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 クラスメートともほとんど交流を持たず、部活動にも入っていない龍麻は、
放課後に学校に残っている理由がない。
にもかかわらず、どうしたわけか彼に雑事を頼む教師がときたま現れて、
この日も龍麻は職員室と教室を二往復する羽目に陥っていた。
 大した用事ではなくても、二回も校舎の端から端まで往復すれば、
再度教室に戻ってきた時に残っている生徒などいない。
すでに茜色が大半を占めるようになった教室に、無機物以外の影はなかった。
 龍麻にとってはその方が好ましい。
教室には鞄を取りに戻ってきただけなのに、人が居ればどうしても目を合わせなければならず、
その時の彼らの、未だに気まずそうな顔には龍麻もいたたまれなくなってしまうからだ。
存在しないものとして扱ってくれればいいのに、というのが勝手な注文であるのは承知していても、
やはり、あの生ぬるい空気は慣れるものではなかった。
 誰も居ないので大股で自分の席に向かい、鞄を掴んだところで、龍麻はふと教室を見渡す。
特に思い入れがあるわけではないが、あと少しでここも跡形もなくなると思えば、
感慨めいたものも湧いてくるというものだった。
 地球そのもののエネルギーを、『黄龍の器』を通じて開放させる。
それは世界でも有数の都市である東京を瞬時に壊滅させるどころか、
龍脈という経路を用いて噴きださせることで、世界中に破壊をもたらすことができるらしい。
そんなことが可能なのかどうか、龍麻には理解できないが、
その計画の実行者であるマリアは可能であると信じているし、成功すればいいとは龍麻も思っている。
 龍麻はこの世界に、マリアほどの憎しみを持っているわけではない。
計画が成功しても失敗しても、自分の命を奪ってくれるようマリアに頼んであるが、
成功した方が彼女も気分よく殺してくれるだろうという、それだけのことだ。
大切なのは緋勇龍麻という存在がこの世界からなくなることだった。
 自然の光が届かなくなり、人工の灯が瞬くまでのわずかな時間。
黄昏の東京はすでにして異界めいた雰囲気を醸しだしていた。
針のようにそびえるビル群が瓦礫と成り果てたとき、世界はどのように変貌しているのだろうか。
そして、そこに君臨する女帝は、どう振る舞うのだろうか。
 束の間、自分が死んでからの世界に思いを馳せた龍麻だが、すぐに詮のないことだと一人笑った。
仮に変心をマリアが受けいれたとしても、その後どうするのか。
龍麻は彼女が憎む人間であり、共に何かを為すなどありえないだろう。
それに、彼女の言うところでは、『黄龍の器』としての能力を解放した時点で、
その人間は死ぬか廃人になる可能性が高いという。
その話を聞いたからこそ、龍麻は彼女の許で地球のエネルギーが最も満ちる刻まで暮らすことを承諾したのだ。
いまさら死ぬのが嫌になったなどと言っても、マリアに逃げださないよう手足の腱でも切られるのが関の山だろう。
 マリアのことを考えたところで、今日は帰宅が遅くなると彼女が言っていたのを龍麻は思いだした。
だからといって羽目を外せるわけでもないし、そのつもりもないので、単に思いだしたというだけにすぎない。
ただ、彼女が居ると俗世じみているだのと言われてあまりできない家事を済ませてしまおうか、
などと男子高校生らしからぬことを考えて、まずは家に帰ろうとした。
 その視界の端に、何かが映った。
一瞬の動作の、さらに何分の一瞬かにしか捉えなかったそれをもう一度捉えるため、
龍麻は同じ動作を、何倍かの時間をかけて繰りかえす。
視覚を刺激したものはまさに視界の端、目の位置にあったのではなく、直線距離で十メートルほど、
目の高さからは五メートルほど下の位置にあった。
それは昼間ならば気づかなかったに違いない。
夕方、もう夜に近い時間であったからこそ、影に侵食されていない部分に存在するそれに、龍麻は気づいたのだ。
 旧校舎の入り口に、男女が居る。
紫色の世界に紛れて、ほのかに浮かぶ女子生徒の白い制服と、そのすぐ傍に居る、
こちらは黒い制服のせいでかなり判別しづらい男の姿。
わざわざもう一度確認してまで見つけたそれらに、龍麻は大きな落胆をするしかなかった。
人目につかない場所に年頃の男女が居る理由など一つしかない。
つまらないものを見てしまった、と舌打ちを寸前でこらえ、
窓の外に向けて固定させた顔を帰る方向に向けた龍麻は、一度は通過させた視線を急激に引き戻した。
 そこに居たのは、葵と佐久間だった。
いずれともとほとんど交流のない龍麻ではあるが、この二人にも交流などないことは知っている。
あるとしても交わりではなく、一方通行的に佐久間が葵を己が女としたがっているだけのはずだった。
転校初日に葵と挨拶を交わしただけで佐久間に目をつけられ、
彼の手下たちに暴行を加えられた龍麻だから、葵が佐久間など眼中にないと確信できるのだ。
 嫌な予感が神経をかき乱す。
その不快感は視神経にまで及び、佐久間と葵が話をしている、ただそれだけで視野狭窄に陥るほどだった。
見たくはない、という思いと、見なければならない、という思いが激しく音を立ててぶつかりあう。
葵とは関わりを持たないと決心していたはずなのに、心というのはたやすく自己を裏切るものなのか。
濃い紫の自嘲が心の表面を滑っていくのを感じながら、
なお龍麻は眼下で繰りひろげられる光景から目を離せなかった。
 二人の距離は恋人の距離というにはむろん遠いが、仇敵というほどには離れていない。
それでも、葵の姿勢から、決して望んで佐久間と話しているわけではないのがうかがえる。
遠目から見てもはっきり判ってしまう葵の態度に、佐久間も嫌われたものだと思ったが、
むろん同情したりはしなかった。
 一体、何を話しているのだろうか――
この学校に来て初めて他人の会話に興味を持った龍麻だが、
宵闇の重さはこの三階まで二人の声を運んでこない。
焦れかけていっそあの場所に乗りこもうかと思った時、事態は龍麻をあざ笑うかのように急変した。
 風に舞う紙片のように葵の身体が舞い、倒れ伏す。
佐久間はあろうことか、彼女の頬を張り飛ばしたのだ。
その時点で龍麻の怒りは、あまりの凄まじさに肉体を離れかけたほどだったが、
頬を押さえ、理不尽な暴力に怯える葵を引きずるようにして佐久間が旧校舎の玄関を蹴破ったのを見ると、
何もかもを忘れて教室を飛びだしていた。
 一気に階段を飛び降り、痺れる足も無視して全力疾走する。
まだ学校に残っていた幾人かの生徒が驚いたようだが、龍麻の関心はいささかも彼らには向けられなかった。
頭の中はただひとつ、佐久間の悪行を止めるというただ一事のみが渦巻いている。
 三階から一階まで、さらには校舎を出て旧校舎まで、二分とかからないで駆けた龍麻は、
四月以来となる旧校舎に、身ひとつで突入した。
完全に暗闇を走り抜けたので、二度ほど身体を強く壁にぶつけたが、構わずに二人を捜す。
「ヘヘ……いいだろ美里、俺の女になれよ」
「嫌……! お願い、離して、佐久間くん……!」
 吐き気を催すような欲望剥きだしの声と、それに抗うか細い悲鳴は、入ってすぐの教室から聞こえてきた。
息も継がず走ってきたのに加えて、充填される怒りで龍麻は酸欠に近い状態だったが、
構うことなく二人のいる部屋に入った。
 濃闇に紛れていた埃が舞いあがる。
せきこむほどに蓄積されていた塵の向こうに、佐久間と葵は居た。
 ぼんやりと浮かぶ白い制服は、床と平行にあり、それにしかかるように黒い影がうごめいている。
龍麻が目撃した数分間をわざわざ繋ぎあわせなくとも、何が行われているのかは明白だった。
 一瞬で龍麻の身体が怒りに奔騰する。
その一瞬のさらに何分かの一瞬、ある苦い過去の記憶が怒りと同じ疾さで脳裏をよぎったが、
怒りをとどめる効果はもたなかった。
「佐久間……ッ!!」
 咆吼に、佐久間が振りむく。
指向性を持つ侮蔑に邪魔された怒りを溶かし、佐久間は顔をどす黒くさせて立ちあがった。
鬼も逃げ出すような凶悪な、そして醜怪な形相がほとんど完全な闇に浮かぶ。
澱んだ旧校舎の空気が一変するほどの禍々しい気配は悪しき触手となって龍麻の許へと這いよってくる。
龍麻はその佐久間すら上回る邪気を全身から立ちのぼらせ、真っ向から外道を睨みつけていた。
「手前……ッ!!」
 性欲を暴力衝動へと転化させた佐久間が突進してくる。
凶悪な力の塊と化した佐久間を、龍麻は正面から迎え撃った。
「消え失せろッ……!!」
 顔面を狙って放たれた巨大な拳を肩で受け、代わりに腹に渾身の一撃を叩きこむ。
 弱い、ほとんど獲物としてしか見ていなかった龍麻にしたたかな反撃を喰った佐久間の、
よろめいた顔には驚愕が貼りついていた。
だが、それもごく短い間のことで、床に唾を吐いた佐久間は、
ダメージなど感じさせない動きで再度突進してくる。
 相手が単純な手で来るなら、同じ攻めを繰りかえすだけだ。
肩のダメージを、こちらは軽い痺れが起きていたが無視し、龍麻はもう一度腹に一撃見舞うべく拳を固める。
今度は自分の体に秘められた『力』を上乗せした、決着をつける一撃のつもりだったが、
佐久間の方が一枚上手だった。
 待ち構える龍麻に対し、今度は拳ではなく、低い姿勢で体ごとぶつけてくる。
左側からの攻撃を警戒していた龍麻は、避けることもできずまともにぶつかり、
二メートル近くも吹き飛ばされた。
教室の扉が開いていなければ、壁に頭をぶつけ、そこで勝負が決まっていたかもしれない。
 床に倒れた龍麻に、佐久間が襲いかかる。
佐久間は少なくとも喧嘩においては熟練した巧者であり、勝負所を見極める眼があった。
龍麻が倒れたと見るや、起きあがる暇さえ与えずに一気にとどめを刺そうとする。
 顔面を狙って放たれた蹴りを間一髪で躱した龍麻は、そのまま横転し、その勢いで立ちあがった。
そこに再度佐久間の、今度は腹を狙った拳が放たれる。
まともに当たっていれば肋骨が砕けたであろう、いささかの容赦もない重い攻撃を、
だが、今度は龍麻は躱さなかった。
「……ッ!!」
 佐久間の小さな、野獣の剣呑さを宿した目が見開かれる。
拳は確かに命中していた。
手応えがあり、この一撃でこの忌々しい転校生は無様に倒れるはずだ。
あとは起きあがらなくなるまで攻撃を加え、身の程知らずを徹底的に後悔させる。
葵をモノにするという重要な瞬間を邪魔するという許しがたい男を、
佐久間は本気で殺すつもりだった。
 だが、龍麻は立っている。
顔を苦痛に歪めてはいるものの、膝が落ちる気配はなく、佐久間の渾身の殴打を受けきったのだ。
「手前ェッッ……!!」
 いびつな自尊心を砕かれた佐久間は、凄まじい咆吼を龍麻に浴びせると、再度、
今度は殺すつもりでパンチを放つ。
龍麻の背中まで打ち抜くつもりで打ちきった、充分に体重を乗せた拳は、
しかし、今度は命中すらしなかった。
 佐久間の顎に衝撃が弾ける。
命中する寸前、龍麻がカウンター気味にパンチを放つのを佐久間は見ていたが、
命中するのは自分の拳の方が先で、当たりさえすれば素人のパンチなどどれほどのこともない。
そう見極め、佐久間は防御よりも攻撃を優先させたのだ。
だが、当たったのは龍麻のパンチの方が先立った。
何が起こったのか理解できないまま、佐久間は反射的に歯を食いしばる。
その瞬間、重い、ハンマーで殴られたかのような衝撃が、顎から反対側の側頭部まで突き抜けた。
「……ッッ!!」
 大きくたたらを踏みながら、かろうじて踏みとどまる。
背がやや高い程度で喧嘩の仕方も格闘技術も知らないはずの転校生は、
これまで佐久間が経験したことのない強烈な打撃を放っていた。
並の、たとえば佐久間の手下であったなら、この一撃で昏倒したに違いない。
アマチュアボクサーか、あるいはそれ以上の痛打に、佐久間は愕然とした。
だが、それも一瞬のことで、痛みを憤怒へと転化させ、身につけたあらゆる技で龍麻を殺そうと躍りかかった。
 酒と暴力とを同等に好む佐久間は、これまで何人も病院送りにしている。
ゆえに相手が骨折しようと半身不随になろうと、後悔などすでに摩滅しきっており、
むしろ残された最後の壁を破壊しようと猛っていた。
殺人――多くの人にとって自分から乗りこえようとは思わない隔壁を壊す。
それは計り知れない快楽を与えてくれるはずであり、
壊した壁を見せれば、葵も屈服して自分の女になるかもしれない。
それが日本においては重大な犯罪行為であり、その後にどのような結果が待っているか、
などという考えは、獣と化した思考には浮かばなかった。
ただ殺したいという衝動と、以前からくすぶり続けていた葵を犯したいという欲望、
それが寸前で妨害された憤激がどろどろに溶けあい、都合の良い泡ぶくとなって頭の中で破裂するだけだった。
 緋勇を殺し、葵を犯す――ふたつの目的が合一であると認識した佐久間は、
ここが学校であることも忘れ、必殺の暴力を奮う。
だが、手加減など微塵もない渾身の一撃は、龍麻の肉体を捉えなかった。
腹を狙ったパンチが龍麻に届くよりも早く、顔に当たった龍麻の拳が佐久間の意識を刈り取る。
体重も、ひねりも効いていないただのストレートが、どんな強敵の一発よりもダメージを与えていた。
それでも執念に憑かれた佐久間は、なお足を踏みしめ、龍麻に掴みかかろうとする。
だが、すでに防御する力もない腹に狙いすました殴打を受けたとき、
頭から落ちていく感覚を最後に、佐久間の意識は消えていった。



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