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 動かなくなった佐久間を、龍麻は見下ろしていた。
前髪に隠れた瞳に勝利や昂揚の輝きはなく、氷原に吹くブリザードに似た冷ややかさのみが、
学校で同級生に対して性的な暴行を加えようとした男を捉えていた。
 佐久間の悪行は未遂とはいえ死にすら値するものだった。
龍麻は葵に対して特別な感情を抱いているわけではないが、
卑劣な男には当然の嫌悪があり、それ以上の忌諱きいが行為そのものにあった。
 だからこの男は、殺しても構わないと思っていた。
知らぬこととはいえ、佐久間は龍麻を殺すつもりで襲いかかったが、
龍麻もまた、佐久間が死んでも良いという意識を消さないまま殴ったのだ。
しかも、ある意味ではより悪辣で、ここで佐久間が死んだとしても、
罪を償う必要がないことを計算までしていた。
どのみちあと数ヶ月すれば、たった一人の死など問題にならないくらい多くの人間が死ぬことになるのだ。
直接虐殺はしなくても加担する立場である龍麻は、
すでに現代社会の良識など、波風を立てないための方便程度にしか考えていなかった。
 しかし、今回は佐久間を死に至らしめるまでは及ばなかった。
龍麻が持つ『力』は、今のところ自身で加減を操ることはできず、
その威力が最大限に発揮されるのは、後で何も覚えていないくらいに我を忘れた状態でだった。
過去数度『力』を発現させたことがある龍麻は、それを喜んだりはせず、
極力使ってしまうことがないように、感情を抑える努力をずっと続けてきたのだ。
怒ることはあっても、理性は決して失わない。
どれほど瞬間的でも、理性を失くした時点で『力』はどこなのか知りたくもない身体の深奥から目覚め、
懲らしめる、というだけでは済まない暴力の嵐を発生させる。
己が身にも被害が及ぶ、危険極まりない超常的な力など、もう二度と発動させてはならなかった。
 幸か不幸か佐久間はしぶとく生き残った。
今からとどめを刺すことも考えたが、頭の中で理性の占める領域が回復すると、
感情の赴くままに裁きを下すわけにもいかなくなっていた。
これは道義や法律を重んじてのことではなく、葵が襲われた、
その直後に佐久間が死ねば、葵の心にも少なからず傷を残す。
さらに人死にが出たとあれば事件も明るみに出さざるをえなくなり、
そちらの方が葵に致命傷となるのは確実で、絶対に避けねばならない。
葵自身が彼の死を望んだのならともかく、そうでない以上、龍麻が先走るわけにもいかないのだ。
 佐久間に対する憎しみは、龍麻自身の記憶と反応し、噴きあがらんばかりだった。
佐久間のような手合いは、決して反省することがない。
たとえ何度叩きのめされようと、悔悟するのはあくまでもその場だけなのだ。
そして苦い記憶が喉元さえ過ぎてしまえば、また己の欲望に従って悪事を働く。
 マリアが憎むのもやむなしとする、最も醜い部類に属する人間を、
駆除してしまいたいという欲求は、すっかり殴りあいの興奮が醒めた後でも、龍麻の裡で強くくすぶり続けていた。
その心を静めるのに、龍麻は三度の深呼吸と、己の両頬を強く叩く必要があった。
 どうにか落ちついた龍麻は、佐久間に起きあがる気配がないのを確かめると、葵の傍らに膝をついた。
暗がりなのではっきりとは見えないが、怪我はしていないようだ。
状況から考えて、最悪の事態にはなっていないはずだと思いつつも、
それを訊くのはためらわれ、龍麻は中途半端に葵の反応を待つしかなかった。
 龍麻がそばに近づいても、葵に気づく気配はない。
気を失っているのかとも思ったが、顔の前に手をかざすと、鈍いながらも顔が動いた。
「う……ん……誰……?」
 まだ意識がもうろうとしているのか、葵はおぼつかない様子だ。
「緋勇……君……?」
 余計な緊張を与えないよう、低く抑えた声で龍麻が名乗ってもめざましい反応はなく、
床に伏したまま顔だけを傾け、虚ろに龍麻の名を繰りかえしただけだったが、
にわかにばね仕掛けの人形のように上体を起こすと、両腕で胸をかき抱いた。
「わ、私、佐久間君に……」
 それ以上は蘇った恐怖が口にすることを許さないのか、身体を縮めるばかりだ。
暗闇で震えている葵は、痛々しくて見ていられるものではなく、龍麻は目を細め、憐憫に顔を歪めた。
「緋勇君が……助けて……くれたのね」
 数分が過ぎた頃、静まりかえった廃教室に囁きが響く。
努めて抑えたであろう声は、だが思いもかけないほど反響し、葵は、自らの声に再び身を竦ませた。
 震える彼女にどう接して良いかわからず、龍麻は口を開けない。
しかし、そうしていると闇をまとった沈黙の中に、永遠に閉じこめられてしまいそうで、
無理やりに声を、とにかく意味だけは持つ音を絞りだした。
「大丈夫……か……?」
 すぐに返事はなかった。
愚かしいことを訊いてしまったのかもしれない、と舌を噛み切りたい衝動に駆られる龍麻に、
か細い返事があったのは、ややあってからだった。
「……ええ」
 葵の声は震えてはいても、恐慌には陥っていないようだ。
 そういった分析をしていると、痛みを忘れることができた。
佐久間の腕力は不良を束ねるにふさわしいといえるほどにはあり、
骨折をしなかったのが不思議なくらいで、数日は全身の痛みに悩まされるだろう。
それでも、その痛みが勝ち取ったものを思えば、それは勲章といっても良い、
少なくとも龍麻には誇りとなるものだった。
 葵はいずれ、マリアの引き起こす大破壊カタストロフィに巻きこまれる存在で、
その時に生命が助かる保証はない。
龍麻は彼女の生殺与奪に関する資格を持っておらず、大破壊を止める権利さえないのだ。
今日、女性としては死にも等しい恐怖から免れたといっても、数ヶ月後には本当の死が与えられる。
これはつまり単なる偽善ではないのかという自責はずっと消えなかったが、
それでも、襲われようとしてた葵を見過ごすことはできなかった。
「……あの、向こうを向いて……」
 何故、と言いかけた龍麻の目に、裂かれたストッキングから覗く白い太股が映る。
捲れたスカートとその白さがひどく艶めかしく見え、龍麻は慌てて一歩下がった。
さらに後ろを向き、一切の邪念がないことを示す。
葵から何も応答はなく、自分の取った態度が正しいのかどうか、
龍麻には全くわからなかったが、その背中に、ふいに何かが当たった。
思わず硬直する龍麻の耳に、低い嗚咽が聞こえてくる。
「ごめんなさい、しばらくの間でいいから……」
 柔らかく、けれど強く肩を握りしめる掌を、はねのける術を龍麻は持たなかった。
 葵の妨げにならないように、呼吸を可能な限り抑え、己を石と化す。
それは身に宿る異能の、マリアに言わせれば『黄龍』などという大層な名のついた力をもってしても、
ほとんど不可能と思えるくらいの無理難題だった。
 それでも、龍麻にはそれを行う意義があった――おそらく、これまでの人生で何番目かには。
葵に特別な感情を持っているわけではないにしても、
咎なく過酷な現実に直面させられた女性に対して、同情の念を抱かない人間がどこにいるというのか。
ひどく荒ぶる心臓に対して、龍麻はそう説明してなだめた。
「ありがとう」
 葵が幾分生気を取り戻した声で囁く。
どれほどの刻が過ぎたのかは、龍麻には意味を持たなかった。
振り向きたいのと、肩に置かれた手を、握らなくてもいい、重ねてやりたいという二つの衝動を、
さらには葵に気取られないようにという条件付きで堪えるのに、龍麻は渾身の努力を必要としていた。
 甲斐あって、両方とも実行せずに済ませることができた――
ただし、その代償として、かける言葉も失ってしまっていた。
 両の肩に置かれた掌は、強く、弱く、不規則に力を変える。
その振幅に含まれる彼女の感情に、どう接して良いかわからないまま、さらに幾秒かが過ぎる。
結局状況を打ち破ったのは葵の方からで、龍麻は、彼女を救った以外、全く無力だった。
「本当にありがとう。もう、大丈夫だから」
 葵はそう言い、龍麻の肩から手を離す。
 けれども、立ちあがると思った葵の気配には、空白があった。
龍麻の身体のどこにも触れず、立ちあがりもせず、ただ龍麻の真後ろにいるだけ。
彼女の振る舞いが何を意図してのものなのか、龍麻は途方に暮れた。
こちらが立ちあがるのを待っているのか、それとも逆にもう少しこのまま座っていた方がいいのか。
くだらない、けれども極めて重要だと思われる逡巡の末、
龍麻は両者を折衷し、ゆっくりと立ちあがった。
やや遅れて葵も立ちあがり、その気配を感じとってから、龍麻はやはり緩慢な動作で振り向く。
 葵が数センチ、あるいはもっと短い距離、近づいたような気がした。
『黄龍の器』が持つ力に、背後を見る能力はない。
だから、葵が近づいたかどうかなどわかるはずがなく、おそらくは気のせいなのだろう。
葵の表情もこの暗がりでは読みとれず、龍麻は頭を振って幻想を振り払った。
今は幻想などよりも、現実の方を優先するべきだった。
「家の近くまで、送っていくよ」
 最も現実に即しているはずの声は、龍麻も想像していなかったほど弱気だった。
いつもなら、そもそも他人との関わりを避けるのだが、
関わる以上は少なくとも他人に影響されて意思を変えたりはしない。
だが、今は葵に拒まれるのを極度に恐れていた。
どうしても送っていきたいという欲求と、拒まれたら意思を尊重しなければならないという不安。
二つの意識は火花を散らして衝突し、小さな震えとなって龍麻の外側に現れた。
「……ありがとう、お願いします」
 葵は提案を受けいれてくれた。
それは場違いな喜びをもたらし、龍麻は綻びかけた顔を引き締めなければならなかった。
 どんな下心を持って葵を助けたわけでもない。
だが、葵を護衛して帰るその事実が龍麻に、痛み始めた全身のことさえ忘れさせるほどの喜びをもたらしていた。

 心中にいつにない興奮があるからといって、龍麻が饒舌になるわけではなかった。
龍麻が喜びを見出したのは葵へのたすけを受けいれられた、それ自体にあったし、
暴行されかけた女性に、その傷がまだ生々しく残るうちにあれこれと話しかけるなど、
男として最低だと思っていたのだ。
 そして無論、女性としての危機に瀕していた葵が積極的に男に――
佐久間とどれほど異なってはいても、やはり龍麻も、男性ではあるのだ――話しかけるはずもなく、
二人はすっかり夜になった新宿の街を、ほとんど無言で歩いていた。
 二歩ほど葵の前を歩きながら、龍麻はこの距離が適切なのかどうか、ずっと悩んでいた。
後ろから佐久間が来たら気づけないかもしれないし、かといって一歩の距離では近すぎる。
一メートルにも満たない長さについて、その千倍以上の距離を歩く時間考え続けた挙句、龍麻は結論を出せなかった。
「ありがとう……ここを曲がれば、もうすぐそこだから」
「……ああ」
 家の前まで送らなければ意味がない、と応じかけ、龍麻は口をつぐんだ。
もしかしたら葵が、家を知られたくないのではと思ったのだ。
自分にはそこまでの資格はない。
 中途半端に頷いた龍麻が怒っているとでも勘違いしたのか、葵はやや慌てたように頭を下げる。
「……あの、今日は本当にありがとう。もし緋勇君が来てくれなかったら、私……」
「いいよ、それ以上は言わなくていい」
 今日のような出来事は忘れてしまうに限る。
それには口に出さず、考えもしないのが一番だ。
 ぎこちなく説得する龍麻に葵は頷いたが、夜でなければ、龍麻の表情に少し嘘を感じたかもしれない。
実は龍麻の方にも、今日のことを忘れて欲しい理由があったのだ。
 なぜ、あんなに早く人気のない旧校舎に駆けつけられたのか。
もうほとんどの生徒が下校している時間に教室に残っていて、
たまたまそこから葵を見つけ、佐久間に危険を感じて走った。
説明としては筋が通っているし、嘘偽りはない。
だが、都合が良すぎるのも確かだ。
龍麻としては真実を説明するしかなく、その真実を信用してもらえなかったら、
もしも葵にほんの欠片でも疑念が残ってしまったら、
それだけで龍麻はやりきれない気持ちになってしまう。
無視されても、疎まれても意には介しないが、蔑まれるのは嫌だった。
「……それじゃ、また学校で。さようなら、緋勇君」
「ああ、それじゃ」
 葵は最後に微笑未満の表情をひらめかせると、小さく頭を下げ、小走りで去っていった。
 彼女の去っていった方をしばらく見送っていた龍麻も、やがて踵を返して歩きだす。
途端に全身を、佐久間にやられた痛みが襲いはじめた。
「……っ」
 無理して歩こうとしてよろけてしまい、龍麻は苦笑する。
気が抜けた途端にこのざまとは、『黄龍の器』とやらもとんだ秘密兵器だった。
たかが佐久間一人倒せないで、どうやって東京を滅ぼすのか。
自嘲気味に叱咤しながら足を引きずる龍麻の脳裏に、今しがたの葵の笑顔が切れかけの電灯のように瞬いた。
笑顔と言うには程遠い、口の端をひきつらせた、怯えが残る表情。
それでも、龍麻にとっては充分な報酬だった。
それどころかその表情を思い浮かべると、佐久間から受けた痛みとは別の苦痛が心臓を襲う。
 もともと期待していなかったものを思いがけず受け取ったから、動転しているだけだ。
自分にそう言い聞かせ、龍麻は呼吸を落ちつかせる。
まだ夏が残る温い空気は、一度吸っただけでは量が足りず、立ち止まって深く吸いなおした。
だが、限界まで吸ったところで息を止め、何事か思った後に吐きだした息は、
吸った量よりもわずかに少なかった。
全て吐きだしてしまうと、今日の記憶も全て、一緒に吐いてしまうような気がしたのだ。
愚にもつかない考えだと笑い、むせる。
けれども押さえた胸の内側には、確かに記憶の欠片が残っていた。
いずれ、消え去るものだとしても――その時までは、残しておきたい。
ささやかに願う龍麻の足取りは、いつしか軽くなっていた。

 闇の中には何もなく、誰もいない。
旧校舎で目ざめた佐久間は、己が全てを失ったことを知った。
屈辱が怒りを上回り、常のように当たり散らすこともせず、ふらつく足取りで学校を出た。
 ほとんど無意識であてもなくさ迷い歩いていた佐久間の目蓋に、やがて光が刺さる。
常の習慣を身体が覚えていたのか、佐久間は歌舞伎町へと来ていた。
だが、敗れ去った男には、歌舞伎町のきらびやかな灯りも、
そこかしこで弾ける嬌声の泡も、傷口に塗りこまれる塩でしかなかった。
 もう学校には戻れない。家にも。
佐久間猪三という凶暴を構成していたものはただ一人の男によって粉々に粉砕され、
明日からは畏怖に代わって嘲笑と侮蔑が浴びせられることになるだろう。
さらに美里葵が被害届を出していれば、警察にも追われる身となりかねない。
「畜生ッ……!! 畜生、畜生ッッ……!!」
 呪詛を放ちながら迷う佐久間を、通行人が気味悪げに避ける。
普段ならそういった周りの怯えも小気味よく受容できただろうが、
今は全て、みすぼらしい狂犬になど関わりたくないのだという僻みに感じ、それは完全に事実だった。
叫び、殴り、手当たり次第に犯したい。
それらの欲望を、だが、実行に移せないほど、佐久間は打ちのめされていた。
 真神にはもう居られない。
 だが。
 美里葵、あの女だけは。
 渇望が佐久間を支配する。
 あの女だけは手に入れなければならない。
異様な執着が佐久間を支配し、あらゆる負の感情が執着という芯に結合し、融解し、増殖する。
それらはすでに佐久間という器に収まりきらないほど膨れ、破裂の時を待つばかりとなっていた。
 歌舞伎町の、常夜の灯も届かない奥に佐久間は入りこんでいく。
ゆえにその瞳が狂気に彩られていくのを見た者は、誰一人としていなかった。



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