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「さあ、始めましょうか」
 上に跨ったマリアが告げる。
目を閉じた龍麻は、自分でも判らないくらい小さく頷いた。
 繰りかえされる夜毎の儀式。
彼女にとっては食事であり、同時に調理でもあるこの儀式を、
龍麻は彼女の虜囚となった日から受けいれていたが、半年以上経った今でも慣れることはなかった。
 マリアの手が胸をまさぐる。
白い指先が一箇所に留まることはなく、龍麻の身体を蜜を求める蝶のようにあちこちさ迷う。
十八歳の男として健全な肉体を備える龍麻は、刺激に応じようとする己に、全力で制動をかけた。
それは勝ち目のない戦いであり、せいぜい数秒の自己満足を得られるだけの無駄な抵抗でしかない。
それでも龍麻は、抗うしかなかった。
 囚われの身だから自由を奪われるのは仕方がないとしても、
マリアはおそらくは意図的に身体を寄せていて、
龍麻がほんの少しでも身じろぎすれば成熟した女の肉体に触れてしまう。
年頃の男であればむしろ歓喜すべき状況でも、男女関係においては古風な考えを持つ龍麻としては、
容易に身動きするわけにはいかず、寸法違いの棺桶に押しこめられたようにじっとしているしかない。
マリアの目的は首筋から血を吸うことにあるのだから、その間だけ耐えれば良いのだ。
そう決心して全身を鋼鉄と化す龍麻なのだが、闇に住まざるものの宿命として、
灯りがない場所では極端に認識力が低下してしまうため、
マリアが毎晩、数秒ずつ跨っている時間を延ばしていることにまでは気づいていない。
初めの頃は首筋を差しだすだけで良かったのに、いつのまにか男の矜持を試されるような毎夜を
凌ぐのに精一杯で、ともすればふらふらと漂ってしまいそうになる理性を繋ぎとめなければならなかったからだ。
「……」
 闇の中で、紅い唇が笑った。
実際には、東京の灯をほぼ完全に遮断するこの部屋では、肌が触れるほどの距離にいる相手の顔でも、
その表情をうかがうことはできない。
けれども龍麻は視覚によらない何かで彼女が薄く笑っているのを捉え、そしてそれは事実だった。
 だが、ほとんど超能力に近いその感覚を誇るでもなく、龍麻はいよいよ今日も始まるのだ、と身を固くする。
ほどなく、かすかな衣擦れの音と共に、マリアの手がパジャマの襟に触れた。
形を整えるように滑ってきた指は、襟の合わせにまで辿りつくと、そこから下に移動を始める。
きちんと留めたボタンをわずかな動きだけで巧みに外し、
生じた隙間から手首までを服の内側に潜りこませる手際は呆れるほど鮮やかで、龍麻に抵抗する隙を与えない。
ほのかに冷たい掌は皮膚を刺激し、意思とは無関係に肉体の反応を促す。
龍麻はあらかじめ唇を固く引き結んでいたが、いつになく繊細な指の動きに心許なさを覚え、
やや強めに噛みなおした。
 これが龍麻を辟易させるもう一つの行為で、マリアは龍麻の首筋に牙を立てる前に、
じっくりと肉体を撫でまわすのだ。
マリアに言わせれば、興奮で血液の温度が高くなるとより美味になるということだが、
通常の人間である真偽の程はもちろん確かめようがない。
確かなのはマリアの冷ややかな手で触れられると、ほとんど瞬間的に身体が火照りを覚えるということで、
つまり、マリアが執拗なくらいに愛撫をする必要などないのだが、
そう告げるのも恥ずかしく、また、告げたところでマリアは止めたりはしないということも判りきっているので、
結局龍麻は弄ばれるままになるしかなかった。
 だが、以前の、背を向けた状態でまさぐられるのなら耐えられたものも、
最近になってマリアはどのような心変わりか、龍麻の正面――上に跨るようになった。
マリアのような、スタイルが極まっている女性に正面から密着されて理性を保つのは、
同世代の男性と較べても異常なほどに欲望を抑えられる龍麻であってもはなはだ困難なことだ。
ましてマリアはその外見からは想像もつかない年月を生きる人ならざるもので、
彼女が蓄えてきた経験は数世代以上にのぼるはずだ。
対して龍麻はこれまでまともに女性と交際もしたことがないような奥手で、
寝室での駆け引きなど、そんなものが存在するということすら知らないありさまだ。
 となれば必然、マリアを少しでも知る男ならほぼ全員が訝かるに違いない、
ここまでお膳立てを整えられて頑なに拒むという意地を貫くなら、
体も心も人ならざるものに変じさせる他に手はなかった。
「フフ……」
 奥歯を噛みしめる龍麻を、マリアは余裕の表情で眺める。
籠城は援軍が来ることが前提の戦法であって、孤立無援で行っても飢え死にするだけだ。
トレーナーの裾に手を忍ばせ、そこから特に鍛えてもいないくせに引き締まった腹を撫で、
マリアは哀れな獲物の前髪を掻きあげた。
「……」
 半年近くも寝食を共にすれば、どのような責めに弱いかなど把握できる。
この若いオスは微弱な、羽毛で撫でるような愛撫が好みで、
特に首筋に軽く息を吹きかけてやると喉が渇望にうごめくのだ。
当人は我慢しているつもりだろうが、夜目の効くマリアには、
込みあげる呼気を吐きだすまいと必死に堪える唇まではっきりと見えた。
 彼に語った血は温かい方が美味である、というのは嘘ではない。
吸血鬼の多くが反対の性別の人間を獲物として狙うのは、この理由が占めるところが大きいのだ。
温度の上がった血液が喉を落ちていくとき、マリア達は深い悦びに酔いしれる。
それは純粋に血の美味によるものではあるが、種族は違えど異性を虜にする、という点でも気分がよいのは確かだ。
まして龍麻のような、若いくせに求道者さながらに禁欲を己に課す人間を、
理性と本能の狭間で葛藤させるのは、あらゆる種類の悦びとなるのだった。
 しかしマリアは、彼が煩悩に耐えきれず、一線を越えてきたとしても、
誘惑の蝶のように鱗粉だけを撒いて逃げるつもりはない。
彼が望むのなら快楽を――それも、至上に近い悦楽を――与えるにやぶさかではなかった。
マリアは決して快楽主義者というわけではないが、
目的を達するまでは全ての欲を断つというほどストイックでもない。
今までにそういう経験はないが、血ですら普通の人間とは異なる『黄龍の器』であるから、
もしかしたらセックスでも普通とは違った快楽をえられる可能性はあり、
試すだけは試してみても良いのではないか。
 けれども龍麻は、今日も断崖を飛ぼうとはせずに引き返した。
彼の心は一体何で編まれているのか、これほどの誘惑を受けながら、
なおマリアを拒み、欲望という名の重りも破れることなく耐えきっていた。
 彼の熱が冷めていくのを彼の肉体の外と内の双方から感じたマリアの心に、またひとすくい、微量の落胆が積もる。
苛立ちという形は取らないはずのそれを、わずらわしげに頭を振って隅に追いやり、
マリアは龍麻から唇を離した。
 行為は終わり、あとは人にも、人ならざるものにも等しい時間が待つだけだ。
突きたてた牙を引き抜き、マリアは彼の上から降りようとする。
すると珍しいことに、ためらいがちに龍麻が訊ねてきた。
「何か、準備みたいなものは必要ないんですか?」
「準備?」
「『黄龍の器』を解放させるための儀式とか、そういうのがあるんじゃないかって」
 闇の中でもマリアが眉をひそめるのがはっきりと判って、龍麻の頬は熱くなる。
かねてからの疑問ではあったが、もう少し訊くタイミングがあったのではないか、といまさらながらに後悔した。
これではまるで――マリアを引き留めたいがために質問をひねりだしたみたいではないか。
おそらくは吸血の前に身体を触られたことと、吸血そのもののせいで昂ぶっているのだろう。
そう自分に言い訳をしてみても、うかつなことを口走ってしまった事実は消せず、
龍麻は狼狽を悟られないように、緩めた緊張をまた引き締めるしかない。
頬が赤くなっているのを気づかれなければよいが、と願ってはみたものの、
おそらくは人間より吸血鬼の方が夜目が効くはずで、はかない望みははかないままに終わりそうだった。
ややあって小刻みに揺れた彼女の身体は、おそらく笑っていたのだろうから。
「そうね、そういえば忘れていたわ」
「あるんですか?」
「ええ」
 そんな話はこの半年間、一度も聞いたことがなかった。
ゆえに思いがけない返事が返ってきても、龍麻は半信半疑の姿勢を崩さないつもりだったのだが、
低く抑制された、暗路の道標のような囁きについ引きこまれてしまう。
「『刻』を迎えるときまでに、『器』は清められていなければならない」
「……はい」
「だから、これから『刻』が来るまで、ワタシがアナタを清めてあげるわ」
「……具体的には何をするんですか?」
 この時すでに龍麻は、マリアを押しのけようかと本気で考えている。
一瞬でも気を許したのが間違いで、彼女とはやはり相容れないのだ。
そう思いながら龍麻は、額に触れる彼女の手の冷たさに気を取られる。
冷たいのは、彼女が吸血鬼だからなのか――それとも、自分の体温が上がっているからなのか。
確かめる術もないまま、龍麻は触れそうに近づくマリアの顔から、一ミリでも離れようと顔をそむける。
無防備になった耳こそが、マリアの狙いだとは気づかぬままに。
「アナタのカラダをワタシが洗うのよ」
「自分でやります」
「フフ、ダメよ。独りではカラダの隅々まで洗えないでしょう?」
「洗えますよ」
「どうかしら、確かめてあげる」
 言うなりマリアは顔を寄せ、耳の裏側を舐める。
不意をつかれてなにやら色々なモノがいちどきに頭の中で弾けた龍麻は、
身体を反転させてうずくまろうとしたが、直上にマリアが居ては反転どころか身動きさえできない。
叫びそうになった口を無理やりに閉じるのがやっとだった。
「やっぱり洗えていないわね」
「あッ、明日から洗いますから」
「そう……それなら明日の夜、またチェックするわね」
 完敗の態で龍麻は布団を被りなおして目を閉じる。
幸いなことにマリアは追い打ちをかけてはこず、彼女の気配は離れていった。
それでも、殿しんがりを引き受けた心臓はなかなか鳴りやまない。
 明日からは徹底的に身体を洗うようにしなければ。
そう固く決心する龍麻が寝入ったのは、マリアが離れてから一時間以上も経ってからで、
その間彼の動揺を気配で読んだマリアが笑いをこらえているのには、遂に気づかないままだった。

 佐久間猪三は、あの日以来学校に姿を見せなくなっていた。
同級生をレイプしようとした男と同じ空気を吸うなど龍麻には耐えられなかったから、
あの男が来なくなったのは喜ぶべきことではある。
ただ、春先からずっと絡まれていた煩わしさを解消する機会を失ったわけで、
次回はどんな些細なトラブルであっても許さず、完膚無きまでに叩きのめすつもりであったから、
その点では物足りなくもあった。
 もう一方の当事者である美里葵は、純潔を穢されそうになった事実を、少なくとも表には一切出さなかった。
教師や警察に被害を届けることもなく、毎日龍麻の隣の席に座り、授業を受けている。
休み時間などにそれとなく龍麻も聞き耳を立ててはみたが、
どんなささいな綻びも彼女の言動には見られなかった。
 彼らの虎である佐久間が居なくなった理由を知る由もない佐久間の子分たちは、
威を借りることもできず、また、彼らの仲間の一人が長期入院していることもあって、
ここのところはおとなしくしていた。
まれに他の生徒と小競り合いめいたものが発生しているようだが、そのあたりのことにまで龍麻は関知しない。
葵をたすけたのも異例なのだと自分では思っているのだ。
あと、二ヶ月と少し――それだけの刻が経てば、東京は混沌に包まれる。
むろんこのクラスに居る人間も大半が巻きこまれるはずで、そこで生き残ったとしても、
待ち受けているのは過酷な、死んでいた方がましだったと思える世界に違いない。
多少の悲劇など、もはや問題ではないのだ。
 その混沌、多くの人間は望まない世界を生みだす代償として、龍麻は最初にその身を捧げることになっている。
だからといって許されるわけではないが、マリアの手による復讐の、第一犠牲者となる覚悟はできていた。
――覚悟、というのは正確ではないかもしれない。
まだ二十歳にも満たない年齢の龍麻は、他の同年齢の誰に聞いても、
ほぼ全てが少なくとも死にたくはないと考えているのに対し、すでにこの世界で生きることを半ば放棄していた。
自ら命を絶つほどではなくても、きっかけがあれば死を迎えいれることを望んでいたのだ。
この東京の、そしてこのクラスの同級生たちは、いわば龍麻の死の巻き添えを食うことになる。
彼らに悪いと思う気持ちはあっても、マリアを止めようとは思わなかった。
同族を皆殺しにされた彼女の復讐心を和らげることができる人間がいたら、
その時は彼女に従うが、そんな人間がいるとも思えない。
そもそも、加害者が被害者に良心を求めるなど、おこがましいにも程があるではないか。
龍麻は人ならざる力をその身に宿していても、分類上は紛れもなく人間であり、加害者の側なのだ。
彼女を止める権利があるとは、とうてい思えなかった。



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