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空は、どこまでも青かった。
八月の空も青いが、九月に入ると、一層突き抜けるような青になる。
巨大なビルが天を狙う矛のように突きでる東京で地上から見上げる分には、
そこまで空の遠さを実感できるわけではないが、それでも、一段階色を深めた青は、
そこが遙かなる高みにあるのだと見る者に諭していた。
だが、地上の支配者たる彼らは自らの繁栄に夢中で空を見上げる余裕など失っているのか、
それともいずれ空をも支配するのだという野心が造物主からの忠告など無視させるのか、
この東京で、天からの説諭に気づく人間は少なかった。
気づいていれば、もう少し耳を傾けただろうか。
あるいはやはり、自分たちこそが万物の支配者であるという傲慢によって、笑い飛ばしただろうか。
いずれにしても、彼らは幸福だった――何も聞こえないがゆえに。
自分たちの築きあげてきたものが、何で出来ているのかも知らないがゆえに。
マリアの家の中に居ては、季節を実感するのは難しい。
東京の、うだることさえ許されないような暑さも、冷房をつけっぱなしでは快適そのものだし、
早朝から照りつける太陽も、寝室の分厚いカーテンが完璧に遮ってしまうのでどれほどのこともない。
それも小さな意味では一種の傲慢ではあったが、一度この快楽を知ってしまえば、
手放すのはほとんど不可能だった。
それは、それらの快楽を生みだしたのが憎むべき人間であるにもかかわらず、
最大限にその快楽を享受しているマリア・アルカードが、この件については何も言わない点から見ても明らかだった。
一方で彼女の同居人である緋勇龍麻は、彼女よりは若干慎ましく暮らしたいと願っている。
クーラーはぎりぎりまで扇風機で我慢したいと思っているし、
夏に早く目が覚めるのも、冬にいつまでも布団から出たくないのも仕方がないと思っているのだ。
だが、この家においてマリアの意向は絶対だ。
掃除洗濯や風呂の温度に至るまで、彼女が否と言えばそれは否なのだ。
彼女と同居することになった直後に、たったひとつだけ我意を通した龍麻は、
他のことに関しては受けいれ、あるいは諦めていた。
そのたったひとつの我意を、マリアは守ってくれてはいたが、最近では若干後悔するようにもなっている龍麻だ。
「お早う」
「おはようございます」
二十分ほど遅れて寝室から出てきたマリアに、肩越しで応じてから龍麻は一瞥だけする。
これはマリアを軽んじているわけではなく、まともに見るとフライパンを持つ手に危険が及ぶためだ。
龍麻がこの美貌の女性と同居してもうじき半年になるが、未だ彼女の寝起きの姿には慣れていない。
何しろ龍麻を誘惑するためと称して、全裸よりも扇情的な下着をまとって寝る彼女だ。
夜の直接的な攻撃(も骨身に堪えるが、朝、遮るものもない状態で彼女を直視するのは、
朝は健やかであるべきだという龍麻の固定観念を根底から覆しかねなかった。
彼女がもし、龍麻の懇願を呑む前、つまり、何一つ身にまとわない状態で眠るのなら、
朝は逆に平穏だったかもしれない。
さすがの彼女も寝室以外で全裸のまま歩き回るということはないだろうから。
それは常識に基づく推測で的中率は高いはずだったが、
では夜、ベッドの中で全裸の彼女に密着されて良いかと訊かれれば、龍麻はやはり良いとは言えない。
全く見ないようにしていても、成熟した女の肉体の柔らかさと、
龍麻よりもいくらか冷たい肌は、理性という防壁をたやすく削りとっていくのだ。
半年間、龍麻は良く耐えてきたが、あと三ヶ月ほど我慢できるかどうかは、
彼女の方に懸かっている、と言わざるをえない有様だった。
幸いにして、マリアは朝から龍麻を堕落させようとはしない。
夜の住人であるという誇りゆえか、それともあえて緩急をつけて焦らす戦法なのか、
どちらにしても、その完璧ともいえる肢体を惜しげもなく晒しながら、
龍麻の身体に指一本触れることなく洗面所へと向かった。
ベーコンを焼きながら、龍麻は安堵する。
マリアはこれまで、毎夜ベッドでしていることを太陽の下に持ちこんだことはない。
その点では信用できるともいえるが、ここ一週間ほどのマリアの攻撃の変化は、新たな警戒を龍麻に強いた。
それまでの方が、辛いといえば辛かった。
女らしさの極みに達した肉体を押しつけ、そんな状態ではどうしても反応してしまう男性器を、
さらに極限まで弄ぶ。
そのくせ射精しそうになると刺激を止めてしまい、悶々とするしかない龍麻の血を啜り、
満足するとさっさと寝てしまうのだ。
その気になったのならいつでもしていいとマリアは言うが、はいそうですかと応じるわけにもいかず、
血を吸われた虚脱と、満たされない疼きの狭間で、龍麻は日々苦闘していたのだ。
それが、八月の終わりから突如として変わった。
ベッドに入ると血を啜るのは変わらないが、その前の――マリアに言わせると、
血は温かな方が美味らしく、そのための、いわば下ごしらえなのだそうだ――
男の肉体を興奮させる方法が、龍麻を困惑させるほど変化したのだ。
その方法は身体を絡めとってペニスを弄ぶ、激しいけれども単調なものでなくなり、
指でそっと龍麻の弱いところを撫でたかと思えば、次の瞬間には全く別の所に触れ、
時には髪に手櫛を入れて撫でまわしたりする。
蜜に浸かるような甘ささえ感じるそれらの愛撫は、ただ耐えていれば良かったそれまでとは違い、
常に意識を保っていないと沈んでしまうのではないかと龍麻を怖れさせた。
そしてもう一つ、決定的に変わったのが、血を吸い終わったマリアが、
最後にくちづけを交わすようになったことだ。
龍麻は拒んだが、人ならざるものである彼女の筋力には及ばず、
血を吸われた後の虚脱も手伝って、実力で排除されてしまった。
以来毎夜、血の味のするキスを龍麻は受けている。
増えた行為にどんな意味があるのか、抵抗は敵わじとも知りたくて龍麻は訊いた。
マリアからの返事はなかった――灯りを消した暗い部屋の中で、
だらしない男に答える義務などないとばかりにわずかに微笑を浮かべた以外は。
キスそれ自体は、どうということもないはずだった。
半ば強引にするとはいっても長い時間をかけるわけではなく、
龍麻が暴れさえしなければ、拍子抜けするほどあっさりと終わる。
困るのは、朝――彼女の支配が及ばないはずの時間に、ふと意識してしまう時があるようになったことだ。
彼女の身体において、そこだけが浮きあがったように赤い唇の、冷たさと柔らかさを。
一瞬でも視界に収めてしまったなら、たちまち前日に受けた最後の感触が甦り、
平静を保つのが困難になってしまうのだ。
現に今日も、マリアが洗面所に向かう際の横顔を、瞬きの間見ただけだというのに、
フライパンを握る左手があやふやになってしまった。
ベーコンが焦げた匂いは香ばしくもあるが、料理人として自慢できるものではない。
マリアが人間で言う味覚を持たないことに感謝しつつも、そもそも失態の原因が彼女であることに、
矛盾めいた感情を抱きつつ、龍麻は火を止めてベーコンを皿に移したのだった。
この家の料理人の自信を数パーセント喪失させたことを知る由もなく、
洗面所から戻ってきたマリアはテーブルに座った。
人ならざるもの(である彼女は朝食のメニューに関してさほどの関心は持っておらず、
澄んだ、青と紺の中間の色をした瞳で軽く見渡しただけで新聞を手に取る。
龍麻が紅茶を注いだカップを置いても、紙面から目を離しはしなかったが、
手探りでカップを握り、無造作に一口啜ったあと、おもむろに口を開いた。
「今日はベーコンが焦げているわね」
ジャムを塗っていたパンを落としこそしなかったが、龍麻の狼狽ぶりは期待以上で、
マリアは危うくティーカップに波を立ててしまうところだった。
「す、すみません」
血液以外の食物は、吸血鬼と気づかれないために摂取するにすぎないのだから、
黒こげであろうと生であろうとマリアには関係がない。
ただし人間の同居人が無益ではあっても自分に美味だと言わせようと努力しているのは知っていたし、
意外にレパートリーが多い料理の数々は、一流のシェフが作ったものには及ばないとしても、
未成年の男が作るものとしては充分な完成度を有していることも評価はしていた。
むしろ、マリアがベーコンの焼き具合に気づいたのは、普段がきれいに焼かれていたからで、
もちろん本気で気分を害したわけではなく、珍しい失敗をついからかってみたくなっただけだ。
ところが、焼いた当人はお代は結構ですと今にも言わんばかりにうなだれている。
そこまで拘りを持っているのか、とマリアはいささか驚きつつ、なだめるように微笑を浮かべた。
「別にいいのよ……誰にでも失敗はあるわ」
はい、と頷きはしても、龍麻の気分は晴れないようで、まったくこちらを見ようとしない。
過保護になるつもりはないので、それ以上の干渉は控えたが、どこか腑に落ちないものを感じたマリアだった。
あらかた朝食が済んだところで、マリアが今日の予定を告げる。
「今日は少し遅くなるわ……職員会議があるの」
「わかりました」
マリアの夕食は龍麻とは異なるので、龍麻が待つ必要はない。
けれども龍麻は常に二人分作っていたし、マリアも内心はどうであれ、晩餐を拒んだことは一度もなかった。
今日も、龍麻は彼女が帰ってくるまで待つつもりだ。
マリアも承知しているのか、それ以上は言わず、再び沈黙が流れた。
だが、それも長い時間ではなく、登校の時間が近づいている龍麻は、
まだ新聞に眼を通しているマリアに先んじて席を立つ。
食器を流し台に片づけると、学校に行く用意を手早く整えた。
制服に着替え、忘れものがないか確認して鞄を掴む。
龍麻が玄関に向かうと、ようやくマリアも立ちあがったところだった。
二人は同じ学校に教師と生徒として通っているが、一緒には行かない。
無愛想すぎる転校生と、美しすぎる英語教師の取り合わせはあまりに目立ちすぎると
龍麻が提案し、日本人の機微など知らないマリアはそういうものかと素直に同意したのだ。
「それじゃ、先に行きます」
「ええ、行ってらっしゃい」
いくらマリアが人間全てを憎み、教師という職業も仮初めのものでしかないと割りきっていても、
この程度の挨拶は交わす。
龍麻の方も、学校では必要最低限しか声を発しない、目を合わせるのはほぼ皆無、という、
彼の方こそ人間嫌いではないかという無愛想ぶりだが、マリアの家の中ではごく普通に話をし、笑顔さえ見せた。
もっともそれも玄関を一歩出るまでで、そこから先は帰宅するまで、ほぼ一言も発することはなくなる。
彼はそれを苦にしていないようで、少なくともこの家に来た時にはすでにそういう習慣を
身につけていたのではないかとマリアは考えていた。
ただ、それが単に人付きあいが苦手なだけなのか、それとも何か理由があってのことなのか、
そこまではわからない。
彼が真神に望まぬ転校を強いられた理由については聞いたことがあるが、それとは関係がなさそうだ。
ただ、真相が気になるとはいっても、彼の方からマリアのプライバシーに干渉してこない以上、
彼が虜囚とはいってもそれは守られるべきだった。
龍麻を見送ったマリアにも、それほど時間的な余裕はない。
人間社会、特に日本で滞りなく生活するためには、遅刻は極力しない方がよいのだ。
彼らの社会に数多ある職業の中でも、特に時間に厳しい職業を選んでしまった己の不明を呪いつつ、
マリアは出勤の準備を整えるために部屋に戻っていった。
誰とも口を聞かないまま、一日の三分の一を過ごす龍麻だが、学校が嫌いというわけではない。
勉強は嫌いではなかったし、授業も、教師によって若干の差はあるが、おおむね真面目に聞いていた。
当てられれば答えるし、答えられずに不興を買うということもないので、
教師達は、彼がクラス内では孤立していると知らない者がほとんどだ。
もっとも、孤立していると知ったところで、龍麻が自分からその立場に甘んじ、
状況を改善しようとは全くしていないこと、
そしてこの学校でも最も性質(の悪い学生に目をつけられていることを知ったなら、
たとえ積極的に事態を解決しようとする熱血教師でも冷めてしまうだろう。
佐久間猪三――この高校にどうして入学できたのか、彼を知る者なら全員が疑問に思うに違いない不良。
勉強がしたくないのなら高校に行かずに働くという生き方もあるのに、
その道は選ばず、かといって授業を真面目に受けようという素振りすら見せない落ちこぼれ。
そして、新宿界隈ではそれなりに名の通っている、すでに幾つかの道を踏み外している札付きの悪。
彼と、真神の顔であると誰もが認める、容姿端麗にして成績優秀の生徒会長である美里葵が同じクラスであるのは、
単なる偶然なのか、それとも佐久間が更生する、万に一つの可能性に誰かが賭けたのか。
もしそうだとしたら、その者の目的はごく微量だけ達成されたことになる。
佐久間は少なくとも暴れたり、教師に殴りかかったりはしなかったからだ。
ただし、それはあくまでも三年C組の中で、という但し書きのつく、表面のごく一部のみを見た結果で、
それ以外の場所では、むしろ佐久間と葵という対極に位置する二人を引き合わせたことによる、
最悪の化学反応が生じつつあった。
それは、まさしく毒――周辺を汚染して重大な被害をもたらし、
しかも、取り除くためには自らも汚染を覚悟しなければならない猛毒だった。
そして滲みだす毒は、聖域であったはずのC組にもいつしか淀み、溜まっている。
しかし多少臭いはしても、耐えられないほどではない毒臭を、
C組の生徒は鼻をつまんでしのぐことにしていた。
致死ではないのだから、後何ヶ月かやり過ごせば、一生無縁でいられるのだから。
緋勇龍麻も、毒の存在には気づいていた。
なにしろ、転校したその日にたっぷりと嗅がされたのだから。
だが、その毒とは別種の毒を持つがゆえに、龍麻は手をつけようとはしなかった。
明らかに龍麻の持つ毒の方が効果が高く、しかも卒業を待たずして撒き散らされるのだ。
何も無駄な労力を割く必要はない、と判断したのだ。
佐久間のような男など、構うにも値しない。
龍麻が転校してきておよそ半年、これまでのところその判断は破綻しておらず、
たとえ破綻したとしても、すぐに修正できるという自信があった。
――もしかしたら、それは龍麻自身も知らない、『黄龍の器』という名の毒だったのかもしれない。
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