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葵が倒れた翌日。
龍麻は、内心の不安をいつもの無表情に隠して登校した。
超常的な干渉によって精神からの陵辱を受けつつあった葵を救うため、
彼女の友人である桜井小蒔と、超常的な事象に詳しい裏密ミサの助けを借りて、
遠く離れた墨田区に向かった龍麻は、そこで一人の学生を発見し、これを排除した。
だが、その後学校に戻って葵の目覚めを確かめたわけではなく、
葵が快復しているかどうか、万全の自信を持ってはいなかったのだ。
あれ以上は、どうしようもない。
できることは全てやったのだから、これで葵が快復していなかったとしても、責任を感じる必要はない。
どのみち数ヶ月後には彼女もろともこの学校、ひいては東京という街そのものが壊滅し、死に至るのだ。
だから数ヶ月程度彼女の寿命が早まっただけのことで、気に病む必要などないのだ。
けれども。
一歩ごとに思考は目まぐるしく入れ替わる。
どれが正解なのか、果たして正解があるのかどうか、
それすらも判然としないまま、龍麻は教室へと向かう。
まだ人の気配そのものが少ない学校は、無機質な灰色を保ったままだ。
その中を、建物に影響を受けたかのような無機質さで歩く。
身長はこの学校の男子生徒の中でも高い方で、顔立ちも悪くはない。
一年からこの学校に居て何か部活でもやっていれば、女子生徒にはかなりの人気を博したことだろう。
当人の望むところではないとしても、それくらいの素質は有しているのが、
緋勇龍麻という名を持つ、三年生という風変わりな時期に転校してきた少年だった。
けれども現実には、龍麻は人気どころか、教室では孤立し、學園内では噂され、
唯一龍麻に接近してくるのは不良だけという有様だった。
もっとも、それは龍麻自身が蒔き、養分を与えて咲かせた花でもある。
転校初日から龍麻は極力誰とも話そうとしなかったし、それは数ヶ月を経た現在でも続けられていて、
今ではすっかり学校中に広まった、薄気味の悪いという肩書きを、外そうという努力さえしなかったからだ。
それに、佐久間猪三を筆頭とする不良のグループも、暴力をふるっても騒ぎになる心配のない
格好の玩具を手に入れたことで、他の生徒への干渉が減り、
要は体のいい人身御供として龍麻を捧げようという、学校全体での暗黙の了解のようなものが完成していた。
こうして不良達ともまた異なる、薄暗い雰囲気をまとう一人の男子生徒に近寄る者は今では
ほとんどいなくなり、授業で当てられなければ、一言も喋らずに帰ることもあるのが、
現在の龍麻の境遇だった。
教室に到着した龍麻は、特に何かの予感を覚えるでもなく中に入る。
マリアと一緒に登校すると怪しまれるという理由だけで朝早く学校に来る龍麻は、
それでも教室で一人過ごす十何分かがそれなりに好きだった。
誰が居ても会話をするわけではないのだから、一人だろうと全員揃っていようと同じなのだが、
やはりこの、使い果たしたエネルギーが溜まるのを待っている教室の、独特の静けさはなかなか趣があった。
だが、その好ましい時間を味わおうとした龍麻は、今日はそれができないことを知った。
いつもなら誰も居ないはずの教室に、人影があった。
斜め後ろから姿を見ることになった龍麻は、それが誰かすぐに判った。
授業時以外の時間を、外を観察することに費やしている龍麻は、
二ヶ月以上もこの教室で日々の大半を過ごしていながら、同級生の顔と名前がほとんど一致しない。
にもかかわらずその女生徒が判ったのは、龍麻の隣の座席に腰かけていたからだった。
少女の名前は美里葵。
この学校の生徒会長にしてこの学級のクラス委員長で、龍麻が昨日、
彼女を襲う害悪から護った少女だった。
葵が快復したことに安堵しつつ、自分の席に着くまでにはそれを心中に圧縮した龍麻は、
座った直後に窓の方を向き、そこから捨ててしまう。
座ったときに葵がこちらを見たような気がしたが、葵から挨拶はなく、確かめる術はなかった。
どうやら小蒔は約束を守ったようで、龍麻はもう一度、こみあげてきた安堵を捨てた。
昨日、葵に付き添っていた桜井小蒔には、どのような結果になっても、
葵本人を含めて口外しないよう強く言い含めてある。
夢の中から襲われていた、などと聞かされて納得するわけがないし、
そんな気持ちの悪いことは知らない方がいいだろう。
そう言われて小蒔は納得したが、
「緋勇クンって、意外と優しいんだね」
好意的に笑う彼女に、どう答えて良いかだけは判らなかった。
とにかく、昨夜、マリアにも問われることはなく、これで葵を夢から拐かそうとしたこの不思議な事件は、
龍麻の他に小蒔とミサだけが真相を知るだけとなった。
ミサの方には改めて口止めをしなくてはならないが、
昨日少し話しただけでも彼女が変わり者であると確信でき、
そんな彼女があれこれ言いふらしても、おそらく真面目に聞きいれる人間はいないだろう。
ただ、一人でミサを訪れるのは、それほど怖いものなどない龍麻でも気が引け、
できれば桜井小蒔辺りに同行して欲しいところだ。
そのためには彼女を誘わねばならず、現在、クラスの誰にも自分から話しかけたことがない
龍麻にとってはやや難題といえた。
それでも、そんな心配はつまるところ些事に過ぎない。
朝早くから登校しているところをみると、あの、文字通りの悪夢の影響はないのだろう。
それで充分というべきだった。
授業が始まるまでの時間、龍麻は同じ姿勢で、
昨日よりもほんの少し、毎日眺めていなければわからないくらい微妙に明るい空を眺める。
ひねり続けた首が、授業が始まる頃には小さな悲鳴を放っていた。
一日の授業が終わり、学生たちは解放の喜びに一気に騒ぎだす。
部活、バイト、買い物、交友。
いずれにしても昼間に蓄えたエネルギーを全て放出せんとばかりに活気づく教室を尻目に、
龍麻は帰り支度をまとめ、教室を出た。
後ろの扉から出ていく龍麻を、ちらりと見た生徒もいたが、
それは動く物体に反射的に目をやったという以上のものではなく、
むしろ無駄にしてしまった数秒を取り返そうと声を大きくする態度からも、それは明らかだった。
そうした視線、あるいは気配の全てを無視し、龍麻は廊下を歩く。
廊下にも教室から漏れ出てきた、猥雑ともいえるくらいの活力が充満し始めていて、
三年C組の住人ほど龍麻に慣れていない彼らは珍しい存在に時折触れ、
彼らの興味の目的地にある、邪悪ではないがいかなる光も通さないような暗い、
見た目だけは彼らと同じものに畏怖し、慌てて退いていった。
胸のあたりに溜まるわずらわしさを、龍麻は慎重に表には出さない。
もう転校して数ヶ月が過ぎたのだから、いい加減この手の反応も減っても良さそうなのに、
まだ動物園の珍獣を見るような視線は絶えない。
教室内で孤独を保つのは苦ではないが、この好奇心に満ちた眼差しだけはうんざりしてしまう。
用事がなければすぐに学校を出るのも、ひとつにはこのためで、
この日も廊下を進む足取りは、早足にならない限界の速さだった。
あと数歩で、ひとまずは息をつけそうな場所に辿りつけそうだというとき。
「緋勇」
龍麻を呼び止めたのは、低い、高校生達の騒ぐ声が満ちる校舎内では誰にも聞こえないような、
そのくせ対象には絶対に届く声だった。
思わず立ち止まってしまった龍麻は、聞こえないふりもできず、声の方を振り向く。
そこには果たして、清潔とはお世辞にも言えない白衣を着た、生物教師がいた。
龍麻は彼の名前を知っていて、犬神壮人という。
「話がある」
龍麻は教師の関心を買うような優秀な成績でもなく、居残りを命じられるような劣等生でもない。
特に問題を起こした覚えもなく、彼に呼び止められる理由はないはずだ。
――いや、あった。
犬神とは転校して間もない日、旧校舎で迷った美里葵を助け出した時に顔を合わせ、
葵を助けたのは彼だということにしてもらっている。
やる気のない昼行灯だという評判の生物教師に、龍麻はなぜか威圧感を抱きながらも、
犬神は了解し、龍麻のことは一切話さずにおいてくれた。
以後犬神は何も言ってこず、その件は終わっていたと思っていたのだが、何か問題が生じたのだろうか。
龍麻は慎重に表情をくらませ、彼が何を言いだすのか待った。
「こっちで話そう」
だが、犬神は廊下で話を済ませる気はないようで、踵を返して歩きはじめる。
一瞬、逃げようかと思った龍麻だったが、
「どうした、早く来い」
背中越しに心まで読んだかのようなタイミングで急かされ、
彼の後を追うほかなくなってしまった。
しかたなく、せっかく急いで通り抜けてきた廊下を、再び戻っていく。
うだつの上がらない生物教師と、寡黙で無愛想なのがそろそろ学年に知れ渡りつつある生徒との組み合わせは、
それを目撃した生徒に想像の余地をたっぷりと与えることとなった。
犬神が龍麻に入るよう促したのは、生物室だった。
鍵を開け、さっさと中に入る犬神に対し、龍麻は数秒遅らせ、
その間に彼が何を話すのか、何を話されても良いように心を構える。
鬼が出るか、蛇が出るか。
同年代の人間はあまり使わないようなことわざを喉に飲み、室内へと入った。
生物室を陰気だと思ったのは、部屋の主に対する先入観のせいなのかどうか、龍麻には判らなかった。
カーテンは開いているというのになぜか薄暗い教室は、よれよれの白衣を着ている男のせいで一層暗く感じる。
もちろん教材なのだが、ホルマリン漬けになっている蛇や、小動物の骨格標本は、
なぜか生身の、つまり飼育されている動物がいないので、あたかも主の怪奇趣味が高じた館めいた趣だった。
犬神は龍麻に椅子を勧めもせず、自分も立ったまま、しばらくは無言だった。
胸ポケットから取りだした煙草を咥え、ライターを手にするが、ここではまずいと思ったのか、火は点けない。
かといって話を始めるでもなく、まるで噛み煙草のようにフィルターを噛んだまま、龍麻を見据えていた。
いくら教師と生徒の関係といえども、そろそろ忍耐が限界に達しかけた龍麻が、
用がないなら帰ってもいいですかと言おうとした時、そのタイミングを待っていたかのように犬神が、
煙草を、机に乱暴に押しつけて口を開いた。
「お前、マリアについて何を知っている」
「……おっしゃる意味が解りません」
龍麻の返事は真実六割、韜晦四割といった配合だった。
教室に入る前に犬神が何を言うか想像したが、短い時間で検討の余地はほとんどなかったし、
仮にもっと時間があったとしても、犬神が実際に口にしたことを想定できた可能性は皆無だっただろう。
それほど犬神の発した、文章としては短いそれは、龍麻の意表を突くものだった。
そのせいで龍麻は、蓄えていた冷静さの何割かを失ってしまう。
もし教室に入る前の冷静さを保てていたなら、犬神がマリアを呼び捨てにしたことに気づいたはずだし、
一介の教師が一介の生徒に投げるには、あまりに強引な問いであると察知し、
そこからこの尋問――犬神の声には、その気配が濃厚だった――を回避する策も取れただろう。
だが、生物教師は返事に含まれていた成分など全く考慮せず、龍麻が体勢を立て直そうとするより早く、
再び煙草を咥え、以前龍麻が宵闇で見た、獣じみた眼光を一瞬だけ閃かせる。
眼光だけで相手の行動を封じこめることができる、希有な輝きは、
生物教師などが持っていても何の役にも立たない烈しさだった。
「下手な芝居はいい。彼女は闇に住まう一族、その中でも最も強大な力を持つ吸血鬼(の一員だ。
……一員、というには語弊があるがな」
驚愕を押し殺すのに、ついに龍麻は失敗した。
この教師、マリアの同僚は、彼女が人間ではないことを知っているのだ。
そしてその事実を笑いも怖れもせず、蛹が羽化すれば蝶になるが如くに受けいれていた。
彼は一体何者なのか。
龍麻の背筋を冷たい汗が伝う。
この生物教師はマリアの秘密のみならず、彼女と龍麻の関係をも勘づいているのだ。
軽い考えでついてきてしまったことを後悔したが、手遅れだった。
表情を強ばらせる龍麻を、特に面白そうな顔もせず眺め、犬神は続ける。
「彼女が何をしようとしているか、知っているのか」
「……大体は」
観念し、龍麻は、自分がマリアと結託していることを認めた。
「彼女はお前に並々ならぬ関心を寄せている。彼女がしようとしていることに、お前は関係するのか」
「多分」
犬神がどこまで自分たちのことを知っているか解らないので、龍麻は慎重に答えた。
この時龍麻の脳裏に、マリアが人類に混沌をもたらす、いわば悪の存在であり、
自分が利用されるだけの道具であるという考えはない。
マリアの行おうとしていることが正しいとは思わない。
復讐までは否定しなくても、人類全てをその対象とするのには異論があるし、
マリアが直接手を下さないとしても、何万人という単位で殺戮を行うことには、どんな正当性もありはしないからだ。
それでも、龍麻はこういう形で彼女を裏切りたくはなかった。
もしもこの世界に絶対的な善という存在がいたとして、それがマリアの行動は否であると断罪し、
だから協力しろと命じたとしても、少なくとも龍麻は自分から袂を分かつつもりはなかった。
短い返答に龍麻の意思を感じとったのか、犬神は眉をひそめる。
だが、火の点いていない煙草を、今度は完全に机で押し潰した犬神は、
それ以上詳しく聞き出そうとはせず、いきなり結論に踏みこんできた。
「彼女を、止めてくれないか」
「……それは、無理です」
この部屋に入ってから、初めて龍麻は反撃に転じた。
「マリア先生を止めたいのなら、先生がご自分でなされば」
それは虚勢以上のものではなく、象に対する蟻の一刺しでしかないのを、龍麻は良く解っていた。
しかも、この一刺しには毒もなく、どれほど刺したとしても、奇跡の逆転が生じることはないだろう。
犬神は風貌も冴えず、自らが選んだ職業に誇りを抱いているようにも見えず、
男子高校生が憧れるような存在ではない。
彼のような大人にはなりたくないという、文字通りの反面教師としての価値のみ評価されるような男だ。
しかし、龍麻は今、彼に勝てないと感じていた。
上っ面や人間社会でのみ通用する職業意識ではない、もっと本質的な部分で、
明らかに犬神は龍麻を上回っていた。
生物的な威厳――何があろうとも揺るがない、己の中に確として存在する芯。
それも十年や二十年ではない、もっと大きな歳月を経て完成した、
マリアにも同じものを感じるそれを、犬神は持っていた。
反論したものの、龍麻は、自分が口答えを覚えたばかりの幼児になったような錯覚がしていた。
犬神はそれこそ絶対的な善などではないというのに、彼の短い言葉は、
ほとんど瞬間的にではあるとしても、この男を拳で打ち倒そうかという衝動が芽生えたくらい、
一語一語が銛のように刺さった。
そして、その衝動を制止したのは、龍麻に備わる理性ではなく、異能の力をもってしても、
犬神には勝てないのではないかという恐怖だった。
「……フン、小賢しい口を聞く」
生徒に口答えされた犬神は、噛みつく相手を見定める猛犬のような目をしたが、気分を害した風でもなかった。
潰してしまった煙草の代わりに新しい一本を取りだし、咥えた味の不味さに舌打ちしたほかには、
龍麻を威圧するほどの眼光に剣呑な光が宿ることはなかった。
何秒か、あるいは何十秒か、龍麻にはずいぶんと長く感じられる沈黙の後、犬神は続ける。
「彼女は真神に来た頃とは明らかに変わっている」
犬神の声が龍麻には、なぜか遠吠えのように聞こえた。
「お前が、来てからだ」
遠くからか、遠くへか、どちらなのかは立ちすくむ龍麻にはわからないが、
遠吠えは、遥か離れた果(の距離を経ていた。
そしてあらゆる感覚を突破し、龍麻の、最も裡にある部分に直接轟いた。
「いいか緋勇、覚えておけ。悲しみを完全に消すことはできない。だが、憎しみは消せる」
そう話を終えた犬神が出ていったことにすら、龍麻は気づかなかった。
意識と無意識の狭間で、生物室を出た龍麻は歩いている。
誰かにぶつかったりはせず、まっすぐ歩いてもいるが、
頭の中は先ほどの犬神との会話が、鈍い響きを伴ってずっと繰りかえされていた。
悲しみを完全に消すことはできない。だが、憎しみは消せる――
陳腐な言葉だ。
同胞を――友人や仲間といったレベルではない、種族そのものを根絶やしにされて点(された憎しみは、
人類には誰一人として想像できるものではなく、まして数百年という、
これも人類には経験できない期間を経て熟成された憎悪という感情を、一体誰が消せるというのか。
仮にできるとしたら、それは本人が精神を昇華させることによってのみなしえるものだろう。
たかだか十数年しか生きていない異種族が、いくら口添えしたところで止められるわけがない。
中途半端な消火活動は、かえって火を大きくするだけだ。
どうしても止めたいというのなら、自分でやればいい。
犬神に言った言葉を翻すつもりはなかった。
だが、それでも、マリアを止めるという考えは、龍麻の心を強く惹いた。
その機会はおそらくない――龍麻は、嫌々ではなく、自分からマリアに協力しているのだから――だろうが、
もしも、もしもマリアの方から心変わりをしたなら。
万に一つも可能性はないだろうが、ゼロではないその可能性が現出したときになら、
マリアの焔を消す手助けをしても良いかもしれない。
その夢想は、深い沼の底に偶然光が射すがごとく龍麻の思考を掠めたにすぎない。
沼の底からもう一度光を求めても、手に入りはしないだろう。
それでも龍麻は、射した光の強さを忘れまい、と己に誓ったのだった。
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