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 外は薄暗くなりかけていた。
思わぬ長居をしてしまった、と龍麻は早足で学校を出る。
今日は買い物をしていく日なので、夕食を何にするか考えながら校門から数歩出た時、
横あいから強烈な悪意がほとばしった。
思わず鼻をつまみたくなるような、臭いを伴った悪意。
その悪意の発生源を知っている龍麻は、無視して通り過ぎようとしたが、前に立ちはだかられてしまった。
「おい、待てよ」
 臭いにふさわしい、汚らしい声。
龍麻を呼び止めた男は、佐久間の腰ぎんちゃくの一人だった。
自分では格好良いと思っているのだろう、ポケットに手を入れ、肩をいからせている。
しかし体型の貧弱さはどうしようもなく、どれほど威張ったところで佐久間の十分の一ほども威圧感はなかった。
佐久間でさえ怖れていない龍麻だから、こんな手下などまるで眼中にない。
歩みを止められた龍麻は、うんざりして相手を見やった。
「よォ、転校生」
 龍麻が真神ここに来てから、もう数ヶ月が過ぎている。
それなのに未だにそんな呼び方をするのは、
名前を覚える気がないか、わざと呼んでいるのか、どちらにしても悪意以外の何者でもないだろう。
自分を嫌っている相手に親しくする習慣など龍麻にはなく、それ相応の態度で、
それでも一応返事だけはしてやった。
「何か用か」
「随分強気じゃねぇか。いいからちょっと来いよ」
 歯並びが悪いのか、軋むような発音が龍麻の癇に障る。
一度苛立ちだすと、犬神との会話でくすぶっていた他の負の感情にも火が移り、
大きなひとつの炎と化すのに時間はかからなかった。
「……てめェ、舐めてんのかァ!?」
 黙っているのを生意気だと受け取ったのか、男は龍麻の胸ぐらを掴み、強引に引っ張っていく。
 この時、すでに龍麻はひとつの決心を固めていた。
そのためには誰にも見られないまま、誰にも見られないところに行きたい。
 奇しくもと言うべきか、当然と言うべきか、それは不良の願望と一致する。
いつしか龍麻が歩調を合わせているのに、不良は気づくべきだった。
そうすれば、今日は諦めるなり、佐久間を呼ぶなり、最悪の事態だけは回避できただろうから。
しかし男は気づかないまま、自分たちの溜まり場としている場所へ龍麻を導いた。
そこに連れて行けば絶対的に勝てるという、何の根拠もない自信を胸に満たしたまま。
 真神學園の裏手は、うっそうと茂る木のせいで、都庁のすぐそばとは思えないほど薄暗い。
そのため人通りも少なく、佐久間のような不良の、格好の溜まり場になっていた。
 勝手知ったる自分の庭に龍麻を連れてきた男は、ナイフを取り出し、わざとらしく弄びながら口を歪めた。
脅しているつもりらしいが、龍麻にはなんの効果もない。
眉ひとつ動かさない龍麻に、男は鋭く舌打ちすると、彼の目的を告げた。
「財布出せよ」
「どうして」
 龍麻の反問に、男はたちまち激昂し、声を張りあげて威嚇した。
「どうして、だァ? さんざんやられたのにまだわかってねぇみてぇじゃねぇか。
こりゃもういっぺん教えてやらなきゃいけねぇなァ」
 男は刃先をちらつかせながら恫喝する。
刃先が左右に揺れる時点で、失笑してしまう龍麻だった。
刺すのなら、すばやく、渾身の力でやらないと。
そう助言してやりたくさえなったが、そこまでの義理はもちろんなかった。
 まだ恫喝しているつもりなのか、喉から縦に、ナイフで線を描いてみせる男に、龍麻は唐突に動いた。
「がッ……!」
 右手で男の喉を抑え、声を封じる。
無駄の多すぎる男の動きと較べると、雷光が瞬いたかのような疾さだった。
「お前、運が悪かったな」
 呼吸を止められた男の手からナイフが滑り落ちる。
凶器には目もくれようとせず、その手首を掴んだ龍麻は、ゆっくりと腕ごと反りかえらせていった。
直線から逆方向へ、人間の骨格ではありえない角度へと腕が曲がっていく。
一切の遅滞もなく、そして傍目からは何も力を加えているようには見えないまま、
ただ男の肘から先だけが、さながら時計の針のように動いていた。
「……!!」
 鈍い音に、声にならない絶叫が続く。
たっぷり数十秒ほども喉を塞ぎ、ぶざまな悲鳴が完全に消え去ってから龍麻は男を解放してやった。
息を止められ、腕を折られた男は無様にのたうちまわっていた。
涙どころか鼻水まで垂らしている。
その醜態に軽く目を細めた龍麻は、男の胸ぐらを掴み、強引に自分の方を向かせた。
「止めてやろうか?」
 涙を流しながら男は必死に頷く。
つい先日集団で暴行を加え、たった今も凶器をちらつかせて金を脅し取ろうとしたことなど
忘却し、暴力を具現化したような目の前の龍麻に許しを請うた。
這いつくばって靴を舐めろと言われれば、即座に実行したに違いない。
プライドの欠片も持ち合わせない小者だが、ある意味では処世術に長けているといえるのかもしれない。
いずれにしても龍麻は、手を出してきた相手には相応の報いをくれてやる主義で、
ましてこの時は精神がやや昂ぶっていた。
それは男の悲劇であったが、もし龍麻が冷静だったとしても、百が九十九になる程度でしかなかっただろう。
敵を打ち倒すためにつがえられた矢は、放たれなければならないのだ。
「駄目だ」
 思いきり残酷に、龍麻は言いはなった。
「お前みたいなクズは中途半端にやっても逆恨みするだけだからな。
俺に手を出すとどうなるか、骨の髄まで染みこませておかないと」
 凄惨な笑みを浮かべた龍麻は、身に秘める力を解放する。
 男の放った絶叫は、遂に誰にも知られることがなかった。

 帰宅した龍麻はいささかの動揺も興奮もなく、マリアが帰ってくるまで家事をこなし、彼女と共に夕食を採った。
パスタとスープの簡単な食事はそれほどの時間もかからず終わり、
そこで初めて、龍麻は今日の出来事を報告した。
 そこでも両腕を骨折させられ、しばらくは身動きもままならないであろう男に対する
悔悟や反省は微塵もなく、きわめて事務的に話しただけだ。
「そう、わかったわ」
 それに対するマリアの返事も、加害者と被害者を教え子に持つ教師のものではなかった。
「彼はもともと出席率も高くないし、もちろん素行も悪かったから、
喧嘩で入院ということになっても、誰も気にもかけないでしょうね」
 マリアは龍麻から、転校翌日に佐久間たちに目をつけられたことを聞かされた時、
好きなように処理して良いと言った。
彼らは人間全てを憎悪するマリアから見ても、さらに救いようのない人種であり、
いずれ数十万という単位で死にゆく人類の、先触れとして殺しても構わないと思っていた。
 困るのは、マリアが大破壊カタストロフィを引き起こすには『刻』を待つ必要があり、
その時が訪れるまでは、なるべく騒ぎを起こしたくなかったのだ。
万が一にもマリアや龍麻の存在が世間に知れたら、
『黄龍の器』にも気づく者が現れるかもしれない。
不確定要素は減らしておきたいというのがマリアの考えで、
それは贄として捧げられる運命の龍麻に、せめて残りの数ヶ月は望むままの生活をさせてやろうという
思惑とも合致するが、同時に、龍麻が望むならある程度の無理を受けいれるという意味でもあった。
 数ヶ月後には殺されるというのに、いやに従順な龍麻は、
マリアの意図を理解し、波風を立てないよう学生生活を送ると約束した。
その後、宣告したとおり、龍麻は一人の高校三年生として真神學園とマリアの家を往復する生活を送り、
これまで手を煩わせたことはない。
今回初めて問題らしい問題が発生したというわけだが、龍麻は証拠を残さぬよう、
上手くやってのけたようだった。
「はい。手早く片づけたからどうやってやられたかも判らないでしょう。
学校からも少し離れた場所なので、俺がやったとは判らないはずです」
「そうね、それは助かるわ。学校の内部でやられたとなると、
どうしても騒ぎになるのは避けられないでしょうから」
 マリアがひとつ気にしたのは彼の親分である佐久間になんらかの報告が行った場合、
龍麻の『力』にまでは気づかないとしても、呼びだして暴行を加えるくらいはあるだろう。
「そうですね、佐久間が見舞いに行ったらそういうこともあるかもしれませんが」
 その可能性はほぼないと龍麻は見切り、マリアも同意した。
「いいわ、今回の件はこれで良しとしましょう。次に彼が何か仕掛けてきたときもアナタの判断に任せるわ。
できるなら事前に教えてもらえると助かるけれど、なかなかそうもいかないでしょうから」
「わかりました。それから、犬神先生なんですが」
 龍麻は続けて、犬神に呼び出された件も告げた。
彼の言葉が間接的に厄介ごとをひとつ生む原因となったのには触れず、
ただ、彼がマリアの正体を知り、野心を阻もうとしていることだけを伝えた。
「……そう」
 軽く頷くだけのマリアに、龍麻は不審を誘われた。
 当然、マリアは犬神のことを知っているだろう。
龍麻よりも先に、直接話をしたことも充分考えられる。
野心の――あるいは悲願の――成就に全てを賭けている彼女が、
立ちはだかる障害を排除しようとしないはずがない。
なのにこの消極的な態度は、人間を万物の霊長とみなさない、
誇り高き闇の一族であるマリアには、およそ似つかわしくなかった。
「……一体、何者なんですか?」
 ためらった後に、龍麻は訊ねる。
「彼も、人ならざるもの――ワタシの同類」
 返ってきた答えには、少なくとも龍麻が読み取れる感情の波動はなかった。
「――!」
人狼ベイオウルフといって、吸血鬼ワタシと並ぶ貴種よ」
 人狼――人でありながら狼の野性を併せ持つ、あるいは狼が長じて人の理性を宿した種族。
どちらが正解なのかは、彼ら自身にもわからないというが、
いずれにせよ伝説の、そして危険な存在には変わりない。
 先に吸血鬼マリアという存在を受けいれていたおかげで、
犬神の正体も理解することはできたが、だからといって驚きまで消え失せるわけではない。
昼行灯と生徒に陰口を叩かれている教師が、まさかマリアと同じ人ならざるものであるとは。
 驚きを隠せない龍麻だが、すぐに懸念が生じる。
犬神がそういった存在であるならば、障壁となったときに取りのぞくのが難しいのではないか。
いっそ、こちらから仕掛ける必要があるのではないか。
「このまま放っておくんですか?」
 生徒が一人登校しなくなるのと、教師が出勤しなくなるのとではわけが違う。
それでも龍麻はマリアが命じれば犬神を排除するつもりだった。
 龍麻には、マリアの目的を達成させてやりたいという思いがある。
その延長線上に自分の願いがあるからでもあるが、それだけに、
ある意味ではマリアよりも強い動機があった。
 だが、龍麻の客気かっきをたしなめるように、マリアは冷えた蒼の瞳を輝かせた。
「……彼には、『刻』が来たときにもう一度話してみるわ。
そこで彼が邪魔をするという考えを変えないのなら、ワタシが彼をたおす」
「……わかりました」
 反論しようとして、龍麻は断念した。
マリアの語調には他人の意見を封じこめる強さがあり、その後に訪れた沈黙に抗いきれなかったのだ。
 会話で威圧されて、どうやって彼女を止めるというのだろうか。
口の端に浮かんだ自嘲を見られないよう龍麻は立ちあがり、食器を片づけ始めた。

 心が少し、疼く。
痛みかどうかも分からない、ごく小さなそれが、何に起因するのか。
ベッドでマリアに背を向けたまま、龍麻は探っていた。
 巡る血の遅さに思考ははかどらなかったが、やがて、ひとつの可能性が形を取り始める。
『刻』が至れば必要なくなる自分と、『刻』が至ったときに必要とされる犬神。
その差は小さなものではない、と気づいた心が軋んだのか。
この世から消失した後のことなど、気にかける必要などないというのに。
それとも、本当は自分は死にたくないのだろうか。
あるいは、マリアが創りだす大破壊後の世界を、見てみたいと思いはじめているのだろうか。
 だが、それは許されない願いだ。
マリアにとって龍麻は大切な『贄』であるが、同時に憎むべき人間であり、
助命を請うたところで叶えられるはずがない。
むしろ弱気を口にしたと取られ、『刻』が訪れるまで半死半生の状態に置かれてしまう可能性が高い。
それは龍麻にとって、望むところではなかった。
 龍麻は身体を回転させ、マリアの横に並んで仰向けになる。
血を喪なったことによる倦怠は、限界に近づいていた。
もう少し、何かを考えようとしたが、闇は緩やかに意識を愛撫し、
龍麻を眠りの国へと連れていこうとしていた。
抵抗は無益だと悟った龍麻は、誘われるまま瞼を閉じる。
その最後の意識が感じたのは、首筋に穿たれた孔の、かすかな痛みだった。



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