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薄暗闇の中で、龍麻は目覚めた。
光のない朝を迎えるようになってから、どれくらい経っただろうか。
初めは慣れなかった――身体の気怠さと共に――が、今では目覚ましが無くても、
ほぼ同じ時間に起きられるようになっていた。
同様に、硬すぎず、柔らかすぎず、絶妙の塩梅で沈みこむマットレスにも、
温かく、そのくせ重みをほとんど感じさせない掛け布団にも、龍麻は順応している。
始めは大変だった――それらの寝具は快適すぎて、ベッドから出るのが嫌になるほどだったのだ。
同居するマリアが朝食を必要としない身体だったから事なきを得たのも何度かあり、
そうでなければ真神學園三年C組の担任と生徒一名は揃って遅刻するという不名誉を担う羽目になっただろう。
とにかく、多少の努力は必要だったとしても、龍麻は健全な高校生として
毎朝朝食を作って食べる程度の時間は確保して起きることができるようになっている。
けれども、未だ慣れないものというのもあって、龍麻は身体を起こす前に視線を横にやった。
そこには暗闇にほのかに浮かぶ、金色の灯がある。
マリア・アルカードという名の灯台こそ、龍麻が未だ慣れず、慣れる気配もない、
寝起きを共にする女性だった。
静かな寝息を立てている彼女は、どんな著名な美術品よりも美しいと龍麻は思っている。
それは龍麻だけの認識ではなく、学校のそこかしこでマリアの評判を耳にしない日はない。
単純に容姿を褒めるのもあれば、声の美しさや授業の丁寧さを賞賛するのもあるし、
中には聞くに堪えない下卑たものもある。
だが彼らのいずれもが、龍麻が、毎晩彼女とベッドを共にしていると聞かされたなら、
さらに毎晩肌を重ねていると知ったなら、一様に腰を抜かさんばかりに驚くに違いなかった。
今のところ龍麻は変人、それも極力関わらない方がいい変人として認知されているが、
そんな防波堤もものともせず、毎夜の物語を聞こうとなだれこみ、龍麻を辟易させただろう。
しかしそれよりも、はるかに重大な秘密がある。
真神學園でおそらく一番人気のある教師、マリア・アルカードは、
西暦の誕生よりも旧い刻を閲してきた闇の一族、その中でも最も強大な吸血鬼なのだ。
もしもその事実が明るみに出たら、周りはどう受け取るだろうか。
日中に出歩き、人間の学校に教師として職を得、美貌とスタイルで学校中の人気を集めている彼女を、
その名の通り血を吸う鬼であると納得するだろうか。
そんなはずはなく、誰に話したところで、笑ってもらえるのならマシな反応で、
真顔で話せば薄気味悪そうに立ち去られるのが関の山だろう。
だが、龍麻は知っている。
マリアは獲物の首筋に牙を突きたて、夜な夜な生血を啜る、真物(の吸血鬼なのだと。
そして、おそらくはその危険性ゆえに人類に疎まれ、虐殺された一族の、
いまや最後の生き残りである彼女は、峻烈な復讐の念を人間全てに対して抱いているのだと。
それらの、およそ現実離れした事実のほとんどを龍麻は受けいれていた。
そればかりか龍麻自身が彼女の望む復讐を遂げるための重要な因子であり、
マリアの望みを叶えるためには、おそらく死ななければならないという未来さえ提示されても、
龍麻はマリアから逃れようとはしなかったし、彼女を止めようという素振りさえみせなかった。
たったひとつ、マリアの虜囚となるときに提示した条件。
それさえ叶えられれば、龍麻は祭壇に捧げられる従順な山羊たるを持って任ずるつもりだった。
ただ、犠牲の山羊は選ばれていても、祭壇の準備がまだ整っていない。
マリアの言うところでは、条件が整うのは今年の末から来年の年明けにかけてで、
その刻がくるまでは山羊ではなく人間として生活する必要がある。
与えられた時間はおよそ半年、その間の、いわば最後の晩餐の時を、龍麻は今過ごしているのだった。
マリアが眠りの国から旅立っていないのを確かめた龍麻は、
布団を必要最小限だけ払い、音を立てずベッドから下りた。
マリアを起こさないようにという配慮ではあるが、
もうひとつ、もしかしたらこちらの方が重要かもしれない理由がある。
それは、顔だけを見れば神性すら垣間見えるほどの美貌を持つマリアの、
首から下は現在、娼婦も恥じらうような淫らな下着に包まれているからだ。
龍麻が来る以前は裸で寝ていたというマリアは、もし龍麻が寝姿を覗き見したとしても怒ったりはしないだろう。
それどころか、ついにその気になったのかと悦ぶのは間違いなかった。
なにしろマリアは、夜ごと龍麻の首から生血を啜る際に、
不必要に身体を密着させ、不必要に肌をまさぐってくるのだから。
龍麻は自分の持つ『黄龍の器』という超能力を利用されるのも、
その利用法が世界に大破壊(をもたらすためであるという、
およそ反社会的なものであることにも不満はないが、
ベッドを共にし、しかもマリアが半裸で寝ることに対しては大いに不満があった。
だからマリアに一緒に住むよう告げられたとき、龍麻はマリアがその格好を止めないのなら
居間のソファで寝ると言ったのだが、逃げる可能性があるからと許可されず、
なしくずしにこの、二人横になってもまだ余裕があるベッドに寝ることを余儀なくされていた。
とはいえ、肉体的には精気に満ちる年頃であって、
しかもマリアのような妖艶な女性に情感たっぷりに触られて平静を保てるものではない。
否、近頃では本能を覆う理性の厚みを把握されてしまったらしく、
明らかに二月前よりも危険な領域にまでマリアは踏みこんできていた。
かろうじてまだ甘美な誘惑に屈してはいないが、吸血鬼の毒というのは長い時間残るもののようで、
一晩明けた朝でも、うっかり彼女の寝姿を見てしまったときなど、
龍麻は穏やかならぬ気分になってしまうのだ。
それを防ぐためには、古来より最も強力な防御と言われている戦法を使うしかなかった。
――危うきには、近寄らず。
念仏のように朝から陰気くさい小声で呟きつつ、龍麻は吸血鬼の寝所を後にするのだった。
同じ学校に通うといっても、教師と生徒が玄関から校門まで一緒に登校するわけにはいかない。
教師はその辺りの事に無頓着だったが、生徒の方が警戒を促し、朝は別々に家を出るようにしていた。
それが理由というわけでもないが、龍麻はかなり早く学校に到着する。
到着したからといって何かをするわけでもなく、自分の席に直行した龍麻は、
鞄から教科書類を取りだすと、あとはずっと外を見るだけだった。
まだ同級生も一人として来ておらず、教室は意外な広さをたった一人の住人に沈黙の重さでアピールする。
だが、龍麻は喧噪に満ちた東京とは思えない静謐な空間にもまるで無関心のまま、
誰が来るのを待つわけでもなく、自身も沈黙の一部と化していた。
その態度はやがて他の生徒が登校し、教室の半分を埋めるようになっても変わらなかった。
マリアとは家でそれなりに会話もする龍麻だが、学校では全くといっていいほど口を開かなかった。
なにしろ転校初日から同級生とは口も聞かない、目すら合わせようとしないありさまだったので、
今では完全に居ないものとして扱われていた。
プリントを回す時や授業で当てられたりした時も、龍麻の周りだけが完全に無言になる。
一種異様な光景ではあったがその状態が一ヶ月以上も続けばある程度は馴染んでしまうし、
現象の中心である龍麻が全く事態を改善しようとしなかったので、
不気味ながらも三年C組の一画はほとんど不可視の障壁があるかのように振る舞われていた。
だが、四十人以上が一人の存在を全く無視するという状況の中で、
ひとりだけ、龍麻の動向を注視する生徒がいた。
美里葵という名のその少女は、積極的に話しかけたりこそしないものの、
たとえば龍麻が板書をしてもどってくる時など、ごくさりげなく龍麻の方を見上げたりしている。
はじめ、目を合わせてしまった龍麻は、たまたま彼女の視線上に立ったのだと思っていた。
それが偶然ではないと気づいたのは、何日かに一度は同じように視線を感じるからで、
一週間の間に五回目が合うに至り、ようやく彼女が意図的に見ているのだと気づいた。
何か話したいことがあれば、いつでも話しかけてくれていい。
一瞬の何分の一かにそんな意思をよぎらせ、何食わぬ顔で授業を受け続ける葵に、龍麻は困惑した。
クラス委員長として孤立している転校生を見過ごせないのか、
あるいはクラス全体で狡猾な、たとえば美人局的な罠を張っていて、彼女は囮の餌役を引き受けているのか。
だが、どんな意図があるにせよ、これまでどおり無視を続ける以外のことはできなかった。
誰とも必要以上に話さない、というのは龍麻から決めたルールであったし、
それを破る最初の相手が、學園でもっとも人気のあるらしい葵というのでは、
最初から彼女の関心を惹くためにわざと奇矯な振る舞いをしたのだと誤解されるに決まっている。
そんなピエロになるなど耐えられなかったし、そもそも何を話せばいいのか、皆目見当がつかなかった。
龍麻と葵とは、席が隣という以外に、ひとつだけ接点がある。
転校して数日後、隣のクラスの新聞部部長、遠野杏子にそそのかされて旧校舎に入った葵は、
そこで巨大な蝙蝠と遭遇し、気を失った。
たまたま教室にいたというだけの理由で、一人逃げてきた杏子に救出を頼まれた龍麻は、
旧校舎に入り、葵を助けたのだ。
その後、建物の外で出くわした生物教師の犬神に事情を話し、葵を助けたのは彼ということにしてもらった。
だから葵は龍麻に助けられたことを知らず、その意味では接点というのも片側にしか存在しないことになる。
自分が話もしない、目も合わせない女性から好意を向けられる色男であるなどと自惚れてはいない龍麻は、
葵が関心を寄せる理由がまるでわからなかった。
学級委員長、あるいは隣の席のよしみということで無理やり納得しようとしても、
一週間も無視され続けてなお興味を持つというのは異常な気がする。
あるいは遠野杏子が旧校舎での一件を喋ったのかもしれない、と勘ぐったりもしてみたが、
それでは礼の一言もないというのもおかしい。
いずれにしても、今のところ実害はなく、単に同級生が同級生を見ているというだけで、
それももしかしたら回数の多い偶然なのかもしれないのだ。
龍麻の方からとやかく言う筋合いでもなく、偶然かどうかを確かめるわけにもいかず、
龍麻としてはやや心の隅にささくれめいたものを感じつつも、
これまで通り学生生活を続けるしかないのだった。
――たとえそれが、偽りに満ちたものであったとしても。
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