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放課後のホームルームが終わると、小蒔はすぐに教室を飛びだしていった。
龍麻の方には一瞥もくれないのは、信用しているからか、
それとも教室で目を合わせるなどまっぴらなのかは龍麻には判らなかった。
ざわめき始める教室を、龍麻も早足で出ていく。
扉をくぐるときにマリアの視線を感じたが、そのまま出ていった。
帰宅したら間違いなく訊かれるだろう――せめて説明することになる、
これから引き起こされる事態が、大した結末とならないように龍麻は祈った。
龍麻が廊下に出ると、すでに小蒔の姿は見えなかった。
先に葵の容態を確かめに行ったのは間違いなかったから、龍麻も後を追った。
急いだところで、状況が激変するはずもなく、それに、葵が快復しているにせよしていないにせよ、
小蒔の喜びか悲しみに直面することになる。
そういったものが苦手である龍麻は走らず、一拍置くように保健室に向かった。
保健室に入ると、ちょうど葵が眠っているところから出てきた小蒔と目があった。
彼女の表情から、事態が望ましいものではないと一目で分かった。
「どうしよう……葵、呼んでも起きないんだ」
倒れてから二時間は優に過ぎているから、寝不足や体調不良なら、なんらかの反応はあっても良いはずだ。
しかし葵は友人の呼びかけにも応える気配はなく、呼吸しているかも怪しいくらい静かに眠っているという。
葵に配慮してベッドには近づかなかったが、いよいよ事態は深刻な状況に陥りつつあるようだ。
龍麻は小蒔と共に裏密ミサに会うため、再び三年の教室へと戻った。
三階の、龍麻たちのC組とは反対の端に位置する小さな教室。
そこが裏密ミサの居る場所らしかった。
外から見た部屋の大きさは一般の教室の三分の一程度で、準備室か何かのようだ。
表に何の教室かを示す看板はなく、唯一部屋の中が見通せるドアの窓には暗幕がかけられていて全く見えない、
小蒔が一緒でなければ入るのをためらうような部屋だった。
「ミサちゃん、いる?」
小蒔が軽くドアを叩き、呼びかける。
「どうぞ〜」
返ってきたのは低く、間延びした女性の声だった。
オカルトというものに対して先入観を持ってはいない龍麻は、
この声にも特に感想を抱きはしなかったが、高校生らしくはないと思った。
緊迫感がない、というのがまず理由として浮かび、次に、
感情があまり感じられない、という、初対面となる人間に対しては失礼な判断が、
より大きな泡ぶくとなって先の理由を押しのけた。
単に聞いただけでは、そこまで感じとれはしないだろう。
龍麻がミサの声に無機質さを感じたのは、龍麻も同じものを裡に有していたからに他ならなかった。
龍麻の場合は他人への無関心を喋らないことで表に出してしまうが、
彼女は上手に包み隠す方法を会得しているのだろう。
尊敬、とまではいかずとも、感心はした龍麻は、部屋の主に興味を抱きつつ小蒔に続いて中に入った。
部屋の中は思わず立ちすくんでしまうほど異質な空間だった。
狭い部屋の両側を、端から端まで埋める本棚には、九割方本が詰まっている。
それも題名が読み取れるのは三割ほどで、あとは英語やら、さらには一見しただけでは何語かすら
わからない言語で書かれていて、何の本なのか見当もつかなかった。
かろうじて学校内なのがわかる木製のタイル張りの床の奥には、
ワインレッドの天鵞絨がかけられた机がある。
雰囲気のあるその上には、さらに雰囲気を醸しだす水晶玉が乗っていて、その向こうには一人の少女がいた。
彼女が裏密ミサであるのは間違いなかった。
裏密ミサは外側に跳ねる髪と、目が見えないほど分厚い眼鏡以外はこれといった特徴のない少女だった。
小柄な小蒔よりもさらに小さく、女性的な発育にも乏しいので中学生にも見える。
二人が入っていくと、ミサが顔を上げた。
丸い眼鏡の向こう側にある眼は、どうした光の加減によるものか、龍麻の位置からは見えなかった。
それが龍麻に、彼女に対しての不気味な印象を与える。
もっとも、小蒔は物怖じせずに話しかけたので、龍麻の眼の錯覚ということになるのだろう。
「えっとねミサちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
小蒔はよほど焦っているのか、龍麻を紹介せずに本題に入った。
龍麻も自己紹介など些事だと思っているので、口を挟まないことにする。
ミサは聞いている間、不機嫌とも見える、口をへの字に曲げていたが、
葵が悪夢を見て、それが原因で消耗しているという話を聞いても笑ったりはしなかった。
小蒔の話を聞き終えたミサは、すぐに言った。
「なんでもいいんだけど〜、葵ちゃんの持ち物はない〜? ペンでもノートでもいいの〜」
「あ、うん、わかった、取ってくるね」
何に使うのか訊きもせず、小蒔は部屋を飛びだしていった。
廊下の端から端まで往復することになるのも気にしないようで、
それだけ彼女が葵を心配しているということなのだろう。
部屋には龍麻とミサが残された。
自己紹介もしていないのだから相当の気まずさがあるはずだったが、
龍麻は自分から話しかけるつもりはなかったので、部屋に嫌な沈黙が流れても平然としている。
ところが、意外にも沈黙を嫌ったのは部屋の主の方だった。
「緋勇く〜んは、こういうこと(を信じる〜?」
「……悪いけど、今のところは」
なぜミサが名前を知っているのだろう、と訝かりつつ龍麻は答える。
まさかオカルト的な何かによって知ったわけでもないだろう、と常識的な判断をしつつも、
幾らかの薄気味悪さは拭えなかった。
「うふふ〜、そうよね〜。でも〜、夢というのは精神が最も無防備になる時間〜。
そこを狙われればどんなに肉体を鍛えた人でも勝ち目はないの〜」
「それは、夢に干渉する方法があればの話だろう?」
話ながら龍麻は、次第にミサのペースに呑まれていると気づいた。
あまりにも当然のように話し、またどこで話が終わるか判りづらい喋り方のため、
つい口を挟んで根本的な疑問を呈するタイミングを逸してしまうのだ。
「そう〜。でも〜、足の速さや絵の上手さが才能であるように〜、
まれに強い精神力を持った人が生まれることがあるの〜」
「……そういう人間が実在するなら、もう少し騒ぎになってもいいはずじゃないか」
正面から受け答えしていては勝ち目がないと考えた龍麻は、
少し変化をつけた質問を、語調を強めてぶつけてみたが、
ミサの態度は肌に小さな羽虫が止まったよりも変わらなかった。
「ほとんどの人は〜、自分にそういう才能があると気づかないで生きているから〜。
でも〜、中には気づく人もいて〜」
「今回みたいに悪用する奴が出てくるっていう訳か。
それで、たとえば今回の場合、そいつは美里さんをどうするつもりなんだ」
「……精神を奪うということは〜、その人を支配するのと同じ〜。
精神を失った肉体はやがて死んでしまうけれど〜、精神は少なくても奪った相手が死ぬまでは囚われたまま〜」
ミサの言葉に秘められた事実を理解した龍麻は、そのおぞましさに吐き気を催したほどだった。
古来、身体の自由を奪われた奴隷ですら精神の自由はあったとされる。
だがミサの話によると、精神の自由を奪われた葵は、なすすべなく嬲られるばかりでなく、
死した後も魂の平安は得られず、陵辱を受け続けなければならないというのだ。
「そんな……ッ、そんなの絶対許せないよッ!」
己の立場も忘れて猛りかけた龍麻を我に返らせたのは、背後からの小蒔の大声だった。
小蒔は全速力でC組まで走ったのだろう、大きく息をしている。
しかし、呼吸を整えようともせず、手に持ったペンケースをミサに差しだした。
ペンケースを受け取ったミサは、水晶玉の手前に置いてある小さな、
硯にも似た箱に入れると、おもむろに両手をかざした。
それは一般的な占い師のイメージそのもので、どうもうさんくさい、と龍麻は思わずにいられない。
だが、それが誤りであるのはすぐに判明した。
ミサが手をかざす水晶玉に、何かの映像が浮かびあがってきたのだ。
「砂漠……?」
小蒔の言うとおり、水晶玉には大きく二色に塗り分けられた光景が浮かんでいた。
濃い青空と、砂漠。
均等に真ん中で分かたれた二つの色は、小学生でももう少し色遣いを考えそうなくらいべったりとしていた。
龍麻と小蒔は顔を見合わせる。
二人とも水晶玉にかなり近づいていたので、目があった瞬間軽くのけぞってしまった。
だが、龍麻はともかく小蒔はそんなことを気にしている場合ではないようで、
見えたものの感想、あるいは分析を龍麻に見出そうという、
やや端がつり上がった生気に満ちた目は、射抜くように龍麻を見据えていた。
ふざけたことを言ったら容赦しない、とばかりの小蒔の態度にも、龍麻に怖れる色はない。
ただ、この映像だけでは何を語りようもなかった。
困惑し、それでも何かを言わなければ、と口を開きかけた龍麻の視界の端に、新たな何かが映った。
それはさらなる驚愕を促すもので、龍麻は再び水晶玉に向き直る。
少し遅れて水晶玉の変化に気づいた小蒔が、龍麻の肩を掴んで叫んだ。
「あれ、葵……!」
小蒔に指摘されるまでもなく、龍麻も水晶玉の奥に葵の姿を捉えていた。
荒涼たる砂漠に突如として現れた十字架。
その十字架に、葵は磔にされていた。
意識はないようで頭は下を向いていて、全身には鎖が蔦のように絡みついている。
小蒔がたまらずうめき声を漏らし、龍麻も顔をしかめずにはいられなかったように、
現実にしては現実味がなく、空想にしては生々しすぎる光景だった。
「これが〜、葵ちゃんの見ている、というか見せられている夢〜」
二人の頭上から、ミサの声がする。
緊迫感のまるでない間延びした声にも、二人は何も答えなかった。
とうてい信じられないが、ミサはどうやら本当に葵が見ている悪夢を水晶玉に投影したようだ。
大がかりなトリックなら感心してしまうほどだし、もしもミサがからかっているとしたら、
小蒔はきっと彼女を許さないだろう。
だから龍麻はミサを信じ、葵が倒れた原因が、彼女が見た悪夢にあるのだと信じた。
「美里さんは、どうしてこんな夢を?」
下から見上げる姿勢のまま、龍麻は問う。
分厚い眼鏡の向こうの表情は杳(として知れず、
への字の形に結ばれた唇もすぐには開こうとしなかった。
「さっきも言ったけど〜、夢は〜、精神が無防備になる時間〜。夢に干渉すれば現実にも影響を及ぼすから〜、
葵ちゃんを束縛しようとしている誰かが居るっていうことだと思うわ〜」
「束縛……って」
「夢はイメージが具体的な象徴となって表れる場所だから〜、
十字架と鎖は逃れられない束縛と支配を意味しているんだと思う〜」
「砂漠は?」
「何もない砂漠は〜、渇いた心〜。砂丘がなくて平坦なのも〜、この見せている誰かの心を象徴しているはず〜」
二人の交互の問いにも、ミサはよどみなく答える。
かえって二人の理解の方が遅れてしまうほどで、小蒔が声を絞りだしたのは、
ミサの語尾が狭い室内から完全に消え去ってからだった。
「……つまり、感情の起伏に乏しいとか内向的とかいった感じ?」
「そうだと思う〜」
敵の性格が判ったところで何の意味もない。
舌打ちしかけた龍麻は、あまりにも基本的なことを問うのを忘れていたことに気づいた。
「それで、この悪夢を見させている奴を突きとめることはできるのか?」
「できるけど〜、それには葵ちゃん本人に力を借りる必要があるわ〜」
身体の一部分を借りるだけなので、本人が起きている必要はないという。
どこまでも怪しいミサの言葉だったが、今となっては他に方策もない。
龍麻が小蒔を見ると、小蒔は頷いて賛意を示した。
「それじゃ行こう、保健室に」
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