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夏場ともなれば、この布団は暑すぎるのではないか。
梅雨の頃から抱いていた龍麻の懸念は、杞憂に終わった。
布団の持ち主であるマリア・アルカードにその辺りの抜かりはなく、
夜はエアコンをはやばやと稼働させ、寒さと温かさの共演を鮮やかに成し遂げさせたのだ。
一般的な高校生よりは若干シビアな金銭感覚を持っている龍麻は、
夜の間つけっぱなしであることや、温度設定がやや低いことに不満がないわけでもない。
だが、家主であり、龍麻の主でもあるマリアの意向に逆らうのは困難だったし、
暑い東京の冷やした室内で暖かな布団に包まるという快楽は、
はねのけるのはほとんど不可能なくらい龍麻を虜にしていた。
一人暮らしの――といっても、数日ほどしか経験しなかったが――煎餅布団とは比較にもならない
マリアの家の豪華な寝具にも、口には出さなくとも感心した龍麻だったが、
初めて文明の利器が稼働した日は、感激のあまり寝坊しそうになったほどだった。
龍麻の遅刻はマリアの遅刻と密接に結びついている。
一人の時はどうやって起きていたのかという深刻な疑問はさておいても、
美貌とわかりやすい授業で人気の英語教師につまらない失点をさせるわけにはいかないから、
龍麻は以後絶対に寝過ごさないように気を配ることにしたのだった。
目覚めた龍麻は、ベッドサイドの時計に目をやる。
残念ながら、それとも幸福にも、なのか、時間は起床予定の五分前であり、
すぐにベッドから出て良い頃合いだった。
起きる前に欠伸をしようとしてやめる。
マリアの眠りは深く、隣で欠伸をしたくらいで目覚めることはなかったが、
頬に当たる冷気が、欠伸をしたら布団から出るのをためらわせてしまいそうだったからだ。
もともと、龍麻の目覚めは悪くない。
二度寝がしたくなったり寝坊しかけたのは布団の極度の快適さによるもので、
あとは、陽の光が全く射しこまないというのも原因のひとつとしてある。
特注だという厚手のカーテンは、与えられた任務を完璧にこなし、
さらに、この部屋で眠った者は、時計に頼らなければ時間を知ることはできない。
これらの王侯貴族なみの贅沢を、身分的には召使いといったほうが近い龍麻が享受することに、
もともと無理があったのだろう。
一度寝坊しかけてから、龍麻は贅沢をきっぱり諦め、定時に寝て定時に起きることで、
極めて正確な体内時計を作るようにしたのだった。
最後に短く息を吐いて勢いをつけ、龍麻はベッドから出ようとする。
その、重心を前に移した瞬間、いきなり腕を掴まれた。
驚く間もなく強い力で引っ張られ、寝ていたときよりも奥に引きずりこまれてしまう。
短い騒乱の後に龍麻は、至近距離で会心の笑みを浮かべるマリアを見た。
「起きてたんですか、マリア先生」
驚いていたので、言葉に多少の刺がこもる。
しかしマリアは意に介した風もなく、身体を半回転させて龍麻の上に跨った。
「時間通りに起きるなんて感心ね。……でも、今日からは急いで起きる必要はないわよ」
寝起きとは思えないほど妖艶に微笑むマリアを、龍麻は直視できない。
薄暗い部屋にあってその微笑は、マリアの正体でもある吸血鬼に、
意思とは無関係に肉体を捧げてしまう大変危険な罠だという直感はおそらく正しいのだ。
十字架も、太陽の光もここにはない。
それに、彼女にはそれらの弱点は一切効かず、夜ごと血を求めるという最も本質的な特徴を
目の当たりにしなければ、彼女が闇の血族であるとはとうてい信じられない龍麻だった。
「そういうわけにはいかないでしょう。生活のリズムは一旦乱れると直すのに大変なんですから」
魔を退ける銀の弾丸にはなりえないとしても、強い語調で良識(を撃ちだし、
龍麻は堕落への誘いを突っぱねる。
だが、目は直視できないうえに、マリアは現在、極めて裸に近い姿であり、
その肌に触れればやはり淫邪の誘惑に屈してしまいかねないと、身じろぎすらままならない状態では、
どんな強気にも殺傷力などこもるはずがない。
龍麻の弱気は瞬時に見抜かれ、獅子が獲物を狙う前傾姿勢でさらに身体を数センチ近づけたマリアは、
無防備に晒けだされている首筋に唇を寄せた。
「……ッ!」
生々しい舌の動きが、龍麻を竦(ませる。
毎夜同じ場所に突きたてられる牙も、痛みと同時に奇妙な快楽をもたらして龍麻を戸惑わせたが、
ただの(快楽はまだ目覚めて数分だというのに、全身に異様な血流を生みだしていた。
「せ……先生ッ、夏休みだからってこんな朝から……!」
恐れていたことが起こってしまった、と龍麻は嘆いた。
こうなる可能性は極めて高く、警戒してしかるべきだったのだ。
どこまでも沈んでいきそうなベッドにどこまでも沈められていきながら、龍麻は最後の抵抗を試みる。
けれどもマリアの肢体はその美しさからは想像できない強靱さで若い肉体を押さえこみ、逃さない。
短いが深刻な反抗も効を奏さず、ついに龍麻は美しい吸血鬼に屈服させられた。
「フフ……いい子ね、おとなしくしていなさい」
くぐもった勝利宣言を聞きつつ、龍麻は絶望する。
これからおよそ三十日間は、毎朝こんなやり取りが続くのだろうかと。
真神學園に通う以上、普通の人間にはない『力』があろうと夏休みは訪れる。
赤点を取ったりはしないが特別に優良というほどでもない、中の上といった辺りの成績である龍麻は、
補習も特別講習もなく、良くいえば自主的に、悪くいえば放置された高校三年生だ。
その点に関して学校に文句はない――たとえ、この東京があと数ヶ月で『大破壊』を迎え、
今年の受験生は進学どころではなくなることを知らなかったとしても、
勉強する気があるなら予備校なり自習なりすれば良いのだし、
ないのなら就職先を検討するなり有意義に過ごすなりすればいいのだ。
文句があるのは教師の扱いに関してで、高校三年生という大事な時期にクラス担任をさせるのだから、
なぜ進路相談に乗るとか勉強を教えるとかで毎日学校に詰めさせないのか。
でなければ遊び回る生徒がいないかどうか、歌舞伎町を巡回させてもいいし、
なにも教師にまで夏期休暇を与える必要はないではないか。
「アラ、ワタシもちゃんとやることはやっているわよ」
とマリアは言うが、どこまで本当なのか龍麻は怪しんでいる。
級友達のために彼女を諫(めるべきではないか、と柄にもないことを考えてしまったくらいで、
それくらい職業という軛(から解き放たれた大人(というのは危険な存在だった。
なにしろ経験はそこらの人間を束にしたよりもあるし、
倫理観についても人間と全く同じだと考えるのは甘すぎるだろう。
現に龍麻は、彼女に囚われて以来、昼間はともかく、
夜はとても健全な高校三年生に対するものとはいえないふしだらな扱いを受け続けていた。
マリア曰く、理由があってのことだとは言うものの、
そもそも夫婦でも、恋人同士ですらない男女が同じベッドで寝ること自体受けいれがたい龍麻だから、
彼女にとっての食事が美味になるからとはいえ、身体をまさぐられるのは断固として拒否したいところだった。
しかしそれも、彼女が人外の存在であることを信じさせるに足るもう一つの理由、
見た目は成熟した女性の肉体にもかかわらず、龍麻を上回る膂力で封じこまれては、
蜘蛛の巣に捕らえられた虫同様、どうすることもできなかった。
「……吸ったらちゃんと起きてくださいよ」
「フフ、わかっているわ」
歌うような調子のマリアに龍麻が放った嘆息は、諦めと苛立ちとが渦を描いていた。
多少なりともマリアに反省を促したつもりだが、薄く、横に引き延ばされた唇を見るかぎり、
効果があったとはとうてい思えなかった。
手首を腰のあたりで押さえつけられている龍麻は、全く身動きが取れない。
四本足の獣のように頭を突きだして首筋に牙を立てるマリアは、完全に体重を預けてきていて、
その重さはともかくとしても、肌のかなりな部分が触れあっている事態に、
緊張の度合いは高まるばかりだった。
肉感的な身体は、背中越しであっても意識しないようにするのは困難であるのに、
正面から密着されてはひとたまりもない。
関係ないことを考えて気を紛らわせようとしても、
二次曲線的に火照っていく肉体を制御することなどできはしなかった。
龍麻は固く目を閉じて、妖艶な吸血鬼の気まぐれが一秒でも早く終わってくれるよう祈るばかりだった。
「……」
昨日穿った孔を唇で探り、舌で確かめる。
二つの孔に牙を当て、ぴたりと嵌ったとき、深い充足感がマリアを満たした。
貴腐ワインを口に含んだときにも似た恍惚だが、
同じ色の液体であっても、満足度は比較にならない。
おそらく吸血の対象となる全人類の中でも、最もマリアを酔わせる血液をこの人間は有していた。
ありとあらゆるものを食べ、そのために版図を広げていった人間を、
マリアは侮蔑していたが、この緋勇龍麻というまだ若い人間の血の味を覚えて以来、
吸血という行為自体に悦びを覚えていたのは事実だった。
あと半年足らずで彼を手放さなくてはならないのが惜しいほどで、
それまでの間、一滴でも多く彼の生血を啜りたいというのは、
仮に同胞がいたとしても、語るには恥ずかしいマリアの欲望だった。
牙を何分の一ミリか、体内に埋められた龍麻の呼吸がわずかに乱れる。
龍麻の心境が、マリアには手に取るようにわかった。
正確には牙に取るように、とでも言うべきか、彼の肩口に開けた穴から、
そしていつもと裏表が反対になっただけの、そのだけ(が極めて重大であることに
龍麻はまだ気づいていない、正面から密着した肌から、龍麻が今、
多くの諦めと少しの怒り、そして怒りの分量よりやや多めの興奮を抱いているのがはっきりと伝わってきていた。
早くなる血流が、マリアをも興奮させる。
美味な酒を熟成させればさらに美味くなるように、血も温めれば美味になる。
それには興奮させるのが一番簡単で、その中でも性的な興奮がもっとも簡単だった。
この、日々マリアの誘惑を聖者のごとき高潔さで拒み続ける龍麻も、
肉体的な興奮には逆らうことができないようで、健全な若い肉体はむしろ、
精神力に反比例するかのように愛撫に応えた。
頂点から転落へ、その寸前のところで毎夜留まる龍麻は、どうやって昂ぶらされた身体を鎮めているのか、
マリアは訊ねてみたくなるほどだ。
時にはマリアの方が疼く肉体をもてあましてしまうくらいで、それだけに、
彼が欲望を抑えている姿を見るにつけ、なんとか肉欲に目覚めさせてやりたいと思うのだった。
だが、今朝のマリアは牙を突きたてただけで、血はほとんど啜っていなかった。
最初から本気で吸おうとしたわけではない。
たまたま龍麻より早く目が覚めたので、少しからかってやろうと思っただけだ。
マリアは毎夜この若い人間の男から鮮血を呑んでおり、
その量は彼を吸血鬼化させない上限にまで及んでいる。
彼は吸血鬼でない点に価値がある希少な人間で、いくらその血が美味であっても、
一時の欲望のために数百年の復讐心を無駄にするわけにはいかなかった。
また、彼は高校三年生、年齢で言うと十八歳で、人間社会においても、
人類という種においても成人として扱われてもおかしくはない。
実際、精神的には、彼の数十倍の刻を生きるマリアが、
毎日寝食を共にしても煩わしさを感じない程度には熟しているのだが、
一点、牝に対する本能だけは、幼児かというくらいに未成熟だった。
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