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マリアは数ヶ月後に彼の生命を奪うという定めを負っている。
生物学的に必要な行為ではなく、ただ己の復讐心を満たすために行うのだ。
それを承知しているマリアは、彼の余生をできる限り満足させてやろうと考え、
その中には、肉体的な快楽も含まれていた。
マリアは淫魔ではないから、肉欲を満たすために誰とでも寝るつもりなどないし、
そもそも吸血鬼と人間では種族が異なる。
だが、齢十八でしかない、憎むべき種族ではあってもマリアから見れば
子供にも等しい龍麻の生命を利用することに対して、肉体を貸してやる程度の同情心はあった。
もちろん、龍麻が死すべき運命を知らされた当初から従順で、協力的ですらあったことも理由にはなる。
とにかくマリアは、彼が求めるのであれば、彼の本能を充足させてやるつもりはあったのだ。
ところが、龍麻は聖職者でもかくやというほど禁欲的な男だった。
初日の夜に「裸の女とは寝ない」と宣言されて以来、龍麻はあらゆる誘惑をはねのけて今に至っている。
はじめは半ば戯れのつもりだったマリアも、牝の部分をこうまで否定されるとは思わず、
一度は彼が不能か同性愛者なのかと疑ったが、どちらでもないと判明すると、
彼を堕落させる行為に熱心にならざるをえなかった。
けれども龍麻は、断崖に突き落とされそうになりながらも必死にしがみつき、
最後の指先は決して離そうとしない。
愛撫を受け、快楽を伴う吸血をされながらも、マリアの方に振り向こうとは絶対にしなかったのだ。
彼の理性を賞賛しつつも、マリアもこのままでは引き下がれない。
なんとか彼を堕落させ、果てた直後の最も美味な瞬間に血を啜ってみたかった。
下腹に、彼のペニスが当たる。
三ヶ月以上も共に暮らしながら、未だ直接見たことのないそれを、
マリアは臍を擦りつけるようにして愛撫した。
間違いなく、硬くエレクトしている。
日本人の性器は白人種に較べて長さで劣り、硬さで勝ると聞いた覚えがあるが、
龍麻のそれは長さにおいてさほど劣らず、硬さでは明らかに勝っていた。
肉欲を糧とする種族ではないマリアだが、牝として爛熟期にある肉体は、
味わってみたいと脳にシグナルを発する。
その命令のままに、彼を襲うのはたやすい。
そしてひとたび貪ってしまえば、彼も肉欲に耐えきれるはずがなく、
人類と言えども獣から分化した動物に過ぎないという事実を思い知る羽目になるだろう。
しかし、それでは趣がなさ過ぎる。
マリアはあらゆる意味において彼の上位にあるというのに、力づくで従えるというのでは、
それこそ群れる獣と変わらないではないか。
もう少しスマートに、せめて彼の方からセックスを求めるよう仕向けたいと、
マリアは日々誘惑を繰りかえすのだった。
龍麻は目を閉じたまま、動く気配はない。
途中から掴んでいる手首も離してみたが、彼の手は自由を得ても禁忌を犯そうとはせず、
マリアの肌をまさぐることはついになかった。
予想はできていた結果だとしても、いささかの落胆を余儀なくされつつ、マリアは身体を起こす。
とはいっても完全に離れたわけではなく、龍麻の上に跨ったままだ。
最後に何か一言くらい言ってやってから離れたいと思ったマリアだが、
意外にも龍麻の方が先に口を開いた。
「訊いてもいいですか」
彼がベッドの中で何かを訊ねるのは珍しいことで、マリアは蒼氷の瞳で続きを促した。
龍麻は軽くためらってから、距離を慮(ったのか、小声で訊ねた。
「どうして首なんですか?」
「……?」
質問の意味がわからず、マリアは優美な眉をわずかに寄せた。
すると龍麻は、いくらか慌てた様子で問いを補った。
「献血する時は腕に針を刺しますよね。だから、そこから血を吸うのは駄目なんですか?」
「……」
マリアは三十秒以上も無言だった。
自分たちの行為を、まさか献血と比較されるとは思いもしなかったのだ。
巡った怒りは、あまりに瞬時に満ちたので、かえって冷めるのも早い。
龍麻を見下ろしたマリアは、今自分はどんな顔をしているのか、教えて欲しいものだと思った。
「そんなこと、考えたこともなかったわ。確かにアナタの言うとおり、血を吸うのはどこでも構わない。
でもワタシ達は、首以外から吸うことはない。どうしてかしらね」
自分に向けて問いを放ったマリアは、親指を唇に当てて考えこんだ。
無意識の何気ない仕種ですら、異性を惹きつけてやまない。
彼女は吸血鬼という種の中でも相当に優秀な個体なのだろう。
それが故に、仲間が死に絶えてもただ一人、生き残ってしまうほどに。
龍麻が一度顔をそむけ、目だけをこっそり動かし、それからまた顔をマリアの方に向けたことに、
気づかないままマリアは答える。
その声は、さっきの龍麻と同様、雪崩が起こることを怖れるかのようにひそやかだった。
「きっと……本能なんでしょうね。獣としての」
多くの肉食動物は狩りの際、獲物の喉笛に噛みついて息の根を止める。
それがもっとも確実に生命活動を停止させる手段だと、獣は誰に教えられるでもなく知っている。
吸血鬼(もそれと同じなのだ。
獲物を喰らい、生きるための、本能が命じる攻撃法。
くだらないが、鋭い刺を持った問いを、発したのが龍麻でなかったら、
マリアは確実に命を奪っていただろう。
これも、情が移ると言うことなのだろうか――
龍麻の質問と同じレベルのくだらない自問に、マリアは失笑しかけた。
犬歯でせきとめたそれを噛み砕き、飲み下す。
次の発声に渋味が混じっていたのは、そのせいだった。
「それで、アナタは首から吸うのを止めて欲しいのかしら?」
マリアの問いに龍麻は少し考えたのち、小さく首を振った。
「いえ……今のままでいいです」
マリアの瞳に強い光が宿ったのを見て、龍麻は顔を赤らめる。
人ならざるものの蒼い輝きは、伝説にいう邪眼のように龍麻を惑わせた。
氷でありながら、時に燃えるように揺らめく瞳。
マリアは闇の存在であると自らを語ったが、その裡にはまばゆいばかりの光が存在し、
それが瞳を内から照らしだしているのではないか。
彼女が闇を奪われ、その闇を取り戻すために光を奪おうとしているのだと十分承知していても、
そう考えてしまう龍麻だった。
「そう」
眼光にそぐわない、ため息に音をわずかに乗せただけの声に、龍麻ははっとする。
彼女を怒らせる、あるいは落胆させるような質問をしたことに、いまさら気づいたのだ。
報復を恐れているのではない。
そもそも龍麻はマリアに拉致されたとき以来、ほとんど身命を預けた状態だ。
肉体的な苦痛を恐れないわけではないが、死を望んですらいる龍麻にとって、
それは通過しなければならない門にすぎず、死がもたらされるためなら耐えることができると思っている。
龍麻が失敗したと痛感したのは、彼女が人ならざるものであり、
龍麻とはどれほど外見が似通っていても異なる種族であると、
ことさら引く必要もない境界線を彫ってしまったからだった。
自分がそうでない現実を望んでいるのかどうか、龍麻にはわからない。
マリアがそうでない現実を望んでいるのかどうかも。
それでも龍麻は、これがどれほど仮初めのものであっても今の生活を気に入るようになっていたし、
来たる『刻』を取り乱さずに受けいれるための猶予期間を乱されたくはなかった。
その気になれば、マリアは残り半年間、龍麻の意識を奪うことも可能だろうし、
そこまでしなくても、龍麻と一言も喋らずに過ごすことも可能なのだ。
たとえマリアが多くの生命を奪う悪しき存在だとしても、
龍麻にとっては気兼ねなく話せるほとんど唯一の人物であり、
多少の欠点――たとえば、家の中では極端に肌の露出が増える――はあっても、満足できる同居人だった。
その関係をみずから壊してしまったかと思い、龍麻は不安を抱く。
彼女の瞳はいまや蒼氷ではなく深青になっており、爆発よりも収縮を、
上昇よりも下降を想起させるもので、良い兆しではない。
謝るべきだろうか、だが、謝ることでさらに境界線を抉り、溝にしてしまっては最悪だ。
どうするべきかとっさに判断がつかず、小さく喘ぐ龍麻に、
マリアは、怒ってはいないというように唇に半月形を描かせた。
「……でも、せっかくだからたまには、別の場所から吸ってみてもいいわね。
もしかしたら味が違うかもしれないし」
マリアらしからぬ冗談にも、龍麻は声こそ出さなかったが応じて笑った。
おそらく大人の度量で怒りを呑みこんでくれたのに違いない。
今日は起きあがれなくなってしまいそうだが、朝からマリアの機嫌を損ねてしまったのだから、
それくらいは甘受すべきだろう。
龍麻は小さく頷いて、身体の力を抜いた。
どこから吸うか吟味するつもりなのか、マリアが身体を起こす。
被っていた布団がはだけ、黒の下着とそれが包む大きな乳房が露になった。
さっきまでほとんど直に触れていた、あまりに存在感を誇示する双つの半球を直視してしまい、
龍麻は慌てて目を閉じる。
避けようのない身体的な生理だ、という弁明が通用するかどうかはなはだ不安なので、
そうなる前に沈静化するしか方途はなかったのだ。
しかし極めてまずいことに、その辺りには現在ちょうどマリアの腰が乗っている。
視覚はカットしても直接の刺激を与えられてはたまらず、沈静化どころか活性化がはじまってしまいそうだった。
そんな危機を知ってか知らずか、マリアの気配が再び顔に近づいてくる。
どうやら下半身には興味を示さなかったようで、一安心した龍麻は、溜めていた息を吐いた。
その直後だった。
全ての息を吐きだした、その通り道が塞がれた。
最も弛緩した瞬間を狙われた龍麻はたまらず目を開ける。
そこにある蒼氷の瞳は圧倒的な美しさで、たちまち龍麻の意識を奪い去った。
触れている部分の柔らかさと冷たさが、心臓に直接働きかける。
痛いほどの鼓動を身体の中に聞きながら、龍麻は、こんな勢いでは穿たれた首筋の孔から
血が噴き出ないのだろうかと、全く重要でないことを考えていた。
マリアは怒っていたわけではない。
ただ、彼があまりにも悄然としているので、不意をついてみたくなっただけだ。
マリアが顔を離したあとも、龍麻は呆然としたままだった。
年齢らしからぬ落ち着きと諦念を持つこの若者が、魂を抜かれたような表情をしているのは、
マリアに声をあげて笑わせるのに充分な光景だった。
肩を震わせるマリアに、ようやく龍麻は我に返り、
それでもなお呆けた顔で意味もなく口を開閉させている。
「え……今、先生……血、吸って……?」
要領を得ない龍麻に、ついにマリアはこらえきれず、彼に抱きついて笑った。
こんな手が通用するのなら、もっと早くしておけば良かった。
ずいぶんと久しぶりの、そして彼に対しては初めてのキス――龍麻は吸血行為だと思っているようだが――は、
マリア自身が想像もしていなかったほど劇的な効果をもたらした。
さんざんに笑い、ようやく騙されたと知った龍麻が不機嫌そうに「どいてください」と言ったとき、
自分がどれほど永い間笑っていなかったか、マリアは気づいた。
生きるために繰りかえしてきた愛想笑いとは異なる、心からの笑いは、
数百年抱いてきた復讐心を刹那とはいえ忘れさせるほどだったのだ。
もちろん秘めた心を失ったりはしない。
今はそれがマリアの全てなのだから。
そして、龍麻は他の全てと同様、いずれは失われる存在(だ。
けれども、少しの、そう、マリアにとってはまばたきにも等しい時間なら。
次第に本気で押しのけようとする龍麻を、マリアはあしらいつつ思うのだった。
――彼を記憶に刻みつける努力を、してみても良いのではないかと。
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