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 昼の休み時間も終わりに近づき、五時限目が始まろうかという頃。
龍麻はいつものように窓の外に顔を向け、頬杖をついていた。
こうしておけば誰かが気の迷いで話しかけてくるようなこともない。
龍麻が座っている位置から見える景色は、大して面白みもないものだったが、
あくびもせずに空の一点を眺めていた。
 空は薄く濁った灰色で、といって今にも一雨来そうというほどでもなく、
いかにも中途半端な天候だった。
風もほとんど吹いておらず、雲も停滞していて、
もしクラスメイトが勇気を振り絞って何が面白いのか訊ねたら、
龍麻は返答に窮してしまったかもしれない。
 もちろん、そんな物好きなクラスメイトなど龍麻の属する三年C組には一人としておらず、
龍麻は思う存分つまらない景色を眺めることができた。
 灰色の空の下には、それと同じ色のビルが林立する。
天を衝く勢いで立ち並ぶ鈍色の人工物の中には、その偉容にふさわしいだけの人間がいるに違いない。
マリアが目論んでいる大破壊カタストロフィが実行されたとき、
彼らはやはり、バベルの塔を建設しようとした人々と同様の運命を辿るのだろうか。
神に近づこうとしたわけでもないのに罰せられる定めを、彼らは易々として受けいれるだろうか。
 彼らの運命に思いを馳せるとき、龍麻の眉目に動きはない。
能動的ではないにせよ、数万人規模での殺人に加担することになる。
まだ二十歳にもならないといっても、龍麻がその凶行の重さを知らないわけではなかった。
ただ、龍麻自身の経験と、同胞を虐殺されたマリアの、数百年に渡る怨嗟が、
人類への裁きもむべなるかなと思わせるのだ。
 滅びを拒むというのなら、それでも構わない。
人類には、自分たちに対抗する叡智があるはずだ。
ここからでは見えないビルの最上層に視線を馳せ、偽悪的にそう考えた龍麻は、
数百メートルの彼方に飛ばしていた意識を引き戻した。
束の間マリアと二人、世界に敵対する存在となっていた心を切り替え、
一介の学生として授業の準備を始める。
 空想の、今はまだ戯言でしかない未来から、
現実の、次の授業に対する関心への移動は一瞬で行われたが、その時に、
元の場所にぴったりと戻ることができず、少しだけ通り過ぎてしまった。
 今は頭の真後ろに座っている、美里葵という名の少女を思い浮かべたときだけ、
龍麻の心にはビルを覆う現実世界と同様、灰色の雲が立ちこめる。
 助けたい、とまでは思わない。
マリアに目的を聞かされる前から龍麻は、
誰に対しても余計な感情が芽生えないよう接触を断ってきたのだ。
彼女が利用しようとしまいと、転校してきたこの真神學園で誰かと友人になったり、
部活やその他の組織に参加するつもりはなかった。
むしろマリアの抱く野心は、龍麻が転校初日からほとんど誰とも口を聞かないという異常事態を
正当化する口実となっていた。
もしマリアがただの・・・教師であったなら、不遜とも言える態度をとり続ける龍麻を、
一度くらいは呼びだしただろうから。
 そして、たとえ美里葵がこの学校で最も優秀で、かつ最も人気がある生徒だとしても、
それらの事情が裁かれる者の魂を量る天秤に加味されることはない。
そもそも天秤を持つのは龍麻ではなくマリアであり、
彼女は聖職者というその職業名にたがい、ひとりひとり助けられるべきかどうか計ろうなどとはせず、
天秤そのものを破壊するに違いなかった。
 だが、できるなら助かって欲しい、とは思う。
東京を襲う大破壊を生き延びたところで幸運とはいえないだろう。
マリアの言うことが正しければ、龍脈という地球規模のエネルギーを使って引き起こされる大破壊は
人類がこれまで経験したことのない災害であるはずで、そのあとに待っているのは混沌でしかない。
それはもしかしたら、大破壊で即死するよりも辛い状況になるかもしれないのだ。
それでも、彼女を大破壊そのもので死なせたくない、という気持ちは、
龍麻の裡にぼんやりとではあったが存在していた。
会話を交わしたことはなく、一度助けたことがあるだけ、それもせいぜい数十メートルを
抱きあげて運んだだけの彼女に、どうしてそんな気持ちを抱くのか自分でも分からない。
名前と顔を知っている人間が一人でも生き残ることで、罪の意識を軽くしたいのかと
己に辛辣に問いかけてもみたが、確たる答えは出なかった。
 そこまで考えたところで予鈴が鳴ったので、龍麻は思考を打ちきった。
結局どこまでも仮定の話であり、しかも偽善も甚だしいというのは、いまさら確認するまでもなかった。
そして自分が偽善を改める気などなく、本当に最後の審判の日がもたらされるとしても、
葵にだけそれを告げたりはしないということも、龍麻にとっては既定の未来なのだった。
いずれその日が訪れれば、何もかもが終わるのだから、その後のことを思い煩う必要などないはずだ。
――どんな事態になろうとも、少なくとも龍麻だけはこの世から消えるのだから。

 授業開始を告げるチャイムが鳴り、同級生たちが席に戻り始めた。
まだ騒がしい空気の中、いち早く教科書を机に揃え、龍麻は姿勢を正す。
 不意に頬に何かを感じ、それが何かは判らないまま、目だけを素早く動かすのと、
隣にいる葵の上体がぐらりと揺れたのは、ほとんど同時だった。
「……!」
 危ない、と考えるより早く身体が動き、倒れかかる葵を支える。
間一髪といったところでかなり強い衝撃が伝わってきたが、葵は痛みを感じてすらいないようだった。
 どうにか葵を抱き起こした龍麻は、彼女が気を失っていることを知る。
蒼白な顔に落ちかかる艶やかな髪は異様な美しさを醸していて、
一瞬呼吸が止まる思いで葵を見つめた龍麻は、すぐにそんな場合ではないと気づき、助けを求めて辺りを見回した。
 教室の中にいた生徒達は、クラスメートの異変にも気づく様子もなく、めいめいの時間を過ごしていた。
これは龍麻が葵を、倒れる前に抱きとめたというのも一因にはなるのだが、
こんなにすぐそばで同級生が気を失っているのに、この無関心な態度は龍麻を苛立たせた。
 それでも、遅れること数秒、ようやく一人の少女が龍麻に抱きかかえられる葵を発見し、
クラス中を振り向かせる大声で叫んだ。
「……葵ッ! どうしたの!?」
 ショートカットの小柄な少女、桜井小蒔は叫ぶと同時に葵のところに駆けよってきた。
 彼女は龍麻がフルネームを覚えている、数少ない同級生の一人だ。
といっても積極的にではなく、クラスに何も関心はなくても、
隣の席に座る葵の許に、ほぼ毎回の休み時間ごとに来ていれば、
いやでも名前くらいは覚えるというものだった。
「わからない。急に倒れたんだ」
 簡潔に事態を説明したつもりだったが、言い訳に聞こえたのかもしれない。
龍麻を見つめる小蒔の眼光は、決して好意的なものではなかった。
 そういった視線には慣れている龍麻は、ほとんど小蒔を無視して立ちあがる。
「な、何……?」
「保健室に連れていった方がいいだろ。心配だったら桜井さんも来ればいい」
「あ……う、うん、行くよ」
 小蒔は疑いの眼差しを向けたことを恥じるようにそそくさと教室の扉を開ける。
今や教室中の視線が集まる中を、龍麻は走り出す寸前の早さで出ていった。
 廊下でも、まるで芝居のように葵を抱きかかえて走る龍麻に、ただならぬ数の注目が集まる。
それらの一切を無視して龍麻は、小蒔の先導で保健室を目指し、ほとんど息を止めて走った。
 葵の重さを龍麻が感じたのは、彼女を保健室のベッドに横たえた後だった。
「寝不足みたいね、勉強で根を詰めすぎたのかしら」
 養護教諭の診断に龍麻が拍子抜けしたのは事実だった。
突然倒れたので思わず動転してしまったが、不必要に事を大きくしてしまったかもしれない、
という後悔めいた念を、保健室で小蒔と二人、養護教諭の話を聞きながら抱く。
佐久間がいなかったから良かったものの、いればまた暴力の口実をひとつ与えることになっていたのは確実だったし、
それでなくても同級生の注視がわずらわしかった。
龍麻自身にあれこれ問われることはないとしても、
しばらくの間は周りであらぬ噂を囁かれるのを我慢しなければならないだろう。
どうせなら放課後か、傍に小蒔がいる時に倒れてくれれば良かったものを、と龍麻は偽悪的に考えていた。
「寝不足……?」
 しかし、同行した小蒔の呟きは、なぜかずいぶんと深刻味を帯びていた。
眉間に皺まで寄せる彼女に、何がそう心配なのか訊いてみたくも思いつつ、
面倒にかかわるのは御免だという意識が先立って、
結局龍麻は教諭に一礼しただけで自分は教室に戻ることにした。
葵の傍にいるわけにもいかないし、いずれにしても後は小蒔がなんとかするだろう。
これまで散々無視しておいて、急に心配をするのもわざとらしく、もう自分の出番はないはずだ。
そう考えた龍麻は、教室の扉を開けた瞬間のことを考えると気が重くなったが、
授業をサボタージュするわけにもいかないだろう。
 ところが龍麻が保健室を出ると、慌てて小蒔も出てきた。
追ってきたのは言わずもがなで、何か用があるに違いない。
案の定、龍麻の横に並んだ小蒔は、切り出しにくいようなそぶりを見せつつ、
これまでほとんど会話らしい会話もしたことがない龍麻に話しかけてきた。
「葵……なんだけどさ」
 小蒔はそこで言葉を切る。
続きを話したものかどうか、ずいぶんと迷っているようだった。
それでもここまできて止めるのも、とでも思ったのか、
龍麻が隣の席で聞く声らしくない、ぎこちない口調で喋りはじめた。
「何日か前から、怖い夢を見て寝られないって言ってたんだよね」
「怖い夢……?」
 おうむ返しに訊ねずにはいられない、奇妙な言葉だった。
幼児ならともかく、あと数ヶ月で高校を卒業しようかという女性が寝不足の言い訳に使う語句ではなく、
龍麻は素早く眼球を動かして小蒔を見る。
二十センチ近くも低いところにある小蒔の眼は前を向いていて、確かな表情までは汲めない。
それでも龍麻を担ごうとしているようには見えなかったし、
親友を案じているのは葵に劣らず蒼白な顔からもうかがえた。
「うん、なぜだか砂漠に十字架ではりつけにされてて、助けを呼んでも返事もない。
でも、誰かの気配は感じて、それに包まれるところで夢は終わるんだって」
「……」
「もちろん、最初はボクだってそんなの気の持ちようだから、って言ったんだけど」
 葵は倒れてしまった、と小蒔は自分に非があるかのように力なく呟いた。
「でも毎晩必ず寝ると見ちゃう夢を、怖いから寝ないようにしたって、そんなのいつまでも続けるなんて無理でしょ?」
「……仮に、美里さんの夢に原因があるとしても、俺にはどうしようもできない」
 訴えかける小蒔に、龍麻はあえて冷淡に答えた。
 小蒔は龍麻の持つ『力』のことを知らないはずだが、『力』も万能ではない。
龍麻が行使できるのは、破壊の力のみだ。
それも、山を砕き、海を割る、などといった大層なものではなく、
人間を再起不能な程度に破壊するのみといった、全くろくでもないものだった。
マリアが信じている『黄龍の器』とやらに龍麻が目覚めれば、
あるいはそのようなことも可能になるかもしれないが、どちらにしても、
他人の悪夢を取り除くなどという能力は、龍麻は持っていないのだ。
「それでね、隣のクラスにオカルトそういうのに詳しい裏密ミサって子がいるんだけど、
放課後緋勇クンも一緒に話聞きに行ってくれないかな」
 けれども、小蒔が龍麻を当てにしたのは全く別の方面のことで、
それゆえ、龍麻も断るタイミングを逸してしまった。
「ね、お願い。図々しいのは承知だけど、葵の顔、見たでしょ? あれじゃそのうち……!」
「……わかったよ、一緒に行く」
 病院で精密検査を受けさせた方がよほど近道ではないか、と龍麻は言わなかった。
葵に関しては龍麻よりも小蒔の方が親しいのは間違いなく、
その彼女が、龍麻の協力がないと世界が滅びるかのような形相で頼みこんできては、反対できなかったのだ。
オカルト好きのミサとやらが葵の体調不良を治癒できるとは到底思えないが、
その時には葵を病院で診てもらうよう説得すればいい。
どうせ放課後まではあと数時間あり、それまでに葵が快復するかもしれないのだ。
 小蒔に頷いた龍麻は、教室へと戻った。
再びの葵との関わりは、偶然に過ぎないと強く言い聞かせながら。



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