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 今日もつつがなく一日の三分の一が過ぎる。
学生である龍麻にとっては授業が終わるという意味で、
若いエネルギーを一気に、そして無秩序に爆発させる同級生たちを尻目に、淡々と帰る支度をしていた。
 一日が終わる、ということは別の終わりに近づくということだが、真神學園の中にそれを知る者は三人しかいない。
そのうちの二人は終わりを始める側に立っており、残る一人も、二人を妨害しようとは、今のところしていなかった。
 誰とも一言も交わさずに、龍麻は教室を出る。
するとタイミングの悪いことに、隣の教室から出てきた犬神と鉢合わせしてしまった。
「……」
 犬神は無言で龍麻よりもごくわずかに高い位置から見下ろす。
その眼差しは鈍く、龍麻が会釈して小走りで駆けても何も言わなかったが、
その眼光は充分、龍麻に対しての圧力となった。
 彼こそがこの学校でマリアの計画を知る三人目である、犬神壮人だった。
真神で生物教師に就いている彼もまたマリアと同じ闇の眷属であり、
その正体は人狼ベイオウルフと呼ばれる伝説上の存在だった。
 なぜ彼が教師などに身をやつしているのかは、マリアも知らないという。
だが彼らも吸血鬼同様人に滅ぼされた種族であり、人間を恨んでいないはずがない、
というのがマリアの推測で、だからその刻が来ればもう一度説得を試みて、それでも逆らうのなら殺す。
それまでは放っておくと彼女は言った。
彼女の方針を是とする龍麻だが、その点については異論があった。
龍麻の見るところ、常に白衣と着古しのシャツをまとい、煙草を咥えている彼は、
確かに生徒から好かれてはいないようではあるが、すっかり人類社会に馴染んでいるように見える。
復讐心を胸に秘めるマリアも、教師として非の打ち所はないのだから、
彼も巧みに潜伏しているだけなのかもしれない。
それでも、龍麻はマリアほど楽観視しておらず、その刻が来ても、彼が協力するとは思えないのだ。
彼女を、止めて欲しい――
そう語ったときの犬神の眼光を、龍麻は忘れられない。
敵、というより牡すべてを威圧する、まさしく狼の眼を。
あんな眼で大破壊を止めさせようとする男が、どうして自分たちに与するというのか。
犬神が協力しないだろうというのは、龍麻にとって確信に近かった。
そして彼のことを考えるとき、なぜか憎しみとは別種の苛立ちを感じてしまう理由を、
どうしてもつきとめることができないのだった。
 犬神から逃れるように階段を下りた龍麻は、苛立ちを抱えたまま下駄箱を開ける。
すると中に、一通の手紙が入っていた。
怪訝な顔で靴より先に手紙を取りだすと、手紙の両面を眺め、陽に透かしたりしてみる。
純白の封筒には宛名も差出人も書かれておらず、靴を履きつつ疑念を一層強めた龍麻は、
歩きながら中身を確かめることにした。
校門を出たところで封を開け、中身を取りだす。
文章よりも先に差出人を確かめたのは、龍麻が全くそういったものを受け取る心当たりがなかったからだが、
便せん一枚にしたためられた内容は、健全な男子高校生であるならば、
夢見ながらもまずお目にかかることはないものだった。
最も可能性が高いのは佐久間からの果たし合い状だと思っていた龍麻は、
差出人の名前を見て、思わず眼を瞠った。
 手紙は美里葵からのものだった。
救けてくれた礼と、話したいことがあるので、今日の午後五時三十分に新宿中央公園に来て欲しいとある。
丁寧な字で短く書かれた文章を、二度読み返す。
通り過ぎていく学生の小さな舌打ちに、立ち止まってしまっていたことに気づき、
慌てて邪魔にならないところまで移動した。
そこで呼吸を落ちつかせつつ、もう一度手紙に眼を通す。
内容を完全に理解しおえた時、龍麻の感情はうねり、膨れ、そして絡まっていた。
こんなに幾つもの感情が同時に芽生えるのは初めての経験で、龍麻は顔の下半分を右手で掴む。
自分が今どのような顔をしているのか、全く見当もつかなかったのだ。
 どうやって心を落ちつかせたらよいか困惑する龍麻は、あえて否定的な思考から手綱を引く。
 学校に呼びだせばいいものを、なぜわざわざ別の場所に呼びだすのか。
もっとも、その考えはすぐに否定された。
彼女はついこの間まで生徒会長で、休み時間にも彼女を頼ってくる生徒がいたし、
放課後も様々に活動をしていたようだ。
そんな彼女は当然有名人だろうから、学校内では落ちついて話もできないのかもしれない。
だとすれば、待ち合わせに校外を指定するのもやむなしといったところだろう。
まして、彼女が呼びだした理由が、龍麻の想像するとおりのものならば。
 実のところ、他に思いつく理由などなかった。
龍麻は自惚れるさがをもっておらず、自分が女性に人気があると考えたこともない。
異性に好意を抱いたことは何度かあっても、それが交際にまで至ったことはなく、
その経験の乏しさからすれば、ごく当然に導ける自己分析だ。
だからマリアが夜な夜な弄ぶのも、猫が捕まえた鼠をなぶり殺して遊ぶようなもので、
男女の感情などではないと確信している。
 だが、手紙の文面は、そんな龍麻でさえ勘違いしようのないほど明瞭に、
それを読む者への想いを伝えていた。
彼女は先日の佐久間の件しか知らないはずで、
龍麻は桜井小蒔が嵯峨野の件を漏らしたのではないかと邪推してしまう。
それほどに葵は自らの気持ちを切々と訴えており、それは龍麻に、困惑よりも喜びを与えた。
なにしろ美里葵は誰もが認める美しい少女で、転校当初から人付き合いを断つつもりだった龍麻でさえ、
束の間ではあるが見とれてしまったほどだ。
性格にも危なげなところはなく、休み時間、友人たちの相談に、
公私にわたって乗ってやっているのを龍麻も何度も聞いている。
彼女に恋人が居ないのは、釣りあう男が居ないからだという話にもうなずいてしまうくらい、
欠点らしい欠点の見あたらない彼女に好かれるというのは、
たとえそれが偶然、しかも半ばは意趣返しであり彼女のためではない行動の結果であっても、
嬉しくないわけがなかった。
事情・・がなければ、一も二もなく彼女に応えただろう。
 再び手紙を読み返した龍麻は、そこに自分の名前が記されているのを見てため息をつく。
葵の告白を受けいれるわけにはいかない立場だったが、
面と向かって断るのは、非常な難題であると想像できてしまったからだ。
手紙は一方的に呼びだしているものだから、行かない、という意思表示もできる。
けれどもそれはあまりにも失礼に思え、断るにしてもやはり直接会って告げるべきだった。
 手紙を折りたたみ、封筒にしまった龍麻は、やや考えて時計を見る。
指定の時間まではまだ一時間半以上あった。
他の、たとえば買い物などで時間を潰す気にはなれず、かといって一度家に帰る気にもなれず、
しばらくこの辺りを歩き回ることで時間を調整することにした。

 朝から暗かった空は、すっかり灰色になっていた。
雨が降るのも時間の問題と思われて、傘を持ってこなかった龍麻はどうすべきか悩んでいる。
買うのはもったいないような気がするし、葵の前にびしょ濡れで現れるのも格好悪い。
自分の生命に関して即断即決した男とは思えないほど優柔不断に迷い続けた挙句、結局傘は買わずに行くことにした。
これから彼女にする仕打ちに対して全く釣り合いは取れていないが、
風邪を引くくらいは甘んじて受けいれるべきだと考えたのだ。
 二分に一度くらい見ている時計は、ようやく呼び出しの時間まであと三十分というところまで来た。
これくらいの時間なら、そろそろ公園に向かっても良いだろう。
できるなら、雨が降る前に終えてしまいたい。
そんなことを考えつつ、龍麻は新宿中央公園に足を向けた。
 一方、五時の少し前の時刻。
美里葵はすでに、新宿中央公園の中にいた。
空を見上げ、雨が降る前に彼が来てくれれば良いがと祈る。
天気で告白の成否が変わりなどしないといっても、雨の降る中で告白というのは、
いかにも悲恋を予想させて、できれば避けたいところだった。
やっぱり明日にした方が良かったかしら、と考え、
そうやって伸ばし伸ばしにした結果が、手紙を書こうと決断してから三週間、
実際に書いてからは一週間以上も経った今日の呼びだしだった。
 彼は来てくれるだろうか。
生まれて初めての異性への告白を、葵は親友である桜井小蒔にも告げていない。
彼が、何か理由があるにしてもクラスに溶けこもうとしないのは事実だったし、
小蒔も、彼を悪くこそ言いはしないものの、他の男子生徒に接するのとは明らかに異なる、
稀に目が合っても困惑して逸らしてしまうといった対応をしていた。
葵も、席が隣とあって一学期の頃は話しかけたりもしてみたが、
なにしろ世界を敵に回しているかのように彼は他人に対して背を向け、最低限の交わりしかしようとしない。
やがて葵も干渉を諦め、「その他大勢」の中に彼を置くことにした。
 その関係が急激な変化を遂げたのは、二学期が始まってしばらくした頃だ。
葵にとっては思いだしたくもない悪夢の日。
こともあろうに学校内で葵は、悪い意味でその他大勢ではない同級生の佐久間猪三に襲われ、
貞操を奪われそうになった。
旧校舎に強引に連れこまれ、為すすべもなく犯されようとするその時、
彼は現れ、佐久間を追い払ってくれた。
いつものように無口で、関心などないように見えて、けれども落ちつくまでずっと傍にいてくれた彼。
あの日以後も会話らしい会話など交わしていないが、葵は朝や休み時間のふとした折に、
それまでよりもずっと多く彼を見ている自分に気づいた。
それはもしかしたら、恋心などではない、安直な気持ちなのかもしれない。
けれども彼ともっと話をしたいという心に偽りはなく、
いつも外を見ている彼の顔を見たいという気持ちは本当だった。
 これまでの彼の態度からしても、告白が成就する可能性は高くないだろう。
それでも、どうしてそんな態度を取るのか聞かせてもらえるくらいはできたら。
これまでのどんな男性にも抱いたことのない気持ちを、葵は手紙に託した。
同じクラスなのだから直接校舎裏で告白する方法も考えたが、
彼の顔を見てまともに想いが伝えられるかどうか、はなはだ自信がなかったのだ。
 便せんを買い直す羽目になったくらい書いては破り、破いては書き、
ようやく書きあげてからもどうやって渡すか考えてはためらい、
ためらっては考えているうちに月日ははや一ヶ月近くが過ぎてしまった。
遂に決心し、昼の休み時間に彼の下駄箱に手紙を忍ばせたのが今日で、
渡すことだけを考えていたあまり、天気にまで気が回らなかった葵だった。
 何度目か、時計に目をやった葵は、再び空を見上げる。
空はいよいよ暗く、いつ最初の雨滴が落ちてきてもおかしくなかった。
結果を怖れるように空から地上に、葵は視線を転じる。
曇り模様のせいで気温もやや肌寒さを感じ、そのためか、人の影も少ない。
人が少ないのは葵にとって好都合のはずだが、薄暗い今日の公園はどことない不気味さを感じさせた。
早く、来てほしい――
雨が降りだしてしまえば、きっとこの恋は叶わないだろうから。
自分で否定したジンクスを信じてしまいかけているのは、不安になっているからだろう。
どちらの結果になるとしても、今のこの不安定な状態からは早く抜けだしてしまいたい。
 そう願い、辺りを見渡した葵の視界の端に、何かが映った。
彼だろうか。
とくん、と心臓を鳴らした期待は、しかし一瞬で打ち払われる。
 葵がこの場所に立つきっかけを作り、そして、こんな場所にいるはずのない人間。
葵は無用に冷酷な人間では決してなかったが、その彼女が、意識して忘れようとしていた人間がそこにいた。
「……!!」
 恐怖が心を漂泊する。
そして心が現実に影響を及ぼしたかのように、世界は黒と白に変貌していった。
 嫌、来ないで。
 誰か、助けて。
 鞄が手を離れ、落ちたのにも気づかず葵は後ずさる。
手の甲に、雨粒の最初の一滴が当たった。
その冷たさを全身に感じたとき、葵の意識は消え失せていった。
 鈍い地響き音を立てて、何者かが近づいてくる。
足音だけでさえ禍々しさを予感させるそれは、倒れた葵の前で立ち止まると、
耳元まで裂けた口に下卑た笑みを固定させた。
 葵の前に現れたのは、佐久間猪三だった。
といっても、そうであり、そうではない。
顔の造作に面影を残すのみで、彼を知る者でなければ、
そもそも人間であったことすら判別できない異形が葵を姦しようとしていた。
 その場に倒れた葵の髪を掴み、引きずっていく。
真っ白の制服に、その制服も恥じいるほどの白い肌が、たちまち泥に汚れていったが、
佐久間――佐久間であったモノは意に介せず葵の足を開かせ、ストッキングを引きちぎった。
葵の足の二回り以上も太い腕は下着ごと一気に裂き、女性の最も大切な部分を露わにする。
劣情の涎を醜くしたたらせた化け物は、葵の上にのしかかった。
 女を奪うとき、男が居れば見せつけながら犯すのが佐久間の流儀だった。
力が、頭の良さや金や権力などといった小賢しいものではない、
純粋な暴力が足りないがゆえに牝を奪われるのだという屈辱を惨めな牡に教えこみ、
その絶望を奪い取った女の膣内に注いでやるのが、佐久間にとって最高の快楽だったのだ。
その流儀に従えば、龍麻を地に這いつくばらせて、その眼前で葵を犯してこそ、
これまで味わったことのない絶頂を得られるだろう。
だが、龍麻に敗れた佐久間は、信奉する暴力さえ一度捨て、確実に葵を犯す方途を選んだ。
それほどまでに佐久間は、葵を手に入れるという妄執に取りつかれていた。
学校を捨て、家を捨て、佐久間は彷徨さまよう。
 それは、何の意味もない彷徨だった。
恥を知るならば、誰も知る者がいない土地にまで逃げる。
未練がないならば、どこへなりとも旅し、流れればいい。
しかし佐久間にはそのどちらもなく、
緋勇龍麻を憎みながらもきらびやかな街の灯から離れられないという佞悪ねいあくと、
美里葵を姦したいという醜穢しゅうわいとに両足を縛りつけられ、
闇雲に会社員を襲い、金銭を巻きあげ、刹那の欲望に耽ったあと、
より大きな渇望に身を灼かれるのみの、ただ堕落するだけの時間を過ごすだけだった。
 美里葵を犯さなければ。
 緋勇龍麻を殺さなければ。
渇望が癒されないことを、佐久間は思い知らされた。
 ならば、手に入れるしかない。
女を犯し、男を殺し、己が飢えを満たすのだ。
どれほどいびつで歪みきっていても、それは信念だった。
信念は人に気力を与え、希望を与える。
佐久間とて例外ではなく、散漫だった欲望が美里葵と緋勇龍麻という二点に凝集された時、
信念と結びついて方向性をえたそれは一気に膨張した。
絶望、憤怒、欲望、自棄、鬱憤、劣情。
佐久間の裡にあるそれら負の意識すべてが、膨張した信念に吸着していく。
そして当人ですら御しえないほどになったとき、佐久間は人ではなくなっていた。
まず心が、次いで肉体が。
その事実を知らぬ佐久間は、彼を見た人々が悲鳴をあげ、逃げ惑っても、
自分に怖れをなしているとしか思わなかった。
逃げ遅れた人間の頭を吹き飛ばし、その血肉を喰らうようになっても、疑問など持たなかった。
だが、喰らうのに邪魔な服を力任せに引き裂き、そこに双つの柔らかそうな膨らみを見て佐久間は思いだす。
ミサトアオイ。
ほとんど溶けかけた記憶の、最後の片隅にその名を思いだした佐久間は、
彼女を捜して新宿の街を彷徨した。
男を殺して喰らい、女を犯して喰らい、闇に紛れてかつて人間だった時に根城にしていた地域を徘徊する。
そして、遂に見つけた――
佐久間は、佐久間であったモノは、一瞬の躊躇もなく美里葵に襲いかかった。
姿を見ただけで気を失った葵を、茂みに引きずりこむ。
コノオンナダ。
猛った性器を葵の身体に一気に挿入した。
ツイニオレノモノニシタ。
狭隘な肉の手応えが、佐久間を満足させる。
灰色の空を見上げ、佐久間であったモノは哄笑した。
それは、獣の咆吼だった。



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