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龍麻が新宿中央公園に着いたのは、約束の十五分まえだった。
そこから葵が指定した場所に着くまで、さらに五分を要する。
それでも時間には充分な余裕があるはずだったが、不安は的中し、
公園に着いた時にはすでにかなり降られてしまっていた。
朝の時点で雨が降る、と言っていたくらいだから、葵はきっと傘を持っているだろう。
そう確信しつつも、万が一のことを考えて龍麻は足を早める。
彼女に風邪を引かせたくない――そう理由づけすることで、公園に入って急に重くなった足を無理やり駆るように。
新宿中央公園を初めて訪れる龍麻は、葵が指定した場所を見つけるのに手間取っていた。
行けばすぐにわかるだろう、などと甘く考えていたのが災いして、
また、折からの雨で公園内に人の気配がほとんどないことから無闇に歩き回らされてしまい、
ようやくそれらしき場所に着いたのはすでに五時三十分まで十分を切っていた。
結局呼吸を整える時間もなく、龍麻は辺りを見渡す。
葵の姿は見あたらない。
彼女の為人からいって、この時間に来ていないというのは考えにくいが、
雨のために遅れているのか、あるいはどこか雨をしのげる場所にいるのかもしれない。
いずれにせよ来ない、という可能性は皆無のはずで、龍麻はとにかく約束の時間までは待ってみることにした。
雨は少しずつ足を強め、雨粒が地面に落ちる以外の音はほとんど聞こえなくなっている。
どうやら季節外れの土砂降りになりそうで、身体も徐々に冷えてきている。
歯をカタカタさせながら告白を断るのはあまりに格好が悪いので、
できればそろそろ来てくれないだろうかと、龍麻は狭まりつつある視界をもう一度確認した。
こんな雨の日に散歩に来る人間もおらず、草木も侵略する灰色に屈してしまったようで、
動くものどころか生命の気配さえ絶えてしまっていた。
こんな状況で泣かれてしまったら、途方に暮れてしまうかもしれない――
結論は出ているはずなのに、濡れた服から弱気が入りこんでくる。
どれほど弱気になっても、口にしてはいけない台詞があるのだと胸に刻んだ龍麻は、
それを徹底させるために激しく頭を振った。
長めの髪が災いして、多量の水滴が飛び散る。
きりがないそれらを、わずらわしげに髪ごと上に、そして後ろに跳ねあげたとき、突然咆吼が耳を撃った。
動物園でもなければ聞かないような、本物の獣の叫び。
しかし獣のそれよりもなぜか人の厭らしさを感じる咆吼は、
新宿中央公園という場所には全く似つかわしくないものだった。
全身に緊張を走らせて、龍麻は周囲を見渡す。
焦りと不安に視界を妨げられながらも四方を探っていると、奥の茂みに何かが落ちているのを見つけた。
息を止め、駆けよって正体を確かめる。
龍麻がずっと立っていた場所からは、ちょうど死角になる場所に落ちていたのは、一個の鞄だった。
見覚えはない――けれど、それは龍麻に連想させる。
この日、この時間、この場所に鞄があるのならば、その持ち主は一人しかいないはずだ。
そしてその持ち主は、こんな風に鞄を置きっぱなしにする人間ではない。
胸の奥から急速に何かがこみあげてくるのを抑え、龍麻は鞄に近寄る。
見ただけでは誰の物かはわからない――けれど、けれど。
雨音をも上回る音量で鳴り響く心臓を勝手に鳴らさせておき、龍麻は藪の中へと踏みこむ。
うっそうと茂る樹木は、普段なら人の立ち入る場所ではない。
だが、龍麻はそこで、居てはならないはずの人間を見た。
組み伏せられる葵に、のしかかる佐久間。
以前に見た光景が龍麻の眼前に現れる。
ほとんど闇に近かった以前とは異なり、暗くても灰色が残っている今日は、
二人の姿がよりはっきりと見えた。
だが決定的に異なるのは、葵の制服はすでに原形を留めぬほど引き裂かれていた。
彼女の両足の間に陣取った佐久間が獣の醜さで腰を振り、
対照的に葵は生命など持たぬ人形のように、暴力的な律動に身体を揺らされるがままになっている。
あってはならない光景、存在してはならない現実だった。
葵の上にのしかかっているのは、もはや人ではなかった。
醜悪な、人の尊厳を踏みにじる悪鬼。
それは比喩的な意味ではなく、龍麻の眼前に居る存在は、文字通りの鬼だった。
佐久間であった時よりも二回りほど膨れた体格に、短躯でありながらも脂肪は少なかった昔の面影はなく、
ただ脂肪が無節操に付着している。
それでいて全身から放つ狂気は、醜い暗褐色の淀みが視えるほどだった。
その悪鬼が、腰を振っている。
白と黒しかない、非現実的な光景の中で、その一箇所だけが吐き気がするような現実だった。
愛情も、快楽さえもない、ただの陵辱。
抗う力すら奪われ、嬲られる葵を、龍麻の双眸は映している。
映してはいるが、情報を脳に伝える神経が断線したらしく、どんな感情も湧いてはこず、
呼吸さえ忘れて龍麻は、自分を好いてくれた少女が犯されている姿をただ見ていた。
ごとり、と音がする。
それは圧倒的に膨大な、怒りを封じる門の閂が外れる音だった。
だがあまりに巨大なそれはいちどきに龍麻を苛むには至らず、漏れでる負の感情が先に心を痛めつける。
なぜこんな近くにいたのに気づかなかったのか。
なぜあと三十分早くこなかったのか。
なぜあの時佐久間にとどめを刺しておかなかったのか。
なぜ。
なぜ。
猛毒を孕んだそれらの叱責に、龍麻はなすすべがない。
心が完全に毒に浸かってしまっても、さらには手足にまで回ったとしても、
彼女が今受けている痛みに較べればどれほどのことがあろうか。
犯した罪を贖うように、龍麻はほとばしる負の波動に己が心身を差しだした。
立ちつくす龍麻に、佐久間が気づく。
もはや人であることさえ忘れた悪鬼は、かつて自分を倒した人間が、
限りない絶望に身を浸しているのを見た瞬間、文字通りに狂い果てた。
この男を佐久間猪三として繋ぎとめていた細い糸が弾けとび、
もう一つの未練であった葵を放りだして龍麻に向きなおる。
「ヘ……ヘヘッ、犯ってやったぜ……ッ、見たか……ッッ!!」
佐久間の叫びが轟く。
変貌した口は、すでに人間の言葉を発せなくなっていたが、佐久間には構わなかった。
緋勇龍麻と、美里葵。
まともに考えることさえできない脳にわずかに残ったモノ。
すでに佐久間は人間を、オスとメスでしか識別できなくなっていたが、この二人の顔だけは忘れなかった。
ミサトヲオカス。ソシテ、ヒユウヲコロス。
その二つの欲望だけが、今の佐久間を構成する。
ミサトヲオカシ、ヒユウヲコロシ、マタミサトヲオカス。
果てない欲望に佐久間であった存在は涎を垂らし、現れたもう一つの欲望を充たそうと声を張りあげた。
「ぶっ殺してやる……手前ェを殺して美里を俺の女にしてやるッッ!!!!」
佐久間の咆吼は、何と言っているか龍麻にはわからない。
だが、その野卑た叫びは、機能を停止していた龍麻の全神経に、一瞬にも満たない間に嚇怒を流しこんだ。
毒に浸かりきった心が命じる。
こいつを生かしてはおけない。
忌んだはずの力さえ呼び起こし、龍麻は誓った。
世界が破滅しようとなんだろうと、こいつだけは俺の手で殺す。
努めて殺していた感情が、奔流となって龍麻を衝き動かした。
すべての理性が押し流されるに任せ、龍麻もまた、一頭の獣となる。
「佐久間……ッ!!!!」
相手が化け物であっても、怯みなどしない。
怒りが荒れ狂い、闘争心が支配する全身に、怯懦などひとかけらさえ残ってはいなかった。
全身を弾丸と化し、佐久間を貫かんと突進した。
「ガァァァッッ!!」
龍麻の突進を正面から受けた佐久間は共にもつれて倒れる。
それは以前行われた旧校舎での二人の戦いを、攻守を替えて再現したものであったが、
激しさにおいて比較にならなかった。
鈍い音が雨音に混じって幾度も響き、その都度どちらのものともつかぬ獣めいた叫びが重なる。
佐久間は一切の躊躇をせずに龍麻を殴り、龍麻も、持てる力の全てを使って、
目の前の存在を消滅させようと拳を奮った。
顔を殴り、腹を殴り、あらゆる部位を殴る。
死闘は苛烈さにおいて比類なく、雨すら二人を邪魔するのをためらうほどであったが、
時間においては以外と短かった。
これは二人とも技巧を競わず、ただ拳によって相手の生命を止めることだけを目的として、
ひたすらに必殺の一打を繰りだし続けたことによる。
皮膚からは血雫が弾け、肉すらも抉り、両者は生命を賭して殴りあった。
化け物へと変じた佐久間は、龍麻が『黄龍の器』たる力を解放してもなお容易には倒せなかった。
丸太のような腕は意識を幾度も刈り、尋常ならざる膂力に五体をちぎられそうになる。
だが、龍麻は負けるわけにはいかなかった。
葵の尊厳を奪った外道を、許すことなど絶対にできなかった。
佐久間の腕を抱え、身体ごとたぐり寄せて顔面に拳を叩きこむ。
反撃を受ければそれに倍する打撃を与え、仇敵を地に打ち倒す、ただそれだけを求めて全身を凶器と化した。
やがて密着していた両者の身体が離れ始める。
佐久間の肉体が、龍麻の打撃に踏みとどまることができなくなったのだ。
それに比例して反撃の量も減り、勝敗の帰趨もほぼ定まる。
優劣は当事者にもはっきりと判っていたが、龍麻の攻撃はいささかも休まるところがなかった。
よろける佐久間の身体を掴み、倒れることすら許さず殴打する。
佐久間の反撃は完全に止まり、すでに意識があるかどうかも怪しい。
異形に変じ、一回り以上大きくなった肉体の、あらゆる場所に龍麻の怒りは轟き、猛った。
「ウ……グオ……!」
佐久間に人であった時の心はもうどこにもない。
醜く化けた身体の中に存在しているのは、緋勇龍麻への憎しみと美里葵への執着、あとは獣の本能だけだ。
佐久間が本当に獣に成り果てたなら、強者にはへつらい、少なくとも逃れようと試みたかもしれない。
だが、今闘っているのが執着の片方であり、殺さなければならない相手だと命じる。
それが、佐久間の命運を定めた。
自分が殺される、という事実を、佐久間はおぼろげながら感じとっていたが、
完全に一方的に殴られていても、龍麻に対する殺意は衰えることがない。
まともに当たれば人間の頭部を一撃で破砕しかねない剛腕を振りあげ、
なお反撃に出ようとしたが、龍麻の致命的な一撃を防ぐ役割も果たしていた両腕に、
攻撃に転じるだけの力はとうに失われていた。
佐久間の――佐久間であった鬼の腕が下がり、体の中心が無防備になる。
全霊をこめた一撃を右の拳に宿した龍麻は、そこをあやまたず貫いた。
硬い肉に当たった瞬間、秘めた力を一気に解放する。
並の人間にはとても御しきれない、圧倒的な生命力の塊が、まばゆい輝きとなって公園の片隅を照らした。
「グオオオオゥッッ!!」
断末魔の咆吼は激しさを増す雨音に消される。
その雨音すら消し去らんばかりに、龍麻は己の力を解放した。
光は佐久間を包み、さらには龍麻自身をも包みこむ。
乳白色の球体はそこだけを白く塗りたくったように、中にいるはずの二人の姿を一切消し去っていた。
あれほど激しかった闘いの音も完全に止み、雨の音だけが公園内に響き渡っていた。
目撃者がいたならきっと騒ぎになっただろう超常的な現象は、一分にも満たない短い時間で収束した。
白い光はその始まりだった龍麻の拳に収斂(し、ほどなく何も起きなかったかのように消えた。
龍麻の姿も光に包まれる前と同じで、大きく肩で息をしているところも変わらない。
だが、同時に光に呑みこまれた佐久間の姿は、どこにも存在しなかった。
巨体は着ていたものも含め、影も形もなくなっていて、龍麻が構えて立っているのが不自然なほどだった。
龍麻は立ち続けていた。
自分がそうして動かないでいれば、時もまた動くのを止めるのだとでもいうように。
動きを止め、息も止めて佐久間を屠った姿勢のままで凝固した。
だが、心臓の鼓動がいまいましく現実を告げる。
どれほど誠実に願っても、お前の願いなど聞きいれられないのだとあざ笑うかのように。
数分が過ぎた頃、雨粒と、それを叩きつける風から逃れようともせず、彫像と化していた龍麻の唇が動いた。
初めはわずかに、そして激情を制するように強く。
それでも怒りは尽きず、固く握りしめたままの拳が何度も震えた。
葵に対して会わせる顔などない。
たとえ絶対の神が居て、責はないと告げられたとしても、
龍麻は自分を許すことなどできなかった。
しかし、現実はなお龍麻に過酷な選択を突きつける。
せめて二度と顔を会わせたくない、と願う葵は、まだ傍らで気を失ったままだった。
この雨の中に置いていけば生命の危険すらある。
それに制服は無惨に引き裂かれてしまっており、このままでは家に帰ることもできないだろう。
解決策はすぐに思い浮かんだ。
しかしそれを実行するのは、不断の勇気が必要だった。
そして龍麻には、悩む時間さえ与えられなかった。
寒さとは別種の震えに肉体を蝕まれながら、龍麻は葵に近づき、無惨に汚れた彼女を背負った。
途端に槍のような雨が降りそそぎ、二人の身体を打ちのめす。
龍麻はよろめく足を踏みしめ、公園を出ていった。
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