マリアが『黄龍の器』を手に入れるための拠点として真神學園を選んだのには理由がある。
『龍脈』と『龍穴』について研究した結果、この學園に何かがあるという事実をマリアは掴み、
それを探るために英語教師という身分を得たのだ。
一方で『黄龍の器』については確たる情報はなく、東京中の高校を、
緋勇という名字を手がかりに総当たりするつもりだったのだ。
だから、彼が真神に転校してきたのは、僥倖というほかなかった。
『黄龍の器』とこの学校とに関連があるとしても、彼はそんな関連など知らないはずであり、
大いなる偶然のみが龍麻を真神に引き寄せたのだ。
マリアとしては居もしない神に感謝するのはともかく、
もしかしたら後数ヶ月は免れることができたかもしれない、
進んで生け贄の祭壇に上ってしまった少年の不幸をわずかながら同情する気持ちもある。
そもそも何故このタイミングで転校することになったのか、身の上くらい聞いてやるつもりだった。
「前の学校には、居られなくなったんです。生徒の一人を再起不能にしてしまって」
再起不能、というのは穏やかな言葉ではない。
しかし、龍麻は誇張でなくその言葉を使えるだけの人間であることを、マリアは知っていた。
「それは……『力』を使って?」
「はい」
明確に頷いたものの、龍麻はすぐには話そうとしない。
マリアも急かしたりはせず、彼が記憶を辿るのを待った。
龍麻の話は以下のようなものだった。
通っていた学校で、女生徒ばかりが重傷を負う事件が頻発した。
それも、女生徒自らが眼球にペンを突きたてるといった異常なものばかりで、
犯人どころか原因すら不明のまま、女生徒達は怯えるばかりだった。
その時点では龍麻は関心を持ちつつも犯人捜しをしようとは考えていなかった。
それが一変したのは、同じクラスの少女が拐かされたからだった。
犯人はやはり同じクラスの男子生徒で、彼は少女を拉致し、欲望のままに嬲ろうとしていた。
友人に、一緒に救けに行って欲しいと頼まれた龍麻は、二人で高校の近くにある廃屋へと向かう。
そこで龍麻が目にしたのは、宙に磔(にされ、今にも犯されそうになっている少女だった。
腕を肩の高さまで上げられ、空中に床があるかのように足が持ちあげられている。
その異常な光景に息を呑んだ龍麻だが、次の瞬間には今まさにズボンを脱ぎかけていた男に向かって突進していた。
戦いは、奇妙なものだった。
友人と二人、男に殴りかかった龍麻の、動きが急停止を強いられる。
後日思い返してみると、後ろから引っ張られるような感覚だったようにも思うが、
二人共が一歩も動けなくなり、息が苦しくなっていった。
何が起こっているのか判らないまま龍麻がもがくうち、隣で友人が昏倒する。
悲鳴を短く発して動かなくなった友人を見たとき、龍麻の怒りが爆発した。
全身が膨らむような意識の拡大と同時に、不可視の拘束が解ける。
そして気がつけば、元同級生だった男は数メートル先で倒れており、宙づりだった少女も床に伏していた。
友人は気を失っただけで命に別状はなく、少女も被害はどうやら服と若干の怪我だけで済んだようだった。
男は病院に搬送されたが、意識は回復せず、今後も期待はできないと診断された。
その男が今回の件だけでなく、女生徒達の怪我に関わっているらしいことは複数の証言があったものの、
直接的な証拠は一切なく、警察も立件はできなかった。
龍麻が彼に負わせた怪我についても、打撲などの症状はみられず、
症状を納得させるような暴力の痕跡はなかったので、
昏睡との因果関係は不明とされ、厳重な注意を受けるにとどまった。
こうして事件は一応の解決を見たが、とにかく男を含め、
数人が重傷を負ったという不祥事は学校側をひどく狼狽させた。
結果、救われた少女と、共に戦った友人が必死に庇ってくれたのにもかかわらず、
学校側は臭い物に蓋をするように龍麻一人に責任を被せ、
龍麻の両親にこの学校ではもう彼の卒業については一切保証できないと脅しをかけてきたのだ。
大人の汚いやり方に腹を立てた龍麻だが、これ以上は親に迷惑をかけられないという思いと、
意地を張ってこの学校に留まったところで誰一人喜ばない、というのが解っていたから、
学校側の提案を呑んだ。
どうせなら新年度時に転校して欲しい、さらにはそれまでの三ヶ月は休学して欲しい、
という厚かましい申し出をも、龍麻は受諾した。
波風を立てないと決めたのなら、どこまでも凪を求めれば良い。
たとえ、舟が出せなくなったとしても。
大きな感情の起伏も見せず、龍麻は話を終えた。
それはマリアでなければ到底信じられない話だっただろう。
相槌も打たずに話に聞きいっていたマリアは、
龍麻が口を閉ざした時、不意にこれまでなかった感情が芽生えるのを自覚した。
彼は根絶させても飽き足らない種族の一人であり、そのために必要な贄(でもある。
だが、彼はまた、異能の『力』ゆえに同胞から疎まれ、孤独を宿命づけられた人間でもあるのだ。
たとえマリアが贄として用いなくても、彼はこの人があふれかえる東京の街で、
孤独のままに生きていくのだろう。
それはもしかしたら、全ての同胞を失って一人生きるよりも辛いことなのかもしれない。
そんな風にすら思いかけたマリアは、慌てて思考を振り払った。
贄に同情してはいけない。
些少な憐憫など、何百人もの同胞を殺され、
一人生き残った後も逃げ続けなければならなかった怒りとは較べるべくもないのだ。
同情したいのなら、復讐が終わってからにすればいい。
マリアはそう己の心を説き伏せた。
龍麻が再び口を開く。
「ただ、転校する時に真神を選んだ理由はありません。どこでも良かったんですから」
前の高校とは管区ができるだけ離れていること。
うわさ話でさえも届かない程度に。
それさえ満たしていれば、あとはよほど治安が悪いのでなければ構わなかった。
いきなり佐久間に目をつけられたのは誤算だったが、彼のような手合いはどんなところにでもいる。
真神より進学校に行ったとしても、直接的な暴力を使わない、それだけにより深刻な私刑は存在するのだ。
高校三年という異常な時期に転校すれば、どれほどおとなしくしていても耳目を惹きつけずにはおかない。
だから龍麻は佐久間達の暴力もある程度まではやり過ごす覚悟はできていた。
「今のところ我慢はできます。このままいってくれたらいいんですが」
「そう……そういうことだったのね」
龍麻の説明を聞いたマリアは、深く頷いた。
これまでの龍麻の言動にも、これでほとんど納得がいく。
求めていた以上の回答は、しかし、最後の質問をマリアにさせた。
「もうひとつ、訊いてもいいかしら」
「なんですか?」
「なぜアナタは、そんなに死を冷静に捉えているの? 不死の存在でもないのに」
龍麻は『黄龍の器』という、人外の存在すら凌駕する『力』を持っていても、
もちろん有限生命(であり、マリアのような不死生命(には決してなれない。
古来どれほど強大な権力や富を手に入れた人間の王達も死からは逃れられなかったように、
時の枷を越えられるのはマリア達一部の存在だけなのだ。
ゆえに人は皆、死を怖れる。
怖れるがゆえに、死を超えた存在を怖れ、疎む。
そうして人は闇に生きる人ならざるものを襲い、彼らの言い分など聞きもせず狩りたて、殲滅したのだ。
なのに龍麻は死を恐れない。
まだ人類という種の平均年齢の半分にすら達していない歳なのに、
与えられる死にまるで無頓着で、それを望むような節さえ態度の端々に垣間見える。
それは彼を殺そうとする立場のマリアから見ても、尋常なことではなかった。
「それは……」
龍麻は初めて口ごもった。
マリアは瞳の蒼氷を深く沈め、油断なく彼を観察した。
「こんな『力』、持っていても危険なだけだからです」
沈思の末に放たれた答えはいかにも優等生的で、マリアを満足させるものではなかった。
蒼氷をさらに沈降させ、無言のプレッシャーを与えてみるが、
龍麻は怯みはしても、氷の圧力に押し潰されはしなかった。
「……そう」
マリアは追及を止めることにした。
今日は充分以上の話が聞けたし、ここで追いつめても意味のないことだ。
帰りに食事でも奢ってやるつもりで、マリアは質素な部屋にはまるでそぐわなかった話を終え、
龍麻に帰るよう促そうとした。
「お願いがあります」
だが、マリアが口を開くよりも早く、龍麻の方から切りだした。
鋭く、重い声に、浮かせかけた腰が停止を強いられる。
その瞬間マリアは、陽射しが射しこむこの部屋が、
厚いカーテンで日を遮る自分の寝室よりも暗くなったように感じた。
「マリア先生にとって、俺が用済みになったら……確実に殺してくれませんか」
これまでの話からすれば、決して意外ではない。
それでもマリアは、彼女が殺す予定の人間から絶対の死を求められて、いささかならず動揺した。
「……」
動揺を悟られてはならない。
そう考えたマリアは、慄(える唇を無理に閉じた。
たった二月足らずで情が移ってしまったのか、
そんなことで地球上にあふれかえる人間達に復讐をすることができるのか、と己を叱咤してみても、
目の前に座る二十歳にも満たない子供の、冷え切った炭の如き瞳に真っ向から見据えられると、
凍てついているはずの心に、どこからともなく軋みが聞こえてくるのだ。
近づいてくるそれはマリアの闇に浮かぶ、数百年にもわたって凝集した巨大な氷を溶かそうとする類のものではなく、
むしろそれも氷だったかもしれない。
マリアが抱いているのとは別種の、けれども大きさでは引けを取らない氷が、
マリアのそれに近づいてきて、増幅された冷気によって奏でられた音なのではないか。
「……わかったわ」
それでも結局、マリアは予定通りの答えしか返さなかった。
二つの氷が衝突したとき、何が生じるのか、湧いた疑問は鮮烈なまでに思考を司る部分に焼き付いたが、
それが望まぬ結果をもたらしたらどうすればよいのか、考えるのが怖くなったのだ。
とにかく当初の計画通り事を運べば、マリアの魂、もはや溶けることのない氷で覆われた魂には、
せめて安らぎがもたらされる。
その安らぎが辿りついた果てが大地ではなく、小さな島でしかなかったとしても、
すでに永い刻を漂泊しているマリアには構わなかった。
束の間の安息であったとしても、マリアはそれを渇望しており、そのためになら、
できることはなんでもするつもりだった。
「龍脈の力を解放した後、『黄龍の器』がどうなるのか、記してある文献はなかったわ。
何もないのかもしれないし、廃人になってしまうのかもしれない。でも」
一度語を切ったマリアを、龍麻はまばたきもせず見つめている。
口の中が干上がっていくのを感じたマリアは、急いで続きを言った。
「でも、アナタが望むのなら、ワタシはアナタを殺す」
言い終えると同時に、口は乾ききった。
その影響を受けた声も、また乾いていた。
「ありがとうございます……お願いします」
これほど奇妙な返事を、マリアは聞いたことがなかった。
けれども、乾きは心にまで達してしまったのか、小さく頷いたマリアには、
どんな感情の欠片も浮かびあがってはこなかった。
鍵を閉める音が、空虚に響く。
用事を済ませたマリアと龍麻は、長居することなく帰路についた。
二人とも死の約束を交わして以後はほとんど喋らず、教師と生徒という関係を知る者が見れば、
生徒が何か悪事を働き、これから教師と謝罪に行くところかと思ったかもしれない。
マリアは隣の龍麻と完全に歩調を合わせていた。
彼の背中を見ることはなく、彼に背中を見せることもない。
どこかに寄ろうという気にもなれず、歩みは遅かったが、龍麻も同じ心境なのか、
あるいは気を使っているのか、マリアの意図を完璧に汲み、足音すら重ねて歩いていた。
龍麻の頼みを聞いた動揺から、マリアはもう立ち直っていた。
先ほどのは年端も行かない子供から殺してくれなどと言われて取り乱しただけで、本来そのつもりだったではないか。
彼は死ぬ――他の多くの人間を殺すための触媒として。
つまり彼にとっては多くの同胞の、ほんの一歩先を歩くだけのことで、
死を事前に告げられている分、訳もわからぬまま死に追いやられる彼らよりは、ずっとましな立場のはずだ。
それが酷い理屈だと承知の上で、マリアはそう自分を説いた。
心が晴れるわけではなかったが、落ちつくことはできた。
今はそれ以上必要はないはずだった。
ふとマリアは、自分の左手が龍麻の右手を握っているのに気がついた。
いつからなのだろうか、それほど長い時間ではないはずだ。
龍麻から握ってきたのだろうか、と思い、すぐにその考えを否定した。
では――
奇妙なことに、マリアは手を離そうと思わなかった。
そしてもっと奇妙なことに、龍麻も手を振りほどこうとはしなかった。
握りかえしたりはせず、何かの弾みで簡単に離れてしまいそうな、弱々しい結びつき。
それでも重なり合った手は、離れなかった。
いつかは離れるとしても、せめて家に着くまではこのままでいい。
まだ高処にある太陽に目を細め、マリアは自分でも出所のわからぬその考えを、
眩しすぎる陽射しのせいだと結論づけた。
だが、いまいましい陽(は家に帰るまでは沈む気配もない。
早く帰りたい、と思うマリアの足取りは、結局、家に着くまで変わることはなかった。
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